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【連載小説】息子君へ 201 (41 俺が結婚するためには不自然なことをする必要があった-4)

 愛するためには、自分は充分に愛されていないという欠乏感が必要で、そうでなければ、ブリーダーが子犬を育てるような愛情しか持てないということなのかもしれない。充分に愛しているかもしれないし、いくらでもお世話をしてあげられるけれど、かといって、子犬が幸せになってくれればいいとしか思っていなくなって、いいひとにもらわれていったなら、別に自分のところからいなくなってしまうことにはさほど何を思うわけでもないような、そういう愛情で俺は恋人に向き合っていたのかもしれない。
 隣人愛とはそういうものなのだろう。自分のそばにいてほしくて、自分のものでいてほしくて、自分の満たされなさをどうにかすることを一番大事に思ってもらいたいというのが、自分の人生のパートナーへの欲求なのだとしたら、それは隣人愛とは全く異質なものなのだ。ブリーダーの飼育している犬たちへの愛と、寂しくて飼っている飼い犬への愛は全く別なのだろうし、子供に対してはブリーダーのような愛でもよかったりするとしても、恋人への愛は飼い犬への愛に似ていなくてはいけないのだろう。
 先に欠乏感があるから、相手にその欠乏感を埋めてもらいたいと思えるわけだし、埋めてもらえたときには、欠乏感が大きいほどうれしい気持ちになれるのだろう。逆に、自分は寂しい気持ちにならないでいいようにしてほしいということしか要求していないのに、それに応えてもらえないと、このひとも自分を傷付ける側なのかと、愛してもらえなくてみじめなことばっかりだった私の人生は、やっぱりここでも同じなのかと、今まで嘆き続けた人生全体をもう一度嘆き直すような壮大さで悲しむのだろうし、自分の人生を悲しいばかりのものにしてくるひとたちの一員とみなして、敵意を持つようになっていくのだろう。
 女のひとが昔嫌だったことを何度もぐちぐち言うのも、そういう問題なのだろう。いかに自分が愛されてこなかったのかということがアイデンティティになっているひとたちがいて、そういうひとたちが、何かあるたびに昔似たように傷付けられたことを思い出して、あのときは悲しかったと、愛されなかった自分の辛い人生全体を代表させようとするような気持ちの込め方で、あのときはどれほど嫌だったのかということを語らずにはいられなくなっているのだろう。それは、いつまでたっても自分の人生がどれほどずっと辛かったのかを本当にはわかってくれない相手に対して、どれほどの気持ちなのかあなたはわかってもいないし、わかろうともしていないけれど、それを自分は今でも許していないということを態度で示すためにやっていることでもあるのだと思う。だからこそ、相手がうんざりしていて、もうその話は何度も聞いたとしか思っていなくて、聞いている態度を取っているだけで心を閉ざしているのを感じていても、今はなんとも思っていないふりなんてしたくないと、少なくても自分がどういう気持ちなのかは相手に突きつけて、少なくても自分が悲しいことを認めた言葉を吐かせるところまではやらなくてはいけないと、一生懸命自己憐憫に浸っているのだろう。
 何度も同じ話を聞かされるのはうんざりするし、話す方も、繰り返すほど当初の感情の記憶が薄れて、それを想像と演技で埋めることになるから、過剰に感情が込められるようになっていって、そうなると、強い感情を押し付けられることで聞く側の気持ちも強く反発してしまうし、そういう話をしている時間は、聞かされている側も聞かされるほど相手を嫌いになっていくような時間になってしまいがちなものだったりする。
 それでも、そもそも話しているひとはそんな気持ちにならないために聞いているひとと一緒にいようとしてくれているのだし、自分勝手な期待のしすぎのせいだったりもするにしても、それを裏切っているのは聞く側なのだから、聞く側のひとは相手を嫌いになってしまいそうなのを踏みとどまって、できるかぎり相手に寄り添ってあげられるように、頭の中に無限に浮かんでくる、そんなことを言われてもという思いを鎮めようとするのが正しい態度なのだろう。
 恋愛とはそういうもののせめぎ合いなのだろう。恋愛ではその他の人間関係に比べて、強い感情が行き来しがちなのだろうけれど、それは自分の人生全体の欠乏感が持ち込まれるからというのが大きいのだと思う。そして、それを持ち込んだうえで関わって、自分の欠乏感がどうなるかが相手次第になっている日々を送っているからこそ、相手を自分の人生の一部だと感じるようになるのだろう。
 単純に、寂しくないと恋愛する資格がないということなのかもしれない。異性と付き合っている方が日々が充実するからという程度のモチベーションで、寂しいひとと付き合おうとするのは失礼なことなのだ。たいして寂しくないひとは、ちゃんと自分と欠乏感の大きさが釣り合う相手と付き合うべきなのだろう。
 かといって、女のひとたちは、生きているだけで軽視され続けるし、不充分にしか愛してもらえない経験ばかりさせられて、ほとんどみんながひどく寂しいのだろう。そして、きっと寂しさですら、生まれつきの男女差があるのだろう。母性本能という自分の大事なものの世話をして守ってあげていることでいい気分になるような感覚があることで、母性本能が満たせていない感覚として後押しされることによって、女のひとの方が寂しさを感じやすいし、寂しさを強く感じるようになっていたりするというのはあるのだと思う。
 けれど、そうだとしても、どうして俺はここまで欠乏感が希薄なままになってしまったのだろうと思う。それは充分に愛されていたからとか、ものにしろ、機会にしろ、自分のものになってもいいはずだった何を奪われたという気になることなく育ててもらったからというだけでそうなったんだろうか。欠乏していなかったから欠乏感がなかったというだけではなく、さらに根深いところで、欲しがるという気持ちがもともと弱かったか、いつの間にか抑圧されていたりしたんじゃないかとも思う。
 俺は小さい頃から、相手には相手の思っていることがあるだろうからと、自分が何かを思っても相手の様子を見て相手に働きかけるのをやめておくという行動パターンがかなり支配的な人間だったように思う。弟という自分が好き勝手できる存在は別枠で、弟のことはおもちゃのように扱っていたところもあったのだろうけれど、それ以外だと、親ですら、親の側の気持ちとか都合があるのだろうから、親がそう言うのならそういうことなのだろうと、自分が何かをしたい気がしたり、何かがほしい気がしたりしたものをすぐに我慢しようとしていた気がする。
 その結果なのかどうかはわからないけれど、親に対しても、もっとどうしてほしかったという思いは一切ないけれど、思春期以降、生活面では依存していたにしろ、感情面では親とのつながりをほとんど感じていなかった。実家を出てからも、親のことなんて生活していて一切思い出さないし、親にしてもらいたいことも親にしてあげたいことも何もなくて、帰省した方がいいのだろうと思って帰省してはいたけれど、親と過ごせてうれしい気持ちもなく、親が満足してくれたらそれでいいとしか思っていなかった。フィクションなんかで、大人になってからも、親に対していろんなことを思い出しながらいろんな気持ちになったりしているのを見たり読んだりしていて、俺は物理的に離れたからというのはあるにしろ、自分は本当に感情的につながりがないというか、自分の心の中に親はいないんだなと感じてきた。
 それだって欠乏感の問題だったりはするのだろう。かわいがられすぎていたところから、かわいがってもらえる立場が剥奪されるという経験をしていないから、俺は親に対して、昔みたいにかわいがってもらえなくなった悲しさとか寂しさを抱えていたことがないのだ。多くのひとには、母親との関係に、満たされきっていなさのようなものが残り続けるのだろう。昔のようにかわいがってもらえなくなった悲しみの反転として、昔は親にたくさんかわいがってもらったというイメージを大事にずっと抱えていくことになって、親が自分を愛してくれているということを自分にとって大事なことに思いながら、年老いた親の世話をして、葬式でわんわんと泣いていたりするのが、むしろ普通の親子だったりするのだろう。
 俺はあまりにも適度な距離で見守られて、あまりにも適度に大事にされながら育てられてしまったのかもしれない。俺は両親のことを好きなつもりだったけれど、それは愛憎入り乱れる感情としての好きではなかったのだと思う。もっとかわいがってほしいとも思っていないし、あんなひどいことしないでほしかったとも、あの頃はすごく楽しかったのにとか、そういう類の思いが何もなかった。ただいつでもちゃんと関わってくれて、ちゃんと大事にしてくれていて、気分よく一緒にいられていただけで、俺はその場その場を楽しんでいたという以外に、ほとんど何も思っていなかったのかもしれない。
 そうなのだとすると、親と一緒にいて楽しかったし、心地よかったとはいえ、それは愛情だったのかという気がしてくる。感情的な結びつきが弱いというか、親と一緒にいるときですら、自分がうれしいとか悲しいということが、親とはさほど結びついていなかったということなのだろう。それこそが、自分の人生に他人が食い込んでいないという状態の始まりだったのかもしれない。
 俺は親に自分勝手なことをされなかったけれど、親が自分の都合で適当に子供を扱えば、子供はひどいことをされたと感じて悲しむのだろうし、親の側も、子供にひどいことをしてしまったからと、その埋め合わせで過剰にかわいがったりするのだろう。俺にはそのどちらの経験もなかった。
 きっと、多くの親子というのは、自分を悲しくさせないとか、自分をうれしくさせる義務が相手にあるというような感覚で一緒に生活していて、だからこそ、相手がちゃんとそれをしてくれないと腹が立ったりするのだろう。欠乏感があることで、相手にしてもらいたいことがある状態が維持されて、相手と関わろうとする意欲も維持される。そして、自分の要求に応えてくれたり応えてくれなかったりするたびに、相手への愛情や憎しみが積み重ねられて、相手との関係が複雑なものになっていく。自分でも簡単には解きほぐせないような感情的な関わりができていくことによって、その関係は簡単には離れられないものになるし、そこではいつも愛憎入り交じった感覚に流されてしまうし、そうやって感情に押し流されている間は寂しさを感じないし、それを繰り返しているうちになんだかんだと愛着を深め続けることになってしまうのだろう。
 ひとによっては、愛憎相半ばするというような関係をいろんなひととの間に持つのだろう。俺は恋人に対して、相手がそれでよければ自分もそれでいいという態度ばかりとっていたけれど、それは友達に対しても、同僚に対しても同じだった。嫌なことや不愉快なことはいくらでもあるけれど、俺はそれで相手を憎らしく思ったりはしなかった。そういうひとなんだなと思うだけで、そういうひとだとして、自分が接したいように接しようとするだけだった。
 俺が思っている以上に、世の中は俺のような突き放した感じ方をしていないひとばかりだったりするのだろう。嫌なことをされて、それに怒って、感情的にリアクションして、それが相手を怒らせたりして、お互い様だということになってうやむやになって、お互いにたまに相手の嫌なことをしてしまう自分たちとして馴れ合った関係になっていくというのはよくあるパターンなのだろう。はたから見ると、そういう関係のひとたちほど仲がよさそうに見えたりもする。
 手のかかる子供ほどかわいいというのだってそういうものの一種なのだろう。言うことを聞いてくれてもいいはずの相手が言うことを聞かないことで腹が立って、憎々しく思って、怒ったり、叩いたりして泣かせたりして、それに対して許してと泣き叫んだり甘えたりしてこられることで、大きな感情を行き来させられて、それが心地いいのもあって、相手への愛着が深まっていく。逆に、手がかからない子供には、感情をぶつけ合った思い出が残らないから、仲がよかったとしても、顔を向け合ったときに派生する感情は穏やかなものになるのだろう。
 もちろん、言うことを聞かなくて迷惑ばかりかけられた子供の方が好きになるということではないのだろう。本当にいつもいらいらして嫌な気持ちになるけれど、いつものパターンとして、拒絶しきれずに許していくというプロセスに、本人もうんざりしている場合は多いのだろう。それでも、それをはたから見ていると、当人たちは感情豊かに関わり合っているように見えてしまう。そして、もともと腹が立つしダメなやつだと見損なっていて、それ以上見損なうこともないから、ダメな子供にはいつでも寛大に接することになって、逆に、小さい頃から憎しみをやり取りしてこなかった子供と大人になってから対立したときの方が、感情的になりつつうやむやにする習慣がないぶん、冷ややかに対応してしまったりして、手のかからない子供に対しての方が愛情が薄いように見えてしまうということなのだろう。
 俺は誰かに対して、手がかかるからこそかわいいというようなことを思ったことがあったんだろうかと思う。もちろん、手がかかるひとには、冗談半分でどうしてそうなるのとツッコミを入れたり、あれこれフォローしてあげたり、あまりにやる気がなかったら怒ってみせたりということもするし、やるべきことをさっさとやってくれて特に言ってあげられることがなかったりするようなひとよりは、くだけた感じで話すようになる場合が多かった。
 とはいえ、それは表面上のことというか、話しかけ方のパターンとしてくだけた感じになるというだけなのだ。俺は嫌だなと思うと、心の中でそれまでより距離を取るようになって、それ以降ずっと、相手の行動を確かめながら、やっぱりこのひとはこういうひとなんだなと思っている場合が多かった。むしろ、ダメなままではなく、ちゃんと行動がよい方向に変わってきたひとの方が、接するときにいい感情を向けがちになっていたのだと思う。
 それは、手がかかることや、迷惑をかけられることにほとんど腹が立っていないから、感情的なつながりが相手との間に発生していなくて、そうすると、相手のやる気のなさとか、適当にやっておけばいいやとか、自分はこれでいいと思ったんだと自己完結してすませる姿を見ていても、ただ本人の気持ちの動きに、それをどうでもいいこととみなす瞬間の悪意みたいなものを感じ取るだけになってしまうからなのだろう。そうであれば、ただ単に相手になんだかなと思うだけだし、やる気のないひとにやる気のないひと向けの接し方をしてあげないといけないのが疲れるなというくらいにしか思うことがないのだ。
 もともと憎しみの感情が希薄だったりしているところが俺にはあるのかもしれない。けれど、憎しみというものが、愛情が裏切られたとか、愛情が与えられないことによって発生する感情なのであれば、俺はむしろ、愛されたいという感情が希薄なのかもしれないとも思う。
 俺は親の接し方によって愛情中毒にならずにすんだし、特定の友達集団に所属しないまま一桁年代を過ごしたから、親だけでなく、友達とも愛憎入り混じった関係にはならないままで育つことになった。自分の中の寂しさとかもっとちやほやされたいという欠乏感を気にして、それを埋めることにあくせくしながら生きてこなかったことで、俺は自分の中の他人それぞれに対しての愛憎に無頓着な人間になっていったのかもしれない。基本的な他人への顔の向け方として、相手が自分の好きなひとだからとか、これまでにどういうことがあったからということをほとんど気にしていないままで、向かい合っていい感じがするならいい感じで接して、その場で相手がいいことをしてくれていれば素直にいいんじゃないかと思っているところは人並みより強かったんじゃないかと思う。
 きっと、あまり愛されてこなかったとか、嫌なことがいろいろあった人生だったという気持ちが強いひとの方が、相手に対していろんな執着が持続するのだろう。嫌なことをされたら、そのよくなかった出来事をいつまでも気にして、いつか嫌な思いをしたぶんを何かで取り返したいと思っていたりするのだろう。いいことをしてもらったときも、ただいいことをしてもらったというだけではなく、それ以降そのひとはいいひとだという目でそのひとを見ようとするようになったりするのだろう。個別の相手に対してだけではなく、生きていること全体に対しても、嫌なことがたくさんあったことへの復讐として、自分はもっと楽しい思いをしてやるんだと思っていて、楽しく過ごせたときには見返してやったような気分もプラスされたいい気分になっていたりするひとも多いのだろう。
 そういう意味では、嫌なことをされない人生を送ってきた俺は、生きる原動力みたいなものが弱かったりしているのかもしれない。嫌なことをされなかったから、自分を守ろうとする必要もなかったし、自分が安らげる場所を確保する必要もなかったし、奪われてばかりで不安な自分を守ってくれる存在がいてほしいという気持ちになることもなかった。
 何も奪われてこなかったことで、取り戻すべきものを持っていないのだ。そして、誰かと自分を似たものだと思っていないから、あのひとがやっているのなら自分もやってみたいと思うこともなかったし、競い合っている相手もいないから、負けないように頑張りたいという気持ちもなかった。そうしたときに、俺は人並みよりも、何をどうしたいとか、できるのならあれもしたいとか思うことも少ないし、他のひとはどうしているのかも気にしている度合いが少ないままになって、それによって自分が何かを思っていないとすぐにぼんやり空っぽになってしまう人間になっていったということなのかもしれない。
 みんなもっと好き嫌いとか対抗心で生きているのだろう。俺だって、嫌いなひとはいるけれど、それはそのひとを見ていて嫌な感覚が伝わってくるひとと、自分に対して嫌な感情を持っているからそのひとを見ているとそれが伝わってきて不快なひとたちだけだった。それは身体的な問題で、そのひとの人格とか、そのひととの今までの経緯でそのひとを憎むということを俺はほとんどしてこなかったんじゃないかと思う。
 好意についても同じで、多少親切にしてくれたからって、それだけでは全くそのひとに対しての好感が膨らむことはなかった。そのひとを見ていてなんとなくいい感じがするひとに好感を持つし、自分にいい感情を向けてくれていて、そのいい感情が嫌な感じじゃないときに好感を持つ感じだった。
 それはつまり、肉体がそのひとから伝わってくる感触によって、自動的にひとを好きになったり嫌に思ったりしていたけれど、ただそれだけで、何があったからとか、自分はどういうつもりだったけれど相手はそれを踏みにじったとか、自分よりあのひとを優先したとか、そういうことをごちゃごちゃ考えながら、相手が目の前にいない状態で、頭の中で相手を好きになったり嫌いになったりしようとしていなかったということなのだろう。
 それはつまり、そのひとはそのひとというだけで、それ以上に何かを思おうとはしていなかったということなのかもしれない。相手について知っていけば、知ったことを踏まえて相手から感じたことを受け取ろうとはしていたし、相手に興味がないわけではなかったけれど、それは相手がどういうひとなのかという興味だけで、相手が自分にとってどういう存在だとか、それがうれしいとか、こういうところが悲しいということは、相手と一緒にいて何か引っかかったことがあったりでもしないと考えなかった。
 そんなふうに、一緒にいていい感じならいい感じで、そのひとはそういうひとだとしか思っていないというのは、ほとんど自分からは誰のことを好きになろうとも嫌いになろうともしていなかったということになのかもしれない。そして、そんなふうにしか他人に好感をもっていなかったから、そのひとを好きだからといって、それが人付き合いを継続させたり発展させようとするときのモチベーションにはならなかったというのもあったのかもしれない。
 隣人愛的なものは、むしろ相手との間に適切な距離を取ろうとするものなのだろう。愛憎入り乱れた感情で相手を見ている場合は、自分でもどうしてなんだろうと思いながらも、そのひとにだけは、すぐに腹が立ってしまったり、すぐにかわいがってあげたくなってしまったりするのだろう。俺は付き合いが長くなっても、相手は相手の好きにすればいいのだからと、何事も対して腹が立たなかったし、相手の今の気分を気にせずにあれこれしてあげようとしたりするようにもならなかった。




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