可能なるコモンウェルス〈54〉

 革命と建国の一大事業を経て、アメリカは「国家としての形態と体裁」を整えつつあった。そのアメリカ「合衆国としての統治形態」とは、「アメリカという国家を頂点として、その下に続く州や郡や市などといった、一定の区切られた領域にもとづいてそれぞれ設定される」ところとなった。「国家は上から下へと作っていくもの」という認識は、「旧世界」のそれと何ら変わりのないものであり、彼らの「政治的想像力」は、その旧さの範疇にすっぼり収まるものとして、一つの限界を顕わにしたわけであった。
 ここで考えられている「統治者」とは、すなわち「合衆国という国家を頂点として、それぞれその領域の代表者」として見出されているというわけであり、そしてまた人民は「国民」に置き換えられ、さらに「その下」に向けてそれぞれの領域の住民として規定されることとなった。言い換えれば、その「一定の区切られた領域に押し込まれ留められた状態」において公的に見出される存在と規定された。それは、入植以来「移動=遊動に裏付けられていた自由の経験」を思い起こすと、全く逆方向に動いているものであるように思えた。アメリカという新世界はあたかも「旧世界に向かって遡っている」ようにさえ見えた。
 これは、はたして本当に「革命」なのだろうか?

 結局のところ「アメリカという国家の、現実の政治」は、はじめから人民の外側において設定されることになってしまったのだった。そしてそこでは、入植当初から培われてきていた、「自由であるがゆえに平等な、個人相互の盟約による無支配」という、アメリカ独自の政治経験がすっぽりと覆い隠されてしまったかのように見えた。要するに「アメリカという国家」は、その人民=国民にとってはただ単に「上から覆い被さってきた」ようなものとなったわけであり、あるいはアメリカという新世界に、旧世界の統治形態=体裁が、すなわち「支配−被支配」が植民されてきただけだとも思えた。
 たしかにアメリカの「革命」もやはり、「人民主権」の理念の下に実行されたものだったと一般には考えられてはいる。しかしもし本当に、その理念の通りに「権力の源泉が人民自身にあるものとして設定されていた」としても、それに「人民自身が関わり得ない」としたら、結局それは人民自身にとって彼らの「外側にあるとしか見出せない」ものとなるだろう。結局彼らはそれを「彼らの代表者の姿」を通してしか見ることはできないし、それに「直接関わること」も当然できはしないのだった。
 しかし、それでもそのように「人民=国民が閉め出されたドアの向こう」から、統治者=権力者が彼ら人民=国民に対して、突然豹変し牙を剥いて襲いかかってくるような、そんな旧来的な「暴君が生まれるということは、もちろん不可能ではないにしろ、まず考えられそうもなかった」(※1)というのは、たしかに彼らの形成した「連邦の政府は、権力の分散と分割、統制、抑制と均衡がその中心にそなえつけられて構成されていた」(※2)からであり、つまりそれは「国家という権力システム」として、この上なく配慮されたものであったということは、「被支配的立場」に置かれることとなったとはいえ、人民=国民自身としても、十分自認できるものだったからであろう。「アメリカという国家」が具体的に成立するにあたり、人民=国民が「担保として得ようとしたもの」とは、その入植時以来の「自由」であるよりも、「もっと具体的で、さしあたり必要な安全」だった、ということである。
 あくまでアメリカ国民=人民は、「統治者=権力者に対して、自分たちの代表権を委ねているのみ」のつもりであった、彼らが「安んじてその中で各々の生活に邁進できている限り」において。
「…このような状態も、ジェファーソンがしばしば告白したように、彼自身本当に人民の幸福はもっぱらその私的な福祉のなかにあると信じていたとしたら、満足すべきものだったろう。…」(※3)
 たしかにそれはそうかもしれない、もし彼らアメリカ国民=人民自身が、そのような「自らの幸福の実現を、アメリカという国家の完成に求めていた」というならば。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 アレント「革命について」
※2 アレント「革命について」
※3 アレント「革命について」志水速雄訳

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