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【連載小説】息子君へ 199 (41 俺が結婚するためには不自然なことをする必要があった-2)

 もしかすると、君はおかしいと思っているのかもしれない。俺がそんなふうに、ただ動物と動物としてくっつき合っていることの心地よさだけがあればそれだけでいいと思うのなら、そういう相手と一緒になればよかったじゃないかと思うのかもしれない。頭でごちゃごちゃ考えるのがわずらわしいのなら、そういうことを持ち込めない相手のもとに毎日帰ってきて、何も思っていないまま、ただどうでもいいことを話して、なんとなく物足りなくなるたびに相手を腕の中に入れて、何を思いたいわけでもないという自分の気持ちに沈み込んでぼんやりして、勃起してきてしまったときには抱かせてもらって、ぐったりして何もいらないなと思いながら眠ってしまうというのを繰り返して暮らしていけば、それで満足できたんじゃないかということになるのかもしれない。
 さっさと死んでしまえるのなら、死んでしまうまでそれでよかったのかもしれない。けれど、死のうとしないかぎり生きていないといけないし、生きていくとなると、何もしないままだとつまらなくなってしまう。だから一緒にいて楽しいひとと付き合おうとしてきたし、それは俺の場合、お互いの思うことをあれこれ話していられるひとということだった。セックスフレンドのひとは、あれこれ喋っていて楽しいひとではなかったし、たくさんの時間を一緒に過ごして、お互いの生活を共有しながら、何かしらをして生きていかないといけない人生を共にする相手というようには全く思えなかった。
 すぐに死んでしまえるのなら、そのひとの身体を好きにさせてもらって、ゆるく抱きしめながら、ありがとうねと繰り返しながら死んでいけたら一番気楽なのかもなと思ったりするというのだって、逆に言えば、恋人とは絶対心中なんかしたくないし、相手が死のうとするのなら自分も死ぬのをやめるけれど、そのセックスフレンドのひとなら、一緒に死にたいと言われても、別に相手の好きにすればいいことだし、それならそれでいいかと思ってしまうような気がするというようなことなのだ。恋人とは、相手にとって俺と一緒にいることがよいことになるようにと思って付き合っているし、幸せになってほしいと思っているけれど、そのひとのことは、お互いに好きにすればいいとしか思っていなくて、腕の中にいてくれるのなら抱きつかせてもらおうとしか思っていないのに抱きついていられるくらい、相手の人生をどうでもよく思っているというか、少なくても、相手の人生がよいものになるのかどうかに自分は関係がないと思っていたのだろう。
 それでも、そのひととのことがあったから、俺の恋愛やセックスについての価値観は、まわりのみんなが思っているようなことを自分も思っておいたというだけの、たいした実感もないきれいごとの寄せ集めのはりぼてみたいな恋愛観にならずにすんだのだ。
 そのひとのせいで、セックスをさせてくれる相手として恋人を特別な存在に思うような感覚は俺には身に付かなかったというのはあるけれど、逆に、そのひとのおかげで、俺は恋人というのは何よりもお互いの人格をよいものに思い合って、お互いの感じ方をよいものに思い合うことで、心地よく一緒の時間を過ごす相手だと思えるようになったのだと思う。
 けれど、同時に、恋人というのをセックスと切り離して考えることになったことで、恋人と仲良くするくらいしか世の中には楽しいことなんてないんだと思っているような人間になれなかったというのはあるのだろう。俺は男友達がいなくもなかったけれど、ずっと仲間で集まって遊んでばかりいるようなタイプではなかった。むしろ、付き合っているひとがいるときは膨大な時間を彼女と一緒に過ごしていた。現実的に彼女と仲良くすることばかりで日々を楽しんでいたのだから、相手の人格から受けられる刺激になんてこだわらずに、一緒にいて楽しいし、セックスをさせてくれるのはこのひとなのだからということだけを考えて、自分の人生にはそれしかないんだと思えていたら、さっさと結婚して、俺の人生は全く違うものになっていたのだと思う。
 彼女や奥さんと仲良くするくらいしか世の中には楽しいことなんてないと思っている男がどれくらいいるのかわからないけれど、彼氏や旦那さんと仲良くするくらいしか世の中に楽しいことはないと思っている女のひとはたくさんいるのだろう。
 男ではそれほど珍しいことでもないのだろうけれど、俺はそこからかけ離れた感じ方をしていたのだと思う。男には、恋人とのデートにまともに関心を持てないひとがたくさんいるのだろうけれど、俺もどちらかといえばそっち側だった。恋人と一緒に行きたいところが、今まで一箇所でも思い浮かんだことがあったんだろうかと思う。付き合ったひとたちは、付き合って早々に諦めて、どこに行きたいというのは全て自分から言ってくるようになった。俺からは、自分が行こうと思ったところに、相手も行きそうなら一緒に行くというだけだった。
 単純に、彼氏と彼女であることを俺は楽しもうとはしていなかったのだろう。ただ一緒にいるひととしか思っていなくて、一緒にいることを楽しんでいるだけだった。喋るのと、一緒に何かしてそれについて喋っているのと、あとはご飯を一緒に食べるのと、セックスして一緒に眠るというだけだった。一緒に出かけて何かを見ても、映画に行っても、美術館に行っても、行ったことのない街に行ってみてぶらぶらしても、ついでにどこかに食べに行っても、一緒に何か感じたことを話しているだけで、話を楽しんでもらえたらうれしいし、話に入り込めたら充実するというだけだった。
 俺はどういうデートがしたいという気持ちが全くなかったけれど、俺にとっては、恋愛だからこそ、したいことが何もなかったという感じだったのだろう。俺は相手に自分を好きになってもらって、相手を楽しませていい気分になってもらえているのを確かめていただけだったのだろうし、そのためには、自分がしたいことをさせてもらう必要はなかったのだ。相手の中の自分がよいものであるようにとしか思っていなかったのだろうし、相手が自分をいいものに思ってくれているように感じられたら満足していたというだけでほとんどの時間を一緒に過ごしていたのだろうなと思う。
 実際、それくらい空っぽだったのだと思う。だから俺はいつでも相手の話を一生懸命聞いていたし、何か伝えるときも、わかってくれたらうれしいという気持ちで話し続けていたのだろう。そして、相手が自分にしてくれたことにちゃんと反応するということは、一緒にいさえすれば、どこで何をしていてもできることで、だからどこで何をするのも、彼女の希望通りにしているだけで満足できていたのだ。
 俺は大学生の頃から、ひとりでぶらぶらしていたし、ひとりで食べたい店に食べに行ったり、ひとりで旅行に行ったりもしていたし、出不精だったり、出かけることに興味がないわけではなかった。ただ、彼女と一緒にどこに行きたいとか、彼女と一緒に何を食べたいというようなことを思うことがなかったのだ。何かしたいとしても、それはひとりでやればいいと思っていたのだろう。彼女としたいこととなると、何も思い浮かばなくて、自分の知っているところに案内したいとか、美味しい店だから彼女に食べさせてあげたいとか、あそこに一緒に行ったら楽しいんじゃないかとか、こんな店に一緒に来れたら喜んでくれるんじゃないかとか、そういうことですら、めったに思うことがなかったのだと思う。
 きっと、彼女との間にいい思い出をたくさん作りたいという発想がなかったのだろうと思う。思い出というか、イベントとなるようなことをしてあげたいという気持ちがなかったのだ。一緒にいて、あとは普通に時間を過ごして、それで楽しければいいだろうとしか思っていなかった。普通に喋って、時間があれば適当に出かけて、映画を見たり、喫茶店に入ったりして、お腹が空いたら料理をしたり、食べに行ったりすればいいとしか思っていなくて、何か特別なことをしてあげたいという発想がなかったのだと思う。
 思い出ベースで自分の人生をよくしようという感覚が俺にはそもそもなかったのだろう。実際には、俺にはずっと恋人がいたし、頻繁に会っていたから、出かけた回数だって多いし、いろんなところに行って、それぞれに楽しかった思い出が残っている。仲間もいたし、いろんなことを一緒にしたし、いい思い出はいくらでもあった。仕事でも、好きなひとたちと一生懸命やっていた時期にはいろいろあった。
 けれど、俺は自分にもいろいろあったからといって、みんなそれぞれいろいろあったのだろうとしか思っていないのだろう。自分がどういうことをやってきたとか、どういうことをやったことがあるとか、そういうことで自分をどういう人間だと思っているところが俺は希薄なのだ。自分が他人にどういうことができる人間なのかとか、他人にどう思われている人間なのかとか、あとは、自分にとって自分の考えたり思ったりすることが面白いかとか、そういうところでしか自分を認識してこなかったのだと思う。
 自分がそうできるといいなということができるようになっていければ、それに手応えを感じられる。俺にはそれが一番大事だったのだろう。あとは、自分が今やっていることや、今関われているひととうまくやれていればそれだけでよかったのだ。そして、うまくやれていることに満足していたとして、それはうまくやれた思い出とか、いい関係になれたことではなく、自分がそういうことをうまくやれる人間になれていることの手応えに満足していたのだろう。
 そうすると、結局全ては自分の能力とか影響力が今どうなっているのかという問題でしかなかったということになるのだろう。誰かいてくれれば、そのひとに何かいい反応を返そうとするし、自分のリアクションを楽しんでくれていれば、それで俺も満足できる。他人がアイデンティティに食い込んでいないとはそういうことで、俺が目の前に何かあれば何か思うというだけの空っぽな人間というだというのが、そういうところからもよくわかるだろう。
 俺は恋人に対しても、完全にそういう態度だったのだ。結婚しようとすんなり思えなかったことともつながっているのだろうけれど、俺は恋人と過ごす時間をその場限りのもののように感じていたのだと思う。今こうしている時間が、もしかしたら自分の人生を決定付けて、自分は死ぬまでこんなふうにして生きていくことになるのかもしれないなんて、ほんのちょっとでも思ってみたことがあったんだろうかと思う。
 もちろん、恋人として扱ってはいたし、きっと明日もこのひとと一緒にいるし、来月も一緒にいるのだろうし、来年も一緒にいる可能性はそれなりにあるとは思っていた。相手と時間を過ごすうちに、相手のいろんな表情に触れて、相手の気持ちの動き方に馴染んでいって、何を話すにもお互いの話を誤解しないようになっていったし、一緒にいるほど相手のことを大切に思えるようになっていた。
 けれど、そうやって相手を知っていって、相手をもっと好きになっていって、相手を大事にしていたとしても、それは相手がそういうひとであることを俺がどれほど素晴らしいものだと思っていけるのか確かめていただけだったのかもしれない。そういう意味では、俺にとって恋人というのは一つの物語のようなものだったのだろう。俺はその読者で、鑑賞者だった。それを読み取るための存在で、いい読者になってあげられることが、いい彼氏になってあげることだという感覚だったのだろう。だから、自分が相手に反応してあげるために一緒にいるというばかりで、自分がしたいことを一緒にしてもらったり、自分がしたいことをしているのを見守っていてもらうために相手に一緒にいてもらうという感覚がなかったのだ。そのせいで、これから自分がしたいことをしていくためには、このひとがそばにいてくれる必要があるというようなことを、付き合っているひとに思うことがなかったというのもあったのだろう。
 それは恋人をどうでもいいものに思ってきたということではないのだ。どんな本を読んで、どんな映画を見てきたのかということだって、自分の人生がどんな人生だったのかということにそれなりに関係してはいるのだろう。そうだとして、俺はそれの何倍か色濃く関係しているというくらいにしか、自分の人生と恋人は関係していないように思っていたのかもしれない。
 そういう意味では、セックスフレンドのひととの関係というのは、もっと自分の人生とは関係のないものだった。小説や映画のように、ものの感じ方を何か変えられたりするわけでもなく、美味しいものを食べて美味しかったとか、遊びに連れて行ってもらってこんな楽しい遊びもあるのかと教えてもらったというくらいの感じだったのかもしれない。たまにご飯を奢ってくれるひとがいて、美味しいお店に連れて行ってもらって、たらふく食べさせてもらいながら楽しくお喋りして、お酒を飲む店にも連れて行ってもらって、毎回そこで記憶をなくすくらい飲むけれど、翌日はいつも少しだるくなりつつも、昨日は美味しかったし、すごく楽しかったなと思っていたような、それくらいの楽しみとして、俺はそのひととのたまのセックスを楽しんでいたのかもしれない。
 セックスフレンドのひととのセックスは人生じゃないから気が楽だったということなのだろう。恋人とのセックスはまるで相手の人生みたいで、しかも相手は俺の人生のことのように自分の人生のことを語ってきたりもする存在なのだ。セックスしていて気分が違ったのも当たり前のことだったのだろう。
 もちろん、恋人との関係によって自分の直近の人生がどんな日々になっていくのか決まるというのは本当のことなのだろう。恋人が幸せにしてほしいと要求してくるというのは、相手からすれば当然のことでしかないのだろう。けれど、そもそも自分の幸せのために恋人と付き合っていない俺には、幸せにしてほしいなんていう、今ちゃんと対応するだけではなく、どういう関係として自分を安心させてほしいというような、時間軸の長い期待をされるのは、どうしても鬱陶しいことだったのだろう。
 セックスフレンドさえいれば彼女はいらなかったとか、そういうことではないんだよ。俺はたまにしかセックスフレンドとセックスできなかったし、もし彼女がいなかったら、とてもつまらない人生だったなと思ってしまうのだろう。かといって、彼女以外とセックスすることが少なかったのは、彼女と付き合っていたからなのだろうし、もし彼女がいない代わりに、たまに遊んでくれるひとがそのつどもう何人かいて、飲んでセックスするだけじゃなくて、たまに一緒にぶらぶらしたり、たまに何かの話題で白熱して数時間喋りまくったりもできたなら、彼女がいなくてもよかったのかもしれない。
 きっとそういう男はそれなりにいるのだろう。俺の場合は、料理を作って食べてもらったりもできたし、話が噛み合う相手なら、いくらでもずっと話していられたから、セックスフレンドと一緒にいるより彼女と一緒にいる方が、楽しいということならはるかに楽しかった。付き合うほどに相手を好きになっていけていたし、たまにしか会わないから楽しくしていられるという感じの後ろめたさもなく、どれだけ一緒にいても心から楽しんでいられた。
 多くの男はそこまで彼女と一緒にいる時間のあれこれを楽しめるわけではないのだろう。付き合っているひとがいて、それなりに好きだとしても、彼女との会話が結局のところはひたすら退屈だし面倒くさいというひとは膨大にいて、そういう男からすれば、セックスフレンドが何人かいて、二週間に一回くらいセックスできたりするのなら、彼女がいなくても何の不満もなかったりするんだろうなと思う。
 面倒くさいという気持ちが強くて、自分勝手にしかサービス精神も発揮できないから、何をするにも、誰と関わるにも、いい感じな時期には楽しめるけれど、それが過ぎ去ったあとは、停滞したままずっとうっすらいらいらしているというような男はとてつもなくたくさんいる。そういう男たちだって、本当は別に彼女と付き合うということをやりたいわけではなかったりするのだろうと思う。
 セックスできて、相手が喜んでくれていれば、自分はひとに喜んでもらえていると思えるし、一緒に眠れれば、自分は寂しい人間じゃないとも思える。それでそれなりにストレスも解消されて、生きていることの屈辱感のようなものもうやむやにできる。そういう男がほしいのはほとんどそれだけで、あとはできればセックスに喜んでくれて、セックスしてあげたことで機嫌をよくして、自分に優しく接してほしいというくらいなのだろう。
 女のひとにずっとそばにいられて、いろんなことに付き合わされて、よくわからない話を聞かされて、面倒だなと思いながらたくさんの時間を過ごすというのは、そういう男たちからすれば、セックスに付随してくるうんざりするものでしかなかったりするのだろう。本当は、自分がしたいときに相手もしたいとセックスしに来てくれて、セックスのあとにいい雰囲気になっていたら、しばらく相手がうれしそうにしているのを眺めて、それも気がすんだらさっさと解散してひとりにしてもらえるというのが、一番理想的だったりしてしまうのだろう。
 ひとりだとつまらないからといって、ひとといるのは面倒なのだ。ひとりで退屈だなと思いながらぶらぶらしたり、酒を飲んだり、テレビを見たりインターネット動画を見たりしながら、どうでもいい気持ちでぼんやりしていられる方が気が楽だという男はたくさんいる。そういうひとたちがほしいのはセックスとセックスを喜んでくれる相手であって、恋人とかパートナーが欲しくて誰かと付き合ったり結婚しているわけではなかったりするのだ。
 もちろん、自分が寂しくならずにやっていけるくらい、都合よく安定的にセックスを自分に供給できるようなセックスフレンド体制を維持するなんて、ほとんどの男には不可能なことだし、恋人になるかパートナーになるしかないのだから、男たちは恋人と一緒にいなくてはいけないことに不満があるわけではないのだろう。
 それでも、女のひとにそれなりに適応できて、女のひととうまくやることを楽しんでいられるようなひとたち以上に、女のひととうまくやれなくて、うっすらいらいらしてばかりいるひとたちがたくさんいるのだ。そして、そういうひとたちの多くが、せめてセックスはさせてほしいと思っていて、セックスを喜んでくれて、一緒にいてくれてうれしそうにしてくれるのなら、自分にできることはしてあげるし、金を稼ぐのも頑張ると思っているけれど、その願いはたいてい叶わないし、かといって、相手の気持ちに働きかけて状況を変えられるだけのコミュニケーション能力もないからどうしようもなくて、相手のやること全てに面倒くささを感じながら、延々といらいらし続ける日々を送ることになっているのだろう。
 俺はそういうひとたちとはまるっきり違っているのだ。けれど、そういう不器用で横暴な男たちの方が、そういう自分を愛してくれて、世話を焼いてくれようとするひとがいたときには、だったら自分がこのひとを守ってあげようかと思って、そのひととの人生を自然と考えたりするのかもしれないとは思う。
 俺は相手の気持ちに気持ちで反応していたし、相手を大事に扱っている自覚もあったから、ある程度仲良くなったひとが、一緒に過ごすほどに自分のことを好きになっていってくれるのを当たり前のことに思っていた。けれど、自分が思うほどは相手を喜ばせられていないことにどこかで気が付いていながら、虚勢を張ってごまかしているような男たちは、ダメなところも見せてしまっている自分と一緒にいてうれしそうにしてくれていると、こんな自分を好きになってくれることへの感謝のようなものが湧き上がって、それだけである程度相手を自分にとって特別な存在に思えたりするのかもしれない。
 俺に欠けていたのはそういうものだったのかもしれないとも思う。こんな自分をこんなにも愛してくれるなんて、このひとは自分にとって特別なひとなのだという感慨があれば、何もかも違ったのかもしれない。




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