天亮

秋月亮風です。「論語独り言」(税込み1,650円)を出版しました。ご希望の方は下のメー…

天亮

秋月亮風です。「論語独り言」(税込み1,650円)を出版しました。ご希望の方は下のメールにてご連絡下さい。郵送代をご負担ください。メールアドレス:leongfung1@yahoo.co.jp 著作に「自閉症児を育てることは楽しい」「蓮台蛙集」「孔子家語註解」有り 。

最近の記事

(九十八)晏幾道が作詞した「鷓鴣天」を紹介する

男女の情を巧みに詞に表現したのは、北宋臨川人(現江西省南昌市進賢縣)の人、晏幾道である。彼の父親は首相でもあり、詞人もあった晏珠である。その七番目の息子ではあったが、官人として栄達できなかった。 彼の詞は父親と同じく、感情表現において巧みであり、共に「婉約詞派」(婉曲詞派)と呼ばれている。晏珠の詞が上品で迫らないのに対して、息子の詞は、繊細で美しい。 漢語は、細かく感情表現するには難がある言語であるが、彼の素晴らしい表現力は驚嘆に値する。晏幾道は、「鷓鴣天」の曲で優れた作品を

    • (九十七)小唄「鷓鴣天」に関する故事を紹介する

      『鷓鴣天』という曲はテレサテンが【淡淡幽情】というアルバムの中で、『有誰知我此時情』という題で歌ったことで広く知られるようになった。彼女の歌った詞は、首都で有名な聶勝瓊という遊女(歌妓)が書いたものである。     鷓鴣天(寄李之問) 玉慘花愁出鳳城,蓮花樓下柳青青。 尊前一唱陽關曲,別個人人第五程。 尋好夢,夢難成。有誰知我此時情。 枕前淚共階前雨,隔個窗兒滴到明。 <意訳> あなたが鳳城を離れるとき、玉の飾りの艶も消え失せ、咲く花も悲しげであり、樓下の青々とした柳の木も活

      • (九十六)蘇州拙政園にて小唄「鵲橋仙」を作る

        蘇州へ行ったときに、拙政園を見学したことがある。拙政園は蘇州四大庭園の一つで、太湖の石を多く用いているので有名だ。 林語堂がその著書【人生をいかに生きるか】第十章「自然の楽しみ」で、次の様に述べている。  家や庭園の石の効用を徹底的に鑑賞しようと思えば、中国書道にまで遡らなねばならない。けだし書道は抽象世界のリズムと、線と構成の研究にほかならない。  真の良石は、荘重と超脱を連想せしめるものでなければならないが、それより大切なことは線が正しいということである。線と言っても、直

        • (九十六)蘇州拙政園にて小唄「鵲橋仙」を作る

          蘇州へ行ったときに、拙政園を見学したことがある。拙政園は蘇州四大庭園の一つで、太湖の石を多く用いているので有名だ。 林語堂がその著書か【人生をいかに生きるか】第十章「自然の楽しみ」で、次の様に述べている。  家や庭園の石の効用を徹底的に鑑賞しようと思えば、中国書道にまで遡ら なねばならない。けだし書道は抽象世界のリズムと、線と構成の研究にほかならない。  真の良石は、荘重と超脱を連想せしめるものでなければならないが、それより大切なことは線が正しいということである。線と言

        (九十八)晏幾道が作詞した「鷓鴣天」を紹介する

          (九十五)天亮先生、天啓により李白と交流する詞を作る

          李白(出身地不明)はいうまでもなく、中国第一の詩人である。彼の詩は豪放、明快、生き生きとしていると評されているが、その一方で、(六十八)で示したように緻密で繊細な詩も作っている。  若いころの事である。私はぼおっとして、香港の歌『夜雨聲』を聞いていた。この歌が好きで、同じ歌を繰り返し聞いていた。李白の詩などことが思い出していたが、何回か聞いたあと、突然、眼前に文字が浮かんできた。そこで、急いで鉛筆を以って、その文字を書き取った。その時の詞を示す。ちゃんとした詞にするため、少し

          (九十五)天亮先生、天啓により李白と交流する詞を作る

          (九十四)実家に戻った妻のため小唄「滿江紅」を作る

          結婚して、まだ1,2年も経たぬころ、妻が実家に戻った。彼女が実家に居る間、一人、歌などを吟じたり、本を読んだりしていた。夜、ベランダから空を見上げると満月が掛っている。これに興を得て小唄を作った。 滿江紅(千里共嬋娟,寄於余妻) 滿里青天,放眼處,三分春色。 朝暉裡,有呼吸聲,無言佇立。 人生路途遇見你;百年合好由天訣。 幸同卿,琴瑟已相合,今暫別。 傾城女,本難得;興家婦,更難得。 祈賢妻有才,婦人之德。 往日猶如有情話;而今無奈無人説。 但試問,誰能解憂悶,人間月

          (九十四)実家に戻った妻のため小唄「滿江紅」を作る

          (九十三)妻を慰めんが為、小唄「踏莎行」を作る

          彼女のおばあちゃんが亡くなった。冬の事であった。実家に戻った彼女を慰めるため、小唄を作ろうと思った。 先ず、頭に浮かんだのは、北宋揚州高郵(現江蘇省揚州市高郵)の人、秦觀が作った踏莎行(郴州旅舍)であった。この詞牌で作ろうと考えた。それを次に示す。 踏莎行(郴州旅舍) 霧失樓臺,月迷津渡。桃源望斷無尋處。 可堪孤館閉春寒,杜鵑聲裏斜陽暮。  驛寄梅花,魚傳尺素。砌成此恨無重數。 郴江幸自繞郴山,為誰流下瀟湘去。 郴 (ちん)江:湖南省の南端、郴州を流れて、湘江に合流する川。

          (九十三)妻を慰めんが為、小唄「踏莎行」を作る

          (九十二)天亮先生、新婚旅行にて小唄『鵲橋仙』を作る

          30年も昔の話である。当方も人並みに結婚して、新婚旅行に行った。行先は台湾の南端部に位置する『墾丁国家公園』である。ここは常夏の楽園だ。中でも、屏東県の『佳楽水』は有名な景勝地で、素晴らしい景色を堪能することができる。太平洋に面した海岸沿いに奇妙な岩が2.5kmも続く。現地の人の話では、一枚の花崗岩で出来ているらしい。 『佳楽水』は「高落水」という言葉から来ているらしい。付近にある滝の水が、高い所から落ちて来ることを「高落水」と書き、それが「佳楽水」に変化したらしい。台湾音で

          (九十二)天亮先生、新婚旅行にて小唄『鵲橋仙』を作る

          (九十一)宋代の小唄「滿江紅」「念奴嬌」を作る

          滿江紅は「豪放詞派」(豪快詞派)がよく作る詞である。この詞の特徴は、前半次第に盛り上がって行き、後半の対句の後から段々その勢いが弱まって行く。 この詞を好んで作っていたのが、中国第一の詞人、南宋歴城(現山東省済南市歴城区)の人、辛棄疾である。辛棄疾は金の占領下に育ち、成人して武装蜂起に参加し、南宋に帰順した。その後、建康通判、滁州知州などを歴任したので、揚子江下流一帯を見て回ったことがあり、その時のことを詞にしている。その中で、当方が気に入っているのを一首だけ挙げておこう。

          (九十一)宋代の小唄「滿江紅」「念奴嬌」を作る

          (九十)宋代の小唄「清平樂」を作る

          清平樂は宋代に大陸で流行った小唄の一つで、多くの詞人が作っている。中でも、北宋臨川人(現江西省南昌市進賢縣)の人、晏幾道がこの曲ですぐれた詞を残している。 清平樂(留人不住) 留人不住,醉解蘭舟去。 一棹碧濤春水路,過盡曉鶯啼處。 頭楊柳青青,枝枝葉葉離情。 此後錦書休寄,畫樓雲雨無憑。  <大意> 引き留めるも留め得ず、 彼の女(ひと)は酔いてもやいを解き行かん。 暁に棹させば春の揚子江に波が立ち、 鶯が鳴く処を過ぎ行かん。 渡しの枝垂れ柳は青々として、 枝枝の葉に別れの表

          (九十)宋代の小唄「清平樂」を作る

          (八十九)中村汀女の句を味わおう

          中村汀女の略歴を先ず示しておこう。 1900(明治33)年、熊本市画図町に生まれた。 1920(大正9)年,20歳、大蔵省官僚の中村重喜と結婚。 1932(昭和7)年,32歳、ホトトギス同人となる。  大正9年に小倉在住の久女を知り、結婚後、東京に引っ越して来て、かな女と知り合った。 1944(昭和19)年,44歳、汀女句抄発刊。 1988(昭和63)年,88歳、没。 彼女は明治生まれであるが、30歳過ぎてから同人になって活躍したことを考えると、昭和に活躍した俳人と言って

          (八十九)中村汀女の句を味わおう

          (八十八)『今様狂歌つくし集』の狂歌を紹介する

          香鳴俊成(かなりのとしなりと読む)なる人物が世に問うている標記の本がある。この名前は藤原俊成のもじりであることがすぐわかる。もし、かの人物が生きていたなら、かなりの歳であろう。このペンネームからして、狂歌のセンスが高い人物と推測される。  この書物は前書きがなく、いきなり撰定した歌の紹介から始まる挑戦的な書である。  百首ある本歌取り狂歌の中、ここでは当方が気に入ったのを紹介する。 ・胸先につかえる芋を憎くあらば 味よきゆゑにわれ食いひめやも 杭地(くいじの)春

          (八十八)『今様狂歌つくし集』の狂歌を紹介する

          (八十七)遊女豊田屋歌川の俳句を味わおう

          豊田屋歌川(とよだやかせん)は遊女であったためか、その生い立ちなどがはっきり分からない。1700(元禄13)年、越前三国に生まれ、1777(安永6)年逝去したらしい。当然、俳句集も残っていない。『続近世畸人伝』には、次の様に記載している。 荒町屋某がもとの遊女泊瀬川と云う。容色有りて心映えうるわしく、香・茶・花・手跡共に志すと雖も、もっとも性俳諧を好めり。後雉髮して歌川といふ。   彼女は、生没年1703年~1775年の加賀の千代女と同時代人である。しかし、千代女が優遇された

          (八十七)遊女豊田屋歌川の俳句を味わおう

          (八十六)「奥の細道」をたどった女俳諧師諸九尼の俳句を読む

          金森の『江戸の女俳諧師「奥の細道」を行く』によると、最初の女性宗匠が斯波園女であり、そして二番目の女性宗匠が諸九尼である。宗匠とは俳諧の収入で生活する者の事である。  諸九尼の本名を永松なみといい、1714(正徳4)年に生まれた。父親は庄屋の三男として生まれた。兄である次男が庄屋を継いだが、亡くなったので、彼女の父親が庄屋を継いだ。彼女が7歳の時であった。彼女は親戚の松永万右衛門に嫁いだ。  29歳の頃、41歳の医者兼俳諧師有井湖白と駆け落ちした。その後、湖白は浮風と改名し、

          (八十六)「奥の細道」をたどった女俳諧師諸九尼の俳句を読む

          (八十五)横目屋猫之介、猫川柳を作る

          猫は犬と共に、人に飼われて長い年月が経つためか、表情が非常に多い。野生の猫は小動物を取って食べる猛獣で、腕利きのハンターだ。その一方で、家猫は甘え上手で、そのギャップが大きい。 猫は独特の動きや仕草があり、見ていて興味深く、猫好きにとって、猫は見厭きることがなく、YouTubeで猫動画をあれこれ見てしまう。そんな猫好きの横目屋猫之介が川柳を作ってみた。  ・古塀や虎猫飛んで昼寝かな  ・欠伸して臍天で寝る俺の猫  ・ごめん寝になりて黒猫冬籠り  ・満足げ猫が目を閉じ冬籠り

          (八十五)横目屋猫之介、猫川柳を作る

          (八十四)戯れに俳句を作る

          俳句を子規流に「写実を旨とする」などとするだけでは、時代遅れになることは間違いない。 俳句にも川柳的な、都々逸的な、或いは狂歌的なのがあっていい。 ・大晦日一夜明けたら花の春 ・初雪や天下はみんな俺のもの ・落ちそうでなかなか落ちぬ椿かな ・暮れそうでなかなか暮れぬ春の暮れ ・春秋と姿変わらぬ夏の月 ・春雨や傘を差さずに濡れてみる ・菜の花や雲より覗くおぼろ月 ・清しきは五月の桜鯉幟 ・目出度いな紅白躑躅団子食べ ・桃の盆栽  雛様の近くで守る桃の花 ・五

          (八十四)戯れに俳句を作る