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【連載小説】息子君へ 218 (43 人生は終わるけれど勃起は続く-6)

 この手紙のようなものの中では、俺の昔の話は、生育環境の話以外は、ほとんど俺の恋愛とセックスの話になっているけれど、俺自身は、今までセックスくらいしか思い返すことない人生だったわけではなかった。十八歳まではまるっきり空っぽで、十八歳から十年ちょっと、それなりにがむしゃらに過ごせたし、その期間には、セックス以外にも、あの場所であのひとたちとあんなふうに過ごせてよかったなと思い出せるあれこれがいくつもあった。
 三十歳を過ぎてからはどうだったかなと思うけど、その辺からは、恋愛とセックスくらいしか印象に残るようなことはなかったのかもしれない。俺は仕事がそうならなかった。二十代の頃には、仕事上の青春時代みたいなものはあって、毎日くたくたになりながら、上司と膨大な量の仕事の受け渡しをしながら、膨大な量の話し合いをしていた気がするけれど、それによって何が得られたわけではなかったにしても、充実していたなと思うし、あのひとと一生懸命働くことができてよかったなと思っている。
 そういう青春時代みたいなものも、それがぷつりと切れて、もう自分にそんな日々があったことにも現実感がなくなると、たいして思い出してうれしくもなれなくなってくる。そして、新しくセックスしたひととの新しい充実だけはずっと続いていくのだ。それは近付け合った肉体が自動的に運んできてくる充実だから、俺の人生への意欲が低下したからといって、壊滅しきることがない充実だったりする。そうやって、もしかすると今日にでも思い返すに値するセックスができるかもしれない可能性だけがずっと続いていく。少なくても、勃起できているかぎりはそう思っていられるのだ。
 君は若者である間、セックス以外のことも何でもたくさん楽しめばいい。ただ、歳を取って心が止まっても、セックスだけは残ってくれるということなんだ。
 誰にとっても、ひととの出会いとその顛末だったり、組織や集団への参加とその顛末だったり、そういう出会いと別れの繰り返しこそが自分の人生そのものと感じられるものなのだろう。どうしたところで、誰とどんな時間を共有できて、その結果どんな関係になっていけたのかということが、自分がどんな人間なのかということなのだ。そして、そうしたときに、家庭生活を含めた社会人としての自分以外の、人間としてとか、男としての自分は、恋愛的にどんな時間を過ごせたのかということに総括されてしまうことになる。恋愛の次に友達で、そして、仕事の仲間ということになるのだろうけれど、恋愛に思い出せるような思い出があったのなら、どうしたって恋愛の場面での自分が男としての自分ということになってしまうのだろう。
 俺は別にセックスが素晴らしいと思っているわけではないんだよ。誰かを好きになって一緒にいい時間を過ごせたことを素晴らしいと思っていて、けれど、俺が好きになっていい時間を過ごせた相手の上位は、全てセックスしたひとたちで独占されている。だから、俺は本当の恋愛をセックスとその前後のことだと思っていて、そういう意味でセックスが大事だと言っているだけなんだ。
 本当に自分の大事なことを伝え合った特別な存在が全てセックスした相手になるというのは、男女ともにかなり多くのひとがそうなることなのだと思う。セックスしなかった恋愛の記憶も、ずっといい思い出ではあるけれど、それらは全て俺にとっては自分が空回りした記憶でしかなかったりもする。セックスによって相手が自分の裸の身体に触れることをお互いに受け入れ合った上での距離感で一緒に過ごしたり、一緒に眠ったりしないとできない話があるし、できない顔もある。そして、その距離感でしかできない顔で、その距離感でしかできない伝え方でわかってほしいことを話していた自分ほど、人生の中で自分が自分だった時間はないのだ。
 俺のように仕事が人生というわけではなかった人間にとっては、自分にとっての自分とは恋愛の中での自分なのだ。
 けれど、自分のしてきた恋愛を自分の人生だというように感じられないひとというのは、自分をどういう人間だと思って生きているのだろうと思う。動物なら、生きてきてこれが自分自身だと思えるものは、自分が守ってきたなわばりということになるのだろう。人間だって、昔の百姓であれば、自分の土地や、自分の家と家財道具と自分の子供や孫が、自分がどんなふうに生きてきたのかという結果そのものだとはっきりしていたりするのだろう。
 百姓として生きられなくなった時点で、ほとんどのひとにとって、家とか一族はどうでもいいものになったのだろう。自分の家業で自分の家を大きくすることを生きがいにして、自分の家を自分自身のように思って死んでいったひとたちは今でもいるのだろうけれど、多くのひとたちからすれば、それなりの所得でそれなりの家を構えられるようになったからといって、時代の流れに漫然と流されているだけでそうなったとしか思っていなかったりするのだろう。
 それ以前に、多くの男からすれば、家なんてものは奥さんが好きにするもので、自分が何を言って、どれだけ言った通りにしてくれたとしても、結局自分がそこで何をしたわけではないとしか思えなかったりするのだろう。自分は家を守るためにただ金をよそで稼いできたというだけで、それも結局二十年もすればほぼ全ての経験が陳腐化するような類の仕事を延々と慣れで受け流していただけだったということになるのだ。
 競争して生きてきたひとたちは、競争の中で勝ち取れたものを自分そのもののように思っていたりするのだろう。けれど、そういう達成感があったとしても、それは社会を生きている自分で、私的な自分とはまた別だったりするのだろう。
 そういう意味では、男にとって、私的な領域というのは、自分の裸の腕の中だけということなのかもしれない。俺はそもそも実家で暮らしているときに、家を自分の私的領域には思っていなかった。それは中学生とか高校生くらいからそんな感じだったのだと思う。自分の部屋ですらさほど自分だけの空間だとも思っていなくて、自分の部屋を自分らしいものにしようという意欲も薄かった。俺の場合は友達への仲間意識も低めだったし、友達とつるんでいろんなことをすることが楽しくてしょうがないという時期もなかった。そうしたときには、初めて女のひとと付き合って、自分の腕の中に収まってうれしそうにしてくれて、自分の腕の中で眠ってくれるひとの体温や感触というのは、人生の中で明らかに圧倒的に特別な感触で、俺はその感触に、初めて自分の場所に他人が入ってきてくれたような気分になっていたのだと思う。
 自分の人生を振り返ってみても、俺には一緒に住んでいたことがあるひとたちという、別の種類の特別なひとたちもいたけれど、それを除けば、自分の腕の中に入ってきてくれたひとたちこそが、そうしてくれることのなかった全てのひとたちよりはるかに特別な存在で、腕の中にいるひとに話しかけたり微笑みかけたりしているときこそが、自分の人生を生きているように感じられる時間だったように思えてしまう。
 みんなそんなものなのだと思う。家庭を自分のものだと思っていない男は、俺の世代くらいからは減ってきているのだろうけれど、それでも、自分の腕の中に子供を抱えてたくさんの時間を過ごしたわけではない大半の男は、建前として夫である自分や父である自分をアイデンティティに思っているポーズをしているだけで、そこでの自分に満足してはいても、そういう時間の中で心底から自分に人生にしっくりくるものを感じているわけではないのだと思う。だから若い世代であっても、不倫できる男たちの大半は不倫するし、積極的に不倫しようとはしないひとたちにしても、したいことがないからずっとスクリーンを見詰めて暇をつぶしているだけで、できるのならしたいなと思えることは、自分のセックスで喜んでくれるひととセックスしたいということくらいだったりしているのだ。
 セックスとその前後に体験されるものは、そんなにもいいものだし、そんなにもいい思い出になってしまうものなんだ。あのときはとても気持ちよかったとか、あのときはすごく興奮したとか、そんなふうにしか思い返せないのなら、そこまでのものにはならないのだろう。自分としていることをあんなに喜んでもらえて、あんな雰囲気で顔を向け合って、身体だけじゃなくて頭の芯まで気持ちよくなったまま、時間が止まったみたいに、いい気分で微笑み合っているうれしさが無限に引きのばされていくような時間を体験できたなんて、すごくうれしいことだったなと思い返すことができるのだ。そのときのことを映像的に思い返して興奮するのが心地よいというわけではなく、自分にあんなことがあってよかったなとか、好きなひととあんなに素敵な時間を過ごすなんてことが自分にできたなんてうれしいことだったなとか、そんなふうによかったなと思うんだ。
 俺は付き合ったひとたちとは、どのひととも、お喋りで楽しそうにしてもらったり、心地よさそうにしてもらえていたし、付き合ったひとたちとそういう関係になっていけたことが、全ての自分のしたセックスを含め、他の何よりもそうできてよかったと思っていることだったりする。
 実際、付き合ったひとたちとのことを、付き合えてよかったなと思い出すときには、セックスのことは思い出さなくて、どんなふうに自分に向かってあれこれ話してくれていたのかということばかりが思い浮かんでくる。それは、セックスで思い出すほどのことがなかったということではなく、そんなふうに話してくれるようになったことに、何よりも自分をいいものに思ってくれていることをはっきりと感じていたから、それこそが自分にとって一番大事な相手と一緒に過ごしている感触の記憶になっているからなのだろう。
 俺は自分がこういう感じ方で、こういう他人との接し方をする人間になったのは、付き合ってきたひとたちをもっと好きになれるようにと思って、相手のいいところをいいものに思えるようになろうと自分なりに努力してきたことで、そうなれたことだと思っている。それによって、少なくても自分が好きになってきたひとたちと近いところのある心の動き方をしているひとたちのことは、自然とそのひとのよいところを感じ取れるようになってきたのだろうし、そのぶんだけ俺はマシな人間になれてきたのだろう。
 さすがにひとりでいる期間が長くなってきて、そういう感じも薄れてきたけれど、数年前なら、自分の人生はどんな人生だったのかということなら、恋人とどんなふうにお喋りしながら生活してきたのかということが自分の人生だったと思えていたのだろう。
 実際、付き合ったひとたちとのあれこれというのは、出来事として俺の中に残っているというより、自分の人生のひとつの時代のようなものとして、人生そのもののようにしか思い出せないものだったりする。何もかもが、よかったことも、よかったわけではなかったことも、俺の中でからみ合ってほどけなくなってしまっているし、そのせいで、付き合ったひととの間にあったあれこれというのは、思い出すにも、自分とそのひととではそうなってしまうしかなかったどうしようもなさとしてしか思い出すことができなくなっている。だからだろうけれど、そういうことは、自分の人生がどうしてこうなってしまったんだろうと思うときにしか思い出さないし、逆に、誰かとのセックスの思い出は、そこだけを切り出して思い出すことができるから、気軽にふとしたときにセックスのことを思い出すのだろう。そのセックスのあとで、その相手になんだかなと思っていったのだとしても、そのセックスの前後にあった雰囲気と、そういう雰囲気だったからこそのセックスの充実は、それ自体として素晴らしいものであり続けてくれる。それを思い浮かべれば、自分がひとに喜んでもらえているのを全身で実感できたような思い出が残っていることに、自分にも素晴らしいことがあったんだなと思えて、本当によかったなと思えるのだ。
 多くの男にとっては、人間関係の全ては、そこまで満足いくほどうまくいかなかった何かなのだと思う。そういう中で、セックスだけは、セックスのことだけを思い出して、よかったなと思えるものとして、頭の中の清らかなポルノになってくれる。そして、セックスだけは、セックスがしたいというだけでひとに近付けるかもしれなくて、セックスをしたというだけでその相手と楽しくやれて、それを喜んでもらえる可能性がある。だからこそ、男たちはセックスのことだけを希望のように思いながら、セックスのことばかり考えて人生をやり過ごそうとしているのだろう。

 人生で素晴らしいことなんて誰かに喜んでもらえることくらいしかなくて、心が死んできても喜べることはどういうことで、セックスで喜べるということがどれほど特別で、その力の強大さによって、この世界がこういう世界になっているというのがわかっただろうか。
 そして、世界は今どんどん変質していっている。他人の気持ちをまともに感じていないひとは増え続けているし、そういうひとたちのノリにみんなが慣れていっている。それはセックスの世界の中での位置付けにも影響してくるのだろうと思う。
 きっと君は、とてもたくさんのセックスを軽視する言説に触れながら育つことになるのだろう。けれど、君はそういう言説は自分とは関係のないものだと思っていればいい。どれだけまわりにセックスを軽視するひとがいても、君はそれに流されるべきではなくて、そういうひとを目にするたびに、このひとは性的興奮で他人とつながれることの素晴らしさを身体で感じたことのない憐れなひとなのかもしれないと、かわいそうに思っていればいいんだ。
 今でもセックスを軽視しているひとはたくさんいるけれど、君が育つ頃には性欲をよくないものとして語る言説はもっと一般的になっているのだろうと思う。インターネットによって、誰もが自分から情報を発信できるようになったけれど、学問的に取り組んでいるわけではなく、インターネット上のあれこれを参照しながらフェミニズム的な物言いで何かを指摘することに血道をあげているような女のひとたちの中には、かなり大量に被虐待者や発達障害のひとやそのグレーゾーンのひとが混じっているのだと思う。
 被虐待者や発達障害傾向のあるひとの方が、生きづらさを感じることは多いし、そういう傾向のあるひとほど、世の中に言いたいことがある状態になって、自分から情報を発信することになるのは当然のことなのだろう。そして、ひとの気持ちをあまり感じ取れないひとは、自然と肉体が相手に同調しないことでセックスもさほど楽しめない場合が多いのだろうし、セックスに関連するあれこれで嫌な思いをすることも多いだろうし、特別運がよくて優しいひとがずっとそばにいてくれたりでもしないと、男の性欲を邪悪なものに感じる人間観を形成していくことになる場合が多いのだと思う。
 インターネット上でフェミニズム的な雰囲気を出しつつ男叩きをしているひとたちや、ジェンダーフリーに子供を育てようと悪戦苦闘している日々を発信しているひとたちにしろ、そのほとんどがセックスが好きじゃないひとたちなのだろうと思う。そして、セックスが嫌いなひとたちが集まって憎しみを込めた男叩きの言葉を発信し合って、お互いを励まし合っている雰囲気がきつすぎるから、セックスが嫌いなわけではないフェミストのひとたちは、インターネット上ではあまり一生懸命思うことを発信する気にならなかったりしているというのもあるのだろう。そして、インターネットが世間ではないのに、インターネット上で盛り上がっているからと、セックスが嫌いなひとの眼差しから出てくる言葉が拾い上げられて、多くのひとが目にするメディアでも紹介されていって、政治利用されることにもなっていって、特殊な事情でセックスをリラックスして楽しめないひとたちの感覚による不自然な物言いにみんなが慣らされて、そういう文句を言うひとがいるから配慮しなくてはいけないとみんなでうんざりするという流れがこれからもっと加速していくのだろう。
 女のひとが不当な扱いを受けている状況がたくさんあることを認めて、少しずつでも是正していかなくてはいけないと思っていない男はクソだろうし、俺は母親が自称フェミニストだったし、そういう男たちをクソだと思っている状態で成人したような感じではあったけれど、かといって、俺自身は女のひとたちを何よりもまずは性の対象として見ているし、それがよくないことだとは全く思っていない。職場でも、仕事で関わるひとでも、基本的にはそういう目でしか見ていないし、そういう目で相手の存在感や魅力を感じながら、仕事上の関わりとして、相手の態度に同調しながら、相手が異性として意識してくれていれば、こっちもほんのりそういう意識がある距離感で接するし、そういうわけでもなければ何事もない態度で粛々と仕事のやり取りをしていた。それで何も問題はなかったし、俺は普通の男と変わるところなく男っぽかっただろうし、男と女では態度が違っただろうけれど、かといって、性別役割みたいなものを当てはめた扱い方をしたり、そういうことを言ったりすることはほぼなかっただろうし、女のひとたちからは、女だからとバカにしているところがなくて、かわいい子でもブスな子でも対等な存在として扱っているまともなひとだと思われてきたのだと思う。
 性的な目でしか見ていないからといって、俺の育ちと価値観で、相手のノリに合わせて接し方を調整していれば、性差別的になんてならないのだ。むしろ、俺からすれば、セックスできないのだから、男なんてどうせたいして仲良くなることもないひとたちだと思っていたりするくらいで、性的にしか見ていないことで女のひとのことを尊重できているつもりですらあるのだと思う。
 結局、世の中の不当なことを是正しようという以上に、男の性欲は醜いと糾弾したがっているようなひとたちというのは、女として男と関わることに喜びを感じていないひとたちなのだろう。そして、男が好きじゃないというだけではなく、男の欲望を受け入れつつ、女は女なりに男を愛して楽しむものだという、世の中で常識となっている恋愛観を女に生まれてしまっている自分も受け入れなくてはいけないかのようであることに我慢がならないというのもあるのだろう。
 その嫌悪感の中心にあるのは、女として生きていることへの被害者意識のようなものなのだろうし、発達障害では性自認が揺らぐことが多いというのも、女のひとたちの中でうまくやれないうえで、男から女として扱われても心地よく時間を過ごすことができないのなら、自分が女であることが間違っていると考えるのが本人にとって筋が通ってしまうからというのはあるのだろう。
 君のお母さんにしてもそういう問題はあったのだと思う。君のお母さんの場合は、多数派の女の子たちとしっくりくるような感受性の子供ではないところからスタートしたのだろうけれど、活発だったし、みんなから排除されるようなひとではなかったから、性自認を揺らがせる方向にはいかずに、むしろ、かわいいと言われてちやほやされる女の子にずっと憧れている女の子という感じで過ごしていたのだろう。けれど、多動的すぎるのもあって、かわいい女の子はうまくやれないまま、面白い女キャラにしかなれなくて、それでも気軽にセックスさせてあげながら寄ってきた男に優しくしてもらっていたのだろうけれど、結婚して三十五歳を過ぎて俺とセックスしたときには、全くセックスを楽しんできたひとのものではないセックスをしていた。気持ちいいと言ってもらったり、優しくしてもらったらうれしいというだけで、ほとんどセックスが気持ちよくてうれしくて楽しくてたまらない気持ちになんてなったことがなかったのだろう。若い頃から強烈に男からちやほやされたい気持ちがあって、どの相手とも最初何回かのセックスくらいは、おだててもらいながら優しくしてもらっていたはずだろうに、それでもセックスが好きになれなかったなんて、よっぽどセックスが気持ちよくなかったのだろう。
 他の知っているひとたちのことを考えても、ひとの気持ちがいまいちわかっていないひとたちというのは、セックスがさほど好きそうでもないひとが多かった。話していて、セックスしているときの自分が好きなんだろうなという感じがすることは少なくて、セックスはやらせてあげるものという意識が表に出ている感じで、彼氏とのセックスや、誘われて寝るか迷った話をしているひとが多かった。ふとした異性との視線の交わし方や距離の取り方なんかを見ていても、リラックスしてセックスを楽しめないひとなんだろうと感じるひとばかりだったように思う。
 そうなってしまうというのは、生きづらくて男女関係もうまくいかないからセックスもうまくいかないという以前に、肉体的な問題が大きかったりしているのだろうと思う。知覚過敏なんかの問題があるひともいるのだろうけれど、抱きしめられたり手をつないでいるのは好きだと言っていたひとも多かった気がするし、そういうところの知覚の個人差を超えたところで共通する傾向があるのだろう。
 そして、それにしたって共感能力の問題なのかもしれないのだ。そういうひとたちは、相手の気持ちが自動的に伝わってきにくいことで、相手が性的に興奮してくれていても、その興奮が自分の中に写し取られることがなくて、相手の性的興奮に自然と同調していけないというのがあるのだろう。相手が自分に性的に興奮してくれていることに興奮させられてしまわないのだろうし、そうすると、自分の側が先に興奮していなくても、くっついているうちに自然と興奮してきたりはしないのだろうし、気持ちよさそうにしてくれていることでセックスが自然と心地よく感じられてきたりもしないのだろう。だとすると、多くの女のひとたちと同じように、求められるままよくわからないなりにセックスしているのでは、他のひとたちのように、そのうちに自然と気持ちよくなって、自然とセックスで相手を好きになれるようなルートに乗っていくのが極端に難しくなるというのはあるんじゃないかと思う。
 多くの定型発達のひとたちにとっては、むしろ、性的興奮を共感し合ってしまうということが、セックスしているときに体験しているものの一番中心にあるものだったりする。相手の興奮や欲情を自分の身体に写し取ってしまうことで、自然と相手の興奮を追体験してしまって、その興奮を通して相手を見返すことしかできなくなるのだ。相手にひかれていたり、気持ちを許している場合、相手に興奮されてしまうと、その興奮で自分の身体も熱くなってしまうし、相手がしたくてたまらなくなると、こっちもしたい気分になってくるのを止められなくなってしまう。
 セックスとその前後でしか確かめられないものがあるのは、そういうところによるものなのだろう。セックスでなら、興奮と肉体的な快感が下支えするうえで、興奮して上気した状態で、感情が行き来させることができるのだ。優しくして、優しくしてくれるのがうれしくて、喜んでくれていることがうれしくて、興奮してくれているのがうれしくて、身体を許してくれているのがうれしくて、一生懸命になってくれているのがうれしくて、それに一生懸命応えてくれているのがうれしいのだとして、そのうれしい感情の行き来の全体を性的興奮による高揚感が包んでくれる。それはつまり、二人分の興奮で興奮させられながら、お互いへのいい感情も自分の中で暴れまわっているということで、しかもそれがどれもうれしくてどきどきする感情なのだ。そんなふうにずっとたまらない気持ちが続いている状態で身体に気持ちいいことをされてしまうから、気持ちいいことにもうれしくなりすぎてしまうし、自分の身体も顔も声も気持ちいいことに喜んでしまいすぎな反応をしてしまっていて恥ずかしくて、けれど、抱き合っている相手はずっと優しくて、一緒に恥ずかしいほどうれしくなれていることに、恥ずかしいぶんだけもっとうれしくなってきて、心の底から好きだなという気持ちになってしまうのだ。お互いの気持ちが伝わり続ける状態でするセックスというのは、お互いに好意があるだけで、そんなにまでとんでもないものになってしまうのだ。
 セックスにおいても肉体的に共感がまともに働いているのかどうかということが大きな分かれ目になっているのだ。ひとの気持ちが自動で伝わってくるひとと、そうではないひととでは、セックスをどんなふうに体験しているのかに大きな違いがあるし、自分の頭の中のポルノをなぞろうとして、自分の頭の中とペニスの気持ちよさしか感じていなくて、相手への共感を停止させているような男と、そういうセックスをされている女のひとがセックスで体験しているものだって、ずっとお互いの気持ちを感じ合ったままでしているセックスとは全く違ったものになっているのだ。
 君はこれからセックスを軽視していたり、男の性欲を醜いものであると語る言説にたくさん触れながら育つことになるけれど、肉体的に共感があまり働かないひとたちや、自分のことしか感じてないような男としかセックスしていなさそうなひとたちがセックスについて語っていることについては、自分とは別のセックスを体験しているひとたちの言っていることだと思っておけばいいし、そこから何かを汲み取るとしても、もしセックスすることになった相手がそういうひとだったら、どんなふうに間合いを詰めていって、どんなふうにリラックスしていってもらうのがいいんだろうとか、そういうことを考える材料にするくらいのつもりで受け取っていればいいんだ。君がセックスをどういうものだと思っておくべきかということに、自然とセックスを好きになれなかった肉体で生きているひとの意見を取り入れる必要なんて全くないのだし、そういう感じ方をしているひともいるという事実だけ受け取めつつ、君はただ、そういうひとたちの隠す気もなさそうな被害者意識に素直にうんざりしていればいい。




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