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【連載小説】息子君へ 238 (45 俺はかわいそうだと思われたかった-9)

 どうなのだろう。俺が思っていることに不自然なところはあるんだろうか。
 君は心が死ぬというのがどういうことなのかわかったのだろうし、ちゃんとうまくやっていけるのだと思う。ただ、君はこの手紙のようなものを読んで、うまくやらないといけない領域の手前に、結局どうにもならなかったものがあったじゃないかと思っているのかもしれない。どこからを単なる孤独として、考えても仕方のないこととして切り捨てるべきだったのかということについて、俺は自分の非を認めていないままになっているじゃないかと思っているのかもしれない。
 確かにそれはそうなのだと思う。そして、俺はきっと、自分の非を認める気がないのだろう。ただ、勘違いしてほしくないのは、俺は理解してもらいたいなんて思っていなかったということなんだ。理解されないし、理解してあげられないという孤独なら、俺はいくらでも受け入れるつもりだったんだ。
 俺はわかってほしいとか、それに気の利いた総括のコメントをつけてほしいとか、そんなことを思っているわけじゃなかった。自分の痛みとか憤りや高揚感に釣り合う感情を返してほしいと思っているわけでもなかった。俺はただ、俺をちゃんと感じて、俺に感じたことの顔で俺の方を見てほしかっただけなんだ。俺には俺の気持ちがあるから、俺が気持ちを伝えようとしているときくらい、気持ちに気持ちで反応してほしいと思っていただけなんだ。
 俺は特別なことを望んでいたわけじゃないんだ。俺はただ、俺が伝えたことを受け取ってもらって、俺の中を覗き込んでもらって、かわいそうだと思ってもらいたかっただけだったんだと思う。ただそう思ってくれて、そのまま俺の方を見てくれたなら、それだけでよかったんだ。
 けれど、それが俺の望みだったなら、やっぱり俺はそれを望む相手を間違えていたのだろう。俺が付き合ってきたひとたちというのは、結局のところ、俺も含め人間それぞれのことを、それぞれの傷付き方をしてしまった、それぞれにかわいそうな存在だと思っていないひとたちだったのだ。
 ひとのことをかわいそうなんて思っちゃいけないとか、そんなふうに素朴に思っていたというのは、充分にありえることなのだろうと思う。けれど、そんな素朴なマナー意識があったとはいえ、長い時間目の前でそれなりに一生懸命に喋り続けていたはずの俺に、かわいそうだと思えるほどの優しさは持っていなかったということではあるのだ。
 わかっているだろうけれど、俺が言っているかわいそうというのは、世間で意地の悪いひとが相手をバカにしたり低く見るために言っているかわいそうとは、別の感情のことなんだ。憐れみの感情は自分と相手との力関係の上下とは関係がないものだろう。それは誰というわけでもないひとりの人間として何かを前にしたときに発生する感情で、そういうものによって、相手の痛みに共感しながら、そんなことにならなければよかったのにと思うのが、かわいそうにと思うことだろう。
 この手紙の中で、多くのひとが集団内の上下関係のことばかりを気にして生きているけれど、君はそうなるべきじゃないと書いてきた。それはひとを憐れむということについても言えるんだ。集団内とか誰かとの関係の中でのそのひとの扱われ方にかわいそうだと思っていても、それは相手の人格や感情に何かを思ってあげたことにはならない。自分との関係ではなく、相手が自分の置かれている状況にどんなふうに感じているのかだったり、相手が自分の痛みを自分でどんなふうに感じているのかということに対して、このひとにとってはそうなんだなと、そのひとの気持ちが全てであるかのようにして受け取ったうえで、そんな気持ちでそこにいるそのひとに対して、そうじゃなければよかったのにねと思っていないのなら、まともに憐れんでいるとはいえない。相手と自分の集団内での地位を気にしている状態の頭で他人に顔を向けているかぎり、他人にまともな憐れみの感情を持つことはできない。世の中のかなり多くのひとが、身内以外には全く優しくないのは、人間の感情に憐れみを持つ習慣がなくて、人間関係的に憐れんであげるべき相手を憐れむことしかしてこなかったからなんだ。
 誰だって、そんな目にあわなければよかったようなことを経験しているもので、それによって、そのひとの心の動き方がよくも悪くも歪められているものなのだ。誰もが、自分にあったよくない出来事に足を引っ張られながら生きている。それを感じ取ってあげて、寄り添えるようにしようというのが、そのひとがどんなひとであるのか知っていきたいという興味の中心になっていくものなんじゃないかと思う。
 そういう意味では、かわいそうにと思わないというのは、かわいそうにと思わない範囲の感情でしか接していないということだろう。相手のそばにいて、相手の気持ちに寄り添ったままで時間を過ごしていれば、透けて見えてくる相手の痛みや苦しみに対して、その痛みや苦しみを取り除くことができたらいいのにねという気持ちはいつでも浮かんでくるものなんじゃないかと思う。かわいそうにと思ってくれないひとというのは、その程度にすら歩み寄ってくれていないということなのだ。
 俺がかわいそうにと思うのは、恋人とか親しいひとたちに対してだけじゃなかった。会社でうまくいっていなかったり、楽しくなさそうだったり、そういうつもりじゃなかったことで失敗したり、ひとに怒られたり、バカにされたりとか、微妙そうにしているひとたちを見ていたって、かわいそうにと思っていたし、近くにいて話すのが不自然じゃないときは、相手が自分が軽視されていないのを感じられるようにという気持ちで話しかけたりしていた。
 もっと気分よくいられればよかったし、もっと何もかもうまくいけばよかったし、もっと伝わってほしいことがうまく伝わってくれたらよかったし、誤解してくるひとたちがみんなその一歩手前でそうじゃないことに気が付いてくれればよかったのにねと、視界の中で微妙そうにしていたいろんなひとに思ってきた。それが俺の他人への興味の持ち方の主要パターンのひとつですらあったのだと思う。
 逆に、かわいそうなところが自分にないかのような顔をして振る舞っているひとには興味を持ってこなかった。自分はばっちりで、自分はばっちり楽しめているんだという顔をしているひとたちには、虚勢の場合も、本当にちゃんとやれている自分に満足していそうな場合も、なんだかなと思って、どういう顔で話しかけるのがいいのかわからなくなる感覚すらあった。
 ひとのことをかわいそうに思いたがっているということではないんだよ。自分に何をしてくれるのかということでしか相手のことを見ていないひとは、相手に対して気が利くとか利かないということばかり思っているのかもしれない。特に男はそうだけれど、男女ともそういうひとはたくさんいて、そういうひとは他人にまともに憐れみを感じることはなくて、かわいがってきたペットが長いこと調子を悪くして死んでいくのをずっと見守ったりするとか、それくらいの機会があったときに、やっと自分のこととしてではなく、相手そのものをかわいそうだと思えたりするというくらい、憐れみの感情をほとんど眠らせた状態で生きているのだろう。
 けれど、そうではないひとたちというのもいて、そういうひとたちにとっては、ひとがそこにいて、そういう気持ちになっているということは、自分がそれに対して好き勝手なことを思えるようものではなかったりするのだ。そのひとを見守って、そのひとの心の動き方を感じていたら、そのひとがどう行動したかではなく、いろいろわかってはいても、どうしても心がそんなふうに動いてしまうひととして相手を感じるしかないし、そうしながらそのひとの日々のあれこれに触れていれば、そのひとの抱えているものや、そのひとの中のうまくやれなさや、そのひとがどうにもできないことなんかに、かわいそうにと思うことくらいちょくちょくあるものなんだ。
 かわいそうにと思うことは、自分との関係性を通して相手に何かを思うのではない気持ちの動かされ方ということで、それはむしろ対等さのあらわれのような気持ちの動きなんだ。下に見ているからかわいそうだなんて思えるんだと思っているようなひとは、尊重しているふりをして相手を自分の心から遠ざけているだけになっていることにも自分で気が付けない鈍感なひとたちでしかないんだ。
 上の世代はよくわからないけれど、日本で俺より下の世代だと、かわいそうだと言うのはもちろん、かわいそうだと思うことですら、相手を下に見るような失礼なものの思い方だと思っているひとがかなり多いように思う。それなりに賢くて自立心が強いようなひとほどそう思っているのだろう。
 俺は昔から疑問だったけれど、そういうひとたちは、自分の中に憐れみの感情が起こったときに、どういう言葉でその自分の中に起こった感情をとらえるのだろう。そのひとの痛みや苦しみや悲しみに対して、そうでなかったらよかったのにとか、それを取り除いてあげられたらいいのにという気持ちになったときに、どうやって相手を見守って、どんなふうに相手に声をかけるのだろう。
 かわいそうと言われることで、自分がひとからかわいそうだと思われているような状況にあるということに気付かされて、それに傷付くということはあるのだろう。かわいそうと言われることで、自分では自分のことをかわいそうだなんて思っていないのに、自分が何かを得られていない劣った存在であるかのように扱われることに傷付くということもあるのだろう。
 自分の物差しで、他人の境遇とか他人の属性を自分だったら恥ずかしいとか、自分だったらそんなのは嫌に思うとかと言って辱めようとするのは下劣な行為だろう。貧乏だからとか、一重まぶただからかわいそうだと思うのだって単純にバカげている。
 けれど、みんなが親から買ってもらっていて、自分も買ってほしいのに、友達の中で自分だけ買ってもらえなかったものがたくさんあってずっと悲しかったのなら、そんな気持ちで過ごしていた日々にかわいそうにと思うことは何も間違っていないだろう。それは貧乏な家に生まれたなんてかわいそうだと思うのとは全く別のことなのだ。親から虐待されたとか、怪我をしたとか、嫌なひとから理不尽に責められたとか、体調がなかなかよくならないとか、見た目だけで蔑まれて見られたり、自分なりに素直に喋っていることを気味が悪いとかつまらないと言われたり、友達がいないとか、そういうことに苦しんでいる姿にかわいそうにと思うことは、ただただ自然なことでしかないんだ。
 きっと今も、多くのひとがかわいそうにとひとに言うのは相手に失礼なのだということを、幼い頃から漫画とかアニメとかを通して教えられているのだろう。かわいそうだと言われたら怒るべきなのだということを学んで、他人にかわいそうだと言うひとは意地悪なひとなのだというイメージを刷り込まれていっているのだろう。実際にかわいそうだと口走ってしまえば、友達からも大人たちからも非難されたりするのだろうし、そうしているうちに、かわいそうにと言うひとたちはみんな相手を傷付ける目的で言っているように見えてきたりするのだろう。けれど、そんなふうに誰のこともかわいそうになんて思ってはいけないんだと思うことは、みんな自分なりにかけがえのない自分を生きることに充実しているのだというきれいごとを無理に思い込もうとし続けることになるのだろうし、それによって憐れみの感情自体が抑圧されながら生きることになっていたりするんじゃないかと思う。
 この数十年で、日本人は自己責任論を積極的に振りかざす傾向が強まったと言われているけれど、確かに、政治とか金とか社会にさほど興味のない女のひとたちでも、自己責任が当然という態度で、失敗したひとやうまくやれないひとに冷ややかな態度をとるひとはとても多いと思ってきた。せいぜい仲間をかばうだけで、仲間には機嫌を取るけれど、仲間の輪の外にいるひとには、相手がそれなりの態度を取ってくるまで、距離を取って、気持ちでは接しないようにしているひとは多いけれど、そういうひととの接し方が基本になっているというのは、他者への興味と憐れみの感情の希薄さがもろにあらわれているところなのだろう。
 もちろん、俺が付き合っていたひとたちは、俺が付き合うようなひとたちだし、平均からすればはるかに面倒見がよくて、疲れることも他人のためにやってあげられるし、相手の気持ちにも寄り添おうとすることもできるひとたちだった。それでも、優しくしてあげたいとか、助けてあげたいとか、力になりたいとか、そういう行動をとるときに根本にあったのは、むしろ正しい行いをしたいという気持ちだったのだろうし、憐れむべき状況にあるひとに寄り添うことに、悲しみを感じるよりも厄介さを感じている度合いの方が高いひとたちではあったのだろう。
 みんな優しいひとではあった。けれど、みんなそれぞれに頑張って生きているとか、みんなそれぞれにプライドを持ってやっているんだとか、自分がそうであることを通して世界を見ていたのだろうなと思う。そのうえで、えらそうにしてはいけないとか、相手を尊重するとか、いろいろ思っていることがあって、ある程度はっきり自覚して、ひとのことをかわいそうになんて思ってはいけないと思っていたのだろう。けれど、少なくても俺には、ただ俺に気持ちが動かされたままに、かわいそうにという顔で何かを言ってくれたらよかったのにと思う。どうしてそんなに俺をかわいそうじゃないことにしたかったのか、今でも理解に苦しむなと思う。
 もちろん、俺が何かに困っていたり、何かがうまくいかないわけではなく、それなりに何事も人並にやれているうえで、ただ自分の中のモチベーションをうまくコントロールできなくて、ひとりでくよくよしているだけだから、全くかわいそうに思っていなかった可能性もあるのだろう。
 けれど、さすがにみんなそこまで鈍感ではなかったのだと思う。たまに一瞬くらいはかわいそうにと思ってくれていたのだと思う。そして、次の瞬間には、もっと頑張ればいいのにとしか思っていなかったということなのかもしれない。憐れみの感情がなくはなくても、憐れみでは行動できなくて、自分の中で相手に前向きな感情を向けて、それでちゃんと向き合ったことにしていたのかもしれない。だとすると、みんないいひとだったけれど、俺にはちゃんとしすぎたひとたちだったということになるのだろう。そうだったなら、悲しいことだなと思う。
 確かに、俺は二十歳過ぎくらいから急激に変わっていって、自分の感じ方を自分で確かめて、それなりにいつでも自分らしい自分でひとと接していられるようになっていった。それ以降の俺しか知らないひとたちは、俺はいつでも自分の好きにやっているひとだと思っていて、何であれ俺のことは俺の好きにしてもらうしかなくて、自分はそういうひとといい関係を維持できればそれでいいというような距離感で俺を見守っていたのかもしれない。
 けれど、俺は見守られていることを放っておかれていることのように感じていたのだ。心の奥まったところには触れてくれないし、心に触れることで慰めてくれないし、心に触れることで励ましてはくれないひとだと思って、だから、このひとにずっとそばにいてほしいと自然と思ってしまうことがないままになってしまったという面すらあったのだろうと思う。
 かわいそうだから慰めてあげようというような態度を取ってくれたのは、昔の同居人なのだろう。昔一緒に住んでいたときもそうだったし、一緒に住まなくなって何年もして、二十九歳でそんな話聞きたくないと言われて落ち込んでいるときに、かわいそうにと思って、旅行に誘ってくれたりもした。あとは、悲しいのならと積極的に話を聞いてくれようとしてくれたということなら、最初の彼女だったのだろう。その彼女とは、別れて数年して、彼女が鬱病になってから、不安が膨らんできてヤバそうな感じになったときに連絡がくると会って話したりする感じで関係が続いていたから、俺が落ち込んだときにも、いつものようにお互い無理に元気を出さないままで気楽に話していることができた。
 その二人というのは、単純に、一緒に住んでいたり、セックスして眠るのを繰り返すなりしたことで、十代の俺をよく知っていた二人ということなのだろう。まだ自分なりの経験で自分らしさを構築する前の、ほとんど動物としての自分らしさしかない状態だった、十代の俺の身体や気持ちがどんなふうに動くのかを知りすぎるほどに知っていて、何者でもない、まだ大人としての人格が身に付く前の、無防備な子供のような俺がすぐに何かに傷付いているのを間近に見ていたひとたちということなのだ。
 それ以降に俺と一緒にいてくれたひとたちは、見守ってもらう愛は与えてくれたけれど、かわいそうにと思ってくれる愛はくれなかった。目の中を覗き込んでくれて、俺の中に動いている気持ちがどんなもので、その気持ちはどんなふうにしか動いてくれない気持ちなのかをなんとなくわかってくれて、それを見詰めながらかわいそうに思って、たまにそっと撫でてくれれば、それだけでよかったけれど、そういう愛情で一緒にいてくれるひとはいなかった。
 かわいそうにと思ってくれなかったひとたちは、かわいそうにと思ってくれない代わりに、俺の面倒くさいところに、面倒くさいなと思ったのだろう。そして、その面倒くささにうまくリアクションしてあげられない自分に少し嫌な気持ちになって、嫌な気持ちにさせた俺に嫌な気持ちになって、そういうところがなければよかったのという思い方で、そんなひとじゃなかったならよかったのにと思っていたのだろう。
 かといって、愛してくれてはいたのだと思う。そうじゃない方がよかったところもありつつ、そういうところがあることも含めて、俺のことを愛してくれていたのだと思う。俺だって愛されていると感じていた。けれど、俺のものの感じ方の根深いところ方向付けているような心の動き方に面倒くさいと思われているのだし、それはどれくらいの愛情なんだろうとは思っていた。
 けれど、男女の関係ということだと、むしろ、最初の彼女がかわいそうにと思ってくれていたことの方が、珍しいパターンだったのだし、やっぱり付き合っていた年齢の問題は大きかったのだろう。俺の側だけではなく、その彼女の側にしても、二十歳になる頃に、初めての相手として俺と付き合い始めたのだ。その彼女も親からは大事にされて育ったし、俺と付き合い始めた頃は、たいした人生経験もなく、深く傷付いた経験も少なかった。それはとても大きくて、彼女は大学卒業までいろんなことがうまくいかなくて、いろんなことに傷付いたけれど、そうやっていろいろと傷付いたあとの二十五歳くらいから俺と付き合っていたとしたら、俺のことを当たり前のようにかわいそうにと思ってはくれなかったのだと思う。
 そして、俺と最初の彼女はものの感じ方がかなり違っていたというのもあった。全く違っている二人として、どう違うのかを伝え合って面白がり合うことで仲良くなっていった関係だった。だから、最初から相手がどういう考えなのかというのは自分にはうかがいしれないものとして、何を思っているのかではなく、あなたが辛かったり、悲しかったというのはわかるからと、どんな気持ちなのかということだけに反応して、かわいそうにと思い合っていられたというのもあったのだろう。サークル活動でからみのあるひとだったから、俺が他のひとたちと一緒にあれこれやっている姿もちょくちょく見ていたというのも大きかったのかもしれない。俺の他人への距離感とか、してあげていることが相手に伝わってはいても相手からはまともな反応が返ってこないことが多かったりするのに黙ってなんだかなと思っていたりする姿も見ていた。他のひとたちとの関係のアンバランスさが、ふとするたびに対等ではなさとしてまわりのひととの間に入り込んできたりして、立場上というより、俺が他のひとたちとのぶんもいろいろ思ってしまっていることで、いつでもみんなに溶け込んでバカをやっていられるわけでもない姿に、素朴にかわいそうにと思ってくれていたのだと思う。
 それ以降の彼女の場合、最初の彼女よりはものの感じ方が俺に近かった。だから、何を思ってそう言っているのかということがもっとわかって、わかるぶんだけ、そんなことを思わなくてもいいだろうとか、それくらいのことにそう感じるのはどうなのだろうとか、自分の感じ方と照らし合わせて、気持ちに気持ちで反応する度合いが下がったというのはあったのだろう。
 不幸なひとは不幸自慢するために目の前のことを見てしまう。それ以降に付き合ったひとたちからすれば、俺というのは自分よりのほほんと生きてきた全然不幸じゃないひとだったのだろう。前提がそれで、だから、いくら俺がどういうひとだと知っていっても、俺の痛みや虚しさを知っていってくれても、かわいそうにとは思ってくれなかったし、あなたが自分でどうにかすることなんだろうし、うまく消化できるといいねと気持ちを寄り添わせた気になって、踏み込む必要も感じてくれなかったのだろう。
 けれど、かわいそうにと思ってくれていないひとのことを、自分を愛してくれていると思えるものなんだろうか。まだ自分が人生で何ができて何ができないかもイメージがついていない二十代前半とかで結婚するのならともかく、ある程度の歳になって、ひととひとが長い時間を一緒に過ごすみたいなことを考えたときに、お互いのことをかわいそうにと思っていなかったとしたら、対等な関係なんて成り立たないんじゃないかと思う。
 みんなそれぞれの自分の感じ方があって、それぞれそのひとなりのうまくいかないこともあったり、空回りすることもあったり、誤解されることや、バカにされたり、軽く見られたりすることがあって、かといって、自分にはどうにもできないことが何もかもだったりするのだ。それとも、多くのひとは、そういう自分の苦しみを否定することなく一緒にいてくれれば充分なんだろうか。そういう自分の弱さや悲しみに対して、ただそっとしておいてもらって、優しい目で見守っておいてもらえたら、愛してもらっていると実感できるものなんだろうか。自分の人生にまとわりつく、悲しい自分らしさをというのがあって、それにため息をついている姿をふとするたびにずっと見てきたはずの相手なのだ。何かを思ってほしいし、気持ちを動かされてほしいと思うものなんじゃないかと思う。そして、気持ちが動かされるとしたら、いい歳をした人間と人間なら、かわいそうにとお互いに思い合うことなんじゃないかと思う。
 俺がずっと同じことを書いているのがわかるだろう。それだって、気持ちに気持ちで反応してくれているのかということなんだ。ちゃんと話してほしいわけでも、そっとしておいてほしいわけでも、優しくしてほしいわけでもなかった。俺というのは自分にとって、誰かの恋人でも、誰かの話し相手でもなく、ただ自分だった。俺にとっては、自分は自分なりにいろんなことを思ってきた自分だった。俺はそういうつもりで、相手に顔を向けていたのになと思う。けれど、俺はただの恋人でしかなかったのだろう。そして、恋人としては愛してもらっていたからこそ、恋人である以前の、ひとそれぞれにかわいそうな人間の一人としては愛してもらえなかったことが、どうしようもなく俺には虚しかったのだ。
 俺はちゃんと自分なりに付き合った相手を好きになっていたし、大事にもしていたし、ずっと一緒にいたいと思ってもらえるようにもなっていたのだ。俺は自分勝手に独りよがりなことを思っていたわけじゃなかった。俺は自分なりに気持ちを大事にして、他人の気持ちも大事にしていた。だからいい思いをさせてあげられて、恋人たちは俺を愛してくれていたのだし、だったら、どうして俺がそういうひとであることにもっと何か思って、もっとそういうところこそ愛してくれなかったんだろうと思うのはおかしなことじゃないだろう。
 俺には俺の感じ方があって、みんながそうしているからってしないようにしていることもいろいろあったり、そんなことしても仕方ないのにと思いながら、できるだけ後ろめたくないようにとやり続けていることもあった。損得で行動しないようにとか、まわりのひとに流されすぎないようにとか、よくないなと思っているときにはちゃんと同調的じゃない態度をとるようにするとか、マシなやつでいようと思ってやっていることで、ひとと打ち解けにくくなりながらも、そうしているからこそできていることもあるのだろうと思ってやってきた。
 けれど、俺がマシなやつであることで好きになってもらいながら、俺が自分にとってどういうやつなのかということを好きになってくれないのなら、俺がマシなやつであろうと思いながら目の前のことを感じていることがいけないということだし、だったらマシなやつであろうとなんてしなければよかったんじゃないかということになるだろう。
 俺は新しく誰かと付き合うと、しばらくして、相手から聞かれた時点で、前の彼女とはどんなふうに別れたとか、そのときどういうことにお互い傷付いていたのだと思うというようなことは、どのひととも話していた。そのうえで、ちゃんと聞いてくれて、ちゃんと話してくれるからと好きになってもらって、けれど、考えてもしょうがないことを考えているからと嫌な気持ちになられていたのだ。昔憐れみの感情を搾取されて嫌だったと話して神妙な顔をして聞いてくれていた相手から、同じようにひとに憐れみの感情を持ちながら関わろうとする人間であることを搾取されたようなものだった。それがどれくらい虚しい気持ちにさせることなのか、俺の息子である君ならわかってくれるんじゃないかと思う。そして、それは一度も誰かに取り消してもらえることがない虚しさとして、もう十年以上俺をすっぽりと包み込んでいるんだ。




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