ワンダと巨像
コロナが始まり、10年ぶり位にゲームをしました。
『ワンダと巨像』というゲームです。
それを語る前に私のゲーマー人生を記しておきます。人生で一番のめり込んだゲームはゼルダの伝説シリーズ五作目、『時のオカリナ』。元来裕福な家庭では無かったので一つのゲームを兎に角遊び倒す、というのが常になっていました。最初は回復縛り、武器縛り、利き手縛りとドMプレイを楽しんでいたのですが、最後にはノートとストップウォッチを手に最速クリアを目標に周回プレイに勤しみました(今ではそれをRTAと言うそうですね……)。
当然、そこまでのめり込んだのにも理由があります。現実に友達がいなかった私はゲームの中に友達を見出すことに躍起になっていました。『時のオカリナ』でのそれが妖精の『ナビィ』です。苦難の冒険の中、いつだって側にいてくれたナビィは物語の最後、私のもとを去ってしまいます。何故?どうして私を置いて去ってしまうのか?どこかで選択を間違えたのか?幼い私はその理由がわからず、何度も周回プレイをすることでナビィが去らない結末に向かおうと奮闘します。しかしどう足掻いてもナビィは私のもとを去ってしまいます。その哀しみに耐えきれず、私は最後には『時のオカリナ』のプレイを投げ出してしまいました。……そして『ムジュラの仮面』に私のナビィ再会に向けての冒険は続きます。これに関しては長くなるのでまた今度……。
さて、年月が流れゲームもすっかりご無沙汰になったこの頃、コロナに直面しました。職を失い、引きこもり生活の幕開けです。そんな中、何の気無しに買ったのが『ワンダと巨像』というゲームでした。メンタルをやられていた私は、再び見出してしまいました、埃を被ったPS2の中に、かけがえのない友達を……アグロという名の……馬を。
ワンダと巨像
知る人ぞ知る名作ゲーム、握力ゲーと名高い独自のゲーム性、PS2のスペックとは思えない広大で美しいフィールド……一瞬で心奪われました。物語という物語も、殆どないのですよね。魂を失った少女を救うため、少年ワンダが巨像を狩る、それだけで説明は事足ります。細かな背景は全く説明されません。茫洋な余白の物語、それがワンダと巨像です。
私が友情を感じた馬の名前はアグロ。主人公ワンダと共に危険に立ち向かう相棒のポジションです。いにしえの大地を一緒に駆け回り、恐ろしい巨像に一緒に立ち向かったり、一人寂しい時に口笛を吹くと、何処からともなく駆けつけてくれる頼れる友達。私は昔から、言葉を語らぬ存在に愛着を抱く性分なのですよね……犬や猫は勿論、玩具の人形とか、ぬいぐるみとか、果てには壁の落書きや案山子にも……コロナの影響で根腐れた愛着病に再び火が灯り、私は物言わぬAIアグロとの友情を育んだのです。
ネタバレ注意 『最後の一撃は、切ない』
物語も佳境、ワンダが最後の巨像を倒しに冒険する道中、初見殺しの橋に辿り着きました。ワンダが足を掛けると、その橋は轟音を立てながら少しずつ崩れ落ちていき、成す術なくゲームオーバー……。そこで閃くのです。アグロの俊敏な脚力なら、橋の崩壊前に向こう岸に辿り着ける!私は頼れる友達に颯爽と跨り、件の橋に再び向かいました。
予感は的中、ワンダが即座に巻き込まれた橋の崩壊も、アグロはギリギリの速度で回避して行きます。ドラマチックな局面、目論見通り、流石アグロ!思った矢先でした。最後の最後、向こう岸に足が掛かる直前、アグロとワンダは崩壊に巻き込まれてしまうのです。間に合わなかった、またゲームオーバーだ!思った瞬間、アグロは驚きの行動に出ました。自身の身体を強く揺さぶり、ワンダを向こう岸に投げ飛ばしたのです。そして轟音と共にワンダの視界から消え去るアグロ……私の友達は最後の雄叫びを上げて深い谷の底に落ちて行きました。そこで私は……泣きました。大粒の涙と共に嗚咽を漏らしました。ゲームで?!と思うかもしれませんが……ゲームでも泣くんです、人間は……。沢山の思い出が瞬間想起されました。美しくも幻想的ないにしえの大地を共に散歩した日々、一緒にトカゲ狩りを楽しんだ緩やかな日常、砂漠で、間欠線で、大空で、時にお互い傷付きながらも巨像と戦った思い出の数々……そこで私は気づいたのです。この旅の最中、アグロの気持ちを微塵も考えたことなかったなと……。
物語の背景が説明されないのと同様、アグロの背景についても一才説明されません。そもそもアグロの飼い主は誰なのか、それすらも不明なのです。私は勝手にワンダの愛馬とばかり思ってましたが……眠りについた女の子が飼い主だったらいいのにな、と思いました。だって私の都合で振り回して、沢山の傷を負わせて最後には私(ワンダ)を救い、死んでしまう……。報われなさ過ぎるじゃないかと。せめて女の子を救う目的が一致した同志なら、少しはアグロも報われるのに……とここまで考えて気付きました。その考えで報われるのは、私だけだ。命を落としたアグロはもう喜ぶことも悲しむことも出来ないんだと……私はなんて自分本位なんだと自己嫌悪に陥り、その後はあっという間でした。
人間、悲しみに満たされると、何故かとてもイノセントに行動出来るのですよね。最後の巨像まで立ち止まることなく進み、何の感慨も無く巨像の弱点まで辿り着き、心無い最後の一撃を見舞うのです。巨像が絶命する一撃を放つ私の心は、とても渇いていました。「アグロがいないこの世界で、私は何をやってるんだろう」と。「少女を救う名目で、どれだけの命を散らしたのだろう」と……。
そして物語は怒涛のエンディングに向かいます。神の信託を受け16体の巨像を殺害したワンダの心身は、真っ黒に汚れていました。どす黒いワンダが辿り着いた結末、『少女を救う』という美しい大義の代償は、邪悪な裏切りでした。ワンダが神と思っていた存在の正体は『悪魔』だったのです。
遥か昔、悪魔『ドルミン』はワンダ一族の祖先によりその力を16に分割され封印されました。ドルミンが再び力を手にするには、その16の封印を誰かに解いて貰う他無かったのです。そう、つまりワンダが殺害してきた16体の巨像こそが真の『神』そのものであり、ワンダは知らぬうちに『神殺し』の片棒を担がされていたのです。神殺しの禁忌を犯したワンダは、駆けつけた同郷の呪術師一行により殺害されてしまいます。しかし16体の神に封印された悪魔『ドルミン』は復活し、絶命したワンダの肉体に憑依し、その姿を表します。まさに『巨像』と呼ぶに相応しい姿を……。
ここで更に驚きの展開。なんとその巨像ドルミンを、プレイヤーである私自身が操作出来るのです。肉体は支配されても、ワンダの魂はまだその自我を保っていたのです。ここでプレイヤーは選択を迫られます。持て余した力で呪術師一行を皆殺しにするか、ただ呆然と立ち尽くすか、救えなかった女の子を見下ろしてじっと佇むか……。マルチエンディングではありません。どう行動しようが、物語は同じ結末に向かいます。
私が選んだ選択は……呪術師を皆殺しにする、でした。人間性が見て取れますね、アグロを失い何もかもに裏切られ、挙句は少女も救えない……何もかもを失った私が選んだのは無益な復讐でした。でも力一杯振り下ろす拳は呪術師には当たりません。結果、邪悪な巨像ドルミン(私)は呪術師たちの力により、再び封印され、その命を溶かしたのです……。
救いはないのか……。
コロナで沈んだ心を少しでも晴らそうと気晴らしに始めたゲームで、こんな想いをすることになるなんて……。呆然とムービーを眺めていた私の心は虚無に包まれていました。こんな想いをする位なら、ゲームなんか始めなければよかったのに……と。
どっこい、救済はありました。誰もいなくなったいにしえの大地で、少女が目を覚ましたのです。ああ、よかった……何で目を覚ましたのかは分かりません。ドルミンが契約を果たしたのか、ドルミン復活と共に少女の魂が戻る因果があったのか、その謎は明かされぬまま……。でも、よかった。私の心は少し救われました。
本当の救済は、直後に訪れました。聴き慣れた、愛おしい鳴き声が、少女の耳に届いたのです。
アグローーーーーーッッッ!!!
生きてました、私の友達。生きてました!!実際叫びました。いや、本当によかった……。しかし、脚を引きずっています。一本折れてる……馬は三本脚で生きてはいけない動物のはず。そう、アグロはもう長生き出来ないのです。でも……それでも、生きてて良かった。それだけでした、私の心を占める言葉は。
その後、目覚めた少女はアグロに案内され、私(ドルミン)が封印された泉に導かれます。そこには頭にツノを生やした1人の赤ん坊がいました。少女が赤ん坊を抱き抱え、それを見つめるアグロ……ここで、物語はおしまいです。
ひさしぶりにゲームをしてみて。
「めっちゃ感情移入してますやん」振り返ると、自分に対してそう思います。感情移入は時に危険なものでもありますよね。嘗てゲーテの著作が多くの若者の命を奪ったように……感情移入は時に人を殺します。しかし用法要領を間違えなければ、それは時に効用にもなるのです。紀元前、民衆が劇場で凄惨な悲劇を追体験し己の内に潜むカルマを浄化したように、現代人はそれぞれの個性に見合ったコンテンツを通し、自身のカタルシスを獲得するのです。
現代において、ゲームはそのコンテンツの一角を占めてます。私は『ワンダと巨像』を通して学びました、私の中の独りよがりな『友達』観を、それに対する歪な執着心を、私が悲しみに支配された時に起こす行動、その是非を……現実ではお金を積まれたって体験したくない絶望を、ゲームを通して体験したのです。
そこで学んだ事を現実にどう活かすのかは私次第。もしかしたら『ワンダと巨像』以降の私は悲しみとの付き合い方が上手くなったかもしれません。友達の気持ちを少しは考えられるようになったかもしれません。善悪についてより深く考えるようになったかもしれません。もしかしたら、何も変わらなかったかもしれません。実際よくわかりません。確かなことは、アグロと共にいにしえの地を駆け回り、巨像と戦い、時に喪失し絶望に飲まれた思い出は、今も私の心に深く根ざしているという事です。そしてその思い出は黒く汚れながらも、美しい。確かなことは、これだけです。
なんだか小難しい話になってしまいました。とにかく、私が言いたい事は、以下の一言に尽きます。それが全てです。
『ワンダと巨像』は神ゲーだよ‼︎
はい。以上です。もう一言、これは個人的に。
ナビィ、アグロ、私と出会ってくれてありがとう。
です。長い文章、最後までお読みいただきありがとうございました!この投稿があなたの少しの暇つぶしに役立っていたら幸いです。ゼルダにワンダ、神ゲーですので、機会があったら是非ともプレイしてみてください^^
おしまい。
ありがとうございました〜^^
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