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地球を愛し、生命を感じよう。そして、その一部になろう。

「もっと、肩の力抜いて生きようぜ」

 私はそう言いたい。

 いや。もしかしたら、自分がそう言われたいのかもしれない。だから、そういう社会になることを望んでいるのかもしれない。

 僕たち人間からすれば人間は、地球上でも、いや宇宙の中でも、特別な存在だ。色々考え、知恵を合わせて、科学や宗教を生み出し、建物を作り、国を作り、「人間社会」を生み出した。地球上の一部の動物たちは、まるで人間のものであるかのように娯楽の対象とされている。水族館、動物園。別に、「そんなのはダメだ」と言いたのではない。きちんとお世話をしているし、それまで成し得なかったであろう、人間と動物のコンビネーション、「絆」、を生み出すことに成功しているように感じられる。同種動物同士ではない、多種同士に生まれる絆、感動ものである。僕だって、それを目にすると涙すら出る。

 私が言いたいのは、人間は、人間である以前に、生物であるのだ、ということ。そして、周りにある木々、空を飛ぶ鳥、道端に咲く花、それの蜜を吸う虫、それら全部も、「生きているのだ」ということ。地球上に存在する凡ゆるものは、生きている

 今になって思うことがある。高校生のときに、もっと、「生物学」や「政治経済学」に触れておきたかった、ということだ。どうしてか、勉強はダサい、という雰囲気が、日本にはある。いろんな人がそう言っているし、自分自身、そう感じる。人生で、一体どう役に立つのか、分からなかったからだ。考えてみれば当然である。ほとんど毎日学校で黒板と向かっているそれまでの人生では、「勉強」を自分に取り込むばかりで、発揮する機会がないからだ。人間社会が、いかにして回っているのか、なんて、聞くだけじゃ分からない。なんだか、もっと、教育って、うまくできるような気がする。それについては、まだ自分の中で固まっていない。けれど、教育制度は変えていく必要があるということだけ、いまは漠然と感じている。

 ところで、高校までにしてきた勉強を通して、自分が得たものって何だろうと、考えたことがある。小さいことも考えれば、色々あるのだろうが、一番は、「勉強の方法を学んだ」ことであると言える。「自分にはどういう勉強方法が合っているのか」を経験を通して身につけることができた、ということだ。どういうことを学ぶにしろ、人それぞれ適した方法、というのがあるはずだ。先に全体像を把握して、その後細かいところを理解するのか、或いはその逆か。知識より、経験を重視するのか、文字ではなく実験をひたすらするのか。人によって違うはずだ。僕はそれを、高校までの勉強で、というより、ほとんど高校だけで、自然と、学んでいた。

 そうした「勉強」は、僕の場合高校までは、「勉強」以上でも、以下でもなかった。けれど、いまは違う。今の僕にとっての「勉強」ー「学問」と言ってもいいかもしれないーは、「人間がこの世を、人間なりに理解するためのツール」なのだ。特に、数学や生物学、物理学等の、「実学でないもの」は、そうである。政治学や経営学、経済学は、あくまで「人間が人間社会を、人間なりに理解するためのツール」であると考えている。

 ここで僕が言いたいのは、どれだけ人間が知恵を凝らして生み出した理論も、思想も、「人間なりに理解するためのツール」の範囲から抜け出すことはできない、ということなのだ。そう。人間が理解していると思っていることは、私たち人間がそう思っているだけであって、本当のところの理解ではないのではないだろうか。そうだとすれば、人間の理解には限界がある。わたしはそう思わずにはいられないのである。その上で、「人間」と「自然」に目を向けてみるとどうだろう。人間が真にこの世を理解することはできないとしても、そこで敢えて、「学問をする」という選択をする人間は、人間としての生命を全うしている感じがして、僕は好きだ。そしてまた、僕たち人間には決して理解できない自然、というものも、謎で、尊く、素晴らしいのだ。こういう、生命溢れる自然のことを奇跡と感じられる心を持っていたいものだ。

そして究極問題、人間はどう生きればいいのか。

 それはもう、答えは一つだろう。自然の一部になれ

 目の前の勉強や仕事も確かに大事だ。けれど、それらの根本の、さらに根本の、この世を存在させ続ける土台となっているものは何か、それは「奇跡」なのだということ。生きている、ということを実感するだけで、自分がその、「奇跡の一部なのだ」と感じることができる。

 感じることができる、のだ。理解することができる、ではない。心で感じるのだ。肌で感じるのだ。僕は、人間には、秘められた力があると思っている。第六感、のようなものだ。生物としての直感。意識を飛び越えるもの。それを、自ら感じ取ること。現代人の多くが忘れてしまった感覚、なのだと思う。昔の人は、ソレが自分に備わっていることを自覚し、生きるのに活かしていたのだと思う。理解するための「学問」が、それほど発展していなかったからだ。現代では、それらが逆転している。多くの人間が、自分たちが「命あるもの」であることを忘れ、目の前の仕事や勉強や、その他様々なしがらみに苦しんでいる

 なんてちっぽけな苦しみだろう。もっと、この地球を、生命を、ありのままで感じることができれば、そのことに気がつくだろう。私たちが生きているということは、奇跡なのだ。

 何も恐れることはないし、何なら喜びすら感じる必要もない。ただ、自分は地球の一部であり、あらゆる生命と一体感を持って、一生命体として、死ぬまで生きる、それだけでいいのだ。

 なんて言っても、やはり人目が気になってしまうのが人間。

 人間のそういうところも、私はすきだ。

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