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【連載小説】息子君へ 190 (39 どうしたらずっと一緒にいたいと思えたのだろう-4)

 そういえば、そのときはそう言うのが妥当だろうと思ったし、君のお父さんになれるのならそれでいいからと思っていたから、俺は君のお母さんが妊娠して、血液型も大丈夫だから生むと言ったのに対して、俺はお腹の子が自分の子だと思っているし、もしお腹の子が俺のであることで、困ったことになったときは、俺がどうにかしてあげるつもりでいるからね、というようなことを言った。そのときはそう思っていなかったけれど、それは離婚された場合には結婚しようというプロポーズだったのだろう。はっきり覚えていないけれど、もし離婚して家を出ないといけなくなったときには俺がどうにかするということを言ったあと、何でもしてあげるし、幸せにしてあげられると思っているからね、というようなことも言ったのかもしれない。
 もちろん、俺は君を育てられるのならそれでいいと思ってそう言っていたわけで、君のお母さんと結婚したいと思っていたわけでもないし、君のお母さんを幸せにしてあげたいと思っていたわけではなかった。
 それでも、俺はプロポーズをしたこともあったし、幸せにしてあげたいというようなことをひとに言ったこともあったのだ。この手紙のようなものを書いていて、今、自分が人生でプロポーズをしたことがあったのを知って、ちょっとびっくりしている。
 自分はそういうことを誰にも言わないままになるんだなと思いながらここまでを書いていたけれど、もうすでに俺はそういう意味のことをひとに言っていたのだ。
 そうすると、自分があれこれどうのこうのと、どうしてもずっと一緒にいたいと誰にも思えないことについて書き連ねているのもバカらしくなってくる。
 結局のところ、子供が生まれるとしたらという仮定さえあれば、相手への感情なんて関係なくなってしまうのだ。ちっとも人格としては愛していない、ずっと一緒にいたいと思えない相手に平然とプロポーズできてしまうわけで、だったら、ずっと一緒にいたいと思えないという自分の気持ちなんて、俺の中で特に優先度の高いものですらなかったのだ。

 バカバカしいなと思う。どうしてこうなってしまったのだろう。俺は自分の気持ちを確かめながら生きてきて、ずっと一緒にいたいわけじゃないからそうしないようにしてきただけだった。
 その結果、誰にもずっと一緒にいたいと思えることがないままになって、なんとかやっとできたのは妊娠させた人妻にプロポーズすることだけだった。そんな人生になるなんて全く思っていなかったなと思う。
 結局、付き合っていたひとと結婚しておけばよかったということにしかならないのだろう。それはそうなんだろうなと思う。求められていたのだから、そうすればよかったのだ。
 けれど、俺の場合、二十代の後半から付き合ったひとは、子供はいらないと言っていたひとだったし、三十代で付き合っていたひとは、子供ができないひとだったり、六本木の会社で同僚だったひとも、医者から子供は難しいかもしれないと言われていたらしくて、俺と付き合ってからも妊娠したけれど流産してしまった。付き合ったということなら、三十代はそのふたりだけだった。だから、そもそも三十代はこのひとと子供を作るかどうかを悩める相手と付き合うことがない時期でもあった。
 逆に、子供を育てることができないとして、このひとと結婚したいだろうかということは何度も考えていた。そして、そのたびに、それだと難しいなと思っていた。
 自分の中では、子供をどうしても育てたかったから、このひととは結婚できないと思っていたわけではなかった。そうだったなら、さっさと別れて、子供を作れる可能性のあるひとと付き合おうとしていたのだろう。けれど、子供ができるのなら、このひととずっと一緒にいるのでもいいんだろうなとは思ったりはしていた。
 そういう意味では、やっぱり二十七歳のときに結婚を前提によりを戻したいと言ってくれた元彼女とそうしておくべきだったということなのだろう。そのひとは少し不器用なひとではあったけれど、知的能力が低いわけでもなく、見た目はかなりきれいなひとだった。君のお母さんとは違って、まわりにいる多くのひとから、普通のひと扱いというよりはかわいいひと扱いをされているようなひとだった。そんなに賢い子供は生まれなかったかもしれないけれど、人懐っこくて、動物好きで、ひとからきれいな顔だと言われやすいような顔の作りの子供が生まれてきてくれたのだろう。
 今振り返っても、あのひとと結婚しておけばよかったとは思わないけれど、かといって、結婚したかったなら、あのときそうしていればよかったのだろう。それしか俺が俺の人生で結婚できる可能性はなかったのかもしれない。
 けれど、その元彼女はその後結婚したけれど、前に少しメッセージをやり取りした感じでは、三十代の半ばになってはいたけれど、まだ子供がいないみたいで、それは旦那の希望でそうしているのか何なのかわからないけれど、彼女の側の問題で子供がない人生になっているのなら、俺がその元彼女と結婚していても、子供がいないままの人生になってしまったことを残念に思い続けることにはなったのだろう。
 その彼女だけではなく、俺が付き合ったひとたちは、みんな子供がいないままなのだと思う。そうすると、俺がこのひとと付き合おうと思って付き合ったひとたちは、みんな子供を生もうと思わないようなひとたちだったということで、そういうひととしかしっくりくることがなかった俺には、そもそも子供を育てられる人生はそもそもありえなかったのかもしれないという気もしてくる。
 付き合ったひとたちがたまたまそうだったということではあるのだろう。けれど、数えてみたら、俺が大学生以降、二十代までで仲良くなった女のひとたちのうち、仲のよかった上位二十人のうち、十五人くらいがいまだに子供がいないんじゃないかと思う。みんなと連絡を取っているわけでもないし、SNSで見ているわけでもないから、きっともう何人かはその後子供ができたのだとは思う。けれど、それにしてもあまりにも子供がいないひとの率が高いだろうと思う。いろんなひとがいる中で、俺と仲良くなるようなひとというのは、当たり前のように子供を作ろうとする人生を送っていかないような気質があるひとばかりだったということなのだろう。
 もちろん、子供を作ろうと思っていなかったひとでも、いろいろあって、いろいろ思って子供を作ることにしたりするものなのだろう。けれど、俺が仲良くなりやすかった、家族とか子供より、まずは飽きるまで自分のことに思いっきりかまけていたいと思って若者時代を過ごしていたひとたちの中だと、それなりの歳まで自分のやりたいことに没頭して過ごしたり、なんとなく結婚しないままになったりして、その後結婚したけれど、子供のことはもう今さらだという感じになっていたり、結婚で充分だし、子供はいなくていいと思ったひとの率はどうしたって高かったのだろう。
 そういうひとたちを好きになって、そういうひとたちと付き合っていながら、俺は子供が育てられないなら結婚しなくていいと当然のように思っていたのだ。俺は家族を作るなら子供はほしいという話はしてはいたけれど、かといって、結局そういう理由でずっと一緒にいることを断るのなら、深い関係になっておいて、そのあとで選ばれない不幸に相手を突き落とすようなことをしていただけだったともいえるのだろう。
 遊ぶ相手と結婚する相手は別で、遊ぶのは楽しいひとと遊ぶけれど、結婚する相手は家庭的なひとがいいという物言いを、子供の頃から異様なものに思っていたし、実際に自分が恋愛するようになっても、とても気持ち悪い考えだと思っていたし、ひとと話していて本当にそんなことを思っているんだなと思ったときには心底軽蔑していたけれど、自分だって、自分には自分があるから子供はいなくてもいいと思っていられるような女のひとが好きなのに、子供を育てられないならそのひととずっと一緒にいたいと思わないのなら、それと大差なかったのかもしれない。
 けれど、そう思ってはいても、俺はいまだに子供が育てられないならひとりでいればいいと思ったままでいる。そして、もう今では自分がいい歳になりすぎて、そもそもこれから出会うひとで、自分が付き合ったりできるひとで子供を望むこともできる相手と出会えるなんて、あまりにもなさそうなことだなと思ってしまっている。
 もう今からじゃ無理だろうと思っているのに、付き合っていたひとと結婚していても、子供は育てられなかったんだなと思うと、あのときあのひとと結婚していたらよかったんだなと後悔することすらできないのかと、バカらしい気持ちになってくる。
 もちろん、二十代の頃なら、付き合っていたひとなり、よりを戻したいと言ってくれたひとと結婚して、子供を育てたいとお願いして、それを試してもらうことはできたのだろう。結果として子供ができなくても、できることをしたなら、それはそれで諦められたのだと思う。
 むしろ、三十代の頃に、子供ができないとわかっても、そのまま付き合っていたというのが、どうしても子供を育てたかったなら間違っていたのだろう。
 女のひとでも、付き合っている彼氏が、結婚しても子供は作らないというから別れたというような話はよく見聞きするし、自分がどんなふうに生きていきたいのかというイメージがあるひとは、今の恋愛よりも自分の未来の方を大事にして、さっさと次の恋愛にいこうとするのだろう。
 俺はそんなふうに考えたことがなかった。付き合っているひとに、将来子供を育てたいかと聞くこともなかった。そういう話は相手からされないとしないし、そもそも結婚の話題について自分から相手に振ったことも一度もなかったのだろう。実際、結婚したいと思ったことがないから、相手が子供についてどう思っているのか確かめようとしたことはなくて、相手がそれを望んでいるとしたら、自分はそれにどう答えるんだろうなと考えたりすることがあるだけだった。そして、子供ができないとしても、このひとをもっと好きになって、このひととずっと一緒にいたいと思ったなら、子供が育てられなくてもいいんだと思いながら付き合っていた。
 今から思えば、それもひどい思い方だったのだろう。結局のところ、このひとと結婚したいかということには、そのひとが子供ができるのなら、それでもいいのかもしれないけれど、子供ができないのなら、このひととずっと一緒にいたいとは思わないと思い続けることになったのだ。もっと好きになったなら、子供がいないことよりもあなたを選ぶつもりだというエクスキューズを頭に浮かべながら相手との付き合いを続けて、けれど、結局子供ができないことがかなり大きな理由になって別れているのだし、だったら、子供を育てたいと思っていることをもっとアイデンティティのように思って、付き合ってずっと一緒にいたいと思えるようになるか試すにも、それが可能なひととだけそうするようにするべきだったのだろう。
 かといって、あのひとと付き合っておけばよかったと思うようなひとはひとりもいないのだ。付き合える可能性があったひとで、そんなふうに思えるひとはひとりもいない。それ以前に、友達とか知り合いとか同僚とかで、ああいうひとと結婚できていたらよかったのかもしれないと思うようなひとすら、ひとりも思い浮かばない。誰のことを思い浮かべてみても、付き合うくらいは楽しくやれるだろうとしても、自分が付き合ったひとたちほどよい関係になれて、一緒に子供を育てるというのもいい感じにできたのだろうと思えたりはしないのだ。だったら俺にどうできたんだろうという気もしてしまう。
 もちろん、俺が付き合ったひとたちのことだけを圧倒的に深く知っていて、そうではないひとたちのことはほんの表面的にしか知らないから、誰であれ付き合ったひとたちほど好きになれる気がしないというだけのことだったりはするのだろう。
 それでも、彼女がいて、なんだかなと思うところがありつつも付き合って、その間に他のひとと寝たりもしていたけれど、今の彼女と別れてこのひとと付き合いたいと思ったこともないし、寝たわけでなくても、知り合ったひととか、学校や職場でまわりにいる女のひとを見ていて、こういうひとと付き合えたらいいんだろうなと思ったりすることもなかった。
 俺はそういうことを思わないくらいには、魅力のある女のひとと付き合っていたのだ。いつでも今付き合っている彼女とできるだけのことをしたいと思っていたし、他のひとと付き合いたいから別れるということもしたことがなかった。
 けれど、そういうことでもないのかもしれない。俺はそもそも、かわいいとか、セックスしたいとか、そういうことであれば、いろんなひとに思うし、仲良くなれば仲良くなるほどそのひとのことを好きだなとも思うけれど、そこまでしか思うことはなくて、このひとと付き合えたらいいのにということは、誰に対しても思うことがなかったというだけなのかもしれない。
 付き合ったひとたちはなりゆきで付き合った感じだったり、別に遊びでもよかったけれど、セックスしたりしていると付き合う感じになっていて、それでいいかと思ってそうしてみた感じばかりで、はっきりと覚えていないけれど、俺は付き合ってくださいと誰かに言ったことすらなかったのかもしれない。
 そうすると、マッチングアプリで知り合っただいぶ歳下のひとのことは、このまま付き合う感じになりそうだけどそれでいいと思っていたから、やっぱりなりふりかまわずに忙しくても会いに行くべきだったけれど、それより昔のことについては、俺は後悔のしようもないということなのだろう。
 もし後悔するとしたら、そんなふうに目的意識なく恋愛していたことについてなのだろう。俺にとって恋愛は何かしらの目的のためにすることではなかった。そんなふうに恋愛していても、自然とずっと一緒にいたいと思い合えるようになって、結婚して子供ができたというひとはたくさんいるのだろう。そして、そうではなかったひとの多くが、ずっとひとりでいたいわけではないからと、好きになったひとと付き合えばいいという考えを切り替えて、一緒にいられるひとになってくれるひとを見付けるために恋愛するようになるのだろう。俺はその切り替えをしないまま、そのうちこのひととずっと一緒にいたいと思える日が来るのかもしれないと思いながら、目の前にいてくれるひとをいいひとだなと思いながら、ただ求められるままに一緒に時間を過ごしていただけだったのだ。

 後悔するべきことを探しているだけで、何を後悔しているわけではないんだよ。何人かの結婚しようと思えばできたひとたちの、そのどのひととも、結婚しておけばよかったと思っていたりはしないんだ。それでもよかったんだろうなとは思いはするけれど、そうしておけばよかったと思うわけではない。
 ひとりでぼけっと過ごしてこれたことで、自分の中に維持できたものもあった。少なくても、嘘をつかずに、したくないことはせずに、思っていないことをそう思っているかのような顔をすることもなく、ストレスに苦しまず、自分で自分をバカにするようなこともせず、思いたいことを思って四十歳手前までやってこれた。
 それは多くのひとからしたら羨ましいことだろう。みんなそれなりに頑張って、それなりに報われて、それなりにあとに残っていくものもあって、俺なんかより忙しくして充実しているのかしれないけれど、本当はそんなこと思っていないことばかり言って、本当にそう思っているわけじゃないことをごまかし続けてばかりで、本当じゃない顔で笑いかけてばかりで、自分をバカにするようなことばかり毎日しているなと思いながらやってきたのだろう。俺はこれでいいはずなんだということを自分に言い聞かせたりすることなく生きてきた。
 俺の父親のように、二十五歳で子供ができていたら、俺も忙しさにかまけて、何に対してもあまり興味を持つことのない人間になっていたんだろうなと思う。二十代の後半とか、三十代の経験も、今の俺の感じ方には大きく影響しているのだ。
 けれど、だからこそ、二十五歳だと微妙でも、ある程度の歳では比較的マシな人間になれていたのだし、だったら三十代のうちに結婚して子供を育てたかったなと思ってしまう。そうだったなら、自分の父親にしてもらったことも自分の子供にしてあげられたし、それに加えて、俺が自分で俺らしいと思えるような接し方で子供を育てることもできたのだと思う。

 そうできていてもおかしくない人生だったのになと思う。
 俺はそれなりにいけるところまでいけていたのだろう。恋人とは、どのひととも充分に尊重し合った関係になれていて、ずっと一緒にいられるくらいの関係になれていたのだと思う。
 恋愛としては充分いい時間を過ごしていたのだ。どのひととも、そのひとと一緒にいた時間によって、それまでよりマシな人間になっていけた。それはよい感情を行き来させられ続けたからなのだろう。ただ、タイミングとか子供のことで、結婚とはならなかっただけで、あとひと押しだけでそうなれるところまではこれていたのだ。
 そこまでこれていたのだから、そこまでのものに感じなかったからといって、自分が他人と結ぶことのできる関係はここが上限なのだと思うべきだったのだ。そして、上限までいけた相手だったのだから、自分にとってずっと最後まで一緒にいる相手としてふさわしいと思うべきだったのだろう。
 俺は全然わかっていなかったなと思う。結婚したいと思えるようになったら結婚しようと思っているのは、本当に確実に結婚したいのなら、大きな考え違いなのだ、どうしてそれを誰も教えてくれなかったんだろうと思う。




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