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【連載小説】息子君へ 217 (43 人生は終わるけれど勃起は続く-5)

 けれど、義理マンを憎むことからも、男たちが自分の生活の中に何も輝いたものを感じ取れていないということがわかるだろう。きっと義理マンだけでなく、生活に取り込まれてしまった何もかもを男たちは色褪せたものに感じていて、自分がうまくやれている気になれているときにいい気になっていられるということにしか、男は自分の生活の中に喜びを感じられないものなのかもしれない。
 自分の人生の中に輝いたものを感じ取りにくいから、男たちは自分のちっぽけな人生から切り離せるようなセックスをしたがるのだろう。どうしたところで変態性欲の持ち主は圧倒的に男の方が多いのだし、ポルノビデオでも、女性向けは変態性で興奮できるように作られているものの比率がはるかに低いのだろう。多数派のいかにも定型発達的な女のひとたちは、自分の人生をよいものにしたいというモチベーションを安定して保持できる場合が多いのだろうし、自分の生活を充実させていくことでうれしくなれるのだろう。セックスの価値もその中にある場合が多いのだろうし、自分がいい生活をできていると思えるように、いいセックスも生活の中にあってほしくて、いい生活を一緒にしているひとといいセックスができると幸せを感じられるのだろう。
 もちろん、男だってパートナーと毎日仲良くやっていることがうれしい時期というのはあるのだろう。けれど、その時期が過ぎると、相手を見ていてもやってあげたいことが思い浮かばなくなって、習慣化されている行為以外は、何をするにも面倒になってしまう。そして、男の側からすれば、セックスは習慣でするものではなく、したいからするもので、だから自分がしたくなければ、奥さんはしてほしいと思っているらしいことをわかっていても、ひとりでオナニーして、オナニー中は自分がしたい妄想ができるから、存分に妄想で射精して、オナニーしてよかったとひとりでほっこりしているのだろう。
 男の場合、恋人やパートナーとのセックスですら、新鮮さが消費されてしまうまでを楽しむものとして使い捨てられてしまっている場合が多いということなのだろう。新鮮さが薄れたあとは、モチベーションの低下とともにだらんとしたやる気のないセックスがパターン化されて、入り込めないし、相手もそれほど喜んでくれるわけでもないし、相手に喜んでほしいという気持ちもなくなっているしで、居心地の悪さを感じるだけになって、どんどんやる気を失っていくことになるのだ。
 関係が落ち着いてしまったカップルや夫婦のセックスが難しさはそういうところにあるのだろう。女のひとの側では、いろいろありながらもそれなりに仲良くやれていることを幸せなことだと思わせてもらうためにセックスしたいと思っているのに、男はそんなふうには思っていないし、そういうモチベーションでセックスを求められるのも嫌だという場合が多かったりするのだ。
 そもそも男のかなり多くは人間関係全般が好きじゃなかったりするのだろう。相手の人格に興味を持たなくても付き合っていられる遊びの仲間とか、一緒に働いたり酒を飲んだりゴルフをしたりする仲間とか、そういう相手には気楽に接していられるけれど、お互いがお互いの気にしていることや考えていることに気を遣わなければいけない関係は、窮屈で面倒くさいというばかりなのかもしれない。
 俺にはそういうひとたちの感覚はわからないけれど、もしかすると、そうなってしまうのも、共感能力がまともに働いていないせいで、そういう間合いで他人と一緒にいるときは、相手がいろいろ思っていそうなことのほんの一部しか自分がわかっていないような気がして常に居心地が悪かったり、相手が感情を込めた感じで話してくれるほどに、自分が相手の気持ちをわかってあげられていないことが負い目になってきたりするからなのかもしれない。
 そういうひとたちにとっては、お互いの気持ちを感じ取り合いながら時間を過ごすこと自体が苦痛で、自分が相手を好きで、好き勝手に相手を見ていい印象を受け取っているときには平気だけれど、関係が膠着してからは、気持ちを感じ合わないといけないかのような空気がずっとうっすら不快だったりしているのかもしれない。そうしたときには、押し付けのように自分に気を遣ってくれているひとから、お互いいろいろあるとはいえ、もうちょっとお互いにいたわり合えるといいねというような態度を取られるのは居心地が悪いのだろうし、それを繰り返されているとだんだん不快になってくるのだろうし、そんな気分にさせられている相手から、そういう態度のままでセックスを求められても、セックスしたいという気持ちにはなれなかったりするのだろう。
 きっと、そういう男にとっては、相手へのいろんな感情を抱え込んで窮屈な気持ち出するのがセックスではなく、余計なことを考えずに、したいようにさせてほしいし、自分のしたことで思い切り気持ちよくなってほしいというのがセックスだったりするのだろう。もしくは、もっと単純に、昔みたいに興奮させてほしいとしか思っていないのかもしれない。いろんな感情を押し付けてきて窮屈な気分にさせてくるひとには興奮できないのだから、ごちゃごちゃ言いながら距離を測ってくるのではなく、うれしそうにしながらすぐ抱きついてセックスしてほしそうにしてくれたらいいのに、どうしてそうしてくれないんだと思っていたりする男も多かったりするのかもしれない。
 そんな自分勝手なことを思っているとしたら、バカみたいではあるのだろう。けれど、そういう自分勝手な男だって、恋愛の初期にはそういう気持ちでセックスしていてもうまくいっていたのだ。相手がうれしそうにしてくれてセックスしたそうにしてくれるからと夢中でセックスして、それで相手にも喜んでもらえていた。浮気をしたときだって、そんな気持ちでセックスをして喜んでもらえたし、不倫のときだってそれで喜んでもらえた。そうすると、そんなふうにセックスしたいと思っている自分が間違っていないように思ってしまうのも仕方がないだろう。セックスのことを、そんな自分で喜んでもらえる素晴らしいものだと思ってしまうし、そういうセックスもあるのだから、義理マンはしたくないと思ってしまうし、そうじゃないセックスができる相手がいるのならそのひととしたいと思ってしまうのだ。
 そうやって男たちは、自分がしたいようにさせてもらえて、それを喜んでもらえるセックスに焦がれ続けることになる。そして、それはポルノビデオを見ることで補強された感じ方だったりもしているのだろう。セックスをし始める前からだし、セックスをし始めてからも、相手の気持ちを感じ取ってそれに応えているわけでもない男の視点から撮られた、男がやりたいようにやって女のひとに喜んでもらえているような映像をじっと見て、セックスしたいなと思いながら数十分なり数時間を過ごすというのを、数限りなくやってきているのだ。
 人生の大半のことを付き合わされてやらされていることのように感じている男が、セックスのことしかいい思い出として思い出せないのは仕方のないことなのだ。セックスのときしか、自分が心底これをしたくて、これを受け入れてほしいと思って他人に顔を向けている時間が人生の中になかったりするのなら、夢中になってセックスして、相手が喜んでくれているのをはっきりと感じて、セックスが終わったあと、する前よりも自分を好きになってくれているのが伝わってきたのなら、それは人生の中で飛び抜けていいことができた時間になってしまうのは当然のことだろう。
 本気で仕事をしていたひととか、本気でスポーツとか音楽をしていたひととかは、セックス以上に充実した時間をたくさん経験しているのだろうし、セックス以上に素晴らしいことを達成できてうれしくなれた経験もたくさんあったりするのだろう。けれど、特別たいして何かに打ち込むこともなく、人並みにやることはやったし、自分の好きなこともちょこちょことはできて楽しかったという程度の人生を送ったひとだと、すればするほどみじめになる感じではなく、一生懸命したときにはだいたい相手に喜んでもらえるくらいにはまともにセックスできたなら、実質セックスだけが人生だったような気がしてしまうものなのだと思う。そこに加わるとしたら、いい友達がいたなら友達とのあれこれや、子育てを頑張れば子供との時間なんかに、それがなければ自分の人生は全く違ったものになったと思ったりするのだろう。けれど、ただ普通に友達がいて普通にみんなでたくさん遊んだとか、普通に子育てを手伝ったりたまに遊んであげただけなら、みんながやっていることを同じようにやっただけで、それを自分の人生だとわざわざ思ったりはしないのだろう。セックスだけが、みんなと同じようにやったことではなく、自分だけの縁や巡り合わせの中で、自分がそれに手を伸ばしたことで獲得できた体験だったという人生を送るひとは、特に男の場合はとてつもなくたくさんいるのだ。
 どうしたところで、多くのひとは自己実現みたいに仕事をしているわけではなく、やるべきことを決まったやり方でやることにひたすら追い立てられているだけで、たまに全力で頑張らないといけないことがあって充実した時間を過ごせたりすることがあるというくらいで生きているのだ。その程度なら、思い返すに値するというほどにはならないだろう。
 若者は若者としてちょっとしたことにわくわくしながら日々を生きられるけれど、若者ではなくなってしまったひとたちは、本気になって打ち込めるものを持っていないかぎり、何をしていてもたいして気持ちが動かない日々を送っている。けれど、新鮮さの残っているマンネリじゃないセックスだけは、ほとんど動かなくなったはずの気持ちを激しく揺り動かしてくれるのだ。だから、そこにだけはアイデンティティを感じ続けてしまうし、自分は自分が夢中になれるセックスができているとうれしくなってしまうのだ。
 パチンコや競馬やアルコールはアイデンティティにはなってくれない。映画や音楽を楽しんでも、それについて誰かと話せれば何かしらの充実はあるのだろうけれど、そんな話し相手がいなければ、ただひとりで何か思ったというだけになってしまう。楽しいことはいくらでもあるけれど、ひとに楽しませてもらってばかりいても、どうしたって自分が何をできたわけでもないから、自分のこととしては喜べなくて、ただセックスだけが、そういう何もかもとあまりにも別なものとして、ひとがひとを喜ばせることを可能にしているのだ。
 もちろん、一生童貞のひとがとんでもなくたくさんいるのだし、一応経験があるだけで、ちゃんといいセックスをできたと思えたこともなくほとんど童貞と大差ない生活を送っているひとたちもたくさんいるのだろう。そういうひとたちはマイノリティと言うには人数が多すぎるし、セックスのことしかいい思い出がないのが男だというのは言いすぎだと思うかもしれない。けれど、そういう童貞とそれに類するひとたちは、セックスができなかった思い出ばかりを反芻して生きているのだろうし、結局、何かしらの感情とともに思い出せるようなことは、セックスがらみの思い出ばかりになっているというのが実際のところなんじゃないかと思う。
 女のひとはセックスが好きじゃないひとも性的刺激が好きじゃないひともたくさんいるから、かなり話が変わってくるのだろう。男の場合、発達障害とかで服薬していて勃起しなくなっているようなひとはいるにしても、ほとんどのひとが、他人との肉体的接触が好きかは別として、自分で簡単に気持ちよくできるペニスをつけていて、オナニーはずっと好きなままで生きているのだろう。
 知覚過敏や知覚鈍麻で触れ合っているだけでは気持ちよくなれないからセックスを楽しめないというパターンは、女性の方がはるかに多いのだろうと思う。だから、セックスをあまり持ち上げるのは、特に女性にそれが当てはまらないひともたくさんいることに注意が必要な話ではあるのだろう。
 とはいえ、君はもうわかっているだろうけれど、ひとの気持ちがいまいちわからなくて、三十代後半になってもセックスが好きじゃなくて、入り込めたセックスを長時間できていても自分の身体をうまく快感でいっぱいにしていきまくったりできるわけではない、肉体的に性的刺激に鈍感な君のお母さんですら、俺とのセックスでとてつもなくいい気持ちになって、とてつもない幸せに満たされて、それで人生が変わったんだ。
 無力なひとたちにとっては、セックスだけが突出して人生で素晴らしいものだというのは、性器というものの気持ちよさでそうなっているわけではないんだ。セックスというものが、ただうれしい気持ちを持ち寄って抱き合っているだけで、ひととひとがうれしい気持ちで一緒に時間を過ごせてしまうから、セックスはそんなにも素晴らしいものなんだ。そして、人生の中でセックスだけが救いであるかのようになってしまうのは、男にとっては、セックスがないと他人に用事がないからでもあるし、そうでなくても、男女ともに、自分に何ができるわけでもなくて、自分に何の面白いところがなくても、セックスでなら他人にそんな自分を喜んでもらえるからなんだ。
 君だって、何ができるというわけでもない若者になっているのかもしれないし、そのまま何ができるわけでもない、特別面白いとひとに思ってもらえるわけでもない大人になっていくのかもしれない。そうしたときには、君にとっても、君のように何ができるわけでもない女のひとたちにとっても、セックスできるかもしれなかったり、セックスを求められるかもしれないことが、他の何かとは比較にならないほどの救いになってしまうということを、君はいつでも忘れないようにしていないといけない。そして、誰かとセックスするときには、向かい合いながら、自分のセックスしたい気持ちも、相手のセックスしたい気持ちも、それがどういうセックスしたい気持ちなのか感じようとしないといけないし、それがいい感情だったときには、ちゃんといい感情を分かち合っているんだというつもりでセックスしないともったいないんだ。これを読んでいる君に、そういうことが伝わっていればいいなと思う。




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