【小説】同じ空の保田(やすだ)さん~regret~ 40
何にも囚われず、気の向くまま、あるがままに過ごせることを、自由と呼ぶ。
ある日突然、自由が奪われてしまう感覚を知っているだろうか。
誰のせいでもない、運命の歯車が想定外の方向へ回転し、今までのものが乱れて、崩れて、そして、人生が変わる。
自分が、ただ自分らしくいる。
本来、誰しもそうあるべきなのに、それができるのはどんなに恵まれていることなのかと、失って思い知ることもある。
7月の半ば過ぎ。
梅雨はまだ明けきらない。
重たい荷物でいっぱいのスーパーのレジ袋をキッチンに下ろす。
雨に濡れたビニールで床が濡れるとわかりきってた。
それでも、それ以上に雨の中の買い物に疲れ切って拭くのが億劫。
車を使うべきだった、運動がてら頑張って歩こうと思ったのが間違いだった。
大きな溜息をひとつ吐いて、休む間もなく冷凍と冷蔵の食材を優先して冷蔵庫に突っ込んでゆく。
同じ二人暮らしなのに、以前一緒に暮らしていた夫と、今一緒に暮らしている食べ盛りの高校生女子とは、必要な食材の量がこんなにも違うのか。
昔のことを思い返して、それもそのはずと納得する。
15年近く前に離婚した彼との暮らしは、食事に関してはもっと自由気ままだった。
共働きで平日は帰宅時間がすれ違い気味。接待とか同僚と飲むとか、とにかく平日最低三日は飲んで帰る人だった。新婚の頃はがんばって夕食を準備していたわたしも、冷めた料理に虚しくラップをかける日々が馬鹿馬鹿しくなり、各自で夕食を済ませるのが日常となった。
土日になると、彼は一人で趣味のサッカー観戦に出かけてしまう。わたしはわたしで、友達とご飯に行ったり家でのんびり適当に済ませたり。
たまに二人で一緒にご飯の時は、わたしが作るか、外食だった。
朝食すらバラバラに食べていた。
彼は何故か、朝っぱらから麺類、特に蕎麦を食べたがった。それなら朝は駅の立ち食い蕎麦屋で食べたら?とパン食派のわたしがすすめた。
そんなわけで、自分の朝食プラスアルファの食材を週に一度調達しておけば、困ることはなかった。
それが、高校生の瑞季の食事はそうもいかない。
栄養があるものをたくさん用意しなきゃ、とは思ってない。誕生日が過ぎてもう16歳、それなりに充分成長している。
ただ、朝食なんて抜きそうな年頃の女子にも関わらず、朝からお米をしっかり食べたがる。
通っている港区内の都立校まで、家から満員電車で一時間弱。ちゃんと食べないと学校に着く頃にはもうお腹ぺこぺこでお昼までもたないとぼやくのだ。
都立高は私立と違って学食がないから、お昼のお弁当も持たせなきゃならない。
お昼くらいコンビニで買うか、自分で作って行きなよ、と喉元まで何度も出かかった。
でも、突然母を亡くして独りになってしまった姪っ子に、なかなかそうも言えなかった。
そうして、学校から帰って来たら、夜ご飯。
夜が終わって、朝になったら朝ご飯。
スーパーのお惣菜の煮物や、商店街のお肉屋さんで売っている揚げ物をおかずにするのもしょっちゅうのこと。
それでも、とにかく『 毎朝毎晩何か食べる物を用意しなければならない 』という仕事は、日に日に重荷に感じる一方。
当然とはいえ、子供の食事がこんなにもエンドレスで負担だなんて……。
あの子と一緒に暮らし続けることも、法律上の保護者のような『 後見人 』を引き受けることも、躊躇なく決断できた。
それはいいとして、こんな副産物………こんなにマメに食事の世話をする羽目になるとは、まったく想定できなかった。
それまでは、わたしの母、瑞季にとっては祖母が毎日ご飯を用意していた。
孫の分だけでなく、娘、つまり瑞季の母親の分も。
わたしは毎朝毎晩の食事を母に頼っていたわけじゃない。逆に、母に負担をかけないよう、自分の分はなるべく適当にどうにかしていた。
会社に勤めていた時は、近くのデパ地下で美味しいおかずを買って帰ったりもした。
二人の死後まもない頃は、瑞季のためにご飯くらいちゃんと作ってあげようと多少は張り切っていた。
けれど、わたしはもともと料理がそんなに得意じゃないし、好きでもない。
立ちっぱなしで何かする台所仕事というのは、料理が苦手な人間にとって、本当に疲れる労働でしかない。
片付けも面倒だから今日は外食にしたいと思っても、部活で疲れたから外に行くのは面倒で嫌だ、宿題もあるし、何でもいいから家で食べたいと瑞季がしぶる。
それに、わたしが通常の大人の一人前で充分足りるのに、瑞季はわたしの1.5倍から2倍の食材を消費している。
簡単に二人分作るより、もはや三人分の食事をしっかり作っている感覚。
よく食べるからなのか、すごく控えめに言って体型はぽっちゃり目。あらゆるパーツがわたしよりひとまわりふっくら、またはがっしりとしている。
身長は、わたしとあまり変わらないから160センチくらい。
自分の体型もたいして自慢できないけど、体重は53キロなので、45という齢の割にはそれほど酷くはないはずだ。
あの子の体質はいったい誰に似たのだろう?
うちの親戚筋に大食いで太りやすい人は見当たらない。
瑞季の父はひょろりと細い。でも、彼の方の親族の誰かしらの体質を受け継いだに違いない。
遺伝って、本当におそろしい。
***
冷蔵庫に食材を入れ終えると、リビングのソファにぐったり横になった。
雨がすごく苦手なのに歩きで出掛けたのも、テンションだだ下がりの理由のひとつ。
もぉなんだか疲れた、一眠りしたい。
ああ、録画してあるとぴ君のドラマも見たい。
そう考えながらも、夜ご飯は何時から作るのか、乾燥が終わった洗濯物取り出さなきゃ、掃除機も今日はそろそろかけなきゃと頭が勝手にスケジューリングしようと動く。それと同時にどうしてこんなにも家事に縛られなきゃいけないのかという想いでまた気が滅入る。
たまには、時間を気にせず一人で好きなだけぐっすり寝たい。二度寝や昼寝で惰眠を貪りたい。
夕暮れ時も、ご飯の準備を気にせず好きな時間にお風呂に入りたい。
先月のあの事故が起こるまで、そんな生活は特別な夢でもなんでもなくて、簡単に実現できたことなのに。
一体どうしてわたしが……と理不尽な想いが湧き上がるのを抑えられない。
そもそも、わたしが長年勤めた会社を退職したのは、しばらく休んでのんびり好きに過ごすため。
夏休みの観光客がはけた9月頃に一週間一人旅をして、それから本腰入れて再就職先を考えよう。
心の中で立てていたそんな予定はあの事故で崩れ去り、気が付けばわたしは独身なのに疲れた飯炊きおばさんになっている。
瑞季が大学生になったら、さすがにこんなに毎日ご飯ご飯といそしむこともないだろうけど、まだ高校一年生。あと二年以上はこんな毎日が続くのか。
世の中のワーママさん達はなんて偉いんだろう。自分の時間もろくにないまま、どうやって毎日やりくりしているの?
そういえば、離婚する前の姉も一応共働きで育児する母親だった。
それでも、姉の場合は尊敬に値するエピソードはまったく思い浮かばなかった。
そろそろ次のことをやらないと……と思っても、身体がなかなか動かない。ぐったりしたまま壁かけカレンダーになんとなく目をやる。
次の日曜日は、四十九日の法要。
母と姉のお骨を、父が眠る霊園に納める。
寂しさは特にない、いや、本当に全然ない。
むしろ、重々しい骨壺を早くこの家から運び出し、和室に陣取っている祭壇を片づけて、一連の行事から早く解放されたい気持ちでいっぱいだ。
霊園までは車で10分。
瑞季も、自転車ならひとりで自分の母親に会いに行ける距離。
もしかしたら、瑞季は母親の納骨が淋しいのかもしれない。
そう頭をかすめたものの、だからといって姉のお骨をこの家に置き続けるなんて冗談じゃない。こういう作法のものだからとわたしが一方的に瑞季を諭して、母と姉の納骨を一緒にすることに決めた。
だいたい、何故わたしの家に姉のお骨があるのか不思議でならない。
理屈ではわかってる、でも気持ちが追いつかない。
離婚していなければ旦那さんが供養したはず。わたしがこの家で姉のお骨と過ごす世界線なんて、想像したことも無かった。
三年前に離婚して、わたしと母が暮らすマンションに転がり込んできた姉の高笑いが聞こえてくるようで。
姉だって、死にたくて死んだんじゃない。それもわかってる。
でも、うちに来てからは瑞季の世話を含めた自分達の分の家事まで母に任せて好き放題過ごして、そのまま娘一人を残して消えちゃうなんて、無責任にもほどがある。
もともと仲の良くない姉の爪痕かと思うと、なんなの、どういうつもりなわけ?となおさら苛立ってくる。
四十九日を終えたら、その後の水曜日が後見人を決めるための面接の日。家庭裁判所にわたしと瑞希が呼び出されて、調査官という人から色々と質問されることになっている。
いつになったら、色々と煩わしいことからわたしは解放されるのだろう?
***
「 …………で、その調査官の報告書っていうのが出来上がって、特に問題がないと裁判所が判断したら、決定みたいなもんが出て、そういうのが書いてある紙が郵便で届くはずだから、たぶん。
あ、その日、俺も待合室くらいまで一緒に行くよ。その期日の前に地裁で別件があるから、ついでって言ったら二人には悪いけど。
それで、その後なんだけど、……… 」
善ちゃんは、なんだかんだで毎週土曜に青砥まで来てくれる。
この日も、これからの手続で必要になる書類のコピーを渡しがてら、来週の面接のことを説明してくれた。
ただ、彼の話は聞こえてるけど、もう頭がいっぱいいっぱいで覚えるのを拒んでいる。
その水曜日が終わって、そうしたらもう瑞季の学校が夏休み。
…………お弁当は作らなくて済む。でも、今度は毎日お昼ご飯をどうするの?
わたし一人なら、毎日本当に適当でいいし、ふらっと都心にでかけてランチもしたい。
でも、いちいちあの子を連れて行かなきゃいけないの?
ああ、午前も午後も部活があったらどうするんだろう?そしたら、さすがに、お金をあげるからコンビニで何か買ってって言おう。
「 ───── 梢さん?
大丈夫?俺の話、ちゃんと聞いてる?」
不意に、話している善ちゃんの声のトーンが落ちた。
顔を上げると、頬杖をついた彼が直視してくる。口調は優しいけど、目の奥は笑ってない。本当に心配してくれてるんだって伝わってくる。
毎日のご飯のことで頭が一杯だったなんて、ちょっと恥ずかしくて言えない。
「 あ、ごめん。大丈夫、話は聞いてたから 」
「 …………あのさ、ちょっと気になってたんだけど 」
「 なに?」
「 ………………本当に、後見人なんて引き受けていいの?
俺の説明をさらっと聞いて、ちゃんと理解してくれてたみたいだし、一緒に暮らす身内が引き受けることが多いし、梢さんなら大丈夫かな、とは思ったけど。
だけど、今もそんなに浮かない顔してるし。
正直、負担に感じるなら無理しない方がいい。
俺でよければ、俺が引き受けるよ。俺は瑞季と他人だけど、まあ、事情が事情だし、弁護士だったら簡単に選任してくれるよ、裁判所は 」
わたしがぼんやりしていた理由を、後見人になることを心配しているからだと完全に誤解している。
「 ううん、そうじゃなくて……後見人になるのは別にいいの。一緒に暮らしている人の方が、瑞季にとっては便利なんでしょ?
それに、わかんないことがあれば善ちゃんに相談するから、ほんとに大丈夫 」
「 ………それならいいけど。だったら、明日のことで何か気にかかることでもあるの? 」
「 四十九日も、別に………早く終わって、もぉすっきりしたいなぁーって思ってるけど、ほんとに、特に困ってることなんてなんにもないから 」
わたしは無理に明るく喋ってみせた。
毎日の料理が面倒でしんどくて、なんて話したくなかった。
きっと、世の中のママさん達にとっては当たり前のことなんだと思うと、そんなことを彼に愚痴ったら、ダメな女だと世の中のママさん達から烙印を押される気がしてた。
善ちゃんがまだ納得のいかない顔で何かを言おうとした時、テーブルに置いてあるスマホの着信音が鳴った。
彼は画面を確認すると、あ、ちょっとごめん、とつぶやきながら席を立ち、お店の外に向かって歩きながらビジネス口調で電話に応じる。
それと同時に、わたしのスマホにもメールが着信した。
何気なく画面を開いた瞬間、わたしの心臓が跳ね上がった。
つづく。
(約5300文字)
*『 regret 』とは、『 心残り 』を意味するの英語です。1~34話までがnote創作大賞2023の応募作品で、その続き部分の話に『~regret~』とつけてあります。
おそろしいほど長々と連載してます。
マガジンにまとめてあるので、よろしければ ↓
同じ空の保田(やすだ)さん|🟪紫葉梢🌿<Siba-Kozue>|note
このお話の前話です。よろしければ ↓
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