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【連載小説】息子君へ 237 (45 俺はかわいそうだと思われたかった-8)

 人生はそんなふうになっていったりもするんだ。少なくても、君と遺伝子の半分を共有する俺の人生はそういうものだった。
 けれど、君からすると、俺はうまく生きられなかったのに、この手紙のようなものの内容は、まるで君にも俺と同じようなうまくいかなかった人生を生きることを求めているみたいに思うのかもしれない。
 それは確かにそうなのだろう。けれど、実際俺は自分がそこまでダメだったとは思っていなくて、ただうまくいかなかっただけだと思っている。だから、君もなるべく自分の気持ちを感じようとすることでひととうまくやれなかったり、みんなと同じように楽しくやればいいと思ってすませるばかりじゃない生き方をしようとして、ひとの気持ちに応えられなくて苦しんだりしながら生きていけばいいと思っている。
 俺の場合だって、俺をもっと面白がってくれるひとと出会って深い関係を結べなかったというだけなんだ。ただひとりそういうひとがいてくれたなら、それだけで俺は自分はこうやって生きてきてよかったなと思えていたのだと思う。
 君だってそうで、そういうひとりがいれば、なんとかなることなんだ。だから、君は自分の気持ちを確かめながら、自分の心のスピードで生きていけばいいんだ。
 俺の身体はいろんなことを経験するほどに、だんだんと世界を美しく感じられるようになるような身体だった。心が止まってきても、俺は自分のことや目の前のことを感じようとすることを頑張ったりできてきた。むしろ、自分と関係ないものになった世界をもっと美しいものに思えるようになった。俺はいい人生を生きてこれたんだ。
 実際、俺は何も後悔はしていないんだよ。ずっと一緒にいられる可能性のあったひとと一緒にいることを選べなかったことにも、全く後悔なんてないんだ。一生懸命自分にとって大事だと思えることを話したのに、そんな話聞きたくないと思われてしまうひとたちだったのだし、そろそろ結婚する年齢だということに流されたりせずに、心を開いて頼ったり甘えたりするべきじゃない相手に、ちゃんとそれをしないように我慢できたということですらあるのだと思っている。
 まわりのひとがどれくらいの気持ちで結婚しているのかというのを、自分の恋人への気持ちと比べていたら、俺はさっさと結婚していたのかもしれない。そんな程度の信頼感と相手を尊重する気持ちと相手のいろんなところをよいものに思う気持ちで結婚できるのなら、俺が自分の彼女と結婚しないのは不自然なことだと思えたのだと思う。けれど、俺は自分の中にある恋人への感情しか感じていなかった。そして、俺が自分で俺そのものだと思っているような感じ方の根深いところまでは愛してくれないひとなのだということを感じ取ってしまっていた。俺が押しとどめているものも含めて俺を愛してくれているわけではなく、ちゃんと押しとどめて見えなくしている状態の俺を愛してくれているのだとわかってしまっていたのだ。
 本を読んでいて、女のひとは男が本当に愛してもらいたい愛し方では愛してくれないもので、そういうものであることを諦めないと女のひとといい関係は持てないというようなことが書いてあって、自分はまるっきりこれなんだなと思ったりしたことがあったし、そういうことはわかってはいたんだよ。
 けれど、そこまでの愛され方ではないと感じたのは、どうしたって本当のことなんだ。愛されているのはわかっていたし、俺の方も相手を大切に思えていたけれど、そこまで特別な結びつきを感じていなかったのは確かなのだ。
 俺がどんなことに楽しくなったり、どんなことで気持ちよくなったり、何を汚いものに感じて、何をどうでもいいと思っているとか、そういう俺が自分らしさだと思っているようなところに、微笑ましく思ったり、欲情してくれたり、かわいそうにと思ったりしてくれているのは感じなかったし、俺を人格として好ましく思ってくれていたのだろうけれど、俺の心の動き方をよいものに思ってくれているとは感じていなかった。
 俺からしても、長く付き合ったひとたちは、どのひとにしても、心が世界に剥き出しに露出されてしまっているところが希薄というか、世界を自分なりに感じようというよりは、世界を自分なりに楽しもうとするところからスタートで生きているひとだとは感じていた。知的能力や集中力は俺より高いひとも何人かいたけれど、どのひとにしても、俺の方が動物的だと思っていたし、俺の方が自分の気持ちや欲動を自分でわかりたかったり、形にして確かめたいという焦燥につきまとわれた心をしているのだと思っていた。いいひとたちだったし、そのひとのそのひとらしさを確かめているのが心地よいひとたちだったけれど、そのひとのそのひとらしさの深みに、異様だったり、目を離せないものを感じて、それを覗き込み続けていたいというような、そういうひかれ方をしていたわけではなかった。そして、俺がそうしたくても物足りなかったのとは真逆に、相手はそうやって俺のことを覗き込んでくれなくて、むしろ自分にどんな反応を返してくれるのかということを通して俺を愛してくれていることに、どうしようもなく満たされなさを感じてしまっていたのだろう。
 愛されていたとは思っている。相手の全力の愛情を自分に向けてもらっていたのだと思う。結局、よく映画で描かれたり小説なんかで書いてあるように、どれだけ愛し合って、お互いのことを知っても、人間はひとりひとり絶対的にわかり合えない部分を持っていて、そんなことを思っていても孤独感につきまとわれるだけになるような思いをそれぞれに抱えながら生きるものだとか、そういうことを俺はまともに理解できていなかったということなのだろう。どれだけ愛し合ってもそういうもので、理解し合えないし、孤独感が消えないのは愛の不足のせいではないと、いろんなひとがいろんな作品で教えてくれていたのに、俺はそれを全くわかっていなかったのだ。
 かといって、そういう小説たちがちゃんと答えを教えてくれていなかったから、俺は思うようにいかない現実を前にしても、絶対にわかり合えないというのはこういうことなのかとはっきりと実感できなかったのだ。本当に、誰かちゃんと書いていてくれればよかったのにと思う。凡人の界隈では、ひとがひとに底なしの興味を持つなんてことはありえなくて、心の底の方で動き続けているものをじっと見て、それに手を伸ばして、それを確かめて、自分の心と照らし合わせた言葉とともに、かわいそうにねと言ってくれるなんてことはありえないのだと、はっきり書いてくれていればよかったのにと思う。そうしたら、俺には凡人である自覚があったし、ちゃんと諦められたのだ。
 どうしてうまくやれていればそれでよくて、楽しく過ごせていればそれでよくて、一緒にいて安心できていたらそれでよくて、日々のいろんなことを伝え合っていられたらそれでよくて、相手の気持ちの深いところに触れていても、それに無言でいられるんだろうと思っていた。そこを無言でやり過ごしたときに、俺を無視してしまったという感触を自分の中に感じないんだろうかと思っていた。
 付き合ったひとのどのひとにも、関係が深まって、関係が落ち着いてきたとき、俺がこんなひとじゃなくて、もっとマシなひとだったら、このひとにとってはもっとよかったんだろうなと思っていた。自分が現実的に出会う範囲のひとたちの中で、自分がいい関係を持つことができる相手としては、確かに他のひとよりも俺がよくて、俺とずっと一緒にいたいと思ってくれたりしたのだろうけれど、かといって、こんなひとじゃなかったらよかったのにと思われているのは本当のことなのだと思っていた。充分愛されているし、相手史上では、もしかすると一番愛してくれていたのかもしれないけれど、それでも、俺じゃなくていいし、もっと他に安らいだ関係になれる相手がこのひとにはいくらでもいるのだろうと、付き合っているどの相手に思っていた。
 こんな自分でもうしわけないなという気持ちがずっとあったなと思う。逆に言えば、どのひともそう思わせてくるような相手ではあったのだ。愛してくれてはいるけれど、そこまで愛されているようにも感じられなくて、だから俺はずっと一緒にいようとも思わなかったのだろう。もうしわけないなと思い続けないといけない相手が、自分が一緒にいるべき相手だと思うのも変だと思っていたのだと思う。
 けれど、いろんな作品に書いてあった、どれだけ愛し合っても、わかり合えないし、孤独を抱えながらでしか愛し合うことはできないというのは、そういうことだったのだ。俺はそれを受け入れるべき孤独とは感じていなくて、相手の眼差しや息遣いや言葉の吐き出し方を見詰めながら、それを単なる俺の俺らしさへの相手の踏み込めなさだと思っていた。
 そんなふうに相手が俺のどこまでを愛せて、どこからは興味も親近感も持てないのかを確かめていないで、もっと大雑把に、受け止めてくれなさや、覗き込んでくれなさを、そういうシチュエーションとして切なく感じているだけにしていればよかったのだろう。楽しいけれど、たまにふとしたときに、そうじゃなかったんだよなと思って、けれど、わかってもらえるわけもないし、自分でもどうしたいのかわからないなと思って、考えるのをやめるために、ただ自分を孤独だなと思ったりしていればよかったのだ。そうすれば、いろんな作品のことを思い出して、これがそういうことかと思って、どれだけ愛し合えてもそうなんだなと思って、だったら、それはそういうものなんだし、そこはひっかかるところじゃなくて、お互いのそういうものがそれぞれの心の中の孤独な場所を通り過ぎるときがあるから、それをうまく見守ってあげて、それが取り過ぎるまでの不安な気持ちをそばにいることで少し楽にしてあげられたら、そうやって踏み込めずに見守っているだけになっている時間こそが、誰かとずっと一緒にいる中で、一番相手を尊重して大事にしてあげられた時間になるのかもしれないとか、そんなふうに思えたのだろう。
 けれど、大人になった時点で、俺がそんなふうに思える可能性なんてあったんだろうかと思う。きっと、ひとには言えないことがみんなそれぞれにあったりするのだろう。そして、ひとには言えないようなことを思ったり考えたりしないと返事ができないようなことは聞きたくなくて、だから俺はそんな話は聞きたくないと言われたのかもしれない。
 俺にはひとに言えないことがないのかもしれない。そして、そう思っているから、ひとが自分の話を聞いてはくれないし、俺が思っていることに触れようともしてくれないと感じてきたのかもしれない。
 ひとには言えないことがあって、それは自分の中に留めて、ひととは話せることだけを話すというつもりで生きているのなら、そもそも自分の中でいろいろ思うことの中で、ひとと話す可能性があると思っている範囲はかなり狭められているのだろうし、そうであれば、ひとは自分の思っていることに興味がないと感じることもないのかもしれない。
 俺は今まであったことの全てがあったうえで今の自分だというつもりでひとに顔を向けている気がする。いつでも自分の非を認めるし、いつでも自分の失敗の話やよくないことをしたときの話を追加で話すようなつもりで何かについて思うことを話そうとしているところがある。自分にとって都合がいいように、まるで昔何をしていなかったかのような顔はしないようにと思っているし、そうじゃなかったかのような素振りもしないようにと思っている。
 俺は人並みよりも自分らしい自分で他人に顔を向けて生きてきたのだと思う。何をしてあげられるわけではなかったけれど、ただ自分らしくあれるようにその場にいようとしてきた。それがまた他人からすると重かったりしたのかもしれない。俺はただ自分であろうとしていただけだったけれど、その自分には今までの全部が含まれていて、今思っていることは、今まで思ってきたことの続きとして思っていて、そういうつもりでひとに顔を向けていた。だから、相手が言葉だけを受け取って、俺が今までどんなことを思ってきたのかということをそこから感じ取ろうとしてくれなかったときに、伝えているつもりのものと受け取ってもらったものの大きさに違いがありすぎてびっくりしてしまったのだろうし、このひとは感じてくれないひとなんだなと悲しくなってしまっていたのだろう。
 俺は自分の全てを理解してほしいなんてほんの少しも思っていなかったはずなのになと思う。それでも、自分にとっての自分を伝えられているような気になれたときに、そんなことを言われてもという顔をされたり、そんな話聞きたくないと思われると、それが自分にとって大切な相手であるほど悲しくなってしまったし、それは悲しすぎて受け入れられないくらいにショックなことだった。
 それでも、結局のところは、俺が勝手にどういうつもりで自分の話を聞いてくれてもいいのにと期待して、勝手にがっかりしていただけではあったのだろう。それだってもちろんわかっていたのだ。けれど、自分のいろいろな気持ちを抱えながら、なるべく本当にそう思うことで相手に接しようとしていたら、自然とそうなってしまっていたのだ。そのせいで、相手にはそんなつもりがないのに、ひとりで空回りをし続けているような気分になって、結果として、相手を傷つけることになってしまうというパターンを、俺は何度繰り返したんだろうなと思う。
 今まで自分にもいろいろあったけれど、そのとき目の前にいるひととは、直近の薄い関わりの中で積み上がったものの範囲で楽しくやっていればそれでいいんだと、どうしてそんなふうに思えるようになっていけなかったのだろう。みんなと一緒にいて嫌な気持ちにならないでいいように、自分の感じ方を調整しようとしてもいいはずだった。そんなに自分の感じ方を重く扱って、それによって重いひとになって、集団が集団として動くときの個々の気持ちの扱われ方の軽さについていけないひとになってしまって、俺は何をしたかったんだろうなと思う。
 多くのひとがそんなことは当たり前だと思いながら生きているのだろう。このひとは一生自分の話を真剣に聞くことはないし、自分が本当に苦しかったり、悲しかったり、寂しかったりとか、自分というのが世界の中でどういう存在なのか思い知らされるような感情に包まれているときには、一度だって自分の気持ちをわかってくれることはないのだろうと思ったうえで、その相手とずっと一緒にいることにしたひとがたくさんいるのだろう。というより、女のひとの過半数は、男はそんなものだと思って一緒にいるのだろう。
 多くの女のひとたちからすれば、俺の思っていることはただひたすらにバカらしいことでしかないのだろう。付き合ったり、夫婦になった場合ですら、一緒に生活しているということでつながっているだけで、相手は自分をどういうひとなのかもまるっきりわかっていないまま、わかっていこうとする気もなく、慣れだけで自分に話しかけてきて、何年経っても、何度も同じ展開の話をしているのに、そのつどこちらの気持ちを何の悪気もなく誤解してくるというのが、むしろ普通のパートナーとの会話だと思っているひとがたくさんいるのだろう。そういうひとからすれば、一生懸命話しているのだからちゃんと聞いてほしいとか、どんなに重い話であっても、気持ちで語りかけているのだから気持ちで応えてほしいなんていうことを思っているのは、ただ相手が違ったんじゃないのとしか思えないし、自分で付き合っておいて、そんな理由で、深い関係になっている相手と別れようとするなんて俺がどうしようもないクソだという話にしかならないなのだろう。
 俺だってそれはわかっているのだ。俺だって、君のお父さんになれるのなら君のお母さんと一緒に暮らすのだっていいと思っているのは、話がそこまで通じなくても、そういう相手とはそういう相手なりに楽しくやれると思っているからなんだ。ただ、それはそもそも君のお母さんは俺が自然と仲良くなって自然と好きになるようなひとではないから、最初からそういうものだと割り切ることができるからなのだろう。
 俺は自然と仲良くなれたひとと付き合ってきた。その相手が、自分のことを大好きになってくれて、けれど、一生懸命気持ちを伝え合っていたつもりでも、結局、どこかの時点で、そんな話聞きたくないという思いを向けられてきたのだ。伝え合って、受け止め合うことで関係を深めてきたつもりだったのに、そんなふうになってしまったことに対して、だったら、聞きたくなくなるまで俺の思うことを頑張って受け止めようとしてくれるようなひとではなく、最初から俺のことをただ興味本位で面白がって軽く扱ってくれるひとと付き合った方がいいんだなと思うのはおかしなことではないだろう。相手に対しても、どれだけいい関係になれたからといって、俺が本当に自分の自分らしさだと思っているものを疎ましく思っているのなら、俺ではなく他のひとと一緒にやっていく方がいいじゃないかと思うのも、何も不自然なことではないだろう。
 俺が君のお父さんになれるのなら君のお母さんと一緒になってもいいと思っていることを君はシュールに感じてきたのだろうけれど、俺はそんなふうに、自然と仲良くなれるようなひとだからってうまくいかないんだといつでも諦められる状態にすでになっていて、君のお父さんになれるならいつでも全部諦めていいと思っているということだったんだ。
 もちろん、そもそもの話として、ただ俺が一生懸命話さなければよかっただけの話なのだろう。自分なりに自分の言葉で自分の思うことを伝えることに固執せずに、ちょっと話せばすんなり伝わる程度のことだけを喋って、一生懸命喋ったのを一生懸命聞いてもらわないと伝わらなさそうなことなんて話さないように自重していればよかったのだ。俺はそれだけで、もっとひととうまくやれて、当然のように大切に思えるひとと家庭を持って幸せに暮らすことができたのだろう。
 けれど、そうしていたのなら、俺は今とは全く別の人生を生きることになっていたのだろう。俺は一生懸命反応して、一生懸命伝えようとして、だからこそ気が付けたことで自分を作り直しながら、だんだんとマシな人間になってこれたことについて、自分なりにマシな人生をやってこれたなとも思っている。ひととうまくやれているようで、そんな話聞きたくないと思われる人生でしかなかったとしても、ひとと楽しくやれたことに満足できる人生より、感じようとして伝えようとする人生の方がよかったし、だから、これで仕方なかったんだと思っている。こうなったのは、もっとうまくやれなかった自分が悪いだけで、自分がそうできたらいいなと思い続けてきたことは間違ってはいなかったし、自分は自分なりに頑張ったし、これでいいんだと思っている。
 ひとのせいにするみたいになってしまうけれど、俺の人生自体は、俺の心の動き方を面白がって、それに触れていたいと思ってくれるひとと出会って仲良くなれてさえいれば、それでうまくいった人生だったのだ。俺はたくさん勘違いしていたけれど、俺は少しずつは頑張ってはきた。だから、俺は運が悪かったんだと思っているし、そして、運が悪かったからって、自分が自分だと思ってきたものを捨てて、寂しくなくてそれなりに楽しくやれればいいやと思って、楽しくやるのにちょうどよさそうな誰かを利用しようとするような、自分で自分にがっかりするようなことをしなくてよかったなとも思っているんだ。
 俺は別の人生で幸せになるより、この人生でうまくいかない方がよかった。この人生でもうまくいきそうにしか思えない感じで生きてきたのだし、最終的にひとりでじっと無力感と向かい合う後半生を生きることになったからって、こんなふうに生きない方がよかったなんて思うのはみっともなさすぎるだろう。
 俺が思うのは、心はこんなに早く死んでしまうということを誰か俺にちゃんと教えてくれていたらよかったのにという、ただそれだけなのだ。それだけ知っていたら、俺は俺の能力なりに、ちゃんと建設的な感じに幸せな生活を確保する帳尻合わせをできていたのだと思う。そして、それだけとはいえ、そんなことすらわかっていなかったなんて、自分はまるっきり何もわかっていなかったんだなと呆然としてしまうというだけなんだ。




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