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【連載小説】息子君へ 202 (41 俺が結婚するためには不自然なことをする必要があった-5)

 もしかすると、そうやって憎しみを抱え込もうとしなかったことで、付き合っていたひとたちとの関係が行き詰まっていったというのもあったのかもしれない。何かが噛み合わないときに、そこには素直に腹を立てておいた方がよかったりする場合も多いのだろう。
 俺は噛み合わないところがあると、多少は粘って伝えたいことを伝えようとはするけれど、ある程度でそっとしておく感じに流して、次からはそこを迂回して関わるようにすることが多かったのだと思う。腹を立てはしないけれど、心の中では、このひとと自分では噛み合わないところがここにもあるんだなと、自分の中の噛み合わないリストをだんだん長くしていって、自分とこのひとはそんなに合っていないのかもしれないと思っていたのだろう。そして、自分がそっとしておくことを選んでいるのに、噛み合わないところを避けるために気を遣っていることに息苦しさを感じて、だんだんと相手と一緒にいることを窮屈に感じるようになっていったりしていたのだ。
 ちゃんとそのつど怒りや憎しみを相手に向けていれば、俺が怒るからと何かをやめてみたり、俺が嫌がるからと違う言い方をするようにしたりとか、相手のために自分を変えるということをいろいろしてもらえたのだろう。俺が怒っていれば、相手も俺に怒ってくれたのだろうし、そうやって、お互いがお互いのために自分を変えていってくれているのを確かめながら一緒にいられれば、もっと相手を自分の人生の一部のように感じられていたのかもしれない。
 相手のそのひとらしさを知っていって、それをよいものに思っていくということを、付き合ったどの相手にもできていたとは思う。けれど、相手は俺のために何でもする気があったり、俺と楽しくやっていける人間に変わっていけることに喜びを感じてくれていたりしたのに、何もかもをそのひとらしさとして尊重しようとしていたことで、俺はずっと尊重し合って満足するのとは別の未来の可能性から目を逸らしたままになっていたのかもしれない。
 相手を一つの物語としてちゃんと鑑賞して、それを面白くて価値のある物語だと称賛して、相手の自分らしさを大事にしてはいたけれど、それだけではいけなかったのだ。そうではなく、自分と相手との二人の物語として、お互いの間を行き来した愛憎がどういうものだったのかということを鑑賞して、そして、その物語は未完で、自分はその作者でもあるのだと思って、それを面白くて価値のある物語だと二人で称賛できるようにしていきたいと思うべきだったのだろう。
 付き合っているひととの未来を考えられなかったのも、自分が相手をいいひとだと思っていられたら満足だというつもりで付き合っていて、充分にいいひとだと思わせてもらった気になっていたからなのだろう。もっと腹を立てて、嫌だと思って、その裏返しとして、自分の気に入るようにしてくれたことを無邪気に喜んで、それをお互いに侮り合って、そのひとにしかできない顔ばかり相手に向けているような関係にならないといけなかったのだろう。
 相手と自分との間に行き来しているものにいろんな気持ちにさせられながら、それでも、楽しくお喋りできたり、一緒に美味しいものを食べたり、抱き合ったりとか、うれしさを共有できる時間にほっとして、なんだかんだこのひとと一緒にいるのが心地いいんだなと思ってたくさんの時間を積み重ねていれば、今さら他のひととこんなことをやり直したくないし、ずっとこのひととこうしていられればいいのかもしれないと、そのうちに思えたのだろう。
 そのためには、相手がどういうひとであるのかということを受け止めて、それを楽しむだけではなく、相手との間に何かを起こさなくてはいけなかったのだ。それが腹を立てることだったり、自分はどうしてほしいと甘ったれることだったり、甘ったれたことを言われるのを受け入れたり、怒ったりすることだったのだろう。俺は親にも友達にもそういう感情がかなり希薄だったけれど、恋人にも同じ感覚ではいけなかったのだ。
 付き合ったひとたちの中で、このひとと一緒になっておけばよかったような気が一番しなくもないのが、六本木の会社で社内恋愛をしていたひとになっているのも、そういうことなのだろう。そのひとが一番憎しみを抱えて生きていたひとだったし、俺に対しても、自分を裏切ったり、自分の思うようにしてくれないことに対して、強大なエネルギーで感情をぐちゃぐちゃにしながら噛みついてきてくれていた。お互いに相手の気持ちに寄り添うことができすぎて、だんだんこじんまりした感情しか行き来できなくなっていく相手よりも、あれくらいの方が俺の空っぽさにはバランスが取れた相手だったのかもしれないと今でも思う。
 あれくらい強烈に、憎悪とそれの裏返しの喜びに俺を巻き込んでくれれば、俺もそのひとと自分との愛憎の物語として、そのひとの関係をとらえるようになったのかもしれない。お互いがどういう人間で、それぞれにどういう気持ちなのかということより、今までどんなふうにやってきて、どういうことがあったのかというエピソードの方が、はるかに強い力で二人の物語を先に進めていくことに、人生はそういうものだったんだなと教えてもらえたのかもしれない。
 それはないものねだりの都合のいい妄想の話ではないんだよ。俺はそのひとをいろいろ傷付けたけれど、そのひとから憎まれたり、恨まれていたりしていたわけではなかった。ずっと一緒にいたいと言われてもいたし、お互い好きなまま、ぐちゃぐちゃになりすぎてうまくいかないからと、俺から別れてもらった感じだったし、別れてからも、相手は未練を持ってくれていた。俺の方だって、別れたからってずっと好きなままだったし、ずっといいひとだと思ったままだった。ケンカを繰り返してぼろぼろになって、ケンカにもなっていけない諦めるための別れ話を何度も繰り返してぼろぼろになったからって、相手自身を深いところからいいひとだと思っていたから、自分にとって相手が思うようにいかなかった相手になってしまったからって、それで相手を嫌に思ったりできるわけがなかった。
 別れてから会社を辞めるまでに少し間があったから顔を合わせていたけれど、お昼ご飯を一緒に食べようと言われて、社外で落ち合って二人きりになると、すぐに打ち解けたいい雰囲気に包まれていたし、喋っていると自分をいいものに思ってくれているのが伝わってきて、すぐにうれしくなって抱きつきたくてセックスしたい気持ちになってしまっていた。仕事を辞めることになっていなければ、別れたつもりがまたくっついていたということになっていてもおかしくなかったのだと思う。
 それだって、俺の大きな運命の分かれ目だったのだろう。その彼女と付き合っているときに、たまたま上司へのうんざりした気持ちがどうにかしないといけないレベルにまで高まってきて、彼女と別れ話を繰り返している頃に、ちょうど自分が開発を受け持っていた携帯電話のアプリケーションが問題なくリリースされて、退職するのにはちょうどいいタイミングになってしまったから、さっさと退職の話をしてしまって、どうせ仕事に切れ目ができるのなら引っ越しもしようと思って、アパートの解約の話もしてしまっていたのだ。
 そういうことがたまたまそのときに重なっていなければ、別れたからって、別れられなかったのかもしれないのだ。そのままそのひとと一緒にいることになったという未来は、充分にありえるものだったのだろうし、俺がそのひとによって、憎しみとその裏返しの愛情で結びつかないと本当にふたりでひとつになんてなれないのだと教えてもらって、全く違う感じ方でそれ以降の人生を生きるようになれた未来だって、手に入れられていたとしてもおかしくないものだったんだ。
 そのひとは自分でも制御できないくらいの憎しみを抱えて生きているひとだった。かといって、そのひとは職場のひとにしろ、友達にしろ、自分に嫌な態度を取ってくるひとも含め、バカにしていたりはしても、ほとんど嫌ったりはしていないひとだった。けれど、恋人という自分を幸せにしてくれるはずの存在である俺に対しては、俺に嫌なことをされるたびに、どうしてこんなふうにはしてくれないの、私はそういうのは嫌なのと、ありあまる憎しみを込めて俺に向かって怒ってくれていた。
 そのひとの憎しみの力というのは、目の前の相手を憎むことで湧き上がるものではなく、生きていることへの憎しみというか、世界への憎しみのようなものとして湧き上がってくるものだったのだと思う。自分はただ幸せになりたいだけなのに、どうしてみんなそれを邪魔してくるのかと、人生をかけて、自分に不幸を押し付けてくる世界を憎み続けていたのだろう。こんなにもひとを楽しくさせて、ひとに親切にしているのに、どうして自分のそばにいるひとは自分に嫌なことをしてくるのだろうと、ずっとわけがわからない気持ちで、それでもひとに楽しくなってもらいたくて、やけくそのようにして、ずっと切れ目なくいいひととしてみんなの前でふざけ続けていたのだと思う。
 そのひとと付き合うようになる前から、俺はそのひとのみんなのために楽しくやってあげようとしているときのやけくそなパワーをすごいなと思っていた。そして、付き合うようになって、そのひとが思春期くらいからぼろぼろに傷付くことが何度もあったし、社会人になってからも、三十代になっても、ひどく傷付くことが繰り返しあったひとだったのだと知って、それであんなにもみんなのためだけに楽しくして、本当の意味で、同じフロアにいる全員から好かれているなんて、このひとはどれほどすごいひとなのだろうと思った。そんなにまでのエネルギーが湧くほど、そのひとは幸せになりたいと思っていたのだし、だからこそ、いっぱい嫌なことがあったからと落ち込んでしまうことで、不幸に負けて幸せになるのを諦めたみたいになることだけは嫌で、だからこそ、あんなにもがむしゃらでやけくそになって、みんなに楽しくしてあげようとし続けていたのだろう。
 世界への憎しみがないと、そんなにまでも、これだけは奪われたくないと何かに執着することはできないんじゃないかと思う。俺にはそういう強烈な執着心はなかったし、だから俺は、いつでも自分なりにそこそこやれるだけで、何かを異様なまでにやれたりはしない半端者だったのだろう。そして、だからこそ、俺はそのひとが会社の中でみんなを笑わせてあげようとあれこれふざけている姿を見ながら、自分がいい思いをするためにひとを笑わせているようなところが全くなくて、自分はいいひとだし自分は楽しいひとなんだからそりゃそうでしょというだけでそうしているような、空っぽな感じの目の中にやけくそなエネルギーだけが充満している横顔に、自分には持ちようもない強い輝きを見て、なんて素敵なひとなんだろうと思っていたのだろう。
 俺は世界にも人間にも憎しみがなさすぎたのだろう。その彼女は自分が不幸だと思っていたからこそ、幸せになりたいと強く願っていたのだと思う。不幸だったことがない俺には、幸せになりたいという気持ち自体がまともにイメージできなかった。俺だって、自分のしてあげたことを喜んでもらったり、ひとの役に立てたり、みんなのためになることができたりしたときにはいい気持ちだったけれど、そんなものは、その彼女からすれば、自己満足にしか思えなかったんじゃないかと思う。彼女からすれば、いいことをして、いいひとだと思ってもらっても、それでも世界は自分を傷付けてくるのに、それだけでどうしたらいいのかということにしかならないのだろう。自分が自分であることにしっくりして、その自分でひとに喜んでもらえるとか、そんなことよりも、自分が自分を不幸せじゃないと思えるようになりたいのだ。そのひとは人並み外れて自分らしさを強く持ったひとだったし、だから俺はそのひとを好きになったのだろうけれど、本人はそんなことはどうでもよかったのだろう。自分がしたいのは、不幸な自分ではなくなって、幸せな自分になることなのだと思っていたのだろう。そして、俺とそうなりたいと思ってくれて、付き合い始めると、俺を喜ばせようとするために、そんなことしなくていいのにと思うことをいろいろしてきて、俺が嫌な顔をすると、とても悲しそうにしていた。すぐに別れてしまわなければ、もっとぼろぼろに傷付け合っただろうけれど、もっとお互いをどんどんと好きになっていったのだろうと思う。そして、俺と信頼し合える心を許し合った関係になっていくことで、そのひとはどんどん幸せなひとになって、そのひとらしさを薄れさせていったのだと思う。けれど、俺の方だって、そのひとの強大な感情の力に逆らえなくて、そのひとが嫌じゃないように、いろんな今までしなかったことをするようになって、今まで言わなかったようなことを言うようになったのだろう。そうしたら、お互いに相手に合わせていい加減な人間になっているんだしと、そのひとのせいにしていろいろ全部諦められたんだろうなと思う。
 付き合ったひとたちの中で、そのひとと一緒にいるのが自分には一番よかったのかもしれないと思っているというのは、そういうことなんだ。そのひとなら、俺に憎しみを教えてくれたんだろうと思う。隣人愛の範囲で相手そのものを愛して、そこで終わってしまうばかりだった俺に、そのひとなら、憎しみの裏返しの愛というのがどれほど暴力的なもので、けれどそれが一定以上混じっていないと本当の愛にはならないということを、うんざりするほど思い知らせてくれたんだろうなと思うのだ。




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