髙田重孝

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記事一覧

著書紹介・郷土史かわら 第97集 特集 香春とキリシタン

郷土史・かわら・第97集 特集 香春とキリシタン 発行2024年(令和6年4月)香春町教育委員会 はじめに キリシタン史の中で香春の名前は出てこない。私が香春を知ったのは…

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2週間前
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明智光秀に対してのイエズス会の評価と 歴史に記録されている明智光秀の姿

明智光秀に対してのイエズス会の評価 *完訳フロイス(Luís Fróis)『日本史3』織田信長編Ⅲ  第56章(第2部41章)143~152頁 1582年11月5日附け 明智光秀について  「…

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3か月前
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本能寺の変の明智光秀と細川藤孝   玉の三戸野への幽閉と小侍徒のこと

本能寺の変の明智光秀と細川藤孝 玉の三戸野への幽閉・小侍徒のこと 本能寺の変後の明智一族の行動 1582年(天正10)六月二日早朝、明智光秀は本能寺において織田信長・信…

髙田重孝
3か月前
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細川忠興による清原マリアいとと小従徒の解任

細川忠興よる清原マリアいとと小侍徒の解任 イエズス会の報告より *『16,17世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第3巻 244~248頁 これら変革の時、大坂で生じたキリシタ…

髙田重孝
5か月前
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マリア清原いと(ガラシャの侍女頭)について

マリア清原いと(ガラシャの侍女頭)について いとは儒学者の清原枝賢に次女として生まれている。清原家と細川家とは姻戚関係にあった。おそらく明智玉(16歳)が細川家に…

髙田重孝
5か月前
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香春とキリシタン展の解説・講演内容

「香春とキリシタン展」の講演会での解説説明をお知らせいたします。  香春とキリシタン 2023年10月29日 日曜日 午後1時より     ヴァージナル演奏とグレゴリオ聖…

髙田重孝
7か月前
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加賀山隼人正興良の墓碑の移動説について

加賀山隼人・加賀山半左衛門の墓の移動説について 加賀山氏画博覚書きと豊前村誌との相違についての考察 奥田興純覚え書き *加賀山興純著 加賀山氏画傳覚書より 『家…

髙田重孝
8か月前
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香春とキリシタン展・特別企画の御案内

香春とキリシタン展・御案内・ポスター 2023年 10月8日より11月19日まで 入場無料 福岡県田川郡香春町町民センター2階 歴史資料館 10月29日・日曜日・午後1時30分より…

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8か月前
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細川ガラシャ自害の記録・霜女覚え書きについて

霜女(志も)覚え書き・原文・読み下し文 しうりんいん(秀林院)様御はて被成候次第之事 一、 石田しふのせう(治部少)らん(乱)のとし七月十二日におかさわらしょう…

髙田重孝
9か月前
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イエズス会が記録した細川ガラシャの姿

イエズス会が記録した細川ガラシャの姿 イエズス会が描いた細川ガラシャの姿は、1578年(天正6)結婚後の禅宗の学びの様子から、その後の1582年(天正10)6月2日早朝、玉…

髙田重孝
9か月前
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細川ガラシャとその時代が語るもの ガラシャの信仰に対する思想の構築課程

 細川ガラシャとその時代が語るもの 細川ガラシャの信仰に対する思想構築課程 思想構築の極限の姿としての信仰  明智玉にとって信仰する事とは、学習することにより禅宗…

髙田重孝
9か月前
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禅宗に満足しなかった大友宗麟と細川ガラシャ・宗麟とガラシャの禅宗からキリスト教への改宗の同一性

  禅宗に満足しなかった大友宗麟と細川ガラシャ 宗麟とガラシャの,禅宗からキリスト教への改宗の同一性 大友宗麟   1530~1587年・享禄3~天正15年 細川ガラシャ 1…

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9か月前
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三宅藤兵衛重利が天草全島で行ったキリシタン迫害について

三宅藤兵衛重利の行った天草全島での迫害 天草御領における三宅藤兵衛と長岡興秋と嫡子興季の関係について  1609年(慶長14)に来日した、クリストヴァン・フェレイラ(C…

髙田重孝
10か月前
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細川興秋の天草・島原の乱の時期の避難場所についての考察

細川興秋の天草・島原の乱の時期の避難場所  1637年(寛永14)10月頃から1638年(寛永15)3月頃の避難場所の推定に関する考察 泰勝院 細川家の菩提寺である泰勝院。細川…

髙田重孝
10か月前
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天正遣欧少年使節の伊東マンショと千々石ミゲルが1584年(天正12)9月14日、ポルトガルのエヴォラ大聖堂で演奏した4つの聖歌につ…

天正遣欧少年使節の伊東マンショと千々石ミゲルが1584年(天正12)9月14日、ポルトガルのエヴォラ大聖堂で演奏した4つの聖歌について  今年、2023年4月1日に『太閤・豊臣…

髙田重孝
1年前
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キリシタンが歌った六つの聖母マリア讃歌について

キリシタンが歌った六つの聖母マリア讃歌について 六つのアヴェ・マリア讃歌【聖母讃歌】(作られた年代順) 1、アヴェ・マリア(Ave Mari)めでたし、マリア、恵みに満…

髙田重孝
1年前
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著書紹介・郷土史かわら 第97集 特集 香春とキリシタン

郷土史・かわら・第97集 特集 香春とキリシタン
発行2024年(令和6年4月)香春町教育委員会

はじめに
キリシタン史の中で香春の名前は出てこない。私が香春を知ったのは、伊東マンショ神父が、小倉教会の副司祭としてセスペデス(Gregorio de Céspedes)神父と共に奉職した1608~1611年(慶長13~19)の4年間に、教会信徒の支柱として活躍した加賀山隼人正興良とその娘、長女みや

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明智光秀に対してのイエズス会の評価と 歴史に記録されている明智光秀の姿

明智光秀に対してのイエズス会の評価
*完訳フロイス(Luís Fróis)『日本史3』織田信長編Ⅲ 
第56章(第2部41章)143~152頁
1582年11月5日附け

明智光秀について
 「信長の宮廷に惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。彼はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には、公方様の邸の一貴人兵部太夫と称する人に奉仕していたのであるが,その才略,深慮、狡猾さにより、

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本能寺の変の明智光秀と細川藤孝   玉の三戸野への幽閉と小侍徒のこと

本能寺の変の明智光秀と細川藤孝
玉の三戸野への幽閉・小侍徒のこと

本能寺の変後の明智一族の行動
1582年(天正10)六月二日早朝、明智光秀は本能寺において織田信長・信忠父子を殺害した。当日午前中光秀は「京都・洛中」を鎮めて、細川藤孝が元いた青龍城に明智勝兵衛を残して、午後にはいったん自分の城である坂本城に戻っている。五日、信長の居城・安土城に入っている。その後、琵琶湖の秀吉の居城・長浜や佐和山

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細川忠興による清原マリアいとと小従徒の解任

細川忠興よる清原マリアいとと小侍徒の解任

イエズス会の報告より
*『16,17世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第3巻 244~248頁

これら変革の時、大坂で生じたキリシタン夫人(細川)ドナ・ガラシャの悲しむべき死去について(第27章)より

1600年(慶長5)オルガンティーノ(Soldo Organtino)神父のの書簡によると『彼女(ガラシャ)は司祭たちにはいとも従順で、彼らと自らの霊魂

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マリア清原いと(ガラシャの侍女頭)について

マリア清原いと(ガラシャの侍女頭)について

いとは儒学者の清原枝賢に次女として生まれている。清原家と細川家とは姻戚関係にあった。おそらく明智玉(16歳)が細川家に輿入れした1578年(天正6)頃には、侍女として細川家に仕えていたと考えられる。いとは細川家に仕える侍女であり、1582年(天正10)6月2日『本能寺の変』により玉の三戸野への幽閉が決められた時、玉に随行する人々は明智家から玉の婚礼に付

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香春とキリシタン展の解説・講演内容

「香春とキリシタン展」の講演会での解説説明をお知らせいたします。

 香春とキリシタン 2023年10月29日 日曜日 午後1時より 
   ヴァージナル演奏とグレゴリオ聖歌演奏・講演
   香春町町民センター内

香春のキリシタン
1829年(文政12) の香春に於ける「宗門改め」の記録
 豊前国田川郡の宗門改めは、1793年(寛政5)4月4日、香春町の香春岳の下にある光願寺(大字香春山下町)に

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加賀山隼人正興良の墓碑の移動説について


加賀山隼人・加賀山半左衛門の墓の移動説について
加賀山氏画博覚書きと豊前村誌との相違についての考察

奥田興純覚え書き
*加賀山興純著 加賀山氏画傳覚書より

『家記二隼人墓ノ事不詳、或ハ豊前圀髙波郡ノ中云々、田川郡(髙波ノ?又浪ト誤レリ)興純序ヲ以テ行タリ。左二田川郡香原ヲ出、北二行事数町右側二加々美山八幡ノ?有リ。尚北二行事数丁ニシテ一村落有リ。呼野山ノ方ヨリ落来ル川ヲ渡リ、突出タル崎山畑ナ

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香春とキリシタン展・特別企画の御案内

香春とキリシタン展・御案内・ポスター
2023年 10月8日より11月19日まで 入場無料
福岡県田川郡香春町町民センター2階 歴史資料館

10月29日・日曜日・午後1時30分より・香春町町民センター
『香春とキリシタン』と題して、当時香春のキリシタンたちが歌っていたグレゴリオ聖歌のコンサートと講演をさせていただきます。御多忙中とは思いますが、皆様のお越しをお待ち申しております。

10月29日

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細川ガラシャ自害の記録・霜女覚え書きについて

霜女(志も)覚え書き・原文・読み下し文

しうりんいん(秀林院)様御はて被成候次第之事

一、 石田しふのせう(治部少)らん(乱)のとし七月十二日におかさわらしょうさい(小笠原少斎)・河きたいわみ(河喜多石見)両人御たい所(台所)まてまいられ候て、わたくしをよび(呼び)出し、申され候ハ、しふのせう(治部少)方より、いつれもひかし(東)へ御たちなされ候大名衆の人しち(質)をとり(取)申候よしふうふん

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イエズス会が記録した細川ガラシャの姿

イエズス会が記録した細川ガラシャの姿

イエズス会が描いた細川ガラシャの姿は、1578年(天正6)結婚後の禅宗の学びの様子から、その後の1582年(天正10)6月2日早朝、玉の父・明智十兵衛光秀の織田信長に対する謀反「本能寺の変」により、玉の三戸野での幽閉まで遡り、1587年(天正15)の春の教会訪問から侍女を通してキリスト教の教義を学び、洗礼を受けるまでのガラシャ(伽羅奢)の改心の様子を中心に、

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細川ガラシャとその時代が語るもの ガラシャの信仰に対する思想の構築課程

 細川ガラシャとその時代が語るもの
細川ガラシャの信仰に対する思想構築課程

思想構築の極限の姿としての信仰
 明智玉にとって信仰する事とは、学習することにより禅宗に関する強い関心や学んだ知識を自分に中に取り入れ理解することが自分の思想を構築することであると知っていた。それ故に、熱心に禅宗の教義を学んだのであり、玉が求めていた心の安らぎを禅宗に中に見出そうとしていた。玉にとっての信仰とは思想構築の

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禅宗に満足しなかった大友宗麟と細川ガラシャ・宗麟とガラシャの禅宗からキリスト教への改宗の同一性

  禅宗に満足しなかった大友宗麟と細川ガラシャ
宗麟とガラシャの,禅宗からキリスト教への改宗の同一性

大友宗麟   1530~1587年・享禄3~天正15年
細川ガラシャ 1563~1600年・永禄6~慶長5年

細川ガラシャ(伽羅奢) 略歴
1563年(永禄6)  明智十兵衛光秀の三女、玉(玉子)誕生
1578年(天正6)  細川忠興と結婚(16歳)
1579年(天正7)  長女 長誕生(宮津

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三宅藤兵衛重利が天草全島で行ったキリシタン迫害について

三宅藤兵衛重利の行った天草全島での迫害
天草御領における三宅藤兵衛と長岡興秋と嫡子興季の関係について

 1609年(慶長14)に来日した、クリストヴァン・フェレイラ(Cristovão Ferreira)は1614年(慶長19)の伴天連追放令の後も密かに日本に留まり、主に西九州で布教活動に従事していた。1629年(寛永6)から1630年(寛永7)にかけて5ヶ月間、天草の大矢野島に滞在して布教活動

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細川興秋の天草・島原の乱の時期の避難場所についての考察

細川興秋の天草・島原の乱の時期の避難場所 
1637年(寛永14)10月頃から1638年(寛永15)3月頃の避難場所の推定に関する考察

泰勝院
細川家の菩提寺である泰勝院。細川忠興三斎の父・幽斎玄旨(藤孝)は1605年(慶長15)8月20日未の下刻に京都三条車屋町の細川邸で死去(77歳)した。葬礼は9月18日牛の上刻、小倉野上の原において厳粛に執り行われた。忠興三斎は父幽斎の追善のため、翌160

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天正遣欧少年使節の伊東マンショと千々石ミゲルが1584年(天正12)9月14日、ポルトガルのエヴォラ大聖堂で演奏した4つの聖歌について

天正遣欧少年使節の伊東マンショと千々石ミゲルが1584年(天正12)9月14日、ポルトガルのエヴォラ大聖堂で演奏した4つの聖歌について 

今年、2023年4月1日に『太閤・豊臣秀吉の京都聚楽第で天正遣欧少年使節が御前演奏した曲について』をnoteに掲載した。その中でグレゴリオ聖歌より3曲選んで紹介した。

1590年(天正18)7月、8年6ヶ月の長旅を終えて日本に帰国した天正遣欧少年使節が、15

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キリシタンが歌った六つの聖母マリア讃歌について

キリシタンが歌った六つの聖母マリア讃歌について

六つのアヴェ・マリア讃歌【聖母讃歌】(作られた年代順)

1、アヴェ・マリア(Ave Mari)めでたし、マリア、恵みに満ちた人     1000年頃
2、サルヴェ・レジナ(Salve Regina)めでたし元后・憐みの母       1000年頃
3、サルヴェ・マーテル(Salve Mater)めでたし、慈悲深い聖母       1000年頃
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