可能なるコモンウェルス〈36〉

 一般的な社会契約の考え方において見出されている、いわゆる人間の「自然状態」というものは、実はそもそも「社会的に見出されているもの」なのだというように言ってよい。よってそれが引き起こすこととして想定されている、「万人の万人に対する闘争」なるものもまた、もし仮にそれが本当に生じるものだとするならばではあるが、やはり同様に「社会的に発生するもの」なのだというように考えれば、一応は筋の通る話にはなるわけである。
 そのもう一方で考えられている「社会状態」なるものについて、あらためて検討してみるならば、まさにそういった「人間=諸個人を、社会的な構成要素として意識的に見出し、それを社会的に意図した形式において再構成した状態」を指すものだというように、ひとまず考えることもできるだろう。

 「諸個人」として意識的に見出された人間とは、すなわち「社会的な存在」として見出されているという意味でもある。
 社会的存在としての人間=個人は、その者がその社会に内属する者であるという前提の下で、それぞれが「何者であるか?」について、すなわち「社会の構成要素として、それぞれに付された意味=価値」にもとづいて、その社会の「内部」に再構成されることとなる。一旦そのように「社会の中に組み入れられる」と、この構成が崩されない限りは、すなわち「その社会が崩されない限り」は、その人が「この社会において一体何者であるのか?」ということについては、つまりその人に「社会の構成要素として付された意味=価値」については、「その社会の内部において、すでに決定されたこと」として、もはや動かせない状態となる。なぜなら、その人は「社会の構成要素」であるのだから、その構成要素を動かすときには同時に、「社会そのものを動かす」のでなければならなくなるからである。だからその人が、その社会の中に存在し、その社会に内属しているものである限りは、その人に付された、社会的構成要素としての意味=価値からは、「けっして自由になることができない」ものなのだというように、少なくとも「その社会の内部に存在している限り」は見なされ続けることになる。
 また、その人が「その社会の内部において、何処の何者であるかがすでに決定されている」限り、当のその人は、「他の誰とも違う者として承認されている」ということもまた、「その社会の内部においてすでに決定されていること」なのだから、その意味で、当のその人は「その社会内部の他の誰とも、けっして『平等』であることができない」ものと見なされることになる。
 このようにして、社会的存在としての人間=個人それぞれが、社会的構成要素である限りにおいて付されている、「その社会内部において何処の何者であるか」という意味=価値について、それが当のその人間=個人自身として、「その社会内部において生きることの全てを決定する」こととなる。逆に言えばそのように、社会がその人自身の生きること全て決定しているのである限りは、当のその人は「その社会を出る」ことなどけっしてできないようになる。
 「社会」とはそのようにして成り立っているというように考えられるとするならば、「その社会自体」が結局のところ「閉じられた社会」として成り立っているわけであり、言い換えればそれこそ、その社会は「未開な社会」なのだというようさえ言えるわけである。

 人が「社会化する」ということは、ある意味では人が「再び未開化する」ということなのだとも考えることができる。そしてもし、それによって人間が「本来の状態=自然状態」を取り戻してしまったというのであれば、人間はもはやそれを手放さないだろう。
 しかし、よく考えてみよう。これはけっして「自然なこととは言えないのではないか?」と。
 そのようにもし人が本当に、「社会化することによって、あらためて再び未開化する」のであれば、人は必ずそれを、「意識してそうする」のでなければならない。また、「人が再び未開化して形成された社会」とは、「すでに開かれた後に再び未開化した」という意味において、「本来的に未開である」ことなど、もはやけっしてできないはずだろう。
 だから人は、社会契約という「仮象」を媒介にして、未開な社会状態を「想像的に回復する」ことになる。「生まれながらに何処かの何者かであった人」が、「生まれながらに自由で平等な、そしてだからこそ、何処の何者でもないがゆえに何処ででも何者にでもなれる個人=自然状態」として自らを見出し、そこから自らの自発的な意志と主体性をもって、「一定の何者かになる=社会状態」というものは、実際このような「想像的倒置」においてはじめて成立するものなのである。

〈つづく〉

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