可能なるコモンウェルス〈41〉

 プルードンは、一般的な社会契約概念における「従属と、その見返りとしての保護」という、支配−被支配関係に見られる関係構造と何ら変わりないようなその実相を批判し、あくまでそれぞれ個々人の能力を「互いに対等に交換し合う関係」として構築されるべきものこそ「真の」社会契約なのだと言う。
 では、そのような「真なる」社会契約とは、一体どのようなものなのか?ここで今しばらく、プルードン自身の言に耳を傾けよう。
「…社会契約とは、それによって、各市民が彼の同胞たちの愛情、思想、労働、生産物、役務および財産と交換に、彼自身の愛情、治世、労働、役務、生産物、財産を社会に託するところの至上最高の行為である。…」(※1)
「…社会契約は、市民の総体、彼らの諸利益および諸関係の全体を包含しなければならない。…」(※2)
「…社会契約は、各市民の福祉と自由を増大させなければならない。…」(※3)
 プルードンの論点としては、ひとまず一般的な社会契約説と同様に、「それに関わる者の共通利益に資することを目的とするもの」として考えられている部分について、その前提を共有していると思われる。加えて、「社会契約はまた、自由に討議され、全ての契約参加者たちによって個人的に同意され、さらに自らの手で署名されなければならない」(※4)と述べていることから、彼の社会契約説においても「その成員の自発的同意にもとづくもの」として考えられていることがわかる。
 しかし、「もし一人の人間でも契約から排除されるならば、また、もし聡明かつ勤勉で敏感な国家構成員たちが、それについて折衝するよう要求されている諸利益のただ一つでも省略されるならば、契約は多少とも相対的で特殊なものとなろう」(※5)と語られているようなところに、プルードンの社会契約説において特徴的な、「双務性=相互性」という要素が垣間見えてくるのである。

 一般的な社会契約説においては、「もし一人の人間が何らかの折衝の結果として、その要求が省略もしくは却下され、のみならずその人が契約関係自体から排除される」ようなことになったとしても、「それっきりで終わり」という話となる。それによって、その一人の人間「以外の者らの間」で交わされている契約が、「相対的で特殊」なものとして変じて見なされるようなる、などということはない。むしろ、「特殊意志は、その内部においては一般意志である」(※6)とされるくらいで、それはそれとして「内部的な」契約関係として成立しているものと考えられるのである。
 あくまでも、「その契約関係の内部」が円満順調に機能しているのならそれでよい、それが契約というものの「全て」なのだ。その対象に「全ての人間」というのは、実際「その契約関係にある者のみ」を指すのであって、「それ以外の者」については、この契約関係とは全く無関係であり、そもそも関係としては見出されない関係に他ならないのだ。
 しかしそのような、「一般的な社会契約説」における関係構造に対して、それは「もはや社会的なものではないであろう」(※7)というように、プルードンは明瞭に異を唱えるのであった。そして彼の異論は、全く的を射ているものなのである。
 プルードンは、何をおいても「その契約関係の外部にある関係」を見出しているのだ。そして、「社会」とは他でもない、まさしくそのような「外部に生じている関係」から出発するものなのである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 プルードン「十九世紀における革命の一般理念」渡辺一訳
※2 プルードン「十九世紀における革命の一般理念」渡辺一訳
※3 プルードン「十九世紀における革命の一般理念」渡辺一訳
※4 プルードン「十九世紀における革命の一般理念」
※5 プルードン「十九世紀における革命の一般理念」
※6 ルソー「社会契約論」
※7 プルードン「十九世紀における革命の一般理念」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?