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【連載小説】息子君へ 193 (40 俺は嘘をつきたくなかっただけだった-3)

 俺が自分の実家を退屈なものに思って、さっさと家を出るつもりになったとか、自分が将来結婚するとしても、両親のような関係になるような相手とは一緒になりたくないと思っていたというのがどういうことなのかわかっただろう。
 そして、俺はちゃんとそう思っていた通りにやってきたのだ。実家を出てからは、一人暮らしするはずだったのに大学の学生寮に入れと言われて、不満たらたらで学生寮に入ったりはしたけれど、学生寮もいろんなひとがいて、何か面白いことをしようとしていたり、いつでも面白いことを言おうとしているひとが多い男子校的な空間だったから楽しくやっていたし、学校のクラスメイトも面白いひとが多くて、一年生の頃は毎週みんなで何かしらして遊ぶか飲みに行くかしていた感じだったし、その中のひとりと一緒に小さい一軒家を借りて生活し始めて、その頃に初めての彼女もできた。
 そこからは、同居人がいて、無限に喋っていられる彼女がいて、サークルでも中心的存在だったし、ずっと喋っている毎日だった。付き合ったひとたちは、どのひとも自分のことをいろいろ忙しくやっているひとばかりだったし、自分が今やっていることについてあれこれ話してくれたし、彼女が新しい体験をして感じた興奮に刺激をもらいながら、お互いが日々中で感じたことを面白がり合いながら、ずっと飽きることなく話していた。
 社会人になっても、ひととああだこうだと話し合いながらやる仕事だったし、人間的に好きだと思えるひとと一緒に仕事ができていた。忙し過ぎたし、労働時間が長すぎはしたけれど、納期に追い立てられながら、ひたすら勢い任せにがむしゃらにできるかぎり仕事を進めていくような働き方で、同僚とも客とも気持ちを前に出していい雰囲気でたくさん喋りながらやっていられた。社会人になってからも、彼女とは楽しくやれていたし、会っているときはいつも延々と話していたし、昔の仲間とまた集まって何かする機会もあって、そのときもみんなで一生懸命ああだこうだと楽しくやれた。
 そういう喋りまくっていられた時期が二十九歳くらいまで続いたのだろう。それくらいまで、俺は軽く青春っぽいノリで何かにがむしゃらになれる場所があったり、全力で喋ろうとできる相手がいた。だから、そのくらいの歳でも、たまに帰省して家の中でそれぞれにテレビを見ている両親を見ていると、本当にそれしかないんだろうかと、こんな夫婦生活ならしない方がマシだなと思っていたのだ。
 もちろん、多くのひとは、そんなに何事についてもああだこうだと話したがったりしないものなのだろう。俺の両親くらいでも、長く一緒にいるわりには会話が多い方だったりするというのも昔からわかっていた。けれど、俺は両親の子供ではあっても、両親とは別のタイプの人間だったし、自分でそう思っていた。
 けれど、別のタイプだったとして、だったら俺はどういうひととどういう関係だったなら、家族としてやっていきたいと思えたのだろうと思う。付き合っていたひとたちとは自分の両親とは違う関係になれていたのだし、だったら、やっぱり付き合っていたひとと一緒になればよかったということになるのかもしれない。
 確かにそうなのだろう。ずっと楽しく喋っていられるということなら、付き合っているひとたちで、充分にクリアできていたのだと思う。どうして俺はそれではダメだと思ったのだろう。確かに、お互いの今の気持ちに反応し合えなくなって、同じパターンを繰り返しているのが基本であるような状態にはなっていた。それでも、何についても延々と話せていたし、二人の目の前に新しいものがあれば、パターンには沿いつつ、今まで話したことのない新しいことを話せたりもしていたのだ。どうしてそれ上出来だと思えなかったんだろう。
 もう俺はあなたのことをこれ以上好きになりたいと思っていないし、もっといろんなことを知りたいとも思っていなくて、もうすでにそういう状態で、今もあなたのことを大事に思っているし、楽しくやれているからと付き合い続けているけれど、結婚したからってそれは変わらないし、もっと好きになりたいと思うことはこれからもないと思うけれど、そんな男と結婚するというのであなたはいいのかと聞けばよかったんだろうか。けれど、そう聞いたら、それでもいいと言われるんだろうと思っていたし、だからそう言わないで、別れることを選んでいたのだろう。
 好きになって、もっと好きになってもらおうと頑張っていく中で、だんだんといい関係になれて、いい関係になれたあとで、もっと好きになってもらいたいという気持ちはなくなってしまったとして、そのあとはどうしたらよかったんだろうと思う。
 みんなそうなんだろうか。もっと好きになりたいとも思っていなくて、楽しくはやれるけれど、特に何のモチベーションもなくなっていて、このひとがあまり傷付かずに幸せに過ごしてくれたらいいなというくらいのことしか思っていなくても、そういうものなんだからいいんだと、ただ大好きだよという顔をして、付き合いを続けて、結婚して、子供を作ればよかったんだろうか。
 きっとそうなんだろう。どうして俺はそうできなかったんだろうと思う。もっと好きになりたいという気持ちがなくなってしまった関係の気詰まりさを、そういうものなのだと受け入れることができなかった。もう昔の関係でしかないのに、そうじゃないかのような顔で結婚しようとするなんて、不誠実なんじゃないかと思ってしまっていた。
 もうこれ以上好きになりたいとは思っていないけれど、それは長く付き合っているから当たり前で、それなりにいい関係になって、揺るぎない関係にもなっていて、ということは自分にはこのひとだったんだなと思って、このひとと結婚する、というのが自然な感じ方だったのかもしれない。それなのに、どうして俺は自分のモチベーションのなさを不誠実さのように感じてしまっていたのだろう。世間を見ていれば、結婚は愛情とは別のモチベーションでもできるようなことだとわかっていたはずだろうと思う。
 俺は世間の結婚と自分の結婚を全く関係のないものに思ってきたのだろうし、それがよくなかったのかもしれない。世間なんて関係なしで、完全に自分とそのとき付き合っているひととのことでしか、そういうことを考えていなかったのは確かなのだ。
 けれど、そういうわけでもなく、ただひたすらに俺が何も考えていなかったからというだけだったのだと思う。いろいろ考えたうえでのことはなく、単純な素直な気持ちとして、ずっと一緒にいたいというわけじゃないなと思って、それは素直な気持ちだし、それに嘘をつくのもどうなのかと思うし、恋人にこそ自分が思っていないことはしてこなかったから、嘘をつきたくないという思いはさらに強くなってしまって、それでよく考えもしないまま、気持ちだけで決めてしまったという感じだったのかもしれない。それは本当に思ったことをしたようでいて、よく考えなかったせいで、嘘をつかないことよりも大事にしたいことを思い浮かべてみる前に、嘘はよくないからとそこで終わりにしてしまっていただけで、そのせいで俺は自分の欲しかったものを自分から見失ってしまうことになったのかもしれない。
 世の中、建前を本当だということにして何かを言ったり振る舞ったりしている状況が数え切れないくらいにある。みんなそれが建前でしかないことは知っていて、けれど、自分が何かを主張したり、誰かを攻撃しようとするときには、その建前を本当にそうしなければいけないことであるかのような大義名分として持ち出してくる。俺はそういうような本当じゃないのに建前として世の中に認知されている事柄を使って、本当のことを遮断して話を捻じ曲げるような嘘が嫌いだった。
 結婚するということにしたって、ずっと一緒に生きていくというのは建前でしかないのだ。けれど、まるで本当にそう思っているかのように演技することを儀式として求められる。そういうことに俺はバカバカしさを感じすぎていたのだろう。そして、俺は付き合っているひとに対しては、そういうバカバカしい演技をしないようにしていた。演技を通して関わっている度合いの低い関係だったから、そのひととの結婚の可能性を考えたときに、そのひととの嘘の希薄な関係の中でずっと一緒にいることを建前として約束しないといけないというのが異様なことに思えたのもあるのだろう。そのひとに対してそんな本当じゃないことはしたくない気がして、実際にずっと一緒にいたいと思っていないのだから、そうするべきではないという考えに流れていったというのはあったのだと思う。
 それでも、まだまだこのひととの関係を続けていきたいという強い気持ちがあれば、少なくても今はそう思っているのだからと、自分に言い聞かせられたのだろう。そもそものところとして、相手と一緒に過ごしている素直な気持ちとして、もうお互いを好きになり終わった停滞した関係になってしまっていると感じていたところはあったのだ。実際、長く付き合ったひとだと、結婚という可能性を考えたりしなくもない段階で、相手との関係をこれからもっとどんなふうにしていけるだろうかと期待感が残っていたケースというのはなかったのだと思う。
 慣れるのが嫌だったわけではないし、新鮮さがなくなっていくのも当たり前のことだと思っていた。けれど、もっと好きになってもらいたいというモチベーションがなくなったときに、そのひととの未来に楽しみなものがなくなってしまったというのはあったのだ。たまに会う友達とか、仕事で関わるひとならそれで何も困らないけれど、未来をともにするひとに、そのひととの未来を楽しみにする気持ちがなくていいのかと思っていたのだ。
 そして、そんなふうに思ったのは、俺が新婚生活にも結婚生活にも何の憧れもなくて、結婚したらぜひともやりたいことも一つもなかったからというのもあるのだろう。結婚のことを婚姻関係になることとしか思っていなかったから、結婚するかどうかを、自分が今している恋愛を、別れるまで一緒にいる状態から、ずっと一緒にいる状態に切り替えたいかどうかという問題として考えてしまっていたのだ。結婚してやりたいことが何もないうえで、そんな観点になってしまっていたせいで、楽しみなこともないのにずっと一緒にいるのはどうなのかと、そうするべきではない気持ちになっていたところはあったのだと思う。
 楽しくやれるのだろうとは思っていた。それこそ、俺の両親が俺に幸せな子供時代を与えてくれたみたいに、ちゃんと幸せを感じられる家庭を作れたのだろう。結婚してもやりたいことなんてないと思っていないで子供が生まれたらどんなことができるということだけひたすら想像して、そろそろそういうことをするべきときなのかもしれないと思っておくべきだったのだ。それなのに、俺はひとと一緒にいるのなら、そのひととお互いの人格を確かめ合っていなくてはいけなくて、お互いが日々相手感じ合っているものをいいものに思っていないのに一緒にいようとするなんて不誠実だと思ってしまっていたのだ。
 俺が自分の父親みたいに、自宅ではずっとテレビを見ていられれば満足な人間だったなら、さっさと結婚できていたのだろうなと思う。けれど、俺はテレビを見ない生活のままで、どうせなら何かを感じられるものに触れて時間を過ごしていたいと思い続けていた。おじさんになったとはいえ、俺にとっては、俺はまだ俺のいつものパターンではなかった。だから、ちゃんと感じてくれなくなったと感じていたし、このひともそうなんだなと思っていた。そして、俺にどれだけ慣れたとしても、いつでも何か思うたびに、俺に自分の喋らせたいことを喋らせて、好きにツッコミを入れながら面白がってくれるようなひとがいてもおかしくないんじゃないかと思っていた。
 俺は俺の肉体で、俺の影響力で、俺の感じ方なのだ。俺はパターンではないし、俺はいつもちゃんと話を聞いてくれる恋人という役割のひとではないのだ。俺は単なるこういう感じ方をした肉体なのだから、いつでも当たり前のようにそれに触れて、それが今日も俺らしいのか確かめてくれたっていいじゃないかと思ってしまう。そして、ずっと一緒にいたいと言ってくれたけれどそうしなかったひとたちは、俺にとっては、そんなふうに俺の肉体や俺の感じ方を確かめ続けてくれるひとではなかったのだ。
 それが本当のところだった。俺はいろいろ考えていなさすぎたけれど、それでも、結局ちゃんと一番根深いところの本当のことに従った判断をしたのだ。ひとりでいるよりは、家族との生活を体験できた方がよかったとは思うけれど、本当じゃないことを選ばなくてよかったなとも思っている。結婚さえしていれば今頃もっと楽しくて幸せに生活していた可能性は高いけれど、本当にそう思っているわけではない顔をして毎日の大半を過ごしていた可能性だって高かったのだろう。
 俺が本当にそうしたいと思えたときに誰かとずっと一緒にいられるようになれたならそれが一番よかったけれど、俺にはそういう機会はなかったんだなとだけ思って、そういうものなのだと受け入れられたような気分でいるのは、何の幸せもないとはいえ、今俺がこうしてひとりでいることに嘘はないし、虚しくはあっても、嫌な気持ちにはならないし、これはこれで最悪ではなかったんだなとも思っているからなんだ。




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