可能なるコモンウェルス〈6〉
国家は何よりまず他の国家に対して国家なのであり、主権者はその国家においてただ一人である。その前提の下、他国との関係においては国民として一体化し、あたかも「一人の人間」であるかのように振る舞う一方で、我が身の個別的な生存と利害を何よりも優先させ、己れに関わり合うあらゆる事柄について抜け目なく算段して余念のない、「国民=人民」なるものの二面性。ルソーはそのような、人民=国民の二面性が見せる裏腹な欲望の様相を、次のように皮肉を込めて表現している。
「…臣民は公共の平和を、市民は個人の自由をほめたたえる。前者は財産の安全を、後者は身体の安全をもってよしとする。前者は、最もよい政府とは最も厳格な政府でなければならぬと言い、後者は、最も温情ある政府のことだと主張する。臣民は犯罪を処罰すべきだと言い、市民はこれを予防すべきだと説く。前者は隣邦諸国を恐れさすことを好ましいと考え、後者は隣国に顧みられないことをかえって喜ぶ。前者は貨幣が流通すれば満足し、後者は人民がパンを得ることを要求する。…」(※1)
しかしこういった裏腹さもまた、その表裏が互いに互いを条件づけて成立していることにおいては、全く「一体」のものとして実現されているものなのであり、それらが全く矛盾なく「一つの身体の中」に同居しているわけなのだ。そのような奇妙な身体こそまさしく、「国家というボディー」なのである。
主権者であることにおいて、すなわち「主権行使の装置としての国家」と一体化してしていることにおいて、それにより自分自身そのものが「国家そのもの」と同一であることを自覚認識している限りにおいて、その外部、すなわち「主権行使の対象」として(具体的に言えば「他の国家」)を見るとき、当の主権者は、その彼自身の「外部、すなわち他の国家」に対しては常に「一つ」なのであり、その対象に対して「ただ一人の主権者」として対することとなる。
一方で主権者は、「自身が主権者である」として、彼自身の国家、あるいは「彼自身であるところの」国家、なかんずくその「内部」においては、主権者である彼自身のその「立場」から、「彼の」人民=国民を見るとき、その眼差しの対象となる人民=国民は、「主権者であるところの彼」に対して、あるいは「主権者であるところの彼」から見て、「主権行使の対象として、彼自身の外部にあるもの」として見出されることになる。そして「主権者である彼自身」は、あたかも自分自身は「その中にはいない」かのように、人民=国民を「彼の対象」として見出すところとなる。
彼の「対象」は、「主権者である彼」にとっては、彼自身の「欲望=利害」の対象でもある。そのような対象に対して彼自身は常に「優位にある」ということ、その言い方を換える必要があるというなら、その対象に対して常に「支配的である」ということ。そのような関係が実現するのであれば、それは彼にとっては常に「利」なのであり、逆にもしそれが叶わないということならば、それは彼にとって常に「害」なのだと言える。
「主権者」とは、そのような己れの「欲望=利害」を実現するために、国家の権力機能を優先的に、もしその言い方を換える必要があるなら、「独占的」に使用することができる立場にある者だと言える。「欲望=利害」とは、その対象に対して関係する「意識一般」であり、意識とは本質的に、「意識する者の意識において、個別的に意識されている」ものなのであって、それは、個々個別の「意識する者」においては、本質的に「個々個別に意識されているもの」である。ところでそのように、欲望=利害を意識する者が「主権者である」のだ、とする。そしてそれが「人民=国民でもあった」のだ、とする。彼らは、欲望=利害を意識することにおいては「個々個別に意識している者」なのであろうが、しかし一方で「主権者である」ということにおいては「一体=同一」なのであり、そのようなありようにおいて立場を全く一致させているものだ、と言える。もしその彼らが、「主権者としての欲望=利害を意識する」のだとしたら、まさしくそのように「同一の立場で、同一の欲望=利害を、それぞれ個々個別に意識している」はずなのだ、ということになる。この「同一性」がまさに、主権者としての人民=国民を「自己矛盾のない立場」に置いているのだ、というわけである。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 ルソー「社会契約論」井上幸治訳
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