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【連載小説】息子君へ 216 (43 人生は終わるけれど勃起は続く-4)

 多くの夫婦がセックスレスになるのは当然のことなんだろうなと思う。女のひとからすれば、優しくしようという気持ちも伝わってこないし、やっているセックスにしても、頭の中でポルノをなぞって自分の中で興奮するのに付き合わされている感じになるのだ。女のひとの側もポルノ的妄想を頭の中でなぞりながら、お互いが相手の身体を使ってオナニーをするようにして、お互い興奮できていることに興奮し合って、うまくやっている場合というのもあるのだろうけれど、多くの女のひとはそんなふうに男がやってくる自分勝手なセックスに過剰適応するわけではないだろう。そもそもセックスが好きじゃないひとがとてつもなくたくさんいるわけだし、相手を見ているだけで自動的に相手の気持ちを感じ取ってしまうひとは、相手の中に自分への優しくしようという気持ちがないことに嫌な気持ちになってしまうしかないのだ。一生懸命セックスしてくれたとしても、恋愛的な感情が盛り上がっている時期でなければ、そんなセックスから何かよいものを感じ取るなんてことは不可能なのだろう。そうすると、女のひともセックスするのが苦痛になってくるし、演技してあげたとしても、セックスを喜んでいないことは、いくら鈍感でもだんだん男もわかってきて、プライドを傷付けられて敵対心を持つようになっていくのだろう。
 ポルノに毒されたセックスをしていれば、関係が落ち着いてから急速にセックスレスになっていくのは当然のことなのだろう。そして、問題は、そういう自分勝手なセックスをする男ほど、恋愛中のセックス以外で一緒にいるひとを喜ばせられなかったりする場合が多かったりするということなのだろう。そういうクソみたいセックスをする男ほど、セックスで喜んでもらえないと、相手とうまく一緒にいられなくなってしまうというのがよくあることだからこそ、あまりにも多くの夫婦が冷え切ったままどうしようもなくなっているのだ。
 そもそもとして、相手に喜んでもらえるようなことが何一つできない男というのも多いのだろう。友達夫婦的なひとたちも少なくはないのだろうけれど、喋っていても基本いらいらするだけという夫婦の方が、その倍以上ではあるのだろう。
 人並みに仕事をする以外、何ができるわけでもなく、面倒だから何をしてあげたいという気持ちも持てなくて、それでいて、相手が楽しくなれるようにうまく相手の話を聞いてあげたりすることすらできなかったとして、男の側は自分が何をできていると思えばいいのかということだろう。奥さんが遠慮して、話を聞いてくれるからそれだけでうれしいよとか、ご飯をがつがつ食べてくれるのがうれしいと言ってくれても、それでは自分が何をしてあげられたという気にもなれないのだろう。
 実際、そういうひとに、やるべきことをやるという以外に、何ができるのだろうとは思う。一緒にテレビを見て一緒に笑っているというのが、相手が自分と一緒に何かをしていて一番楽しそうな時間だったりするひとは多いのだろう。世の中には楽しいことがいくらでもあるけれど、自分が何かをしてあげて、相手がそれにとてもうれしそうにしてくれている時間というのは、簡単には手に入らないのだ。
 友達夫婦といえるような、話しているだけで楽しくなれる関係ではないとき、セックスがなければ、一緒にいても、感謝できることはあっても、はっきりと喜びが自分の中に発生する瞬間がずっとない状態になるのは自然なことなのだろう。そして、一緒にいても自分にうれしそうにしてくれないまま毎日が過ぎていくと、だんだんと相手のことが自分を嫌な気持ちにさせる存在に思えてくるのだろう。優しくしたい気持ちがなくなってきて、そうすると何かポジティブなことがあったときに優しい態度に切り替えるのも億劫な気がするようになってくるし、普段から優しい顔で相手を見ているわけではなくなると、そのままキスしたりセックスするのが自然な態度で相手に顔を向けていることがなくなって、キスしたいともセックスしたいとも思えなくなっていくし、相手に自分を嫌な気持ちにさせているのを謝らせたい気持ちが強くなっていると、相手が自分の非を認めるような態度を取ってくれでもしないと、セックスしようという気にもならなくなる。そして、セックスしなくなると、もうすでに相手を敵視している本人の心にとってはそれがしっくりきてしまって、相手はすぐにセックスしないのが自然な存在になってしまうのだ。
 お互いの喜んだ顔を見せ合う状況をセックスとかスキンシップの中で相手に優しくする場に依存している夫婦ほどあっさりセックスレスになってしまうものなのだろう。逆に、日々のあれこれで相手に喜んでもらえている実感がお互いにあれば、セックスレスはそれほど気にならないものだったりするのだろう。ずっといろんなことを楽しく話しているにしても、ただ楽しいというだけではなく、話していてうれしい気持ちになるように話せていたりするのなら、それだけで一緒にいて満足してしまえるものなのだろうし、そういう時間の中で喜んでいる顔を向け合っているのなら、感情的な親密さも持続させられているのだろうし、それはお互いにその気があるときにはいつでもセックスできる状態が維持されているということだったりもするのだろう。
 けれど、一緒にいて楽しい気分になるわけでもなく、喋っていても楽しくないのなら、一緒にいることはどうしたってそれなりに困難になるのだろう。テレビを見ていて、たまに笑うタイミングが一緒になるとか、何かしたらとりあえずありがとうと言ってくれるとか、それくらいしかお互いの間を行き来するものがなかったなら、どうやってそのひとを好きでいればいいのだろうと思う。さほど楽しいこともなく、いらいらすることはいろいろあって、それで自分のやってあげたことにもあまりまともに反応が返ってこなかったりでもしたら、あっという間に相手は自分に喜びをもたらさない存在として固定化されていって、一緒にいて疎ましく思えるようになってしまうのだろう。そして、そういう相手とでも、意味もなく身体をくっつけ合ってはにこにこし合って、セックスしてはめいっぱい優しくして、うれしそうな顔で微笑み合ってということができている時期には、一緒にいてなんとなく楽しい気分になれてしまうし、いつもびっくりするほどつまらない会話にしかならないことも、相手のかわいげのように思っていられるのだろう。
 仲間集団以外では、いい人間関係を作っていくのが難しいようなひとたちがたくさんいるのだ。そして、人間関係とは別のレベルで興奮できて気持ちよくて心底喜ぶことができるものとしてセックスがあることで、そういうひとたちでもなんとか他人と接近して、他人といい時間を過ごして、関係を作っていけているということなのだろう。セックスの喜びによって相手を好きだと思えて、相手を自分の好きなひととして扱ってあげることができて、そうしたときに恋愛が可能になるし、恋愛的なつながりでなら、そういうひとでも他人とそれなりな感じでやっていけるのだ。
 夫婦関係が冷えていたり、夫婦でまともに会話もないひとたちがたくさんいるのは、当然そうなるようなことなのだろう。勃起はするから恋愛っぽいことはできても、人間関係をよい状態に維持することが難しいひとが世の中にはうじゃうじゃしているのだ。そういうひとたちが、それでもひとと一緒にいられていることは、かなり大きな部分がセックスによっていて、それは男からすればセックスさえできていれば、相手が自分を受け入れてくれていると思えるし、相手が自分のセックスを喜んでくれていれば、相手を自分にとってよい存在に思っていられるからなのだろう。
 セックスだから愛することができるというのがあるのだ。俺は違うけれど、セックスなしでは女のひとなんて愛しようがない男も多いのだろう。よくわからないことばかり言われて、よくわからないことばかり要求されるのだから、多くの男からすれば当然のことだったりするのかもしれない。女のひとがぐちゃぐちゃわけのわからないことを言わないで黙っていてくれるのは、セックスしているときと、ご飯を食べさせてくれているときしかない。だから、ひとに喜んでもらうために生きられない男は、そういうときにしか女のひとを愛せないのだ。
 男だって、自分がいい父親といい旦那をやれていると思えているといい気分で生活できるし、自分の思うように懐いてくれるのなら、いい父親や旦那をやろうとはするし、それに満足していたりもするのだろう。けれど、それは自分がちゃんとやれているのが気分がいいというような感情としての家族愛なのだ。家族の中での自分に満足しているようでいて、やらないといけないことに取り囲まれているし、パートナーに延々と気を遣ってあげないといけないし、どうしたってやらされている感はいっぱいで、自分の素直な気持ちはここにはないような感覚が常につきまとっているなりの家族愛でしかないのだ。
 そういう家族愛だって、いい父親をやってくれるなら上出来だということになるのだろう。けれど、そういう家族愛を身に付けることと引き換えにセックスレスになっている場合もかなり多かったりするのだと思う。そうやって夫婦生活をうまくやっていけるように奥さんの気持ちを受け止めて、それに応えようとしているうちに、自分にとっての奥さんの存在が、さほどどういうひとなのか知らないセックスさせてくれる女のひとから、それなりにどういうひとなのかを知っている家庭を一緒に運営している相手に変わって、昔セックスしていたときの感情ではセックスできなくなるというのはあるのだろう。結婚以前は、相手を見ていてもセックスのこと以外何も思わないから、頭の中で好き勝手にポルノをなぞってセックスできていたけれど、一緒に時間を過ごしていくうちに、だんだんと相手のことをひとりの人間として見るようになるし、そうなると相手と向かい合うだけで、日常の中での相手とあれこれが思い浮かんでしまって、それと頭の中に詰め込まれたポルノのイメージがかけ離れていることで、自分のしたいセックスができる相手という感じがしなくなってしまうのだろうし、実際にセックスしていても、現実の関係性に引き戻される度合いが強すぎて、頭の中でポルノをなぞることに集中しているのも難しい状態になってくるのだろう。
 そうやって、その気になれなくなったり、無理してやってみても気持ちが入らなくて中折れしてお互い嫌な気持ちになるのを繰り返してセックスレスになるというケースは多いのだろう。そして、ちゃんと奥さんとのセックスはそういうものだと思って、そういうものなりにセックスしている男にしても、そういう現実の夫婦の人間関係をセックスするようなセックスに満足しているかどうかはまた別なのだろう。
 いい父親でいい旦那で奥さんとの義理マンもそれなりに楽しめている生活を送っていたとしても、男たちが当たり前のように不倫をするというのは、そういう家庭内の家族相手のセックスが、一生をかけて作り上げてきた自分の頭の中の妄想を使えない、本当にしたいセックスとはかけ離れたセックスだったり、セックスするときはどんな気分で夢中になりたいという感覚を持ち込めないようなセックスになってしまっていて、そういうセックスだけでは全く満たされないからというのもあるのだろうと思う。
 ポルノビデオを通してセックス観を形成するというのは、人間関係といえるものがない相手とのセックスや、人間関係を逸脱したところでのセックスのイメージに興奮することに慣れ親しむということでもあるのだ。俺も二十五歳くらいからはオンラインポルノを見るようになったけれど、さほどいろいろ見ていないのはあるにしろ、夫婦間の感情的にはほぼどちらかにとっては義理マンだけれど、それなりに充実していて幸福感はなくはない、というようなセックスをじっくり撮ったようなビデオは見たことがない気がする。ポルノビデオの中の義理マンというのは、奥さんが不倫してしまったけれど、そのあとで旦那の誘いに応じてセックスすることになって、心ここにあらずでしかセックスできなくて悲しそうにしているというようなシーンが少し挟まれるくらいでしか見てこなかったのだと思う。ポルノの世界というのはとことんそういうものなのだ。ポルノが内面化されていて、ポルノ的想像力に頼って勃起しているひとが、恋愛中や新婚状態ならシチュエーションとしてポルノ越しに興奮できても、どういうシチュエーションというわけでもなく、人間関係だけが目の前にあるような気分になる相手に裸になってもらっても、ただそれだけでは勃起できなくなるのは仕方がないことなのだろう。
 もちろん、俺が付き合っていたひと以外とセックスしていたのはポルノに毒されているからではなかった。別にポルノに毒されていなくたって、不倫セックスというのはどうしたって素晴らしいものなのだろう。家族や恋人と人間関係ありきでするセックスと、人間関係のあれこれで心ががんじがらめになっているわけではない不倫でのセックスは全く別のものなのだ。
 みんな人間関係の息苦しさにうんざりしているのだ。クラブやバーで知らないひとたちとその場限りに喋って楽しんだりすることはできても、それはその場限りのことだし、自分を楽しいひとと思ってもらえるように振る舞えたとか、一つのシチュエーションをうまいこと通り過ぎられたというくらいの手応えしか残らない。自分がこんな自分で、その自分がやっていることにはっきりと喜んでもらえていると実感できて、そのうれしさにどっぷりひたりながら数時間とか一晩を過ごすということだと、バーから抜け出して二人きりになってからの時間の方が、はるかに自分をうれしい気持ちにさせてくれる。そして、どういう関係性があるわけでもないひととのいちゃいちゃやセックスというのは、顔を向け合いながら、人間関係をよいものに維持できていることに満足していることを確かめ合おうとするような、いつものセックスのときの窮屈な気分から自分を解き放ってくれるのだ。
 関係ができあがったパートナーとのセックスと、そうではない相手とのセックスは、どうしたって全く違ったものなのだ。いろいろ気にせずに、とりあえず好きだからとか、とりあえずセックスしたいからというだけで一緒に時間を過ごせてしまうと、誰に対しても思ったまま好き勝手に振る舞えなくなってしまった自分の人生から解放されたような気分になれてしまう。セックスできるから不倫が素晴らしいんじゃなくて、不倫くらい単純化された人間関係の中でセックスできることが救いになるというのがあるのだ。
 君も知っていると思うけれど、お金にも生活にも余裕があって、自分の見た目とか自分がどれくらいモテるのかということにそれなりにアイデンティティのあるようなひとたちの界隈では、普通するものだといわんばかりにみんなが浮気とか不倫している。君だって、人間的に振る舞いがまともで、見た目もまともなら、誘いに同意するだけで浮気できる機会がたまにあったりするものだというのはよくわかっているだろう。
 不倫なんて大切なひとを大切にすることすらできない精神的におかしいひとがすることだというような物言いをよく見かけるけれど、少し前の何かの調査でも、既婚男性の生涯不倫経験率が七割を超えていたのだから、精神的におかしくないと不倫なんてやれないと思っているひとの人間観の方が狂っているのは明らかだろう。君のお母さんだって、自分のことをかわいいと思っているし、金にも時間にも余裕があって、遊びたい遊びをして、旅行にも行けていて、友達とも会えていて、それでも不幸で、不倫できるから不倫して、それでやっと幸せな気持ちでいっぱいになれたのだ。そして、書いてきたように、君のお母さんはセックス自体が好きなわけではなかったのだろうし、恋愛していい気分になりたくて、そのためにセックスしていい感じになりたかったのだろう。妊活はしていたし、セックスなら望めば旦那がいくらでもしてくれて、けれど、旦那とは一緒のベッドで眠りたくもなくなっていた。セックスがしたいというわけではなく、けれど、ただ恋愛がしたいだけだとして、普通に恋愛するというのは、いい歳をした人妻に恋してくれるひとと巡り合うことも難しいし、旦那とはいい関係だからこのままでいいと思っているから、相手に本気になられても困ってしまう。ただ会ってどきどきしながらいちゃいちゃして、一緒にいる間ずっと好きという気持ちでぼんやりしていられるような相手がほしかったというだけで、そうしたときに、セックスだけでいいひととセックスだけの関係で愛し合えたらどんなにいいだろうということになったのだろう。
 セックスできるから不倫が素晴らしいんじゃなくて、不倫くらい単純化された人間関係の中でセックスできることが救いになるというのは、まるっきり君のお母さんに当てはまることだったのだろう。旦那とのセックスは妊活だけで充分で、欲しいのは、いろんなことがありすぎてがんじがらめになっている相手とは別の相手に、頭を空っぽにしてひたすらきゅんきゅんすることだったのだ。そして、実際に、見た目が自分の好みの男に、人間関係というほどのものもできてないまま抱いてもらって、ひたすら優しくかわいがってもらえたときには、とてつもなくいい気分になって、もっとかわいいと言われたくて、そのためなら何でもしてあげたくなってしまっているという、自分の知らなかった自分にさせられてしまって、けれど、本当は今までずっと誰かにこんなふうにかわいがってほしくて、こんなふうに甘えさせてもらいたいと思っていたんだと、こんなことがあるなんて夢みたいだと思える時間を過ごせてしまったのだ。
 もちろん、複雑な人間関係があるからこそ、そのセックスがより充実するというのもあるのだろう。俺も恋人とのセックスでは、関係が深まっていく時期のセックスはずっと素晴らしかった。相手を知っていくためにセックスしているし、相手にわかってほしいことがあるからセックスしているような、そういうモチベーションが混ざったセックスは、ただ気持ちがいいとかうれしいというだけではなく、大事な経験を共有できているような手応えがあった。
 けれど、相手に対して、関係を深めたいとか、もっといい関係になりたいというモチベーションが低くなってきたときには、すでに関係が深まっている相手というのは、よく知っている相手だけに、気を遣わないといけないこともありすぎるし、相手が何にどう反応しているのかもわかりすぎることで、ちょっと気持ちが行き違うだけでまずいことをした気持ちになったり、ちょっとうまくいかないだけで嫌な気持ちになるしで、何をするにもとてもデリケートな相手になってしまう。もちろんセックスはそういうデリケートなあれこれに含まれてしまう。昔はなんとなく習慣のようにしてセックスして楽しんでいられたひとも、相手のことを知っていくほどに、だんだんとセックスという関わり方をするのが億劫になって、ケンカしたり仲直りしたりとか、何かあってはっきりとセックスしたいときにしか、できなくなっていきがちなものではあるのだろう。
 世の中の彼氏や旦那たちはそうやって自分からセックスしようとする習慣を失っていくものなのだろう。セックス自体は大好きで誰とでもしたいけれど、セックスに恋愛がからんでくると、恋愛がいい気分のときはそのぶんセックスもよくなるけれど、愛情は深まりつつも恋愛がしがらみのように感じられてくると、いろいろな感情に覆い尽くされて、セックスしたいという以外何も思っていなかった頃のようには勃起できなくなって、どういう態度でセックスしたいのかも自分の中でぼんやりしてきて、セックスは億劫なものになっていく。
 男だって、どっぷり恋愛できているときのセックスが一番いいのは同じなのだ。けれど、それも含めて、男にとっては、関係のないひとや、関係性がまだ単純な相手とのセックスがセックスらしい純粋なセックスで、関係性がありすぎる相手とのセックスは不純物だらけの清濁併せ呑んでやっとできるセックスという感じで、それはほとんどセックスじゃないみたいなものに思えたりするのだと思う。義理マンという言い方はひどいもので、義理がある相手とセックスするのが普通なんだから義理マンが普通のセックスのはずだけれど、男たちはどうしても義理マンだと思ってうんざりしているし、やらなくても許される文化なおかげで、日本はどんどんとみんなでセックスレスな夫婦になっていっているのだろう。




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