人気の記事一覧

(八十一)真砂女の句を鑑賞しよう

2週間前

数正出奔を考える

歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」信州・松本にゆかりの深い石川数正、康長親子

#1000字小説『望郷』/消えた鍵【#シロクマ文芸部】

10か月前

教えてママ

9か月前

忠 -石川数正-

弘治2年(1556)8月17日は長尾景虎(上杉謙信)が長尾政景らの説得で隠退を思いとどまる書状を書いた日。家臣同士や国衆の紛争調停で心身疲れ3月突然高野山へ向かう。一丸となり武田信玄と戦う必要あるのに…って何もかも嫌になったんだろうな。名将でも内輪の揉め事には苦労したということ。

心配しないでママ

有料
1,000

戦国時代の上杉謙信。 越後の英雄。 めちゃめちゃ合戦がうまくて 軍神とまで呼ばれた。 しかし彼はなにもかもを捨てて 出奔したことがある。 あまりにも重い荷物を背負った時、 一度リセット、全部降ろして 素の自分に向かいあう。 そのような機会を持つことが 強さの秘訣、なのかも。

ある戦国武将の出奔

【第4章・新見正友の出奔】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

天正13年(1585)11月13日は家康の重臣・石川数正が秀吉のもとへ出奔した日。家康が今川氏の人質時代から側近くに仕えた重臣。外交窓口として対秀吉との交渉の任にあった。数正出奔により徳川の軍制などの機密が漏れた家康は武田流を取り入れていく。出奔の理由は諸説あり定まっていない。

鬼子

7か月前

香春とキリシタン展の解説・講演内容

7か月前

弘治2年(1556)8月17日は長尾景虎(上杉謙信)が長尾政景らの説得で隠退を思いとどまる書状を書いた日。27歳の景虎は家臣同士や国衆の紛争調停で心身疲れ突然出奔し高野山へ向かった。こうした間も武田信玄に内通した大熊朝秀が謀反を起こすが復帰した景虎が早速これを迎撃し打ち破った。

10/18-2 その中の一人に、幼子を抱えて働いていたA子という女性がいた。年齢が二十歳だったからずいぶん若い時に結婚したのだろう。A子が家出同然に嫁ぎ先を出奔したのは、夫のDVが原因だった。A子の話を聞いた妹は、かつての自分と同じ目に遭ったA子を放っておけなかったのだろう。

①被虐待児ということを受け入れて、不動の超人になるまでのワタシ【1】