細川ガラシャ自害の記録・霜女覚え書きについて
霜女(志も)覚え書き・原文・読み下し文
しうりんいん(秀林院)様御はて被成候次第之事
一、 石田しふのせう(治部少)らん(乱)のとし七月十二日におかさわらしょうさい(小笠原少斎)・河きたいわみ(河喜多石見)両人御たい所(台所)まてまいられ候て、わたくしをよび(呼び)出し、申され候ハ、しふのせう(治部少)方より、いつれもひかし(東)へ御たちなされ候大名衆の人しち(質)をとり(取)申候よしふうふん(風聞)つかまつり候か、いかか(如何)仕候はんや、と申され候ゆへ、すなわち、しゆりんいん様へそのとをり申上候、しゆりんいん様御意なされ候ハ、しふのせうとさんさい(三斎)さまとハかねかね御あいたあ(悪)しく候まゝ、さためて(定)人しちとり申はしめハ,此はう(方)へ申まいるへく候、はしめにてなく候ハハ、よそのなミもあるへきか、一はんニ申しきたり候ハハ、御返答いかかあそハされよく候ハんや、しようさい・いわ見ふんへつ(分別)いたし候やうにと御意なされ候ゆへ、すなわち其とをりを、わたくしうけ給両人ニ申渡し候事
一、 しようさい(少斎)・石見申され候ハ、かの方より右の様子申しきたり候ハハ、人しちに出し候ハん人御座なく候、与一郎様おなしく与五郎様ハひかしへ御立なされ候、内記様ハ江戸に人しちに御座候、たゝ今ここもととにて人しち出し候ハん人一人も御座なく候間、幽斎様御上りなされ御出候物か、其外何とそ御さしつ(指図)可有候まゝ、それまて待候へ、と返しいたすへきやう申上られ候へハ、一段しかるへきよし御意に候事
一、ちやうこんと申ひくに(比丘尼)、日此御内様へ御出入仕人御座候を、彼方より此人をたのミ、内せう(証)にて右之様子申こし、人しちニ御出候様にと度々長こん申候へ共、三斎様御ため候まゝ、人しちに出申候事ハ、いかようの事候共,中々御とうしんなきよし仰候、又其後まいり申されしハ、左様に候うきた(宇喜多)の八郎殿ハ与一郎様をく方にてつき候て御一門中ニ而御座候間、八郎殿まて御出候へハ、其分にてハ御人しちに御出候とハ世間にハ申ましく候まゝ、左様に被遊候へと申参候事
一、御上様御意なされ候ハ、うきたの八郎殿ハ尤御一門中ニ而候へ共、これも治部正と一味のやうに被聞召候間、それまて御出候ても同前に候間、これも中々御同心これなくて、右内せうに而のふん(分)に而 ハらち明不申候事
一、同十六日彼方よりおもてむきの使参候而、せひせひ御上様を人しちに御出し候へ、左なく候ハおしかけ候て取り候ハんよし申しこし候ニつき、昌斎・石見申されしハ、あまり申度ままの使にて候、此上ハ我々共,是にて切腹仕候共、出し申ましき由遣候、それよりは御屋敷中の者共覚悟罷在候事
一、御上様御意には、まことおし入候時ハ、御しかい(自害)可被遊候まゝ、其時ハしやうさいをく(奥)へ参り而、御かいしやくいたし候様ニと御仰候、与一郎様御上様をも人しちニ御出し有ましく候まゝ、是ももろ共に御しかい(自害)なされ候へきよし、内々御約束御座候事
一、しやうさい・石見・いなとミ(稲富)両人たんかう(談合)ありて、いなとミニハおもてにててき(敵)をふせき候へ、そのひまに御上様こさいこ(御最後)候様ニ可仕由たん合御座候故、則いなとみハおもての門ニ居申候、則其日の初夜の此てき御門まてよせ申候、いなとみハ其とき心かわりを仕、かたきと一所になり申候、其やうすを晶斎きき、もはやなるましくと思い長刀をもち御上様御座所へ参り,只今かこさいこ(御最後)にて候よし申され候、内々仰合候事にて御座候、与一郎様おくさまをよび、一所にて御はて候ハんと、御へやへ人を被遣候へ共、もはや何方御のき候哉らん無御座候故、御力なく御はてなされ候、長刀にて御かいしゃくいたし申され候事
一、山斎様、与一郎様へ御書物被成、私ニ御渡し被成、被仰候ハ、をくと申女房と私と両人ニハをちのき候て、御書置を相届、御さいこの様子三斎様へ申上候様ニと御意被成候故、この御さいこ(最後)を見捨候てハおち申しましく候間、御とも可致之由候へとも、二ゝ人ハおち候へ、左なく候而ハ此やうす御存知候事なるましく候まゝ、ひらにと仰せられ候故、御さいこを見届けしまい候て罷出申候、内記様御ちに人にハ内記様への御かたミを被遣候事
一、私共御門へ出候時ハもはや御やかたに火かゝ申候、御門の外ニハ大勢みへ申候,後に承り候へハ、敵ニてこれなきよしニ候、火事故あつまりたるひとにて御座候と申候、敵参り候も一定にて候へ共、いなとミを引つれ御さいこ以前ニ引たるよし、是も後に承候、則御屋形様ニテはらをきり候人ハ、昌斎・岩見、いわミをい(甥)六右衛門、同子一人,此分をハ覚え申候、其他も二三人もはてられ候よしニ候へ共、是はしかと覚不申候、こまごましき事ハ書付られす候間あらあら ハ大かた ハ如此候以上 志も〇(黑印)
正保五年二月十九日
原文・熊本県立図書館上妻文庫蔵より 転載許可済
読み下し文・髙田重孝
霜女(志も)覚え書き・現代語訳
秀林院様御果てなされ候次第の事
石田治部少が反乱を致しました年(一六〇〇年・慶長五)の七月一二日、小笠原少斎・河喜多石見の二人が御台所まで参りまして、私(霜)を呼び出して申されますには、治部少(石田三成)の方より「東へ御出発なされた大名方の人質を取る」との風聞を流しておりますが、どうしたものでしょうか、と申しますので、そのことを秀林院様へその通りに申し上げました。秀林院様が言われるには治部少と三斎様とはかねがね仲が悪いのだから、おそらく人質を取り始めたときは初めにこちらに申してくるであろう。初めでないならば他の例もあることだから、一番に申して来たら返答をどの様にするのかを、少斎・石見らが分別いたすようにと仰せられましたので、その通りを私は承りまして両人に申し渡しました。
少斎・石見が申しますには、先方からそのように申し参りましたなら、人質に出す人がおりません。与一郎(忠隆)様、与五郎(興秋)様は、東にお立ちになられていますし、内記(忠利)様は江戸に既に人質においでになっておられ、今ここには人質に出せるような人は一人もおりませんので、出すことはできませんと申すべきでございます。是非とも人質を取らんと申しますなら,丹後へ申し遣わして幽斎様がお上りなされて御出でになるか、そのほか、何かのお指図があるまで、それまで待ってくださいと言って返すつもりですと申しましたので、秀林院様はまったくその通りであると申されました。
ちょうこんと申す尼は日頃から秀林様のところへ出入りいたしておりました。先方はこの尼を頼み、内緒に右のように言ってきました。人質として御奥様がお出ましくださるようにと度々ちょうこんは申しますが、御奥様はそのようなことをすれば、三斎様の御為には、人質に出るようなことはどのようなことがあろうとも御同意はできない、と仰せになられました。その後で、またちょうこんが参り、左様でしたら宇喜多八郎(秀家)殿は忠隆様、御奥方様とは御一門ですので、八郎様方までお出になれば、人々は人質にお出になったとは申しませんから、左様になされてはいかがでしょうか、と申して参りました。
御奥方様は「なるほど宇喜多八郎殿は御一門ではあるが、これも治部少(石田三成)と一味のように聞いているので、これも中々同意しがたい」と仰せられましたので、内諸での話では埒があきませんでした。
同一六日、先方から表向きの使いが参りまして、是非是非、御奥方様を人質にお出しください。もしお出しできなければ押しかけても取る、と申しますので、少斎と石見は、あまりに勝手なことを申す使いですから、この上は我々がここで切腹しても御奥方様をお出し申すことは出来ぬと申しました。それからは御屋敷中の者は皆覚悟を致しました。
御奥様が仰せになられますには、本当に押し入った時には自害なされるから、その時は、少斎は奥へ参り介錯致すようにと仰せられました。与一郎様の御奥方様も人質にお出しになることはない。これも共に自害なされることをお約束なされました。
少斎・石見・稲富は談合して、稲富は表で敵を防ぎ、そのすきに御奥方様が御自害なさいますように談合致しましたので、稲富は表の門におりました。
その日の初夜(夕方から夜半まで)のころ、敵が御門まで押し寄せてきましたが、稲富はその時心変わり致しまして敵と一緒になってしまいました。その様子を少斎は聞き、どうにもなるまいと思い長刀を持ち御上様の御座所へ参り「ただ今が最後になりました」と申仕上げました。前々から打ち合わせていた通りに、与一郎様(の御奥方様)を呼び一緒に死ぬためにお部屋に人を遣わしましたが、もはやいずこかへ退かれた後でしたので、御奥方様は力なくお亡くなりになりました。長刀で介錯されました。
三斎様・与一郎(忠隆)様へお書き置きをなされ、私にお渡しなさって仰せられましたのは、「おく」と申す女房と私と両人には落ち延びて御書き置きをお届けして、御最後の様子を三斎様へ申し上げますようにとのお申しつけでございました。「この御最後を見捨て申しては落ち申すことはできません。お供いたします」と申し上げましたが、二人は落ち延びてくれなくては、この様子を三斎様は御存知なさることはできないから「平に」と仰せられましたので、御最後を見届けましてから出て参りました。内記(忠利)様への御形見を遣わされました。
私共が御門へ出ました時にはもはや御屋敷へ火がついておりました。御門の外には大勢の人がおりましたが、後に聞きますれば、これは敵ではないとのことで、火事故に集まった人たちであるとのことでした。敵が参りましたのも確かなことですが、稲富を挽き連れ、御最後以前に引き上げたそうでございます。これも後に承りました。即ち御屋敷で腹を切りました人は少斎・石見・石見の甥六右衛門、その子一人、これだけは覚えております。その他二、三人の方も亡くなられたとのことですが、これもはっきりとは覚えておりません。こまごまとしたことは書きつけられませんので、あらあら大方はこの通りでございます。以上。
志も〇(黒印)
正保五年(一六四八)二月一九日
原文・熊本県立図書館上妻文庫蔵より 転載許可済 現代語訳・髙田重孝
ガラシャ辞世の句
「散るぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人もひとなれ」
『我々に最も勇気と慰めを与えたのは、丹後の越中殿の夫人に改宗であった。この夫人は、明智、すなわち信長を討ったあの有名な将軍の娘である。』
*1587年10月 平戸発 プレスティーノ(Antonino Prenestino)の書簡より
霜(志も)について
霜(志も)は近江佐々木氏の一族である。近江七人衆の田中城主比良内臓助の妹で、内臓助は細川幽斎の家来米田助右衛門是政の妻雲仙院は姉にあたる。初め霜は近江の和泉城主入江兵衛尉に嫁いだが、山崎の戦いで兵衛尉が明智軍により打たれ戦死したので、子の仁兵衛を連れて姉の夫・助右衛門を頼り、身を寄せていたが、細川家より呼び出されてガラシャに仕えるようになった。
ガラシャの死後、霜は娘かめの嫁ぎ先、京都の浪人臼井九右衛門方に身を置いていた。霜は1657年(明暦3)5月に病死している。
*綿考輯禄 巻13 227~231頁
霜女(志も)覚え書きの提出過程
細川幽斎(藤孝)から数えて四代目の、細川光尚が一六四七年(正保四)三月、江戸に参勤に出る前に家老の長岡(米田)監物是季(これすえ)に命じて、書状を以て、祖母にあたる細川忠興夫人(ガラシャ)の最後の様子を調査させたのに答えて、霜(志も)が翌年一六四八年に書付けて差し出した覚書(報告書)である。
細川光尚が米田是政の嫡子米田監物是季に「祖母ガラシャの死の様子を今も覚えている者はいないか?」と尋ねたときに、監物の母雲仙院の妹「霜」が知っていますと答えたのがきっかけで、監物から霜へ書状を与え、霜より「覚書き」が差し出された。
霜の「覚書き」は、ガラシャの死後四八年たってから書かれたものである。四八年後にもかかわらず、実に鮮明に『ガラシャの死に際』を霜は覚えていて「覚え付」に記している。
「こまごまとしたことは書きつけられませんので、あらあら大方はこの通りでございます。以上」と覚書きの最後に書いているのは、すでにガラシャ夫人が死んだ後、京都に帰ってきた忠興公に京都建仁寺塔頭十如院へ呼び出されて、直に全てをお話いたし報告した通りでございますので同じことを申し上げませんという意味である。
おくについて
おくは,青地某の娘で波多野という者の未亡人である。彼女の娘は、大谷刑部の家臣寺田久左衛門に嫁いでいた。久左衛門は関ヶ原合戦後、京極丹後守高知に仕え、鉄砲頭として千石を受領していた。しかし、一六一四年の大坂の陣において戦死。その子原右衛門が跡を継ぎ千石を相続している。
おくは一六三三年(寛永一〇)に病気で亡くなっている。
*細川家記(綿考輯禄 巻13 226頁)
忠興、ガラシャ自害の報告を受ける
関ヶ原の戦いの後、細川軍による福知山城攻略が終わると忠興は、福知山城代の件で家康と相談するために大坂城西の丸へ向かった。大坂城で福知山城代を決めると、懐かしい青龍寺へ一泊した。翌日、京都建仁寺塔頭十如院へ寄り避難していた幽斎の姉宮川を訪ねた。
建仁寺は東山寄りに流れる鴨川の東側に添って伽藍が並ぶ日本最古の禅寺である。十如院も如是院の塔頭であった。1580年(天正8)、武田宮内大輔信重を父に、幽斎の姉宮川を母とする英甫永雄師が住職になり、禅宗に帰依していた細川家の菩提寺的な心の拠り所となっていた。
忠興はこの建仁寺十如院に於いてガラシャの最後の時に側にいてガラシャの最後を見ていた「霜とおく」を呼んで、伯母宮川(父幽斎の姉)と共にガラシャの遺言や当日の模様を詳しく聞いた。
伯母宮川は忠隆の妻千世と共にガラシャの勧めで前田家の千代の姉豪姫の所に避難していたので、直接にはガラシャの最後は見てはいない。この時、伯母の宮川は初めて霜とおくの証言により、ガラシャの最後の様子を聞き「体泣き崩れて愁嘆限りなし」だった。
*『綿考輯禄』第二巻 忠興公(上)382~383頁
ガラシャの死に立ち会った人たちはすべて殉死しているので「霜とおく」の二人だけが、ガラシャの死を見届けていて、その時に交わされた会話まで細川家の記録に記されているのは「霜とおく」が、忠興に見たままのガラシャの最後を語ったからである。死に臨んでガラシャは会話の中で甥の三宅藤兵衛重利にまで心配りを見せている。
堺にあったキリシタン墓地に埋葬されたガラシャ
「霜とおく」はガラシャに仕えたキリシタンであり、焼け落ちた細川邸から「ガラシャの遺骨」を探して教会に持ってくるように指示したのはオルガンティーノ(Soldo Organtino)神父だった。霜とおくだけがガラシャの自害(死去)した場所を知っていて、その場所からガラシャの遺骨を拾ってくることができる唯一の人物だった。ガラシャの遺骨は丁重に骨壺に納められ、堺にある小西行長が作っていたキリシタン墓地に仮埋葬された。
忠興は霜とおくからの報告を聞いて、愛妻ガラシャの遺骨が堺にある小西行長が作ったキリシタン墓地に仮埋葬されていることを聞いて忠興は非常に感動した。
なぜなら忠興は戦地での移動先で、細川邸が焼け落ちた事とガラシャが自害したことの報告しか知らなかったので、ガラシャの遺骨がキリシタンである侍女の霜とおくにより大事に拾われ埋葬されていることに驚くと共に、教会がガラシャに対して取った行動に非常に感動し、教会のガラシャへの敬意の表し方に感激している。この事が後日、忠興のキリスト教会への優遇と保護へと繋がり、忠興の教会でのガラシャの葬儀として表されている。
忠興のキリスト教会への優遇と保護は、新しく拝領した豊前の国・中津・小倉に於いて1610年(慶長15)12月のセスペデス(Gregorio de Cépedes)神父の突然の死去まで続いた。
人質収監作戦
三成の人質収監作戦は、最初は穏やかな催促で始められている。三成方から細川家へ最初に「ちょうこん」と申す尼が遣わされて大坂城へ人質として上がることを言ってきた。時期を同じくして、各東軍に組みしている諸将の邸にも同じように使いが出されている。最初の人質の話が来た時の対応がその後の人質の在り方(脱出)に大きな差を生み出していた。
黒田家の対応
折から黒田甲斐守長政邸へも同じように前々に催促の使いが来たが、黒田家で黒田官兵衛孝髙の指示でいち早くすべての手はず通り、黒田官兵衛孝髙の妻幸円・長政の新妻(栄姫・16歳)を船に乗せて九州の博多へ逃がし帰国させた。
天満にある黒田邸には、黒田官兵衛孝髙の妻幸円と、長政の新妻栄姫がいた。栄姫(16歳)は長政へ嫁いできたばかりだった。留守をしていた家老の栗山四郎右衛門、母里太兵衛、宮崎助太夫は相談の上、黒田家に出入りの商人・納屋小左衛門の家に二人の身柄を移して検分に現れた大坂城からの使いには幸円、栄姫に似た侍女を身代わりとして見せその場を凌いだ。
中津から、黒田官兵衛孝髙の遣わした迎えの船が大坂湾に停泊していたが、すでに警備が厳しく、納屋小左衛門の家から湊迄移動させることが難しく何日が過ぎた。
7月17日の夜、天満の川向こうの玉造方面で火災が発生し、黒田邸を警備していた兵たちが玉造へ向かった隙に、幸円と栄姫をそれぞれ大きな櫃に入れ、屋敷裏の川から小舟に乗せ淀川を下り、大坂湾で待っている黒田藩の船に運び込んだ。玉造の火災は細川邸でガラシャが自害した後、小笠原少斎らが屋敷に火を放った火災だった。ガラシャの自害が結果的に、黒田官兵衛孝髙の妻・幸円と栄姫の脱出を助け危機を救っている。
加藤家の対応
加藤清正邸にも同様に人質催促の使者が来たが、清正の家臣たちの機転で、清正の正室清浄院を大坂の屋敷からすぐさま脱出させた。その後、博多行の船の船底に隠して瀬戸内海を下り、豊前博多(福岡)の黒田官兵衛孝髙の支援を受けて黒田軍の警護の兵と共に熊本城へ辿り着いている。加藤清正はこの時の黒田官兵衛孝高の配慮に感激して、キリシタンである黒田官兵衛孝高に対して深い尊敬の念を持つようになった。
加藤清正の黒田官兵衛孝髙への感謝が、西軍の大友義統の豊後奪還のための軍事行動を豊後で起こし、九州の関ヶ原と言われる石垣原(別府市)で行われた細川藩の重臣・松井康之・有吉と黒田官兵衛孝髙の連合軍との戦いでの、十分な武器・弾薬・食料等の援助物資の肥後熊本からの搬入という形で表れている。
ガラシャの自害の影響と抑止
東軍に組した諸将の妻子、池田輝政室、藤堂高虎室、有馬豊氏室、加藤嘉明室は脱出に失敗して大坂城本丸天守閣に収監され、関ヶ原の終了した九月まで解放されていない。天守閣に収監された人質たちは三成の命令で殺害されることが決まった。しかし大坂城に詰めていた増田長盛の元へ三成の処刑を命令した書状を持った使者が途中で家康方に捕らえられたので命令書が届かず処刑を免れた。
石田方はガラシャの壮絶な順死に驚き、人質としての収監行動をこれ以後は拡大させていない。ガラシャの自害の影響は予想以上に三成方に動揺を与えて収監行動を抑制した。
関ヶ原に勝利した後、家康派は忠興に対して『このたび忠興の妻が義を守って自害してくれたので、三成は恐れて人質を(それ以上)取り込むことができなかった。今悉(ことごと)く、諸大名の人質を取り返すことができたのは、是皆忠興夫妻の忠義である』と褒めている。
*『細川家記』
「御年譜」より抜粋
*『綿考輯禄』第2巻 忠興公(上)巻13 209~234頁
一六〇〇年七月一七日、細川家邸へ石田治部少三成から人質催促の使いの者が兵を引き連れてきて、屋敷内に押し入る気配さえ見せた。
人質催促の使いの者が細川邸に来た時に、稲富伊賀守祐直は相手方と交渉するために、いったん持ち場の門前を離れた。稲富伊賀守祐直の門を離れた行動が、細川邸内にいた小笠原少斎たちに相手方に寝返ったと思われたようだ。この事は後日判明する。小笠原少斎は,稲富伊賀守祐直が報告も連絡もなしに持ち場を放棄して敵と同心して逃亡したとの誤った早計な報告を受けた。ガラシャは稲富伊賀守祐直の逃亡の報告を受けて、少斎と石見へ自分の決意を述べている。
『只今城中へ入り、恥を曝さんよりは、御自害可被成と有りかハ』と言った。小斎と石見は「少斎御尤に奉存候、去りながら何とそ丹後江退けまいらすへしと申し候得共」と進言している。『それはもっともなことだが、一度丹後へ立ち退きあるべき』と田辺城への避難を進めている。それに応えてガラシャは『忠興公ハのきて(退いて)許容せぬ人なり。一足も立退まし』と言った。
忠隆(長男)の妻千世も一緒に死ぬ覚悟を決めていたが、ガラシャの勧めで,桐というお付きの女房を付けて、隣屋敷の宇喜多中納言秀家の妻(豪姫)が千世の姉(前田家四女・豪姫・秀吉の養女)なので,ここにいったん立ち退かせて、後日実家の加賀家屋敷へ難を避けさせている。幽斎の姉・宮川尼は息子英甫永雄師が住職をしている建仁寺塔頭十如院へ、細川屋敷より立ち退かせている。
*『綿考輯禄』第2巻 忠興公(上)巻13 210頁
忠興の側室阿喜多(小也々・娘は万・三歳)へも断りを述べて「あなたはここで死ぬことはない。討手が屋敷内に踏み込まないうちに逃げてほしい』と諭して逃がしている。
この時、ガラシャの許には長女・長(21歳)多羅(12歳)がいたはずである。二人のガラシャの娘の記録が『綿考輯禄』にも『イエズス会の記録』にも記載されていない。
二人の娘はどこに避難したのだろうか。避難するキリシタンの侍女たちに紛れて細川邸の近くにあった大坂教会に逃げたと思われる。ガラシャの死後『霜とおく』の二人は、細川邸に火が掛けられた直後、残った侍女たちと共に大坂教会にオルガンティーノ(Soldo Organtino)神父を頼って避難していることを考えると、キリシタンである二人の娘はガラシャが自害する前にガラシャの命令ですでに屋敷から大坂教会に避難していたと考えている。
またガラシャは、自分に仕えていた女子たちすべてに暇を与え、直に屋敷から立ち去るように伝えた。既に屋敷内には事態が知れ渡っていたので、秘かに身の回りの品をまとめて逃げ出し姿の見えない者をいた。ガラシャ様を残して去ることはできないと残っている者もいた。ガラシャはつねづね側に仕えていたキリシタンである霜とおくの二人を呼んだ。
ガラシャは霜とおくの二人に遺言して『子共の事は我為に子なれハ、忠興君の為にも子也、改め伝におよハす、三宅藤兵へ事を頼候也、此上いわれさる事なから、藤を御上へ御直し不被成様に』(綿考輯禄)
『忠興君御子様方への御形見の品之御消息を被残置、御光様の御乳の人には御光様の御形見を御渡被成候』
霜とおくは是非ともお供をさせていただきたいと言ってそばを離れなかったが、ガラシャから「平に」と「生きて自分の最後の様子を話してくれてこそ嬉しい」と言われて、ガラシャの最後を見届けてから止む無く立ち退くことを承諾した。
『さて心にかゝる事なし、少斎介錯仕候へと被仰候』。少斎は『かしこみ候』と言い少斎は太刀を下げて老女を先に立ててガラシャの方へ近寄った。ガラシャは長い髪をさらさらと束ねて巻き上げた。少斎は「左様にては御座なく候」と言うと、ガラシャは「心得たり」と言って、襟を両方へ押し開いた。少斎は敷居を隔てていたので『御座の間に入り候事,憚り多く候えば、今少し、こなたへ御出遊ばされ候え』と言った。
ガラシャはそこで敷居へ近い畳へと居直った。少斎はそこで片膝を立てて、ガラシャの白い胸元を太刀で一突きに刺し通した。
霜とおくの二人はガラシャの見事な最期を見届けた後、預かった形見の品をもって、卑しい下女の姿に変装してひそかに屋敷を出た。
少斎はガラシャを介錯した後、その場で直に後を追うつもりでいたが、恐れ多く憚るので、石見の待つ表に戻った。表では金津助十朗が切腹しそうな気配を見せたので『其の方事、切腹せすとて苦しからぬ者なりと、少斎も石見も制止けれ共、明智殿より付随て参りたりと伝,義を立自殺せしハ,逸物の男也』と答えた。
少斎は金津助次郎にガラシャ夫人の遺体が燃え尽きるまで、燃える物を投げ入れることを命じた。ガラシャの遺体を小袖で覆い、その上に蔀(しとみ)や、遣り戸を立て掛けて、鉄砲の火薬を撒いて火をかけた。
表に戻ると、三成の使いが人質のガラシャ夫人が出てくるのが遅いと催促されたが、少斎は少しも動じることなく『女性の事だから支度するのに時間がかかるのでしょう。もう少し待ってほしい』と言った。
屋敷に火を付けさせた少斎は、広間に出て、石見無世とともに腹を十文字に掻き切り切腹した。この二人を無世の家来河喜多六右衛門が介錯して、その後六右衛門も切腹した。金津助次朗はガラシャ夫人の遺体が燃え尽きるまで燃える物を投げ込み続け、大方遺体が燃え尽きたことを確認したのち、台所に梯子をかけて屋根の上に出て大肌抜いで立ち『われは金津助次郎という者也。越中守奥方生害にて、少斎、石見も殉死を遂げおわんぬ。仕(さむらい)の腹切って主の供するさまを見よ』と髙らかに呼ばわり、腹を切って炎の中に飛び込んでいった。
たまたま同日丹後から見回りに来ていた六右衛門の子は、少斎に頼まれて飛脚となったが、六左衛門の子介六と山内新左衛門は屋敷を出て二丁程いくと、屋敷から猛火が盛んに燃え上がっていた。介六は『主、親の最後を見捨て、一足も先へ行かれず』と言い、燃えあがる屋敷に引き返し火の中に身を投じて父六右衛門とともに命を絶った。
ガラシャ自害の報告
大坂の細川邸を守っていた家臣小笠原少斎に頼まれて飛脚となった山内新左衛門は屋敷を出て二丁程いくと、すでに屋敷から猛火が盛んに燃え上がっていた。山内新左衛門は三島でガラシャの自害を中津海五郎右衛門に報告、新左衛門は当日の出来事を見ていたので、奥方ガラシャがどのように自害したか、家臣たちがどのように振舞い殉死したかを中津海五郎右衛門に詳しく報告した。
中津海五郎右衛門が夜を徹して田辺城へ向かって走った。7月18日には大坂から急使が田辺城の幽斎の許に来た。昨晩の玉造の細川邸でのガラシャの自害と屋敷の焼失の報告を受けた幽斎の衝撃は計り知れなかった。最愛の嫁ガラシャの壮絶な死が幽斎の決断を早めた。幽斎はただちに籠城を決意して、宮津、松倉(久美浜)、嶺山等の諸城を焼き払って田辺城に全員を集結させた。
ガラシャの死に立ち会った家臣たち
小笠原備前守少斎
小笠原少斎は一五四六年(天文十五)生まれ。一六〇〇年(慶長五)七月一七日、大坂の細川邸でガラシャ(三七歳)を介錯したのち殉死した。享年五四歳。法名隆心院功岩道忠居士。
生家の小笠原氏は、室町時代初期に小笠原宗家(信濃小笠原氏)から分かれて、代々京都で奉公衆として室町幕府に仕えていた。父稙盛は公方足利義輝の近習であった。同じ時期に明智光秀と細川幽斎も共に足利義輝に仕えていた。その時に明智光秀と細川幽斎と親交があった。一五六五年(永禄八)五月、松永久秀は三好三人衆と組んで将軍足利義輝の邸宅を急襲し暗殺した。父稙盛は足利義輝とともに討ち死にしている。少斎は義輝暗殺された後に浪人して京都深草に住んで名前も加々美少左衛門と改めた。
父稙盛と親交があり長男少斎(二〇歳)のことをよく知っていた細川幽斎が丹後に招き、お伽衆として知行五〇〇石で召し抱えた。名前を小笠原備前守秀清と改め,幽斎が剃髪した時(本能寺の変),幽斎の意を受けて法体し名前も少斎と改めた。幽斎は禅宗、少斎は浄土真宗を信仰している。
一五七八年(天正六)明智光秀の三女・玉(一六歳・後のガラシャ)が細川忠興(一六歳)との婚礼が山城国細川家の本城青龍城で行われた際に、細川家の重臣家老・松井康之が玉の乗った輿の受け取りの大役を果たしている。少斎(三二歳)は明智玉とは明智家のころから面識があり親しく気心を知った間柄であった。少斎は細川家家臣のため三戸野へは同行していない。
ガラシャの長女・長は1586年(天正14)九月、千宗易の媒酌で前野出雲守長重(景定)と婚約、翌1587年(天正7)四月二十三日、但馬の国、出石城に8歳の時に輿入れしている。長に付き添った武将として小笠原備前守少斎の名が『綿考輯禄』に記されている。
長は前野出雲守長重(景定)の後室として結婚している。おそらく関白秀次が次第に権力を増してきたこの時期に、細川家としても関白とのよしみを強めた方がよいとの判断により、忠興の娘長と関白秀次の家臣であった前野出雲守長重との縁談が決められたと考えられる。
河北石見守一成
先祖が名和長年の弟、従五位下河北対馬守髙則で、十一代目の孫になり,丹後氷上群河北に住んでいたので、地名を家名とした。中老の頃から無世と号し、のち明智氏に仕えてガラシャの輿入れの際、ガラシャに付き添い、そのまま細川藩の家臣となった。強弓精兵として武勇に優れ、武功も多かった。七九歳。法名霊寿院心谷無世居士。
長男五右衛門と次男藤平も明智氏に仕えたが、藤平は明智家没落後、細川家にきて別禄三〇〇石。一六〇〇年、松井康之、有吉立行に従って豊後の杵築城に居て、別府の石垣原の合戦に参戦している。藤平は後に千石。忠興の命で河喜多と文字を変え、石見と改めた。興秋の出奔の責任を取らされて,1606年(慶長11)7月27日、飯河豊前守誅罰事件で討ち死にしている。この誅罰事件で肥後飯河父子家族22名が殺害されている。
金津助次郎正直
金津助次郎正直も明智家に奉公。ガラシャの輿入れの時、付き人として細川家に仕えた。三人扶持一〇石。四二歳。法名桂林是頓禅提門。
助次郎には男子二人がいたが、この大坂屋敷の働きでガラシャ夫人七回法要の時、二〇〇石が与えられた。長男助次郎一一歳、次男又十郎九歳の時である。
稲富伊賀守祐直
先祖が丹後一色氏の家臣で,元弓木の城主。祖父の直時から砲術を学び、天正年間、秀吉に召し出されて細川藩の砲術師範になった。一六〇〇年のガラシャが死ぬ時は四八歳であった。石田方と交渉するために連絡もせずに持ち場を離れたのが、忠興から誤解されて怒りを買い、命を狙われることになった。
細川邸を包囲した石田軍に中には、稲富伊賀守祐直に鉄砲の指南を受けた弟子が多数いたために、彼らから逃げるように懇願されたので持ち場を離れ、ガラシャを置き去りにして逃亡したとも言われている。
また一説に、稲富祐直に鉄砲の指南を受けた弟子が多数いたために、彼らと交渉するために一時持ち場を離れていた。小笠原少斎に連絡もせず理由も告げずに持ち場を離れたことが、小笠原少斎たちに逃亡したと誤解され、少斎は手はず通りにガラシャに自害を薦めガラシャは自害した。その後屋敷に火を懸け、少斎と河北石見守一成、金津助次郎正直は殉死している。ガラシャの死は少斎達、残された家臣たちの早合点の結果、事を推し進めたことによる自害だった可能性も考えられる。
細川邸から火の手が上がった時点では、細川邸を取り巻く石田軍から派遣された小隊はすでに引き上げた後だった。石田三成の小隊が、霜とおくが細川邸から出た時に、既に細川邸の包囲を解き、引き揚げていたことが、稲富伊賀守祐直が交渉に赴いていたことを表している。
細川邸の周囲には敵の石田三成の小隊はいなかったためと、細川邸からの燃え盛る火の手の激しさに集まった野次馬に紛れて、誰にも怪しまれなく下女に変装した霜とおくは屋敷から逃げ出したのち、近くにある大坂のキリスト教会に逃げ込んでいる。
稲富伊賀守祐直は交渉のために持ち場を離れたが、交渉していた時点で、自分が警護をしていた細川邸から火の手が上がったことで、自分の連絡の不手際で、同じ警護の責任者である小笠原小斎が、手はず通りに事を進め、ガラシャを自害させたことを悟った。
稲富伊賀守祐直は細川忠興の気性を熟知しているので、自分の連絡の不手際で、守るべき奥方のガラシャを自害させたことを悔やんだが、あくまでガラシャのために正しく行動したことだったので、すべてが終わったことに自責の念はあるものの、この後、どのように行動してよい物か迷っている。
大坂を逃れた稲富伊賀守祐直は家康の重臣・井伊兵部直政へ駆け込むなどして、自分の砲術の弟子の仕えている大名に仕えていたが、忠興は怒りから刺客を送り、その刺客から逃れるために転々としていた。
稲富伊賀守の執り成しをした井伊兵部正直
井伊兵部直政は稲富伊賀守祐直の持っている砲術の高い技術力を買って主君家康に忠興との執り成しを依頼して、家康が仲介に入り『立腹ハ去事に候へ共、一芸に堪たる者の廃るハ惜き事也、堪忍して給われ』との執り成しと助言で忠興の許しを受けた。この時の執り成しも井伊兵部直政の直訴によっている。
井伊兵部直政はこの時以来、忠興の執念深く残忍な性格を嫌い忠興に対して「酷き者」という判断を下している。稲富伊賀守祐直は後に、京吉田の細川邸に元細川家当主である幽斎(藤孝)を訪ねて許しを得たお礼に出向いた時、祐直は入道して一夢と号していた。
稲富伊賀守祐直が細川忠興から恨まれた背景には、稲富伊賀守祐直伊賀守祐直は元一色氏の家臣で、一色氏の居城の弓木城の城代をしていた。1582年(天正10)九月八日、一色義定(義有)は細川家の居城宮津城で饗宴に招かれた時、細川幽斎・忠興父子に謀殺された。一色義定は家老日置主殿助等の家臣とともに宮津城に来ていたが家臣の大半が命を失った。
この後、一色氏の居城弓木城は細川氏に奪われた。秀吉が稲富の砲術の技術の高さを認め忠興に召し抱えるように推挙した。この時から稲富伊賀守祐直は細川家に仕えることになった。
このようにして秀吉の承認を後ろ盾として細川父子は丹後一国を平定して、秀吉配下の丹後国主となった。一色氏の家臣で、後1600年7月17日、大坂の細川藩邸でのガラシャ殉死の際、正門の防御を任されていた。
稲富伊賀守祐直と正直の活躍
この後、稲富伊賀守祐直の息子正直が活躍する時が来る。15年後の1614年(慶長19)大坂冬の陣の後、和議が整ったが、徳川軍は大坂城へ対して真田丸および惣構南部方面における攻防戦で、徳川方は甚大な被害を出して終了した。
徳川方は改めて大坂城の堅固さを改めて認識させられることとなった。徳川軍は二〇万という大軍で包囲しているとはいえ、このままでは同じ様な攻撃しかできない事では今後の戦いの展開が見えない状態だった。
家康はかねてから注文していた新式の大砲をオランダから入手した。今までの大砲は射程五○○m以内しか届かず、直接に大坂城内に砲弾を打ち込むことができなかった。オランダから購入した新式の大砲は射程七○○m以上。この大砲なら直接城内のどこへでも砲弾を打ち込むことができる。和議に向けての戦いは大砲による砲撃戦による揺さぶりに切り替えられた。大砲の専門家である稲富宮内正直・牧清兵衛等の砲実家数十人に約三○○門の大筒(石火矢は五門)の指揮を執らせた。
稲富宮内正直の父・伊賀守祐直は1600年(慶長5)七月、ガラシャが自害した時に、細川邸の正門の守りを任されていた稲富伊賀守祐直である。父祐直から大砲の専門的扱いを受けて親子2代にわたり大事な天下分け目の大戦において活躍している。
*稲富伊賀守祐直の折本装の砲実術伝書が細川家長男・忠隆家に伝えられている。佑直の伝書は砲術伝書の中では古い部類に属しているが、伝書の華麗さ、精密さは美術品としても第一級である。伝書は1610年(慶長15)戌七月吉日の年記を持つ二部十二貼本である。雲母を刷いた料紙に極彩色の絵図を多数配した見事な仕様。
*熊本島田美術館所蔵
三宅藤兵衛重利
三宅重利(みやけしげとし)一五八一年(天正九)~一六三七年(寛永一四)十一月十四日。通称三宅藤兵衛 幼名・三宅与平次。肥前唐津藩士で、天草富岡城代。
父は明智光春(秀満,光慶、光春、左馬介、幼名・三宅与平次)、母は明智光秀の長女倫(玉・ガラシャの姉)
一五八二年(天正一〇)六月二日、「本能寺の変」の時,父明智光春は勝龍寺城の留守居役だったが、家臣の三宅六郎太夫に抱かれて京都に逃れ、明智家の御用商人・大文字屋にかくまわれて育った。一二歳で鞍馬寺に入る。
一五八三年(天正一一)玉、丹後三戸野にて、次男興秋を産む。
一五八四年(天正一二)丹後三戸野(味土野)にかくまわれていた玉が、宮津城内の細川屋敷に戻る。後、大坂の玉造の細川邸に移る。鞍馬寺より三宅藤兵衛をひきとり、自分の子供たちとともに養育する。
一五八七年(天正一五)玉は洗礼を受けガラシャとなりキリシタンになった。この時以来、藤兵衛は叔母ガラシャの影響を受けてキリシタンとなる。細川家の庇護を受け、名前を三宅与助と改めて三〇〇石で忠興に召し抱えられる。
この時、ガラシャ自ら幼少時に自分の手元で養育した甥・三宅藤兵衛に宛てた書状が残されている。端裏にある宛名は「そつ(帥)」で藤兵衛の幼名。本状は、ガラシャの甥・そつ(帥)藤兵衛がガラシャの元を離れて忠興に仕官するまさにその時に与えた書状である
「いつかは会おうと思っているけれども、まずは落ち着いて奉公先の主人(忠興)に面会するように。くれぐれも落ち着いて臨むように。金五十目を持たせるので、必要な時に使いなさい。」
*縦三三・三㎝ 横五一・一㎝ 三宅家文書 熊本県立美術館所蔵
父明智光秀の謀反により、明智家一族が滅び、明智家のただ一人生き残った甥・藤兵衛に宛てたガラシャの書状には、キリスト教に生き、母のように甥・藤兵衛を愛し育てたガラシャの愛が溢れている。ガラシャのもとで兄弟のように育った藤兵衛と興秋は二歳違い。
忠隆と藤兵衛は一歳違いの年子である。忠隆、藤兵衛、興秋の3人は実の兄弟のように育っている。
藤兵衛は後に(時期が明確に判らないが1600年・慶長5・関ヶ原の戦いの後)細川家を辞去して、父明智秀満の元家臣だった天野源右衛門(安田国継(安田作兵衛)が改名)の縁により三〇〇石で九州肥前唐津藩(寺沢家)初代藩主の寺沢広髙に仕えた。一六一二年(元和七)二代目藩主寺沢堅髙によって唐津藩の飛び地であった天草を総括する富岡城城代に、知行高一万五〇〇石で取り立てられた。
1604年(慶長9)暮れに興秋が人質になることを拒んで出奔した後、1605年(慶長10)頃、京都に居た興秋に藤兵衛は、唐津藩、天草伊佐津金濱城主、関主水(立家彦之進)の娘との縁談を薦めた。興秋は側室として関主水の娘と結婚、男児を受けている。「与吉・興吉」後の興季である。
1632年(寛永9)12月、細川藩の肥後熊本への移封に伴い、熊本山鹿庄の「泉福寺」(現熊本県鹿本町庄)に隠棲して興秋は住職をしていたが、1635年(寛永12)10月頃、小笠原玄也一家穿鑿訴追の件から逃れるため、米田監物是季の手引きで有明海を渡り天草御領へ遁れている。
当時御領は唐津藩の飛び地であった天草を総括する富岡城城代に知行高一万五〇〇石で取り立てられた従兄弟の三宅藤兵衛利重の管轄であり、興秋の側室の父関主水・佐伊津金濱城があった。三宅藤兵衛重利は興秋の嫡子興季の存在を知っていて、佐伊津の庄屋に取り立てている。
興秋が遁れた天草御領は佐伊津に隣接する直北上の土地。1635年(寛永12)興秋と藤兵衛は後に天草御領で再会をしている。また興秋の子・興季は御領佐伊津の庄屋をしていたので、富岡城代の三宅藤兵衛とは、色々と庄屋としての折衝事もあった。藤兵衛は叔父、興季は甥の血縁関係を隠して交際を続けていたと考えている。
三宅藤兵衛重利は、ガラシャのもとで養育された時にキリシタンになったが、後に棄教したと思われる。一六三七年(寛永一〇)11月14日、「天草島原の乱」の時、富岡城代として、天草四郎率いる一揆勢と戦い、本渡広瀬の戦いで破れて敗走して自刀した。首は一揆勢により獄門に処されている。
三宅藤兵衛重利の墓
天草本土町広瀬 国道324号、丸尾町に入る交差点を右折、広瀬川に架かる橋を渡ったら左道に沿って200mほど丘を登ると左側に墓地がある。駐車所は2台分の狭さ。案内板があるので沿って高台の墓地の左奥に「三宅藤兵衛重利の墓」がある。
天草市観光協会の説明板
「慶長八年(1603)、天草は肥前(佐賀)唐津寺沢藩の飛び地となり、初めて富岡に城を築き番台が置かれた。三宅藤兵衛はその七代目の番台である。寛永14年(1637)天草の乱勃発。藤兵衛も自ら兵を率いて本土にこれを迎えた。寄せ手に天草四郎を盟主とするキリシタン勢は、生死を恐れぬ宗徒の前に、さすがの勇将藤兵衛とその手勢もついに全滅の憂き目に遭い、自らも広瀬の泥田に憤死した。時に五十七歳。
山仁田の庵主が遺骸をこの地に埋葬して懇ろに弔ったと言われている。」
*上天草市史 大矢野町編3
「三宅藤兵衛の遺体は、佐伊津の庄屋・中村右衛門が貰い受け、広瀬の高台に埋葬したのが現在の三宅藤兵衛の墓である」
佐伊津の庄屋・中村右衛門とあるが、時代的にこの佐伊津の庄屋は興秋の息子・興季(おきすえ)である。
*佐伊津庄屋・中村家系図より 中村社綱氏所蔵の家系図
初代・大庄屋、中村五郎左衛門興季で、記録には大庄屋拝命は四年後の1641年(寛永18年)であるので、1637年(寛永14)11月14日、藤兵衛が戦死した時には正式には大庄屋を拝命してはいなかった。しかしすでに興季は佐伊津の庄屋役職の仕事をしていた。
父興秋の従兄弟にあたる三宅藤兵衛の遺体を父興秋に代わりもらい受け、叔父にあたる藤兵衛の遺体を丁重にこの地に埋葬した。富岡城代三宅藤兵衛(叔父)と佐伊津の庄屋興季(甥)の間にも血縁関係を隠した政策的交流があったことが藤兵衛の遺体引き取りの件を見ても判る。その中には藤兵衛と興季の間で年貢に関する交渉や政治的な交渉もあった。
また御領、佐伊津はキリシタンが特に多い地区であるが、この地区における迫害の記録は無い。藤兵衛と興季の血縁関係があったので、藤兵衛はあえてこの地区でのキリシタンへの酷い迫害は行っていない。甥・興季の存在が藤兵衛のキリシタン迫害の抑止力となっていた。
レオン・パジェス著「日本切支丹宗門史」には「最初の迫害は奉行所内の富岡の城を含む志岐で実施された」と記されている。
*レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』下巻 第14章 131~133頁
1629年(寛永六年)
『天草のキリシタンの管理を託されていたイエズス会の二人の神父(クリストファン・フェレイラCristão Ferreira神父とアントニオ・ジャンノネGiacom Antonio Giannone神父)とは、今年の初めにこの群島を訪ね、五ヶ月間逗留した。しかし、この良き収穫が、七月に起こった迫害のために一部破壊された。
天草の領主寺澤志摩守堅髙は、志岐の代官兼群島の奉行として、棄教者で、且つ熱烈な迫害者たる三宅藤兵衛重利を選んだ。藤兵衛は代官、すなわち支配役に、百姓を強制的に棄教させよと命じた。最初の厳命は、奉行の所在地富岡の城を含む志岐で実施された。
最初、家長たちが簡単な言葉と威嚇とで攻撃を受けた。或る者は下ったが、又他の者は頑として動じなかった。婦女子たちが監禁され、而(しか)もその数はまもなく二百十三人になった。
その夫たちは、監禁されている妻の許に、貧弱な食物を少しばかり運んでやらなくてはならなかった。されば、この哀れな人々は懊悩のパンと苦悶の水で生きていたと言える。この最初の試練は七日間続いたが、誰一人死ななかった。藤兵衛は、陽の良く当たる畑の中に、竹で編んだ一種の小屋を建てた。その圍(かこい)内は誠に低く、立っていられないので、跪き通しでいなければならなかった。この小屋の内は、棘で一杯だった。
妻と乳飲み子とは別々に監禁された。日に一度だけ、囚徒の父や夫が、食物を運んで行くことができるのであった。七、八日の間、このままでいた。妻や子供が、夫の目の前で拷問を受けた。大勢の家長が次々と転んだ。かくて彼等が棄教すると、心配なしに妻や子供が返された。
しかし、色々な立派な例があった。その中には、キリシタンたちの頭で富岡の奉行の一人、トマス・興三左衛門の如きがそれであった。彼の妻と子供のドミンゴスは監禁された。トマスは、この試練で少しも弱らなかった。しかも、彼は毎日家族の許に食物を運んできては艱難に耐えよ、時によっては死にさも耐えよと激励した。藤兵衛は、敢えてトマスを殺さず、息子を追放し、妻には邸内に於ける謹慎者の番を命じた。
ジュリオという八十二歳の一老人、彼は近江の生まれで、元イエズス会の同宿(1586年にイエズス会に入会した、彼は大の学者で優れた説教師)であったが、八月の初めから十一月二十九日まで虐められた挙句、天草の領主の直々の命令によって、首に大きな石を付けて海中に投ぜられ溺死させられた。他の犠牲者たちも同じ刑を宣告された。
アントニオ・ジャノネ(Antonio Giacomo Giannone)神父は、天草で迫害が猛威を逞(たくま)しくしている間に大江で信者の世話をしていた。河内浦にいた領主の代官は、神父の宿主を監禁した。扨てこの神父は、淋しい所に退去せねばならなかった。八月、代官は、信者の子供を竹の籠に入れて、陽と雨に曝されることにした。この哀れな子供たちは、一日僅かに一回、少しの粉と水しか与えられなかった。十二日経って、転宗した親たちは出かけて行った。しかし、子供たちは弱りもせず、牢番たちが同情してくれた食物さへ拒んだ。異教徒たちはキリシタンの信仰の髙い理想を会得した。なお続いて起こった二つの奇跡は、彼らをこの上もなく感嘆させた。空中に充満していた蚊も、牢内に入らなかった。そして瀧のように降ってきた雨は、幼い難教者にはかからなかった。
奉行の下役は、同時に大江のキリシタンにぶつかっていった。彼らは少なくとも各家庭で一人棄教することを望んでいた。同じ光景は、崎津の港にもあった。多数のキリシタンが弱った。』
「天草の乱」での藤兵衛の戦死後、藤兵衛の子供たちは細川忠利により家臣として召し抱えられている。藤兵衛の妻は妻木範煕の娘で、子供たちは、三宅重元(藤右衛門)、重信(吉田庄之助)、重豊(加右衛門)、重行(新兵衛)。
イエズス会の報告より
*『16,17世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第3巻 244~248頁
これら変革の時、大阪で生じたキリシタン夫人(細川)ドナ・ガラシャの悲しむべき死去について(第27章)
七万人を超える住民を擁するこの大坂には全日本の主城があり、この城には、若君(豊臣)秀頼さまが住んでおり、また内府様がこの城に参集の奉行たちと共に、かつまた、通常は日本のほぼすべての諸侯が住んでいる。城内には非常に立派な諸邸宅がある。このようなわけで、大阪には、変化の当初には多くの領主たちがいた。この領主たちは内府様と共に、自分の息子たちを関東に戦に派遣していた。
ところで内府様に対する同盟が壊れたので、すべての者が各自の邸に防塞を作った。家を守っていた人々は領主の家族、彼と共に赴いた君侯たちも同じことをした。そのわけは、美業たちがこれらすべての者に対して、人質を提供し、若君(豊臣秀頼)の側の者にないふぃ様に対して反抗するように命じたからである。この事については大いなる変化と争いがあり、奉行たちは、敵として彼らを殺すために、そしれ、とどのつまりは、彼らに要求していた人質を提供させるために反抗していた者の邸を包囲するに至った。
この争い(関ヶ原の戦い)では、丹後の国の、異教徒の領主長岡(細川)越中(忠興)殿の妻で、ドナ・ガラシャという名の一人のキリシタン夫人に極めて悲しむべき事件が生じた。この夫人についてはたびたび(これまでに)書かれてきた。この領主は関東の戦さに内府様に随行した諸侯の一人であった。そして彼は、自らの極めて重立った身分の高い家臣の小笠原殿(小笠原少斎)、および他の家臣に、自分の妻と邸を守っていた他の者たちに次のように命じるのが常であった。もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、我妻と共に死ぬように、と。
このたびも、彼(忠興)は同じ命令を己が家臣に対して託した。そこで奉行たちは、その同盟が露見した当日(7月17日)に越中殿の邸に伝言を送り、邸を守っていた者に対して、彼女の夫の安全のため人質として彼女をとるため、直ちにガラシャを引き渡すようにと言った。(家臣)らは、ガラシャ夫人を渡す意向はないと応えた。
彼らは奉行たちが邸を包囲し、自分たちの女主人を捕らえるつもりであることをすぐに察知し、彼女に名誉のため自分たちの主君の命令を実行に移そうと決意した。
こうして彼らは急遽ドナ・ガラシャにいっさいを知らせに行った。ドナ・ガラシャには何一つ異議はなく行動に移った。そして彼女は、常々よく整頓し飾っていた自分の祈禱所に入った。ただちに行灯に火を点すように命じ、死に支度をしながら跪いて祈り始めた。そして少し祈った後、大いなる覚悟を持って部屋を出て来て、彼女と共にいたすべての侍女と婦人たちを呼び集め、我が夫が命じている通り自分だけが死にたいと言いながら、皆には外に出るようにと命じた。皆が皆、彼女と共に死ぬつもりであると言って侍女たちは外に出ることを拒んだ。
なぜならば、このような場合にあっては、家臣は自分の主人と共に死ぬことが日本人の慣例であり体面である以外に、ドナ・ガラシャは侍女たちからあまりにも愛されていたので、全員がドナ・ガラシャと道連れに死ぬのを望んでいたからである。しかし侍女たちは彼女の命令によって、やむなく外に出た。
ところが監視隊長・家老の小笠原少斎殿は、他の家臣と共に邸全体に火薬を撒き散らした。侍女たちが全員屋外に出ると、ドナ・ガラシャはただちに跪き、たびたびイエズスとマリアの聖名を口誦んだ。彼女自身、両手で(髪をかき上げて)首を露わにし、そして彼女の首は一撃のもとに切り落とされた。家臣たちはさっそくその首を絹衣で包み、その衣の上に火薬を置きながら、自分たちの女主人が死んだ同じ部屋で死ぬことは非礼であるので前方の家屋に立ち去り、(そこで)全員切腹し、同時に火薬に火をつけた。その火薬の爆発によってドナ・ガラシャが外へ出させたあの侍女たち以外の者は逃れ出ず、彼らおよび極めて華麗なる御殿は灰燼に帰した。
侍女たちはこぞって泣きつつ、そのことがどのように生じたかをオルガンティーノ師のところに語りに行った。このことで司祭と我ら全員は、同地方のキリシタン宗団にとって、あれほど(立派な)夫人、あれほど稀有な徳操の模範であった人を失ったことで、ひどく悲観にくれた。(245~246頁)
この夫人はキリシタンとなった後は,幾多の書簡に記されたように、改宗においても生活においても感嘆すべきものがあった。自らの霊魂の事をいとも重んじ、デウスの冒涜になる行いをすることを大いに恐れていたので、それはすべての司祭たちには大いなる驚きであった。
死に先立って彼女は、自らの死を予知していたかのように、再度告白し、書状によって(死去する)により前の事であるが,もし起こるべきことが起こったならばいかに処すべきかを確かめるために多くの疑問を提示し、質疑した。そしてその疑問に対する返答に大いに満足して心も落ち着いた。かくしてその後、自らの罪滅ぼしにその死を受け入れつつ、強く、制し難いほどの勇気をもって、しかも我らの主の御旨といとも一体となって亡くなった。そして、彼女の徳操について、多くの中から、一人の都にいる司祭が、彼女が死ぬ直前に、彼女についてこのような一通の書簡をしたためていることを述べよう。
「日々にガラシャは、徳操においても、また立派なキリシタンとしての実践においても、ますます卓絶してきている。彼女は至って悔俊(の業)を好み、去る四旬節には、自分の多くの侍女たちと共に深い信心をもって鋲釘のついた金具で鞭打ちの苦行を行って、涙と 血を流した。彼女は慈善事業や喜撰にすこぶる献身的で、自らの手で邸に養育している幾人かの捨て子の身体を洗い、衣服を着せる。家臣たちの改宗についても極めて熱心なので、自分の領国で福音を説くイエズス会員の五ないし七名の扶養を申し出ている。そして彼女は司祭たちにいとも従順で、彼らと自らの霊魂の事について語らった。彼女の従順さは、司祭たちが彼女に、邸内に、良心的には三人もの重立った婦人を奉仕させるのはよくないことだと述べると、彼女はすぐに彼女たちを解任したほどであった。また万時に付け、その他疑わしいことは尋ね、自らの霊魂のために良いと言われたことをすべて果たした。そして大いなる尊敬と敬虔さをもって我らと諸事につき伝達し合えることを非常に大切とみなしているので、ただその目的だけで、我らの(ローマ)字の読み書きを学び、ヴィセンテ修道士が彼女に送ったABC(のローマ字のアルファベット)と、ただの教材だけで、ついに司祭にも修道士にも逢うことなしに、その(日本人)師匠と同じか、またはそれ以上によく(ローマ字の)書信を読み書きするに至った。善意によって救済されるであろうと考え、(司祭の)面前で罪を告白しに行くことができなかったので、自らの罪の赦免を乞いつつ、その告白(内容)を書簡でもって院長師に送付した)。
これが彼女の死の十五もしくは二十日前に、司祭が彼女についてしたためた書簡である。
この夫人(ガラシャ)は、その大いなる徳宗と役割において日本では非常に名望があった。そして、そのような徳宗や役割によって夫(細川忠興)は彼女をこよなく愛した。さらに彼女がキリシタンとなった当初は、夫は彼女に罪深い生活をさせていたし、彼女にとっては大いに苦労や苦痛の種であった。キリストの教義を受け入れたので、それらはすべてに対し大いなる忍耐と慎重さで振舞い、そのことで夫を感動させるようになった。したがって、夫を慰めるのみでなく、今ではもう夫は彼女がキリシタンであることを非常に喜んで、伏見から大坂の市に移り、彼女が慣わしとしていたように祈祷に専念できるように祈祷室と祭壇の修復を彼自身が行った。
(細川邸の)火が消えると、オルガンティーノ師は篤信の一人のキリシタン婦人に、他の婦人たちを伴わせて、ガラシャ夫人が死んだ場所に、遺体についている何かを探しに行くように命じた。彼女たちは、すっかり焼けていなかった幾つかの骨を見出し、司祭のところへ持って行った。司祭は他の司祭や修道士たちと、大いなる悲痛と涙の中に彼女の葬儀と埋葬を執行した。この夫人の死は日本中で大いに悲しまれた。ドナ・ガラシャは皆キリシタンである一人の息子(興秋)と二人の娘(長,多羅)を残した。そして彼女の夫は、なお異教徒であるが、司祭たちやキリシタン宗団ときわめて親しく、我らの諸事に対して多大な熱意と愛を表明している。
*247~248頁
お霜覚え書きとイエズス会報告との矛盾
ガラシャの自害についての二つの報告書の矛盾
霜女覚え書き
お霜覚書きには『さて心にかゝる事なし、少斎介錯仕候へと被仰候』。少斎は『かしこみ候」と言い少斎は太刀を下げて、老女を先に立ててガラシャの方へ近寄った。
ガラシャは長い髪を、さらさらと束ねて巻き上げた。少斎は「左様にては御座なく候」と言うと、ガラシャは「心得たり」と言って、襟を両方へ押し開いた。
少斎は敷居を隔てていたので『御座の間に入り候事,憚り多く候えば、今少し、こなたへ御出遊ばされ候え』と言った。
ガラシャはそこで敷居へ近い畳へと居直った。少斎はそこで片膝を立てて、ガラシャの白い胸元を太刀で一突きに刺し通した。
霜自身が目の前で見たガラシャの自害の様子を報告している。ガラシャ自身は自害することについて、初めは介錯される事を想定して『長い髪をさらさらと束ねて巻き上げた。』彼女(ガラシャ)は介錯とは首を斬り落とすことと理解していたことが判る。しかし少斎は『左様にては御座なく候』と答えた。ガラシャは『心得たり』と言って襟を両方に押し開いた。少斎はそこで片膝を立てて、ガラシャの白い胸元を太刀で一突きに刺し通した。
イエズス会の報告
イエズス会報告書では『ところが監視隊長・家老の小笠原少斎殿は、他の家臣と共に邸全体に火薬を撒き散らした。侍女たちが全員屋外に出ると、ドナ・ガラシャはただちに跪き、たびたびイエズスとマリアの聖名を口誦んだ。彼女自身、両手で(髪をかき上げて)首を露わにし、そして彼女の首は一撃のもとに切り落とされた。』となっている。
イエズス会の報告には、「しかし少斎は『左様にては御座なく候』と答えた。ガラシャは『心得たり』と言って襟を両方に押し開いた。少斎はそこで片膝を立てて、ガラシャの白い胸元を太刀で一突きに刺し通した。」という事実が報告されていない。
二つの報告を比較した時に、真実のガラシャの自害した報告が脱落していることが判る。この脱落した報告こそが真実のガラシャの死に様を述べているが、報告を受けたオルガンティーノ(Soldo Organtino)が「介錯された」という言葉に衝撃を受けてこの事実を書き忘れていると思われる。
介錯の解釈
この矛盾は「介錯した」という言葉の解釈の違いによって引き起こされていることが判る。
当時「介錯」とは首を斬り落とすことであり「介錯した」と言えば、首が斬り落とされたこととすべての人が理解していた。オルガンティーノ神父も侍女の「霜とおく」から、ガラシャが「介錯された」と聞いた時、すぐにガラシャの首が斬られたと解釈した。それ故にイエズス会の記録にはガラシャは「首を斬り落とされた」と書いている。
玉造に有ったイエズス会の教会に、キリシタンである「霜とおく」他の侍女たちが保護を求めて細川邸より逃げ込んできた。そこで今しがた見てきたガラシャの自害の様子を当時、大坂に潜伏していたオルガンティーノ神父に報告したが、その報告が『少斎によりガラシャは介錯された』という言葉で表現されたので、教会側はガラシャが「介錯」されたという言葉を一般通念として「首を斬り落とされた」と解釈し思い込み違いをして報告している。
このように報告された「介錯」の言葉の「解釈」が間違いを引き起こして、そのままイエズス会の報告書に書かれ、長い間、実に1600年以後イエズス会報告書が伝えた間違いが、実に400年に渡りヨーロッパの社会では伝えられてきた。
フランスのイエズス会師、歴史編集者ジャン・クラッセが1689年に編纂した『日本教会史』がパリで出版された。その中でガラシャの死は「殉教」の扱いを受けている。
1878年(明治11)日本は今まで長い間鎖国政策をしていたために、新しくできた明治政府はキリスト教に対しては間違った認識と知識しかなく、正確にキリスト教を知るために明治政府の大政官翻訳係が、クラッセ著『日本西教史』全二巻をフランス語から日本語に翻訳した。
明治政府が西洋文化としてのキリスト教を理解するための基本資料としたクラッセ著の『日本西教史』が明治時代以後の、近代日本人のキリスト教に関する基礎知識になっていった。『日本西教史』によりもたらされたキリスト教の新しい概念と訳語によって確定化され、その後の日本のキリシタン史の底本となった。「殉教」という言葉がこの本で使われたガラシャの死に関しての定義として定着している。
ガラシャの死は「殉教」か「自殺」かという論争が現在でもされているが、このような論争がいかに虚しく無駄な事かを考えなければならない。ガラシャの死を定義付け、彼女の信仰の理論付けをして、それが何の役に立つのだろうか。
神のみがガラシャの死のすべてを受け入れて下さる方であり、神の御手にのみすべての判断があることを知らなければならない。信仰とは神を信じる人と神との関係であり、他の人がその関係を定義付けることなど許されない事であり神のみがその判断をする。すべての決定権は神のみにある。
ガラシャは神から与えられた時代に命を与えられて生きた。神を見出し、神に自分の総てをかけて信仰し、神が与えられた人生を、忍耐と神に対して希望を置いて生きた。命とは神が与える無条件の恵みであり、死も神から与えられる恵みと確信して受け入れる覚悟をしている。
人間の尊厳や人間の存在そのものまで疑わせるキリシタン時代にあって、キリスト教の信仰を自分の思想として受け止め、絶対に譲れない神を信じる信仰の自由、それに命を懸けて自分の生き方を神の前に問い続ける姿勢を持って日々を生きた。人生における困難と迫害を神からの恵みと御旨として受け止め、神という絶対者を信じ、神の領域にこそ永遠の命があると信じて生きた。それを信じて生きるためには確立した自己がなければならなかった。キリスト教を自分の生き方として受け止め、それに生きた人たちと為政者との間に生じた確執の結果が殉教でありキリストにある死であった。ガラシャは確立した自己の思想と純粋な信仰を持ち、人間としての生き方、信仰を高貴さや魂の優しさを証しする必要があったとき、キリシタンとして、ひとりの人間として神の前に真摯に生きることを選んだ人であった。
400年前に生きたガラシャの生き方、信仰の在り方、ガラシャが置かれていた立場、ガラシャが如何にして死に臨まなければならなかったかを正しく知り、理解し認識したうえで、有りのままの歴史を受け入れることしか現在の我々にはできない。
神のみがガラシャの信仰も死も全て受け入れて下さるのであり、神の領域に我々が踏み込むことなどできない。生も死も全ては神の領域の属する事柄であり、神の御手の内にある事を理解しなくてはならない。
忠興、ガラシャ自害の報告を受ける
関ヶ原の戦いの後、細川軍は福知山城攻略が終わると、興元、興秋は田辺城へ戻った。忠興は、福知山城代の件で家康と相談するために大坂城西の丸へ向かった。大坂城で福知山城代を決めると、懐かしい青龍寺へ一泊した。翌日、京都建仁寺塔頭十如院へ寄り、避難していた幽斎の姉宮川を訪ねた。
建仁寺は東山寄りに流れる鴨川の東側に添って伽藍が並ぶ日本最古の禅寺である。当時は現在の三倍の敷地を持ち、当時は塔頭ごとに独立していた。十如院も如是院の塔頭であった。十如院の住職は、元々は甲斐武田家の支流にあたる若狭の武田家がなっていた。1580年(天正8)、武田宮内大輔信重を父に、幽斎の姉宮川を母とする英甫永雄師が住職になり、甲斐武田家との縁は薄くなり禅宗に帰依していた細川家の菩提寺的な心の拠り所となっていた。
忠興はこの十如院で、ガラシャの最後の時に側にいてガラシャの最後を見ていた「霜とおく」を呼んで、伯母宮川(父幽斎の姉)と共にガラシャの遺言や当日の模様を詳しく聞いた。
伯母宮川は忠隆の妻千世と共にガラシャの勧めで前田家の千代の姉豪姫の所に避難していたので、直接にはガラシャの最後は見てはいない。この時、伯母の宮川は初めて霜とおくの証言により、ガラシャの最後の様子を聞き「体泣き崩れて愁嘆限りなし」だった。
*『綿考輯禄』第二巻 忠興公(上)382~383頁
忠興の霜とおくに対するガラシャの最後の様子の話の聞き取りは夕刻にまで及んだ。忠興はどのような思いで自分の命じたことに順じた妻ガラシャの最後の様子を聞いていたのだろうか。忠興はこの時、オルガンティーノ(Soldo Organtino)神父の命によりガラシャの遺骨が霜とおくによって細川邸の焼け跡から拾われ、大事に小西行長が堺に作ったキリシタン墓地に仮埋葬されていることを知らされている。
ガラシャの死に準じた小笠原少斎、河北石見守一成、金津助次郎正直等の働きには満足した。しかし、ガラシャと共に自害しなかった忠隆の妻千世の姉豪姫宅への避難、ガラシャと共に殉死を命じた稲富伊賀守祐直の逃亡の報告に忠興は非常に立腹している。
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