細川興秋の天草・島原の乱の時期の避難場所についての考察




細川忠興所有の阿弥陀尿来坐像 正面
八代市立博物館未来の森ミュージアム寄託 撮影:麦島勝氏
細川忠興所有の阿弥陀尿来坐像 側面
八代市立博物館未来の森ミュージアム寄託 撮影:麦島勝氏


細川興秋の姉・長の位牌 八代市盛光寺所蔵


細川興秋の八代での避難場所説明図

細川興秋の天草・島原の乱の時期の避難場所 
1637年(寛永14)10月頃から1638年(寛永15)3月頃の避難場所の推定に関する考察

泰勝院
細川家の菩提寺である泰勝院。細川忠興三斎の父・幽斎玄旨(藤孝)は1605年(慶長15)8月20日未の下刻に京都三条車屋町の細川邸で死去(77歳)した。葬礼は9月18日牛の上刻、小倉野上の原において厳粛に執り行われた。忠興三斎は父幽斎の追善のため、翌1606年(慶長16)亡き父の一周忌に、小倉に菩提所「瑞雲山泰勝院」を創建した。寺号は亡き父の法号『泰勝院殿徹宗大居士』から取って名付けた。
 
細川忠利は1632年(寛永9)10月豊前小倉から肥後熊本に国替えとなり、12月9日熊本に入り、父忠興は八代に1632年(寛永9)12月25日入城した。翌1633年(寛永10)小倉の泰勝院を八代城出丸(現・八代市北の丸町「市立第一中学校」)に移築・再建した。確かに泰勝院は細川家にとって一番大切な菩提寺ではあるが、場所が八代城内の出丸であるだけに、人目を憚る興秋にとっては、あまりにも家臣の目に付きやすいという理由で、天草から避難してきた興秋一行にとって避難する場所としては必ず避けたと思われる。
*木下潔著『江戸時代の八代・八代城下町の変遷と寺社考』泰勝院51~52頁 私家本
 
盛光寺(西光寺)
盛光寺は、はじめ西光寺(菩提山・智照院)と称し浄土宗筑後善導寺末寺。細川三斎忠興が,愛妾小山(1623年(元和9)6月17日に病没)の菩提のため西光寺を中津城下に建てた。

忠興は八代に1632年(寛永9)12月25日入城、西光寺も中津より八代城下細工町(現・八代市本町1・9・20)に移ってきた。
西光寺第四世嘆蓮社讃譽上人怡和尚は「かねて三斎の御懇意浅からず、中津より来て、当寺を下され、西小路に仏壇をたてられた。寺床は東西に一町貫通し、西を西光寺、東を安昌院とし、(「事迹略考」)中津から西光寺を移転、ただいまのところに創建した。」(寺記)
 
本尊は「阿弥陀三尊来迎立像・恵心作」という。年貢免許の地である。寺領として、西光寺院殿月忌料、米高50石を八代郡北村にて知行(「事迹略考」63頁)、女安昌院殿月忌料に、蔵米5石を寄附があった。(「國志」67頁)
 
一説に、第四世嘆蓮社讃譽上人怡和尚は西光寺院殿の弟で、茶道をもって「はなはだ尊翁の御意にかない」(「國志」67頁)「御懇意浅からず、御助力で寺内に茶室を建てられ、三年を待たず結構なる茶の湯所が成就し、おりおりに茶の会を駕したまう」このときはまだ安昌院が西光寺にあり、安昌院茶室一宇建てられた時である。(「事迹略考」63頁)
*木下潔著『江戸時代の八代・八代城下町の変遷と寺社考』盛光寺70~73頁    私家本
 
西光寺は三斎公(忠興)の祈祷所だった。西光寺には忠興が拝んでいた阿弥陀如来像が祭られている。この阿弥陀如来像は鎌倉前期(12世紀~13世紀初期)の古いもので、桧の寄木造り、彫眼、漆伯、像高さ69.5cmの洗練された姿をしている。京都の高名な仏師の作と思われるが、仏師の名前は不明。この阿弥陀如来像は平安時代の優美さを残しつつ、新しい鎌倉時代の力強い表見を併せ持ち、武士が好んだ質実剛健の精神を感じさせる。
 
*八代市立博物館未来の森ミュージアム、パンフレット、常時展示・信仰のかたち、より 撮影・麦島勝 

細川忠興所有の阿弥陀尿来坐像 側面
八代市立未来の森ミュージアム寄託 撮影:麦島勝氏

長の位牌『安昌院心月妙光大姉』
八代市・安昌院所蔵

細川興秋の姉・長の位牌 「安昌院殿心月妙光大姉」 八代市盛光寺所蔵

安昌院
浄土宗、盛光寺支配。細川忠興の長女「長姫・お長」の夫、前野出雲守長重とその父但馬守は関白豊臣秀次(豊臣秀吉の甥)の家臣となっていたが、秀次が乱行の罪を問われて、髙野山に於いて死を賜ったとき、長重もこの問題に連座して1595年(文禄4)に生害した。
忠興は長を証人(秀吉に人質)に出さず、長姫は剃髪して尼になり『安昌院』と称した。
 
長・安昌院は1603年(慶長8)9月29日、豊前国中津城において病死した。法名『安昌院心月妙光大姉』。現在も位牌は盛光寺に安置されている。(写真参考)

忠興は八代入城後に長姫の追善の寺を八代城下西小路に建てる様に、西光寺中興四世讃譽上人に命じて、西光寺の東を分けて境内に創建、菩提寺安昌院と名付けて、位牌を安置し、斎米として月俸五石を寄附した。(「八代事迹略考」「肥後国史」「八代古跡略記」)
 
安昌院門は東の役割丁通りに開き、西光寺門は西の西小路通りにあるので、この三斎菩提所の二寺は、一町貫通の屋敷割で城下町における大名級菩提所の立地である。安昌院は、最初から別に住職をおかず、西光寺の掛けもちとして、西光寺住職の隠居所として、西光寺の隠居に長姫の位牌を守らせることにしてあった。
 
安昌院は1635年(寛永12)光国寺という真宗僧が西光寺に来たところ、西光寺の住職讃譽の願いにより、やむを得ず光国寺を安昌院におき、安昌院は上荒神町に移転した。(八代市史)
 
細川興秋が「天草島原の乱」で八代に避難した1637年 (寛永14) 10月下旬頃から、天草の乱が終息した翌年1638年(寛永15)3月頃の間は、安昌院は上荒神町にあった。
 
松井文庫蔵の八代町城郭図(八代市史近世資料編によると天保六年(1835)以降の作成)では、盛光寺の北隣に安昌院が記されており、八代市史近世資料編(松井家文書「御町会所古記之内書抜」)の寛政11年(1799) の記録に「安昌院盛光寺隣屋敷と交換」とあり、寛政11年 (1799) に安昌院は西小路の盛光寺の北隣に移転(現・八代市本町3・3・28)したことが分かる。
*木下潔著『江戸時代の八代・八代城下町の変遷と寺社考』安昌院73~74頁 私家本
 
泰厳寺・薬師堂
細川忠興は先の主君、織田信長公追善のために、信長の三回忌に1584年(天正12)6月2日、丹後の国宮津城下に、菩提所泰厳寺を建てた。寺号は信長の法号『総見院殿信齢大居士』からとった。曹洞宗,尾州三津江の正眼寺末寺である。
 
小倉での泰厳寺の場所は、現在の小倉市立医療センター(馬借2丁目)のある場所で、泰勝院、泰厳寺、秀林院、小倉キリシタン教会が並んで立っていた。
*木島甚久著『小倉きりしたん遺跡』93頁『秀林院址について』
 
忠興は八代に1632年(寛永9)12月25日入城、翌年1633年(寛永10)6月3日(甘棠園の織田信長墓刻銘より)八代の平河原町に小倉の泰厳寺を引き移した。開山は葉屋和尚。寺領二百石,当郡野津手永今村のうちを寄附した。(「松井家譜興長篇」「八代事迹略考」「八代古跡略記」)また寺領の他、茶の湯料玄米六石,作事料白銀十枚を寺納した。
(「八代古跡略記」)
 
『しかし、国立公文書館蔵の肥後國八代城廻絵図(正保元年・1644年)幕府が全国の大名に提出を命じた絵図には、加藤氏及び細川氏縁の淨信寺、本成寺、泰勝院に当たる所には「寺」と記されているが、泰厳寺にあたる所には、八代市史の言うような一町貫通の大名級寺院で、細川三斎の建立による寺院であるにもかかわらず、その存在が記されていない。』
 
『また、松井文庫蔵の八代町図(八代市史近世資料編は、宝永年間(1704~1708年)の作成と考証している)では、天和元年(1681)の火災後に向側の福壽寺の跡に移る以前の見松寺のあった所の東隣に「薬師」と記されている。そして、松井文庫蔵の八代城郭図(天保六年・1835年以降の作成)では、さきの八代町図にあった「薬師」が西に拡張し、「泰厳寺下屋敷」と記されて平河原町を東西に貫通している。
この三図から考えるに、最初から泰厳寺という寺号を持つ寺院ではなく、三斎は、平河原町に先君織田信長の供養のための五輪塔を建て、その墓守のために薬師堂を置いていたものと思料する。そして1675年(延宝3)5月22日の亥の刻(午後10時)落雷のために薬師堂は全焼した。』55~60頁
*木下潔著『江戸時代の八代・八代城下町の変遷と寺社考』泰厳寺55~60頁、薬師堂140頁
 
参考文献
木下潔著『江戸時代の八代・八代城下町の変遷と寺社考』私家本
泰勝院51~52頁、泰厳寺55~60頁、盛光寺70~73頁、安昌院73~74頁、薬師堂140頁
木島甚久著『小倉きりしたん遺跡』93頁「秀林院址について」
小倉キリシタン教会、1611年度イエズス会の記録。
『肥後国史』
『八代市史』八代市史近世資料編
『八代事迹略考』八代古跡略記
 
薬師堂・泰厳寺が正保元年・1644年の地図に掲載されていない理由
「しかし、国立公文書館蔵の肥後國八代城廻絵図(正保元年・1644年)幕府が全国の大名に提出を命じた絵図には、加藤氏及び細川氏縁の淨信寺、本成寺、泰勝院に当たる所には「寺」と記されているが、泰厳寺にあたる所には、八代市史の言うような一町貫通の大名級寺院で、細川三斎の建立による寺院であるにもかかわらず、その存在が記されていない。」
 
推論
細川興秋は1642年(寛永19)6月15日に天草御領の「長興寺」に於いて死去した。幕府が全国の大名に城廻絵図の提出を命じた1644年(正保元)は、興秋の死後2年目であり、興秋の警護を担当していた長岡監物是季(米田監物是季)と全責任者の国家老長岡佐渡守興長(松井新太郎興長)は1644年(正保元)には共に健在で、興秋の死去2年後といえども幕府との緊張関係は続いていて、興秋の隠蔽に深く係わっていた2人によって、泰厳寺にあたる所には、八代市史の言うような一町貫通の大名級寺院で、細川三斎の建立による寺院であるにもかかわらず、その存在が記されていない。肥後國八代城廻絵図(正保元年・1644年)幕府が全国の大名に提出を命じた絵図への「泰厳寺・薬師堂」の不掲載は、長岡監物是季と長岡佐渡守興長の二人によって決定されたと推測される。
 
同じ様に「天草御領城跡」が10年後の1651年(慶安4)の地図には掲載されていない。
 
1651年(慶安4)「*肥後国 江戸江差上候御帳之控え」を幕府に提出
1651年(慶安四)肥後藩が古城の実態を報告提出した「肥後国 江戸江差上候御帳之控え」には、御領城の記載はない。御領城は、天草島原の乱後に鈴木重成によって陣屋が置かれた本格的な中世城跡だけに報告書からの欠落は大きな謎であり、細川藩が作為的に御領城を報告書に記載しなかったと考えられる。興秋が隠蔽されていた御領城は興秋の死去9年後も細川藩にとっては最高機密の土地であり、絶対に外部に知られてはならない、触れてはならない最高秘密事項だった。御領城は城が破却放置された後(芳證寺の境内となる以前)秘密裏に切支丹寺が建てられていたので、興秋はこの寺に身を潜めたと考えられる。細川家にとつて御領城跡は隠さなければならない土地であり「慶安四年の差出」から御領城が欠落している最大の理由は興秋の隠蔽と深く係わっていると考えられる。
*『五和町史資料編(その9)御領城跡・鬼池城跡』73頁 五和町教育委員会 平成10年
御領・鬼池の中世城跡調査にあたって関係史料とその解題 鶴田倉造
 
興秋の警護を担当していた長岡監物是季(米田監物是季)と全責任者の国家老長岡佐渡守興長(松井新太郎興長)は1651年(慶安4)には共に健在で、興秋の死去9年後といえども幕府との緊張関係は続いていて、興秋の隠蔽に深く係わっていた2人によって「江戸へ差上候御帳之控え」への御領城の不掲載は決定されたと推測される。
 
肥後国 江戸江差上候御帳之控え
江戸幕府が各藩に命じた実態調査。郷帳、城絵図、国絵図の作成と提出を命じたもの。
数値を記した城絵図では、現存する(熊本)県内・中世城跡の約一割に当たる61城が報告されている。天草は、当時、細川在番時代で15城の記載がある。天草・島原の乱後の影響もあり、2割強の掲載率である。(五和)町内関係では「下内野古城と城木場古城」が記載されている。
*『五和町史料編(その九)御領城跡・鬼池城跡』8頁より 平成10年
 
御領城跡は南北250m,東西85~130mの広さを持ち、標高は北端で16.63m、南端で10.593m。高低差の少ない平たい城跡で、長円形の完全な独立区画で、中世城跡そのものの地形を有している。城跡に関連する「馬場」「堀」の字名と「城内」の小名も残されていて、本格的な麓集落(中世の城下町)が成立していたことを伺わせる。
 
結論
「天草島原の乱」の勃発により、八代に避難を余儀なくされた細川興秋一行は、八代城出丸にある細川家菩提寺である泰勝院は避け、まず父忠興の祈祷所であり、姉お長の菩提を弔うための寺、安昌院に避難したと推測される。細川興秋が「天草島原の乱」で八代に避難した1637年(寛永14)10月下旬頃?から「天草の乱」が終息した翌年1638年(寛永15)3月頃には、安昌院は上荒神町にあった。

薬師如来像の天草御領の長野家に伝わる伝承
『天草の乱の時は、私の先祖の長野幾右衛門は薬師如来を抱いて、向こう岸に避難しましたところ、薬師如来は毎朝,城内の元の御堂の方を向いておられたという、言い伝えがあります』
*細川興秋公の二つの墓 17~18頁 長野幸雄著 私家本

興秋と八代へ避難していた長野幾右衛門の残した言葉に従えば、薬師如来像を奉ることができる平河原町にある「薬師堂」へ時機を見て、上荒神町にあった安昌院から移ったのではないだろうか。  

島原の原城が1638年(寛永15)2月28日に陥落。細川興秋一行は、政情が落ち着いた頃を見計らって天草御領のキリシタン寺「長興寺」に戻ったと考えられる。 時期については不明、あえて推測するならば、八代から島原の原城攻略のために出兵していた細川光尚が率いる細川藩の八代の部隊の帰還(3月中旬頃)と入れ違いに八代を舟で離れ、海路、天草の御領の東禅寺(了宿庵・キリシタン寺)に戻ったのではないかと思われる。 

興秋が御領城跡地に建立していた「長興寺薬師堂」は「天草の乱徒軍」により火を掛けられて消滅していたので、新しく立て直すまで興秋と二人の従者・長野幾右衛門と渡辺九朗兵衛は、正願和尚の東禅寺(キリシタン寺)に身を寄せていたと考えている。

細川興秋の体験した「天草島原の乱」

天草島原の乱、天草島原の一揆、表記の違いについて
乱:天草の乱
みだれ、みだす。秩序を失うこと。乱世、混乱、紛乱、散乱、
  戦さ、乱闘、乱戦、戦乱、争乱、動乱、反乱。内乱。

興秋の体験した「天草島原の乱」
興秋が書いた直筆の「長興寺薬師如来縁起」の中で「依鬼理志丹之乱」「乱後」と表現していて興秋は天草島原一揆の事を「天草の乱」「鬼理志丹之乱」と明確に記している。興秋にとって天草島原一揆とは「キリシタンの起こした乱」という認識で捕らえられている。
 
最近の研究では「天草島原一揆」と表記することが多くなったが、当時地元天草の御領に住んでいて御領周辺のキリシタンたちを指導して乱に参加させなかった興秋には、この戦いの本質を「一揆」という性格よりも「乱」と捉えていたことが興秋の記述から明確に判る。
 
興秋の証言はこの戦いは「一揆」という性格のものではなく、むしろ「天草島原の農民たちが決起して戦った乱」という性格であったことが明示されている。興秋の表現は実際に当時の戦いから地元領民をいかに「乱」に加担させないかに奔走した興秋の率直な認識と発言であり、興秋が「天草の乱」と表現した通り、天草の為政者(寺沢藩)に対する天草の農民たち(その中にはキリシタンたちが多数を占めていた)が蜂起した姿だった。

細川興秋自筆 長興寺薬師尿来縁起 芳證寺所蔵

『長興寺薬師如来縁起』 細川興秋直筆 (芳證寺文書) 芳證寺所蔵
横 73㎝、縦 24,5㎝、非常に薄い紙に書かれている 
 
「長興寺薬師如来縁起」
「巡検使が来島し、長興寺について尋問があった場合に備えての興秋直筆の答弁書心得書である。この文書の発見により、当地での長岡興秋関係事績の真実性が補強された。」
*御領城跡・鬼池城跡 五和町史資料編(その9) 後ろから2頁
 『五和町史』五和町史編纂委員会編 平成14年12月
 
「長興寺薬師如来縁起」について
「長興寺薬師如来縁起」(細川興秋直筆)芳證禅寺所蔵は1638年(寛永15)天草島原の乱後から興秋死去前の1642年(寛永19)6月15日(55~59歳)の4年間に間に書かれた答弁書である。
 
正確には1638年(寛永15)の「天草島原の乱」終了後から興秋死去前の1642年(寛永19)6月15日の4年間(55~59歳)の間に書かれた答弁書である。答弁書内に「天草島原の乱」に関する記述があること、また興秋自身、病気で闘病中であることが書かれているので「天草島原の乱」後の1638年から死去前の1642年(寛永19)の4年間に書かれたことが判明する。
 
この時興秋がどのような病気だったかは不明だが、1621年(元和7)の忠利の書状に記載されている通り、香春の不可思議寺(現・明善寺)に於いて興秋が脳梗塞(脳卒中)で医師・与安法印(片山宗哲)の治療を受けて全快していることを考えると、晩年の興秋は、同じ脳梗塞で闘病生活を余儀なくされたのではないかと考えている。弟の熊本藩藩主・忠利(55歳)も前年1641年(寛永18)3月17日、同じ脳卒中のために熊本城で死去している。
 
 この「長興寺薬師如来縁起」の文字と、細川興秋(当時21歳)が1604年(慶長9)11月16日に豊前中津城で書いた「起請文」(八代の松井文庫所蔵、八代市立未来の森ミュージアム寄託)の文字が、文字鑑定の結果、同一人物の書いた文字と鑑定されている。
 
二つの書状の間には、少なくても38年から40年の隔たりがあり、この40年の隔たり意味するものは、この間の40年は「興秋が生きていたことを証明する」証拠になりうる。
二つの書状が証明する興秋の生存証明確認でもある。両書状に中の少なくても40文字が非常に似通った文字であり、内20文字は同一人物でないと書けない文字と鑑定されている。

一揆:一向宗一揆
中世、近世において地方の農民、宗教信徒などが領主・代官などの為政者の圧政に対して起こした、集団的実力行使を伴った反抗の戦い。

変:本能寺の変
かえる、かわる、あらためる。変革、変更を目的として起こした戦い。
うつりかえる、変遷、変化を目的とした。

陣:大坂の陣
軍隊の配置、陣容、布陣、陣営、陣地、先陣、戦陣、出陣、戦闘。
  軍隊同士の大規模な戦闘。

戦い:関ヶ原の戦い
戦いの起きた地名を名付け(冠して)て呼ばれる大規模な軍隊同士の戦闘。


 
 

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