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【連載小説】息子君へ 240 (46 君のお父さんになってあげられなくてごめんね-1)

46 君のお父さんになってあげられなくてごめんね

 君はこの手紙のようなものによって、生きていなくていいという気持ちの一つの例に触れたことになったけれど、どう思ったんだろうね。
 回復する見込みがない病気で身体的苦痛が大きかったりするわけでもないひとで、誰でも安楽死できるようにしてくれたらそれで死んでしまいたいと思っているひとはたくさんいる。
 今の世の中では、自殺しようとするには、精神的に異常な状態に追い込まれている必要があるのだろうけれど、誰でも簡単に死ねるようになって、そうやって死ぬことがそれなりに普通になったなら、普通の精神状態でもひとは自分で死ぬようになるのだろう。まともな神経ではやれないことのように思うことでも、他のひともやっていればさほど思い切る必要もなくやってしまえるのが人間なのだ。
 みんながみんな、楽しくやるしかないんだと思いながら生きているようでいて、みんな別に楽しいことがしたくて生きているわけでもないのだ。家族がいるからとか、友達がいるからとか、そういうことを理由に、ひとのせいにして生きているひとはたくさんいる。誰でも安楽死できるようになれば、配偶者に先立たれた、頻繁に顔を合わせる友達もいないような老人はどんどん死んでいくようになるのだろう。そして、多くのひとが死んでいけば、配偶者に先立たれたわけでもなく、頻繁に顔を合わせる友達がいないわけでもないひとたちも、どんどん死んでいくようになるのだろう。
 どうしたところで、多くのひとには、歳を取ったあとに体験したいことなんて何もないのだ。あるとすれば、愛されたいとか、自分のしたことを喜んでもらいたいとか、自分を面白がってもらいたいということなのだろう。できるのなら、おべっかでもなく、お金を払ったからでもなくそんなことをしてもらいたいなと思うのだろうし、できるのなら、自分が本当にいいことをしてあげたり、自分が本当に面白いことを言ってあげることでそうできたらいいなと思うのだろう。もちろん、そんなことを願ってしまうような日々を送っているひとなのだから、その願いはそう簡単に叶えられるものではないのだろう。それでも、生きていくなら何かしらをしないといけない気持ちになるから、自分が不快な思いをしなくてもできそうなことがあれば、何もしないよりはいいからと出かけていって、せっかく出かけてきたのだからと楽しもうとする。老人が集まって楽しそうにしていても、そこで動いている感情はそんなものだったりする。惨めな思いをしたくないから、何もしないよりも何かすることを選んでいるだけなのだ。そして、多くのひとは、さらに歳を取って何をしようとするにも不快な思いをするばかりになれば、だんだんとテレビの前にうずくまって何もしないようになっていって、なかなか死ねないひとはそのうちに呆けていくのだろう。
 何もしないと惨めだから何かしているだけで、何をしたいとも思っていないひとは、老人じゃなくても、おじさんおばさんでも若いひとでも、とてつもなくたくさんいる。そして、俺にしたって、別に今から何を体験したいとも思っていないんだ。
 俺が君のお父さんになりたかったと思っているのはどういう気持ちなのかということを書いてきたけれど、自分の人生と子供の人生を結びつけて子供に何かを望んでいるわけではなく、父親として子供と生活することで充実した時間を過ごしたいだけだったというのはわかっただろう。子供を育てたいというのだって、生きていくなら何かをしないといけないからという気持ちで、不快な思いをしないでできそうなこととして、子供との生活を夢想したというだけなのだ。やれるならやりたいことではあるけれど、それは俺の未来を自分にとっていいものにするためではないのだ。むしろ、生きていたいという気持ちがないからこそ、俺はこの手紙で書いてきたようにしか、君の父親になりたい理由を書けなかったんだ。
 世の中の多くのひとは、死にたいと思うひとは、不幸のどん底にいたり、いろいろうまくいっていないからそんなことを考えると思っているのだろう。けれど、実際はかなり多くのひとが、自分の中に何かを楽しみにする気持ちがなくなっていて、体験したいこともなくなっていて、自分としては生きてやりたいこともないけれど、自分のやっていることによって成り立っていることがあったり、自分がいることを当てにして生活しているひとがいるし、別に日々やっていることはそれなりに楽しいからと生きているだけで、そのうちのかなり多くのひとが、ふとしたときに、別にこの先の人生を生きていなくても全然いいんだけどなと当たり前のように思って、そんなこと思ってもしょうがないからとため息をついてやり過ごしながら生きているんだ。
 誰でも安楽死できるようになれば、幸せな家庭から急に誰かがいなくなるということが数限りなく起こるのだろう。楽しくやれているからって、愛されていると感じられなかったり、誰かが自分の気持ちに反応してくれているとか、誰かが自分に気持ちを伝えてくれているような感覚がまるっきりなかったりするひとがたくさんいるのだ。そして、誰もが楽しければそれでいいと思える人間になれるわけではないのだ。
 少なくても俺はそうだった。そうだったときに、どんな気分になって、どんなふうに生きていなくてもいいと思い続けることになるのか、君がこの手紙から感じ取れたものがあったならいいなと思う。君は楽しければそれでいいんだと思えないまま生きているひとたちを前にしたときに、そういうひとたちの気持ちに寄り添ってあげることができるひとになってほしい。
 ひとは誰かと過ごす時間の充実に、このひとがこんなひとでよかったとか、自分がこんなふうにしてあげられる人間になれていてよかったと、深く心を揺さぶられることができる。そして、相手をよいものに思う気持ちで、他人のそのひとらしさを祝福してあげられたときに、そのひとのそのひとらしさに釣り合うものを相手に向けられているのを感じて、自分らしく生きていてよかったと思うことができる。
 そうじゃないのなら、人間に体験できることなんて、うまくやれたり、楽しくやれたり、興奮できたり、損したり得したり、いらいらしたり、えらそうにしたり、卑屈になったりできるだけで、あとは誰も自分の気持ちに本当には触れようとしてくれないのに気付いて虚しくなったりできるというくらいだろう。
 俺はひとと接していて、いろんなひとといろんなふうにじーんとくる時間を過ごすことができた。俺は映画にしろ、小説にしろ、漫画にしろ、そこまで自分にとって大切なものには思っていないけれど、それは俺にとっては、自分がひととあれこれ一緒にやったり、あれこれと話していることの方がはるかに面白くて、はるかに気持ちを動かされることだったからなのだろう。
 二十代までは、俺にはエンタメ作品なんて別に必要じゃなかったし、誰かと一緒にいられさえすれば、コンテンツ消費なんてしなくてもずっと楽しくやれた。心はそのうちに止まってしまうけれど、君だって、それはまではそんなふうに生きられるはずなんだ。
 だから、君は楽しければいいとしか思っていないひとたちのことをグロテスクに思いながら、自分の気持ちを確かめながら生きていってほしい。そして、そうやって生きることが、君がその身体を引き継いでしまっている男にとって、どんな落とし穴があったのかということを覚えておいて、俺の屍を足場にして、生きるに値するような、繰り返し確かめていたいもので自分の一部が構成されたような人生を生きていってもらえたらと思う。

 本当に、君のお父さんになってあげられなくてごめんね。
 けれど、お父さんにはなってあげられなかったけれど、俺の血を引き継いで生まれてこさせてあげられたことについては、いいことをしてあげられたんじゃないかと思っているんだ。
 俺の血はきっと楽しいんだと思う。俺は今まで、他人のことを羨ましいと思ったことがなかった。他人の方が自分より楽しそうに見えたりしないくらいには、俺はずっと楽しくやってこれたんだ。
 別にいつも笑っていたりにこにこしているような人間ではなかったけれど、ぼんやりまわりを見渡しながら、まわりの多くのひとより、俺の方が楽しいんだろうなと思っていた。みんなを見て、みんな何かをしていないとそんなに楽しい感じがしないのかもなと思って、俺は何もなくてもなんとなく楽しいのになと思っていた。人間関係とか、社会内存在としては、こんな自分であることにうんざりもしてきたけれど、俺はずっと自分の感じ方を自分で楽しんでいられた。
 人並みよりは、頑張りたいと思ったことを頑張れた方だったし、俺の場合は他人のためにしかあまり頑張れなかったけれど、うまいこと根性みたいなものが身に付いていけば、君はそれなりにいろんなことができるようになるんじゃないかと思う。
 心が止まるまで、俺はとてもすっきりした気持ちで、すぐに何かに没頭できた。あまり器用ではなかったし、知能も高くなかったから、特別何ができたというわけではなかったけど、何でも人並みよりはできたし、ずっと何でも楽しくやれた。心が止まってすら、景色は年々美しく見えるし、料理は年々おいしく感じるし、音楽も年々心地よくなっていくし、セックスもするたびに気が楽になっていって、身体の深くから気持ちよくなれるようになってきている。いまだに知り合いの誰からも、胡散臭いやつだとか、嘘つきだとは思われていないのだと思う。
 最初の彼女はそうでもなかったかもしれないけれど、一緒にいたひとたちからは、どのひとからも、ずっと一緒にいたいと思ってもらえた。二十歳以降、俺はいつだってそんなに嫌なやつじゃなかったんだ。三十代になってからも、付き合っていたひとたちからずっと一緒にいたいと思ってもらえた。三十代後半になって、ひとと仲良くなること自体が稀になってきたけれど、それでも、会社ではそれなりにうまくやれているし、セックスしたいと思ってくれるひとはいたし、話が合うひとに会える頻度が落ちすぎたことでこうなっているだけで、俺自身が嫌なやつになってきているわけではない。
 俺はほとんど嘘をつかずにやってこれたのだし、気分よく生きてこれたのは当然だったのだろう。どうでもよさそうにどうでもいいことを言っていたことはたくさんあったにしろ、本当に思っていないことを本当にそう思っているかのようにひとに話していたこともほとんどなかったし、ひとの気持ちを感じているのに、感じていないふりをすることもなかったし、自分の気持ちに気が付いていないふりをすることもなかった。バカ扱いに不服ながらに甘んじる機会もなかったし、ブサイク扱いに不服ながらも甘んじる機会もなかったし、つまらないやつ扱いに不服ながらも甘んじる機会もなかったというのはあるにしろ、ひとに強制されてしたくない顔をしていたことすらなかった。
 そういう意味で、俺はずっと自分も他人も騙してこなかったのだし、俺は二十歳以降の自分の人生で、うまくやれなかったと思うことはいくらでもあるけれど、後ろめたいことは何もなかったりする。だから、誰に対しても、どういう状況でも、特に恥ずかしいことが何もない顔を向けていたし、何かを取り繕うおうとして醜くなってしまった顔を見せないで生きてきた。それだけで、俺の人生というのが、大多数のひとたちよりも、はるかに自然で、気を楽にできていて、自分で自分をだんだん嫌いになっていったり、自分で自分を嫌な気持ちにしてすることが少ない人生だったのかというのがわかるだろう。
 だから君も、せっかく楽しく生きられる血を引き継いでいるんだから、楽しくやってくれればと思う。

 俺は野心や執着に乏しかったんだろうし、人生で一度も誰のことも羨ましく思わなかったのも、その裏返しでしかなかったりするのだろう。俺がたいしたことのないひとであり続けたのも、誰かを羨みたくなるような野心や欠乏感がなかったことで、競争することの快楽にさほどのめりこめない人間になってしまったからではあったのだろう。それでも、すぐにひとを妬んだり羨んだりしてしまうことで、他人と比べられて傷付いてしまった自分を自分で慰めることに毎日頭の中で忙しそうにしているひとたちに比べれば、のんびりと思いたいことを思いながら生きていられて俺はラッキーだったんだろうなと思う。君のお母さんは全然そんなことはなくて、他人のことがたくさん羨ましかったひとだろうし、君は運よく俺の方の気質を引き継げているといいねと思う。
 この手紙みたいなものに書いたことは、だいたいがそういうことについての話だったのかもしれない。最低限、他人のことがあまり羨ましくならないひとに生まれついていないと、この手紙みたいなものに書かれていることの大半が意味がわからなかったりするのだろうなと思う。
 汚い思いが君の心の中に思い浮かばないようにできるといいねと思う。それが伝わるようにと、ここまであれこれ書いてきた。
 頭は損得を延々と考えてしまうものだろうし、思い通りにいかないといらいらするものだろうし、自分に敵意を発してくるやつのことは叩きつぶしたくなるだろう。そういう気持ちの動きは自然なものだから、自分の気持ちを感じながら、そのときそうしたいと思ったようにすればいいんだ。俺がわかってほしかったのは、変態になる必要はないってことだし、ひとをバカにしたがるなってことだし、いばりたがるなってことなんだ。
 そして、そのために、自分の気持ちを自分が感じてあげないといけないということだったのは、もう君もわかるだろう。自分の気持ちを感じて生きていれば、自分の中の嘘くささが居心地悪くて、自然と嘘くさいことをしないでいいようなことしか思わなくなるし、嘘くさいことをしないつもりで他人に顔を向けるようになっていく。他人の気持ちに自分の気持ちを動かされてあげて、どんなふうに気持ちが動いたのかを相手に伝えていれば、君は本当にそう思ってそう言ってくれているひととしてみんなの中で生きていけるはずなんだ。
 ただ、それだけだとちゃんと感じているだけで、歳を取っていくうちに感情が止まってきたときに、何にもその気になれなくなって、何かを欲しがること自体が難しくなってしまうから、それまでに人生をどうにかしないといけない。
 心が止まってしまったあとの人生は、やる気のなさが揺るぎない顔をしたひとたちの中に自分がまぎれていって、歳を取ってくたびれていくほど他のおじさんやおじいさんと自分の見分けがつかなくなっていく日々になる。やる気を出すことを求められることもなく、心が止まっていないふりをし続けながら、せめて気分がよくなることを考えて気をまぎらわせようとすることしかできないかのような世界の中で、けれど自分はここでみんなといい感情を行き来させられているんだと思っていられるように、君は自分の居場所を確保しておかないといけない。自然と優しくしてあげたい気持ちになれるひとたちと一緒に時間を過ごして、自然と優しくしてしまうことにほっとできる毎日を送れるように、そんなパートナーや仕事の仲間と一緒にいられる自分になって、自分のいる場所がそんな場所になっていくようにと思って、心が死んでいくまでの時間を生きておくべきなんだ。
 俺はうまくできなかったけれど、君には頑張ってもらいたい。自分の場所を自分で作って、それをいい場所として維持していけている自分に満足していられるような、そういう人生を送っていってほしいなと思う。
 ちょっと君を怖がらせすぎてしまったのかもしれないけれど、こうやって心が止まってしまっても、俺は世界をそんなに悪いものじゃないと思っているんだよ。みんながいきいきと頑張っている界隈以外だと、そばにいたり、喋ったりしていて優しい気持ちにならせてくれるひとも、そんなにたくさんはいない世界ではあるけれど、心が死んで、何もかもどうでもよくなっても、それでも人間は相手の人格に寄り添おうとすることができるし、そのひとがどんな気持ちでそうしているのかを感じ取って、かわいそうにと思って優しくすることはできる。どこに行く気もなくなって、誰と何を話したいという気持ちもなくなっても、自分の目の前に来てくれたひとにありがたいなと思って、優しくすることはできる。
 どうしようもなく自分のことしか感じられなくて、周囲のほとんど誰にとってもあつかましくて面倒くさいだけの不愉快な老人でも、猫を飼って、膝の上に乗ってきたら、優しく撫でていたりするようなことはできる。そうしている間くらいは、そのひとの中の、自分勝手さにすぐに身を委ねたがってしまう無自覚な悪意も静まっているのだろうし、どんなクズでも、そんなふうにしてかわいそうなひとでもありえるのが世界だったりもするんだ。
 俺もそのうち猫でも飼うのかもしれない。意外とそれでずいぶんマシな気持ちで生きていけるようになるのかもしれない。その猫が死ぬまでは、猫に餌をあげるために生きていなければいけないと思えるし、当たり前にそう思えたら、それでずいぶん気分は変わるのかもしれない。
 けれど、それは自分の生きるいいわけにするために何かを利用するようなことだろう。猫を飼おうかと迷ったとしても、自分が寂しくないために誰かを利用するのはよくないことだし、やっぱりそれよりは、さっさと終わってくれればいいのにと思ってしまうのかもしれないなと思う。




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