天亮

秋月亮風です。「論語独り言」(税込み1,650円)を出版しました。ご希望の方は下のメー…

天亮

秋月亮風です。「論語独り言」(税込み1,650円)を出版しました。ご希望の方は下のメールにてご連絡下さい。郵送代をご負担ください。メールアドレス:leongfung1@yahoo.co.jp 著作に「自閉症児を育てることは楽しい」「蓮台蛙集」「孔子家語註解」有り 。

最近の記事

(九十一)宋代の小唄「滿江紅」「念奴嬌」を作る

滿江紅は「豪放詞派」(豪快詞派)がよく作る詞である。この詞の特徴は、前半次第に盛り上がって行き、後半の対句の後から段々その勢いが弱まって行く。 この詞を好んで作っていたのが、中国第一の詞人、南宋歴城(現山東省済南市歴城区)の人、辛棄疾である。辛棄疾は金の占領下に育ち、成人して武装蜂起に参加し、南宋に帰順した。その後、建康通判、滁州知州などを歴任したので、揚子江下流一帯を見て回ったことがあり、その時のことを詞にしている。その中で、当方が気に入っているのを一首だけ挙げておこう。

    • (九十)宋代の小唄「清平樂」を作る

      清平樂は宋代に大陸で流行った小唄の一つで、多くの詞人が作っている。中でも、北宋臨川人(現江西省南昌市進賢縣)の人、晏幾道がこの曲ですぐれた詞を残している。 清平樂(留人不住) 留人不住,醉解蘭舟去。 一棹碧濤春水路,過盡曉鶯啼處。 頭楊柳青青,枝枝葉葉離情。 此後錦書休寄,畫樓雲雨無憑。  <大意> 引き留めるも留め得ず、 彼の女(ひと)は酔いてもやいを解き行かん。 暁に棹させば春の揚子江に波が立ち、 鶯が鳴く処を過ぎ行かん。 渡しの枝垂れ柳は青々として、 枝枝の葉に別れの表

      • (八十九)中村汀女の句を味わおう

        中村汀女の略歴を先ず示しておこう。 1900(明治33)年、熊本市画図町に生まれた。 1920(大正9)年,20歳、大蔵省官僚の中村重喜と結婚。 1932(昭和7)年,32歳、ホトトギス同人となる。  大正9年に小倉在住の久女を知り、結婚後、東京に引っ越して来て、かな女と知り合った。 1944(昭和19)年,44歳、汀女句抄発刊。 1988(昭和63)年,88歳、没。 彼女は明治生まれであるが、30歳過ぎてから同人になって活躍したことを考えると、昭和に活躍した俳人と言って

        • (八十八)『今様狂歌つくし集』の狂歌を紹介する

          香鳴俊成(かなりのとしなりと読む)なる人物が世に問うている標記の本がある。この名前は藤原俊成のもじりであることがすぐわかる。もし、かの人物が生きていたなら、かなりの歳であろう。このペンネームからして、狂歌のセンスが高い人物と推測される。  この書物は前書きがなく、いきなり撰定した歌の紹介から始まる挑戦的な書である。  百首ある本歌取り狂歌の中、ここでは当方が気に入ったのを紹介する。 ・胸先につかえる芋を憎くあらば 味よきゆゑにわれ食いひめやも 杭地(くいじの)春

        (九十一)宋代の小唄「滿江紅」「念奴嬌」を作る

          (八十七)遊女豊田屋歌川の俳句を味わおう

          豊田屋歌川(とよだやかせん)は遊女であったためか、その生い立ちなどがはっきり分からない。1700(元禄13)年、越前三国に生まれ、1777(安永6)年逝去したらしい。当然、俳句集も残っていない。『続近世畸人伝』には、次の様に記載している。 荒町屋某がもとの遊女泊瀬川と云う。容色有りて心映えうるわしく、香・茶・花・手跡共に志すと雖も、もっとも性俳諧を好めり。後雉髮して歌川といふ。   彼女は、生没年1703年~1775年の加賀の千代女と同時代人である。しかし、千代女が優遇された

          (八十七)遊女豊田屋歌川の俳句を味わおう

          (八十六)「奥の細道」をたどった女俳諧師諸九尼の俳句を読む

          金森の『江戸の女俳諧師「奥の細道」を行く』によると、最初の女性宗匠が斯波園女であり、そして二番目の女性宗匠が諸九尼である。宗匠とは俳諧の収入で生活する者の事である。  諸九尼の本名を永松なみといい、1714(正徳4)年に生まれた。父親は庄屋の三男として生まれた。兄である次男が庄屋を継いだが、亡くなったので、彼女の父親が庄屋を継いだ。彼女が7歳の時であった。彼女は親戚の松永万右衛門に嫁いだ。  29歳の頃、41歳の医者兼俳諧師有井湖白と駆け落ちした。その後、湖白は浮風と改名し、

          (八十六)「奥の細道」をたどった女俳諧師諸九尼の俳句を読む

          (八十五)横目屋猫之介、猫川柳を作る

          猫は犬と共に、人に飼われて長い年月が経つためか、表情が非常に多い。野生の猫は小動物を取って食べる猛獣で、腕利きのハンターだ。その一方で、家猫は甘え上手で、そのギャップが大きい。 猫は独特の動きや仕草があり、見ていて興味深く、猫好きにとって、猫は見厭きることがなく、YouTubeで猫動画をあれこれ見てしまう。そんな猫好きの横目屋猫之介が川柳を作ってみた。  ・古塀や虎猫飛んで昼寝かな  ・欠伸して臍天で寝る俺の猫  ・ごめん寝になりて黒猫冬籠り  ・満足げ猫が目を閉じ冬籠り

          (八十五)横目屋猫之介、猫川柳を作る

          (八十四)戯れに俳句を作る

          俳句を子規流に「写実を旨とする」などとするだけでは、時代遅れになることは間違いない。 俳句にも川柳的な、都々逸的な、或いは狂歌的なのがあっていい。 ・大晦日一夜明けたら花の春 ・初雪や天下はみんな俺のもの ・落ちそうでなかなか落ちぬ椿かな ・暮れそうでなかなか暮れぬ春の暮れ ・春秋と姿変わらぬ夏の月 ・春雨や傘を差さずに濡れてみる ・菜の花や雲より覗くおぼろ月 ・清しきは五月の桜鯉幟 ・目出度いな紅白躑躅団子食べ ・桃の盆栽  雛様の近くで守る桃の花 ・五

          (八十四)戯れに俳句を作る

          (八十三)唐詩さかなを鑑賞する

          唐詩作加那(さかな)とは聞きなれない言葉であるが、唐詩が仮名となるという意味である。明治の一時期に流行った歌の形式で、都々逸の上の句(七七)と下の句(七五)の間に詩の二句を挿む形式を言い、有名な七言詩の句から取り、読み下し文とする。「唐詩さかな」のなかで気に入った句の中から紹介していこう。 ・のろい奴だと笑わば笑え    願わくば軽羅となって細腰につかん    願わくば明鏡となって嬌面を分かたん  惚れりゃ誰しも同じ事 「のろい奴だと笑わば笑え 惚れりゃ誰しも同じ事」が都

          (八十三)唐詩さかなを鑑賞する

          (八十二)芭蕉の句を本歌取りする

          和歌の世界では、本歌取りして和歌・狂歌を作るという事が古代から行われてきた。そこで、今回は芭蕉やその弟子の句を「本句取り」して俳句を作ってみた。ご鑑賞あれ。 ・五月雨や眺めて涼し最上川   本歌: 五月雨を集めて早し最上川 ・古池や蛙鳴くなる蓮の上   本歌:古池や蛙飛び込む水の音 ・やがて死ぬ気色(けしき)は見せず蟬の声   本歌:やがて散る気配も見せず花椿 ・ 床の間やガラス障子に夕日入り   本歌:水仙や白き障子のとも移り ・死に際に思い残しが駆け巡る   本歌:旅

          (八十二)芭蕉の句を本歌取りする

          (八十一)真砂女の句を鑑賞しよう

          今回は、久女より16年後に生まれ、同じく昭和に活躍した俳人真砂女の句を紹介する。『鈴木真砂女全句集』の年譜等から略歴をまとめた。 ・1906(明治39)年、千葉の旅館吉田屋の娘として生まれる。 ・1929(昭和04)年,23歳、問屋の息子と結婚する。 ・1935(昭和10)年,29歳、賭博癖のある夫が失踪する。姉が亡くなり、姉が俳句を作っている縁から、俳句を継ぎ、『春蘭』を創刊。 ・1936(昭和11)年,30歳、大場伯水郎に姉の遺句集出版を相談、任せる。吉田屋の女将となる。

          (八十一)真砂女の句を鑑賞しよう

          (八十)久女の句を鑑賞しよう

          大正から昭和の頃に活躍した優れた俳人杉田久女(ひさじょ)の略歴を『杉田久女全句集』、<年譜>から纏めた。 1890(明治23)年,5月30日、鹿児島市平之馬場町に生まれる。本名は杉田久。 1907(明治40)年,17歳、東京女子師範学校附属高等女学校卒業 1909(明治42)年,19歳、旧制小倉中学(現・福岡県立小倉高等学校)の美術教師で画家の杉田宇内と結婚。夫・宇内は愛知県小原村(現・豊田市)で代々庄屋を務めた素封家の跡取り。夫の任地である福岡県小倉市(現・北九州市)に移る

          (八十)久女の句を鑑賞しよう

          (七十九)「春は名のみの風の寒さや」を下の句にして上の句を作る

          今回は文部省唱歌「早春賦」の歌い出しを敢て下の句にして、上の句を作る試みをする。 この歌は詞も曲も美しく、2006年から2007年にかけて文化庁と日本PTA全国協議会が選定した「日本の歌百選」に選ばれている。参考として、元歌を次に添付しておく。 春は名のみの風の寒さや、谷の 鴬歌は思えど 時にあらずと声も立てず、時にあらずと声も立てず 簡単ではあるが、人をして癒してくれる歌と思う。「春は名のみの」の「の」は「の止め用法」であり、「の」の後に「春」が省略されていると解釈出来

          (七十九)「春は名のみの風の寒さや」を下の句にして上の句を作る

          (七十八)しづの女の句を鑑賞しよう

          先ず、『現代女流俳句全集 第一巻』「竹下しづの女集略年譜」から、略歴をまとめた。 1887(明治20)年、福岡県京都郡稗田村に生まれる。本名シヅノ。 1903(明治36)年,16歳、福岡県女子師範学校入学。 1908(明治41)年,21歳、京都郡稗田尋常小学校で教師となる。 1912(大正元)年,25歳、水口友蔵と結婚。翌年、長女が生まれる。更に翌年、長男が生まれる。 1928(昭和3)年,41歳、「ホトトギス」同人となる。 1933(昭和8)年,46歳、夫脳溢血で逝去。 1

          (七十八)しづの女の句を鑑賞しよう

          (七十七)かな女の句を鑑賞しよう

          杉田久女と並び称される長谷川かな女の俳句を鑑賞しよう。先ず、『現代女流俳句全集 第一巻』「長谷川かな女集略年譜」から、略歴をまとめた。 1887(明治20)年、東京日本橋本石町に生まれる。 1897(明治30)年,10歳、父死去。 1902(明治35)年,15歳、小石川三井家に行儀見習いに上がる。心臓が悪化してお暇を頂いて家に戻る。 1909(明治42)年,22歳、毎日俳壇に投句して「名月や崖に極まる家二軒」が初入選。 1910(明治43)年,23歳、英語教師であった富田諧三

          (七十七)かな女の句を鑑賞しよう

          (七十六)みどり女の句を鑑賞しよう

          明治以降の女流俳人に興味があり、彼女たちの句を読んでいる。男子と女子では興味・感心の対象が異なっていたり、感じ方も異なっていたりする。女性の句を台所俳句と言ってバカにする者もいるが、読んでみると、玉石混淆である。  阿部みどり女は、久女・しづの女・かな女と同時代の人物であり、明治以降に出現した著名女流俳人である。『現代女流俳句全集 第一巻』の「阿部みどり女集略年譜」から、略歴をまとめた。 1886(明治19)年、札幌市に生まれる。本名みつ。父は陸軍中将北海道長官であった。 1

          (七十六)みどり女の句を鑑賞しよう