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【連載小説】息子君へ 191 (40 俺は嘘をつきたくなかっただけだった-1)

40 俺は嘘をつきたくなかっただけだった

 ここまで読んできて、俺がどうして誰かと一緒になることを選ばないままになったのかわかっただろうと思う。
 俺は女のひとたちと関わるようになって以降、概ねずっと、近くにいたひとと自然と仲良くなって、自然と関係が深まっていって、そのひとからずっと一緒にいたいと思ってもらえる人間としてやってこれた。だから、君は自分が結婚すらできなかった男の息子なのだと悲観することなんてないんだよ。
 もちろん、結婚できるチャンスが何度もあっても、自分の中で考えた結果として、そうしないことを選んできたのだし、俺がとことんひとと一緒にいられないような内面性の人間だったという面もなくはなかったのかもしれない。
 けれど、それはそう言えなくもないというだけで、ここまで読んできたのなら、俺が結婚できなかったのは、ただひたすらに、運が悪かったからそうできなかっただけだったということがわかったんじゃないかと思う。
 そして、俺のひとへの接し方とか、他人を前にして思っていることがどういうものであるのかを読んで、俺の他人への基本的な接し方というのが、子供の親になったときにこそ、相手にとってよい存在になってあげられそうなものだというのも、どういうことなのかわかったんじゃないかと思う。
 あまりまともに話が通じない君のお母さんとすら、それなりに楽しくやっていられたように、目の前に何かを要求してくれるひとがいてくれれば、俺はそのひとのためにいくらでも世話を焼き続けてあげられた。よくわからないかわいい顔をしてくれているだけの君のお母さんとずっと見詰め合って楽しくいちゃいちゃしていられたみたいに、自分でも自分が何を思っていて何をしたいのかよくわかっていない赤ちゃんや小さい子供とも、ひたすら気長に向かい合いって、相手の気分に寄り添って一緒にいい気分で過ごせるようにと微笑みかけていられるのだと思う。
 俺はひとりで何かしているより、ひとと一緒にいる方が好きだけれど、ひとと一緒にいても自分の側にはやりたいことがなかったりすることが多くて、ただ一緒にいて、お互いを感じ合って、相手がしてくれることを楽しんで、相手を楽しませられることをしてあげて、一緒に時間を過ごせていることをうれしく思えていれば、それでいつも満足だった。自分に向かっていろんなことを感じて、いろんなことを思っている姿を見せてくれて、いろんなことを一緒にしたいと思ってくれたなら、それこそが俺にとってうれしいことだった。そうしたときに、見るもの全てがよくわからなくて、いろんなものが気になって、いつもいろんなことをしたくなって、いろんな気持ちになりながら、もっといろんな気持ちになりたくて走り回っている子供と一緒に時間を過ごせて、その子供が自分に向かってうれしそうに笑ってくれる生活をしたいと思うのは当たり前のことなんだ。
 子供を育てられる生活ができていれば、その子が大きくなるまで、求められるかぎりいつでもとことん一緒に遊んであげて、あれこれ世話をしてあげたり、子供がやりたいことを楽しみやすいように環境を整えてあげたりしながら、笑顔の絶えない日々を過ごしていられたのだろうと思う。子供の手が離れてきて、そこまでつきっきりでかまってあげる必要がなくなったとしても、子供を見守りながら思ったことについて、あれこれ本を読んでみたり、ドキュメンタリーなんかを見たりして、それについて奥さんと話したりしながら、子供のいる家族としての生活をいろんな面で楽しめたのだろう。
 料理をつくるのにしたって、子供に食べてもらえるのなら、食べている姿を見守りながら、いろんなことを思って、いろんなことを調べたりして、また新しく料理を楽しめるようになるのだろうと思う。
 俺は三十歳以降、味わって食べる度合いが高くなって、美味しいけれど何を食べているのかいまいちよくわからないような味付けにどんどんと飽きていった。多くのひとが一口目から美味しいと感じられるように作られた、コンビニとかファミレスとかスーパーマーケットの惣菜のような味付けのものは、美味しいとは感じるけれど、味が付けられすぎていて何を食べているのかよくわからないし、食べ終わるまでに口の中がしんどくなって飽きてくるから、だんだんとそういうものをなるべく避けるようになっていってしまった。そのうえで、自炊はしていたけれど、そんなにいろんなものを作ってみたいという好奇心があるわけでもなかったから、シンプルな調味料でシンプルな味付けのものを少ないレパートリーでしか作らなくなって、そのままもう何年も経っている。
 子供が育てられるのなら、赤ちゃんの食事とか、小さい子供の食事として、昔はどういう物が食べさせられていたとか、どういう栄養が必要だとか、子供の味覚にとってはどういうものが美味しく感じられるとか、そういうことを調べたりしながら、あれこれ作ってみて、子供の反応を確かめるというのをずっと楽しんでいられるのだろう。だんだん子供が大きくなってきて、いろんなものを好きになったり、飽きていったりするのを見守りながら、自分もこんな感じだったのだろうとか、自分も今と違って子供の頃はどういうものが好きだったなと思い出したりとか、ご飯を食べさせてあげる日々を、いろんなことを思ったり考えたりしながら退屈せずに楽しんでいられるのだと思う。
 料理への取り組み方だって大きく変わるのだろう。子供のためだからと作ってこなかったものも作ってみたりするのだろうし、子供がある程度大きくなってきたら一緒に料理をしたりもできるのだ。そうやって、もう一度子供のために新しい気持ちで料理を始めることで、料理することを楽しみ直すような十五年二十年の中で、毎日の食事が美味しいことによって、だんだんと子供に大事なことを伝えていけるのだと思う。美味しいものを食べさせてもらえるとうれしいとか、美味しいものはただ美味しいんじゃなくて、美味しくなるようにと思いながら、美味しくなる作り方で作ってくれているから美味しいのだということが具体的にどういうことなのかわかっている子供になっていってもらえるのだろう。それだけではなく、食べ物を囲むからみんなで向かい合ってゆっくりと時間を過ごせるのだし、料理が美味しいから、食べている時間とその前後の時間をみんなでいい気分で過ごせるのだということや、料理が美味しくてうれしいことが家族を喜びと感謝で結びつけるということを繰り返し実感してもらって、食べ物が美味しいことはとても大切なことだとわかっている若者になっていってもらえるのだと思う。
 俺は自分の親がそうだったように、家族さえいれば、ずっと家族とあれこれすることを楽しんでいられる親になれるのだと思う。そして、俺の親とは違って、家族のためにあれこれしていていろいろ何か思うことがあれば、夫婦や家族で思ったことをあれこれ話し合って、いろんなことを思う自分たちをずっと面白がっていることもできるのだと思う。もしそれが不可能な奥さんと一緒になったとしても、自分でそれについての本を読んだり映画を見たりして、自分の中の人間観をちょっとずつでもアップデートしながら、退屈に思うこともなく、老人になりかかるまでの日々を過ごすことができるのだと思う。
 俺がそんな親になれるように生きてきたというのは、この手紙をここまで読んできてわかったんじゃないかと思う。
 俺は若い頃からいつか家庭を持って子供を育てるというつもりで生きてきて、ちゃんとそう思ってきたなりに、あれこれちゃんとやろうとしてきたのだと思う。むしろ、ちゃんとやろうとしてきたからダメだったというくらいですらあるのだろう。もっと他人に対していい加減なことをやれてしまう人間だったなら、結婚だって、いい加減な気持ちでできていたのだろう。そのうち結婚するつもりだったのだし、ダメなら離婚するだけだと思っていたのなら、そのうち関係が行き詰まりそうだなと思っていても、今のところいい関係なのだから充分だろうと結婚することにしていたんじゃないかと思う。
 俺だって、仕事であれば、いい職場だったら五年くらいは働くのだろうし、もしかするともっと長く働けるのかもしれないとか、それくらいのつもりで転職先を選んできたのだ。結婚とか同棲にしても、とりあえず二年くらい楽しんで、もしうまくいけばもっと長く一緒にいることにするとか、それくらいのつもりで動けていたなら、そこまでの気持ちが自分にはないからと思って、誰に対してもずっと一緒にいることを選ばないままになってしまったりしなかったのかもしれない。
 子供さえいれば、子供が成長し続けるのを見守りながら、二十年は刺激を受け続けられるのだ。夫婦としては数年で刺激もなくなって、あまり何も思わなくなったとしても、子供が独立してしまうまでは楽しくやれるし、その間は相手を幸せにできる自信はあるのだし、それで充分幸せにしてあげたことになるはずだということにして、家族生活をやらせてもらえばよかったのだろう。
 けれど、ちゃんとしようとしていたから、自分が自信を持って相手の気持ちに応えられないからと、結婚しないことを選んでというわけでもないのだろう。そうだとしても、それはちゃんとしようとしていたというより、ただ単に嘘をつきたくなかっただけだったのかもしれない。
 相手のことを好きだったし、大切には思っていたけれど、相手との関係はすでに停滞していると思っていたし、それは関係性が夫婦に変化したとしても、全く変わらず停滞し続けることになるのだろうと思っていた。もうこれから先、一緒にいて相手からいろんなことを新しく感じることはめったにないのだろうと思っていて、そうしたときに、今はまだこのひとと一緒にいるのは心地よいから、一緒にいるのは嫌ではないけれど、ずっと一緒にいたいのかといわれると、そういうわけではないのだろうなと思ってしまって、そうしたときに、そう思っているのだから、いい加減なことはしてはいけないとか、そんなふうに思っていたのだと思う。
 今から思えば、俺は求婚されていたのに、これからも誰かしらと恋愛していくとして、まだこれからもこのひとと恋愛していたいのかと問いかけられているように感じていたのかもしれない。そして、もうこのひととの恋愛はほとんど終わっているようなものなのだからと思って、だったら、むしろちゃんと終わった方がいいのだろうという方向に気持ちを固めていったという感じだったのだろう。
 いい関係になれていたのに、どうしてこの関係を守っていきたいと思わなかったのだろう。けれど、俺は相手といい関係になれたことに幸せな気持ちになったりはしていなかったのだと思う。関係性をだんだんとよいものにしていけたことについては、よかったなと思ってはいたけれど、それ以上に何を思っていたわけでもなかった。それよりも、二人の間に行き来しているものが恋愛としては停滞してきたことに息苦しさを感じて、相手にも自分にも、何か他にないんだろうかということを思う頻度が高くなってきたことに窮屈さを感じていたのだと思う。
 俺にとっては、一生懸命話したり、一生懸命セックスしたりして、一緒にいる時間の中でお互いがお互いに気持ちを動かされているのを感じられたり、そういう時間の中でもっと自分を知ってもらえて、もっと自分を好きになってもらえたと感じられたりすることこそが、恋愛の充実感になっていたのだろう。
 俺はどのひととの恋愛でも、そういう充実感を感じられていたけれど、その種の充実感というのは、付き合い始めて一年とか二年とかと、ある程度関係が安定してしまってからは、だんだんと変質してくる。
 うまく噛み合っていないところから、だんだん噛み合っていって、いろんなことを話すほどに、いろんなことについてもっと楽しく話せるようになっていくというのが、関係が始まってからしばらく続く。それなりの頻度で会っていても、前よりももっといい感じで話せているという感覚が一年くらいは続くのだろう。
 けれど、その感覚はどこかで鈍ってくる。そして、相手が自分のことをちゃんとわかっている気になれて、ちゃんと話を聞いてあげられている気になってしまうと、そこからは、楽しく話しているようでいても、相手の感情に自分の感情が動かされたうえで反応し合えている度合いはむしろ下がってくる。そうなることで、だんだんと、もうすでにわかりきっていることと、前に話したのと大差ないことをいつものパターンで話してばかりいるような気分になってくる。
 それは単純にお互いに慣れたというだけのことではないのだ。お互いが揺るぎなく好きになって、大事に思い合っている状態になれたと確信することで、お互いの中での相手の存在は変質してしまうのだ。
 いい関係になってしまって、相手が自分との関係にある程度以上満足してしまった状態というのは、もう充分好きになれたと思ってしまうことで、もっと相手を好きになりたいという気持ちが停止してしまった状態だったりもする。もう自分は心から相手を好きになれたと思えて、そして、相手からも好きになってもらえたと思えたことで、もっと好きになってもらいたくて、もっと好きになってしまうような何かをしようとするような発想が止まってしまうし、何をしているにも、もっと好きになってもらいたくてそうなってしまっていたような前のめりさが失われてしまう。
 関係が落ち着いてしまうまでは、もっと知りたいとか、もっと好きになりたいとか、もっと本当に思っていることを話してほしいとか、もっと本当に自分に対してしたい顔をしてほしいとか、そういう気持ちに衝き動かされているものだろう。だから、相手に前のめりになって、一生懸命に食らいつくように相手に反応しようとするし、相手の気持ちを受け取ったら、どう反応しようと考える間もなく、自分もそれに釣り合う気持ちがあるのを示すために、とりあえず気持ちで反応してしまう。そういう時期には心も身体もフルに稼働して、自分の全部で相手に応えようとするし、自分の全部を伝えたがっているから、一気にお互いのことを伝え合って、わかり合っていくことになる。
 そういう時期のお喋りの充実感というのは、それくらいすごいものを他になかなか思いつけないくらいのものなのだ。まだ自分のちょっとした物言いですぐに誤解させてしまったりするから、相手の反応を集中して確かめ続けながら、いつでも別の言い方で言い直すつもりで言葉を差し出し続けているのもあって、ちゃんと伝わっているだけでうれしくなれてしまうし、伝えられる側も、ちゃんと受け止められているし、前よりも相手の言っていることがよくわかるようになってきていることにうれしくなれる。それを話す側と聞く側がどんどん入れ替わりながらやっていると、いつの間にか夜中になっていたり、あっという間に時間が過ぎているものだけれど、そのたびにお互いの中にいい時間を過ごせたという手応えが残るし、そんなお喋りを繰り返すほどにお互いのことをもっと人間として深く好きになっていける。そういうような、伝わってほしくて自然と前のめりになってしまうようなモチベーションが、関係が揺るぎないものになったかのように感じられた時点から、一気に変質していってしまうのだ。
 それは自然なことなんだろうとは思う。女のひとの場合、ほとんどのひとが、一緒にいて安心できるような関係になれることを目標にして恋愛していたりするのだろう。仕事には別のことを思っているひとでも、愛するひととの生活については、よい繰り返しを安心して繰り返すことができることが幸せのイメージだったりしている場合は多いのだろうし、そうしたときには、いい関係になれたと思えたら、そこで相手へのモチベーションはどうしたって変質してしまうのだろう。
 揺るぎなく好きになれたことで、いつでもそれを大事に思うことでうれしくなれる装置を手に入れられたような状態になっているのだ。そして、そういう愛し方をするひとたちは、好きになって大切に思ってあげること以上に、自分が相手にしてあげられる素晴らしいことなんてないと思っているのだろう。だからこそ、そういう装置化するような好きになり方こそ、いつでもたくさん愛してあげられるいい愛し方だと思ってしまうのだ。
 それは例えば、歌手を好きになって、何年も熱心に聴いていて、コンサートも行って、そのひとが影響を受けたと語っていたものを聴いてみたり、そのひとを起点にいろんな音楽に触れたりもしていて、けれど、もう今ではあまり音楽は聴いていなくて、それでもその歌手がテレビに出ていれば見るし、新しいアルバムを出したら聴くけれど、どうしても新しいアルバムよりも昔好きだったアルバムを聴いてしまうし、コンサートにも行っても、どうしても昔の曲ばかり喜んでしまうけれど、それでもずっとその歌手のことを大好きだと思っているというような感じに似ているのだろう。
 確かに好きではあるのだろう。昔のそのひとが好きというよりは、そのひと自身が好きだから、今の活動も楽しんでいられるのだろう。かといって、好きなひとがやっていることだから、そのひとらしさを少しでも感じられたら、今もそのひとらしく頑張っているなと、それだけでいい気分になっているという感じだったりもするのだ。
 それは好きだとしても、それなりに変質してしまった好きという気持ちだろう。そのひとのやっていることが今の自分に何を感じさせてくれているのかということで、今のそのひとをまた新しく好きだと思えているわけではないのだ。すでに好きになっている状態で、自分の中にすでに構築されている好きな気持ちにあてはまる要素をちらっとでも見せてくれていれば、あとは自分の中に構築済みの気持ちが、やっぱり好きだという気持ちを勝手に盛り上げてくれているというのが実際のところで、それは自分の好きだという気持ちを自己追認するための材料を今でも提供してくれているから、ずっと好きでいるということだろう。それで相手の今の感じているといえるんだろうかと思う。
 相手は常に今の自分として、今思っていることを思っている。相手の姿から、相手の今を感じるという以上に、自分の見たいものを見て満足しているのなら、相手の思っていることを受け取ろうとはしていないということだろう。歌手の例でいうのなら、特にシンガーソングライターだった場合にはそうなのだろうけれど、多くの古くからのファンに支えられている歌手というのは、コンサートで昔の曲しかまともに盛り上がってもらえないことに、どうしようもなくうんざりした気持ちになっているひとばかりなのだろうと思う。
 俺が相手とどれだけいい雰囲気でお互い誤解せずにお喋りできていたとしても、どこかで行き詰まりを感じていたのは、そういうところだった。充分すぎるほど愛されているとは思っていても、関係が安定してくると、以前と同じように俺と喋るのを楽しんでくれているようでも、どうにも俺が今思っていることにまともに何かを思ってくれていないような感じがしてくるようになる。自分的には、ちょっと自分でふむふむとなるようなことを思って、それは本当にそうだなと思って、気持ちを込めて話せる気がして話し始めるけれど、相手は特にいつも通りの感じでしか聞いていなくて、自分にとっての今話していることへの熱に対応するような感触が相手の聞いている姿から感じられないことが増えてくる。大まかな話の内容は伝わっているようでも、話している側として、話していることが伝わる喜びみたいなものが肉体的に抜け落ちてしまっている気がしてくるのだ。
 そういう感覚というのは、付き合い始めてしばらくの間は一切起こらないもので、関係が落ち着いてきたときに、だんだんとそういう感覚になることが増えてきた。そして、そのうちにそれが当たり前になってきて、ある程度長く話し込んで心理的な距離がゼロに近付いているときでもないと、気持ちを乗せて話さないようになっていくというのが、俺が長く付き合ったひとといつもそうなっていたパターンだった。
 それほどちゃんと聞いてくれている感じがしなくなってきたからって、ずっと楽しく話せていたし、一緒にいるのが嫌になってきたわけではなかった。ただ、このひとは自分にとって単なる大好きな彼氏になってしまったのだろうし、大好きな彼氏というのは楽しくやるための相手だし、楽しくやろうとするとそんなくらいにしか話を聞いてくれなくなるものなんだなと思って、虚しい気持ちにはなっていた。
 もちろん、そういうような、片方はかわいがってあげていたり、愛してあげているつもりだけれど、相手はどこか自分の気持ちを無視されているように感じているという関係というのはよくあるものなのだろう。親子であれば、かなり多くの親が、この子はこういうことが好きなはずだというような思い込みの集合体のようにしか子供の人間性をイメージしないまま、自己追認のようにして好き勝手に子供をかわいがろうとしているのだろう。
 多くの場合、愛情というのはそんなふうに相手に向けられるものなのだろうし、愛する側はそうやって愛したいものなのだろう。愛している側からすれば、相手をちゃんと感じたときにいつも素敵だとかいいひとだと思わせてくれるから好きなのでなく、ちゃんと感じなくても、相手がそのひとらしい感じでいい感じでいてくれればそれだけでいい気分でいられるということの方が、より相手を深く愛せている気になれるのだ。そして、実際に、ちゃんと感じたときに自分にとって魅力的なものを感じさせてくれなくなったときには、自分にとっての相手の魅力が下がってしまうような愛し方よりも、その方がよほどそのひと自身を深く愛しているといえるのだろう。
 けれど、俺が好きになってもらいたい好きになってもらい方というのは、飽きたら捨ててくれるような好きになり方だったのだ。飽きても捨ててくれないようなモチベーションで向き合われていること自体が、張り合いがないし、自分が空回りしているように感じられることだったりしてしまうというのは、君だってどういうことなのかわかるだろう。
 もちろん、俺がずれているだけだというのはわかっているんだよ。誰かを特別な相手として愛するようになるというのは、他者として出会って、他者としてお互いがどんな人間であるのかということを教え合って、そしていつか、相手を自分の大好きで大切なひとという身内にすることで完成するような営みなのだろう。
 逆に言えば、相手のことを他者として見ていて、他者という距離感でしか相手のことを感じていないのなら、どれだけその歌手が曲を出すたびに夢中になって、コンサートにも足繁く通っていても、自分のことをファンだとは思えなかったりするのだろう。興味があって、好きだけれど、ファンという感覚では接していないとか、そういう距離感が、飽きたら捨ててしまうつもりで関わっている距離感なのだ。
 そういう距離感というのは、友達とか、ビジネスパートナーとか、セックスフレンドであれば問題ないものなのだろう。お互いすぐ別れるのかもしれないと思いながら付き合っている恋人同士がそういう距離感でお互いを見ていたとしても、飽きたら捨てるということで何も問題はないのだろう。けれど、人生を一緒に生きていくパートナーとしては、そういう距離感でお互いを見ているのでは成り立たないのかもしれなくて、飽きても捨てないし、飽きていても飽きたと思わないでいられるような態度で関わるというのが、ずっと一緒にいる覚悟で相手を愛するということだったりするのだろう。
 飽きても飽きたと思わない覚悟をした眼差しで、他者ではない存在として相手を見ることは、ちゃんと向き合っていない不誠実な態度というわけではないのだ。むしろ、そんな愛し方をできる相手こそが、一緒に生きていくのに必要な相手なのだろう。俺はそれがよくわかっていなかったのだと思う。




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