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脱学校的人間(新編集版)〈26〉

 「大人になること」を要求される一方で、子どもは「子どもらしくあること」も同時に要求される(※1)。
 「お前は大人ではない。大人に対して欠如した存在である。だから、その欠如を埋めて早く大人になれ」というのが、まずは大人から子どもに課せられた、一つの重大な使命となる。そしてそれと全く同じ条件において、「お前は大人ではない。大人に対して欠如した存在である。だから、子どもである限りは子どもらしくあるために、お前はそのまま欠如しておれ」という厳命もまたここで同時に、子どもたちに対して下されているということになる。これをダブルバインドと言わずして、一体何をそれと言うべきなのか?
 しかしこういった不条理を、逆にこのように見ることもできるだろう。「子どもらしさ」とはすなわち「未熟であること」だというならば、そのような「未熟さ」とは「もはや大人が持っていないもの」でもあるわけだ。だからそのような未熟さは「子ども固有のもの」なのであって、そうであるがゆえに「未熟であること」が、「子どもらしさの条件として成立している」とも言えるわけである。たとえばこのような見方は、「子どもらしさを肯定的に受け入れる条件」として一般的に考えられていることでもあるだろう。とはいえこのように「欠けていること自体が一つの価値となっている」というような見方もまた、ある種の倒錯だと言えなくもないのだが。

 子どもたちが一般に、「子どもらしさを最も強く求められている空間」とは言うまでもなく「学校」である(※2)。
 子どもたちを「未熟な生徒として全人格的に学校へと吸収する」(※3)ことにより、そしてまたそのような、生徒としての子どもたちをひとまとまりの集団という形で「抽象的・均質的なものとして引き抜く」(※4)ことにより、「誰の子ども」でもなければ「どこの子ども」でもないような「子どもたち一般」に還元し、「一般的な子どもたちは、みな一様に子どもらしい」というように、そういった一般通念として考えられているような「らしさ」を抽象して、誰彼の例外なく均一に適用するのがすなわち、学校という社会装置なのである。
 そのような学校にとって、「子どもたちは、子どもでありさえすれば誰でもよい」のだと言える。たしかに教育者は、目の前に子どもがいれば「その子ども」を教育するであろう。しかしやがて一定の期間を経て、「この子ども」が眼前から去っていけば、しかし今度は「また別の子ども」が、彼らの目の前に現れることであろう。彼ら教育者がそこで関わるのは結局「この子ども」ではなく、あくまでも「子どもたち一般」なのである。そこでは彼らにとって、自分たちが関わるのが「どの子どもであるか?」ということが、重要な条件になることはないのだ。もしあったとしてもそれはせいぜい、「どんな子どもであるか?」ということくらいである。

 また、教育者においては「子どもの成熟」ということが、もっぱら彼らの関心の前提もしくは全てとなっている。そのため逆に「すでに成熟した子ども、すなわち大人」に対して、彼らは基本的に何の関心も持たない。彼ら教育者というものは、要するに「完成品」には何の興味もないわけである。
 彼ら教育者たちは、子どもたちの成熟を意図するがゆえに、常に子どもたちの未熟を求めるものなのである。彼らは常に未熟な子どもを欲望し、常に未熟であることを子どもたちに要求する。
 これは一方で、彼ら教育者自身が「大人である」以上は、その自らの「大人らしさ」を見出すためにも必要なこととなるのだ。「子どもというものが、大人からさかのぼることにより未熟なものとして見出されている」ことの裏返しとして、大人自身が「未熟なものとして見出された子どもという表象」に自らを対比させることによってでしか、自らを「成熟した存在として見出すことができない」のである。だからもし、「大人」を単独に「それ自体として成熟した存在」であるかのように見出そうとするとき、それは「子どもを単独に、それ自体として未熟な存在であるように見出そうとすること」と同様に、倒錯的なものにならざるをえない。

 ところで教育者ばかりではなく、「親」なる者らについてもやはり、彼ら自身の子どもらとの関係においては、そういった「倒錯した視線」で向き合っているということになるようである。
 一般に親は我が子に対して、「よい子であること」を求めるものであろう。そしてそのように我が子を見ているときの親にとっては、我が子はもはや「一般的な子どもたちの中の一人」にすぎないのだ。そのように「客観的に見出された子ども」を親たちは、「出来の良い子どもなら愛するし、出来の悪い子どもは『こんな子は私の子どもじゃない』という条件つきの愛し方をする」(※5)ようになる。我が子の出来がよければ親にとっては「得をした」ことになるだろうし、逆に出来の悪い我が子からは親として「自分自身の人生までもが損をさせられている」気分にもなってくるだろう。
 しかし、このような親たちも例外なく「かつては子どもだった」のだ。そしてもしかしたら「彼らの親たち」も、彼らのことをそのように見ていたのかもしれない。つまりここではそのような倒錯した視点が、親から子へと再生産されているわけである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 山本哲士「学校の幻想 教育の幻想」
※2 山本哲士「学校の幻想 教育の幻想」
※3 山本哲士「学校の幻想 教育の幻想」
※4 柄谷行人「日本近代文学の起源」
※5 上野千鶴子「サヨナラ、学校化社会」


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