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【連載小説】息子君へ 236 (45 俺はかわいそうだと思われたかった-7)

 自分がまともに生きられなかったことを親のせいにしようとしているわけではないんだよ。けれど、俺は二十歳以降で大きくものの感じ方や考え方が変わったにしても、それは行動パターンとか思考パターンのようなところでの変化で、肉体的なレベルの、他人に対して基本的にどんな距離感でどういうつもりで顔を向けているのかということでは、小さい頃からずっと変わらずにきてしまったのかもしれないとも思うのだ。幼少期の親との関係というのは、その子供が他人とどんなふうに関わるひとになるのかということを強く決定付けて、社会的な志向性みたいなところでの価値観や振る舞い方は家の外の世界の影響を受けてどんどん変わっていくけれど、その根深いところはずっと変わらずに残り続けていくのかもしれない。
 実際、俺の根深いところでの他人とのうまくやれなさの何もかもを、親子関係の問題だったということにこじつけることもできてしまうのかもしれない。
 自分が集団の邪魔になっているような感覚とか、歓迎されていないような感覚というのも、親がいつも自分に身体も意識もしっかり向けて接してくれたから、こっちを向きながらも、集団の中での自分のことを感じていたり、集団としての一体感に同調しながら集団の外部のひとを見ている顔に、親が自分の相手をしてくれるときとは全く違うものを感じて、自分にちゃんと接したい状態ではないように思ってしまったというのもあったのかもしれない。
 親は俺に対して、自分の都合を持ち込んで何かを要求してくることがなかったし、自分の気分をよくするために話しかけたり、かわいがろうとしてくることもなかったから、そのひとに特に悪意がなくても発生するような、自分の思うように相手に行動してほしいという気持ちからくる薄い攻撃性とか、他人を操作しようとするような気持ちの動きにすら慣れていなくて、そういう気持ちの動きが異物のように感じられたことで、そのひとと距離を取った方がいい気分になっていたというのもあるのかもしれない。
 ひとは集団で活動するとき、そういう種類の感情を垂れ流しながら、自分本位なことをだらしなくやってしまうもので、お互いにその自分本位さに付き合ってあげることで、いい意味でも悪い意味でも馴れ合っていくし、甘えたいときに甘えられる関係になっていくものなのだろう。俺は親との間では、自分が甘えたいときに甘えたり、自分勝手なことを言ったりしたりするのにもまともに対応してもらうばかりで、親の方からかわいがろうともされなくて、親の都合や気分に振り回されたり、親がそうしたいことに従わされたりすることがなかったから、その種の感情を行き来させることに慣れていなくて、そういう気持ちをやりとりすることが前提になっていない他人への顔の向け方をする子供になっていたのだと思う。
 実際、俺は昔から今まで、さほど打ち解けていない相手と友達っぽく接するのは苦手だったわりに、好きじゃないし、あまり関わりたくないひとに対しては人並みより普通に接していたけれど、それにしても、親との関係で身に付いた距離感がそのまま出ていたものだったのだろう。
 俺の親は適度な距離で見守るというばかりだった。干渉してくることもなかったし、愛憎でなあなあにつながっているわけでもなかったから、俺が何かで怒らせたからしばらく機嫌悪く扱われたり、こっちがいいことをすると急に優しい態度を取ってくるということもなくて、いつでもその場その場で、俺の側にしたいことがあればそれを尊重するというパターンばかりで関わってくれていた。俺にしても、その場だけのこととして接している度合いが高かったから、相手の事情だけに反応してあげられて、面倒くさいことでも、相手が必要としているのならいいかと、できることをしてあげる気になりやすかったのだろう。
 そして、そういう距離感だったから、恋人との関係も、相手の気持ちありきで、相手さえよければいいという、他者として扱って、他者として尊重するという態度が基本になってしまっていたのだろう。それは聖人君子ぶっているわけではなく、単純にそれ以外の態度をとることは、相手への干渉のような、よくないものに思っていたということなのだろうけれど、そのせいで、相手を自分のものだと思ったりもできなくなっていたのだろうし、二人の生活のために自分の思うように行動してほしいと思ったりもできなくて、いつまでも他者としてしか相手のことを見られないままになったというのはあるのだろう。
 もちろん、俺の親は全くそんなつもりはなかったのだろうと思う。むしろ、親は俺が結婚すらできていないことに不思議な気持ちになっているのだろうと思う。
 両親は自分たちの育て方が子供を人生の本当のところから遠ざけてしまうなんて、全く思っていなかったのだろうなと思う。けれど、自分たちの人生を伝えながら育てるのではなく、自分たちとは別の人生となるように声をかけて見守ってしまったということではあるのだ。
 自分たちが育てられたのと全く違う、自主性だけが正義であるような育て方をしたことで、息子は自分たちとはだいぶん感じ方の違う人間になってしまったのだ。そのせいで、マザコン成分がゼロの息子になって、親子だからって他者としてしか話を聞いてもらえない関係になってしまったことで、息子も大人になったし自分の今まで嫌だったことの話しをしてあげようと愚痴ってみても、愚痴に含まれるよくない感情に嫌悪感を持たれて、愚痴りたい気持ちを受け入れてもらうことすら拒絶されてしまうことになったのだ。さらに悲劇的なことには、母親はいまだに孫の顔を見せてほしいというようなことを言ってくることがあるけれど、自分たちのようになるように育てなかったことで、息子はまともに女のひとと幸せな家庭を作りたいという気持ちもない人間になってしまって、自分の子供として普通に育てれば見せてもらえたはずの孫の顔すら見せてもらうことすらできなくなってしまったのだ。
 もちろん俺は実家を出たあともずっと楽しくやってこれたし、そんなふうに育ててもらえたことを両親に感謝している。けれど、事実として、俺は相手を見守って、相手にとっていいようにしてもらおうとするような、そんなまともな愛情しか知らないままで、思春期までを通り過ぎてしまったし、そこからも友達や恋人や仲間に恵まれたおかげで、人格形成が終わるまでそういう感覚のままでやってこれてしまったのだ。
 俺は大人になってからもずっと、なあなあでみっともないぐだぐだな愛情に巻き込まれて時間を過ごしたことがないままだった。付き合ったひとたちとも、俺はぐだぐだに馴れ合うのをよくないことに思ってやんわり拒否していたのだろうし、息苦しいと彼女に言われても反省しないで、そんなことないはずだと、ちゃんと感じたことをちゃんと伝えようとすることにこだわって、その結果、三十歳前にもなって、そんな話聞きたくないと言われて、それでもまだ、そのあと付き合ったひとたちに対しても、人格と人格として関わっている距離感をなるべくキープできるように俺の方から誘導していたように思う。
 六本木の会社の同僚だった彼女は、ヒステリーを起こしながら、自分の感情のあれこれ渦巻くのをどうにかしてくれと、そこに俺を巻き込もうとしていたのだろう。俺はこれじゃあまともにやっていけないと、ケンカしつつ楽しくはやれていたけれど、きっとうまくいかないからと別れてしまった。けれど、まともに体験する前に投げ出してしまったそのひととの関係というのは、なあなあのぐだぐだなりに愛し合う普通の人間関係がどんなものか、三十代の半ばでやっと教えてもらえる機会だったのだろう。話も通じない相手のヒステリー状態に付き合ってあげることが愛だとそこで学んでいたら、そんな話聞きたくないと言われる話なんてする気もなくなっていたのかもしれないし、これが愛なのかといろいろ諦めがついたのかもしれない。そうすれば、母親の愚痴にしたって、もうちょっとは母親の心が静まるところまで、優しく味方のふりをした相槌を打ちながら聞いてあげられるようになれていたのかもしれない。
 両親はどうしてあんなにまで干渉しないようにしていたのだろうと思う。記憶にあるかぎり、俺はずっと好きにやれと言われていたように思う。どうしてあんなにも好き勝手に子供を扱うことを自分たちに禁じて、けれど子供には好きにしろとしか言わなかったんだろうなと思う。もちろん、本人たちが自分の人生に、もっと好きにすればよかったと思っていたのだろう。地方公務員をして、子育てをして毎日忙しくて、子育てが落ち着いた頃には、もう自分の人生をこれからどうしたいと思うほどのやる気もなくなってしまっていたという人生になったことに、何かもう少し何かあればよかったのにというような気持ちがあったのだろう。だから、子供には好きにしろと言い続けたのだろう。
 そうして両親に全く心を閉ざしたところがなかった俺は、言われるままに素直に育って、どういうときは何をしないといけないとか、みんなそうしているのだから自分もそうしないといけないという気持ちにほとんどなることがない若者になっていった。お互い様なのだから持ちつ持たれつで折り合っていくのが人生だという人生観から遠ざけられて育てられたのだし、好きにしろと言われ続けて、徹底的に干渉を避けられ続けたのだ。そんな十九歳だったのだから、恋人が恋人らしく一緒に過ごしたいと思ってくることを干渉のように感じて鬱陶しく思っていたのも、当然といえば当然のことだったのだろう。
 そして、そんなふうに他者と関わり始めて、いろんなひとと楽しくやれてしまったことで、それを正しい感じ方だと思ってしまったのだろう。いつでも好きにするつもりでいたから、仕事も恋愛も、落ち着いてしまって、何かをできるようになっていくよりも、同じことの繰り返していることが多くなってきたときに、よくないことをしているような気分になっていたし、その退屈が人生の停滞のように思えて、そこを離れないといけないような気持ちになっていた。そして、そんなことを繰り返していても、ずっと総じて楽しくやってこれてしまって、何であれ自分の好きにすればいいと思ったままになってしまった。
 けれど、それは若者の人生だったのだ。心が止まってしまえば、自分の心のままに生きようとしているだけでは充実できなくなってしまう。大人の人生とは、好きにするのではなく、やると決めたことを繰り返すことだったのだ。
 そういう意味では、俺は自分の人生を生きていなかったのかもしれない。自分が自分の人生を選び取るその前段階の、いろんなことをやってみているお試し期間をずるずる引き延ばして、そこでだらだらしていたら、いつの間にか人生が残り少なくなくなってしまっていたという感じなのかもしれない。
 若者時代をそんなにまで満喫できなくて、むしろ、もっと早くから気力も体力も落ちていって、体調も悪くていつでも注意散漫になって、あまり何も感じなくなって、何を知りたいという気持ちもなくなっていったなら、なんとかなっていたのかもしれない。二十六歳で新しい音楽も聴かなくなって、真面目な映画も見なくなって、本を読む代わりにテレビを見るようになっていれば、ものの感じ方は数年で根こそぎ変わったのだろう。そこで切り替えられたなら、鈍感な自分でもそれなりな感じで一緒にいられるひとと、それなりに楽しくやれていればいいというくらいの気持ちで誰かと一緒になったのかもしれない。
 人間という動物にとっては、それがライフコースとして自然な切り替えだったりしているのだろう。心が止まってくるまでは、若者としてふらふらするのを楽しんで、どこかでふらふらするのにも飽きてきたり、疲れてきたりして、ふらふらとは逆の生活をするのが自分の身体にとってちょうどよくなってくると、同じことを繰り返すことに満足しようと家族中心の生活をしたいと思うようになるのだろう。
 俺の場合、二十代をずっと楽しくやれてしまったし、三十代になってもそれなりに自分の変化を感じられていた。もっと社会人になってさっさと自分の人生に停滞感を感じていれば、二十八歳のときによりを戻そうと言ってくれた元彼女と結婚していたのかもしれない。
 俺はそれくらい、停滞感なくやってこれてしまった。前向きな気持ちは三十歳でずいぶん損なわれてしまったけれど、それでも停滞していたわけではなかった。暗い気持ちに沈んだ中で、いろんなことを思って、いろんな気持ちになって、それは確かにそうなんだなと自分で思えていた。
 けれど、それは逆に、停滞した関係性から逃げることで、停滞していないことにしていたということでもあったのかもしれない。恋人との関係や、仕事と自分のモチベーションとの関係が停滞してきたら、毎回それを終わりにしてきたのだ。停滞したことも自分の人生だとして、停滞も含めて自分が納得できる毎日になっていくように、前向きに停滞と向き合って、そこによいものを見出そうとはしたことがなかった。停滞してくるまでの関係としては、今までのひととの停滞してくるまでの関係よりもいい関係にできたからと、自分は昔よりもよい恋愛ができていることにしていたのだ。
 ずっと何もかも自分の好きにすることなんだとしか思っていなかったなと思う。けれど、本当は、好きにするのが人生ではなく、好きにしてばかりいてもしょうがなくなってきたら、好きにする以外の生き方に気付くのが人生だったのだ。
 何度も停滞して、このままじゃ嫌だなと思ってきたのだ。どうして停滞することで気が付くべきだったのに、嫌だから辞めるということばかりを繰り返してしまったのだろう。停滞を自分の人生の停滞なんだとどこかで思えていたら、そこで違ったモチベーションで生きるようになれたはずなのになと思う。
 関係に人生を乗っ取られるのがまっとうな人生なのだろう。けれど、俺は関係を自分自身だと思えないままだった。それしかないんだと思うきっかけが多いわけではなかったのに、関係しかないわけじゃなくて、感情があると思っていた。関係からはみ出し続ける自分の感情を確かめながら、なんだかしっくりこないなと思いながら、どうだといいんだろうなと思いながら生きてきた。そうしたら、気が付いたときにはもう手遅れになっていたんだ。




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