加賀山隼人正興良の墓碑の移動説について

加賀山隼人正興良墓碑(右側)加賀山半左衛門墓碑(左側)・香春町中津原浦松地区
加賀山半左衛門墓碑の拡大写真
加賀山半左衛門墓碑の十字架
加賀山隼人興良の肖像画・加賀山家末裔の加賀山興純氏筆
加賀山文人氏所蔵の掛け軸


加賀山隼人・加賀山半左衛門の墓の移動説について
加賀山氏画博覚書きと豊前村誌との相違についての考察

奥田興純覚え書き
*加賀山興純著 加賀山氏画傳覚書より

『家記二隼人墓ノ事不詳、或ハ豊前圀髙波郡ノ中云々、田川郡(髙波ノ?又浪ト誤レリ)興純序ヲ以テ行タリ。左二田川郡香原ヲ出、北二行事数町右側二加々美山八幡ノ?有リ。尚北二行事数丁ニシテ一村落有リ。呼野山ノ方ヨリ落来ル川ヲ渡リ、突出タル崎山畑ナリ。一翁ニ導カレ行ルニ今ハナシ。翁ハ此辺ニ有リシト云村民ニ問ヘト知ラス。此翁ハ元村社人ノ果ナリ。談家記ニ見ユル処ニ相同シ、此辺今ハ村墓地ノ如シ。昔シ香春城ヨリ程遠カラス、興良ノ墓所有リシモ計リ難シ。予ハ大ニ信スルナリ。家記ノ中少右ヱ門祭云々。八月十七八九日ト有リ、左ニハ八月十九日當日ナルカ』

*加賀山氏画傳覚書より加賀山興純著 上妻文庫145 熊本県立図書館所蔵 

奥田(加賀山)興純は文化年間【1804年~1817年】に豊前国の人にそれらしきことを聞き、慶応年間【1865~1868年】小倉戦争のとき香春に出張時、上記の事を調べ日記に記述している。 

奥田興純の加賀山隼人の墓碑訪問は小倉戦争の1868年であり、『豊前村誌』成立は1880年である。二つの記録の間には単純に12年の時差がることがわかり、豊前村誌の記録の「鈴麦」という地名が誤記であることが判る。 

明治初年【1868年】の廃仏毀釈以前の話であるので、やはり加賀山隼人の墓は中津原浦松地区から移動していないと結論付けられる。 

奥田興純が加賀山隼人の墓碑の事を初めて聞いたのが遅くとも1817年として、実際小倉戦争の1868年に訪ねた時までに、すでに51年が経過している。その間、加賀山隼人の墓は香春町中津原浦松に存在していたことになる。 

採銅所駅前の高巣橋の袂に加々見山旅館があった。1868年の小倉戦争の時、奥田興純は加賀山隼人正の墓碑訪問の時,加々見山旅館に滞在していた。そして旅館の主人に中津原浦松の加賀山隼人の墓碑まで案内してもらっている。加々美山旅館は今は無く空き地になっている。行木家も明善寺前にあって、代々医者をしていたとの事。
*柳井秀清香春町郷土史会会長談

採銅所について
奥田興純氏が訪れた当時の採銅所は「上採銅所」「下採銅所」「採銅所所町」の3つの村から構成されていた。この3つの村が合併して明治22年に「採銅所村」になった。

「上採銅所村」は下記の通りに構成されていた。
       金辺峠
     岩本   中村
     谷口   道成
(けごや)花古屋  道原
     井堀   鈴麦

豊前村誌に出てくる警固隊の上申書の場所は、花古屋(けごや)ではないかと考えられる。花古屋(けごや)周辺には多くの金山採掘場、銅山採掘場があり、警固隊が駐屯するには丁度良い場所である。警固の名称に当て字で「花古屋」が付けられたのではないかと考えられている。
金辺峠から町の中央を秋月街道が通っている。
*柳井秀清香春町史談会会長談


豊前村誌について

明治新政府は1872年(明治5)に旧福岡県(筑前15郡)に『福岡県地理全誌』の命令を下している。1872年から1874年(明治5~7年)にかけて調査し、1874年(明治5)から1880年(明治13)に編纂された。この全誌から『小倉県』の部を『豊前村誌』として編纂し直して刊行した。
「福岡県百科辞典・下巻」 

この『豊前村誌』は明治に入り、明治政府の方針で豊前地方総括の役所が豊前地方を知るために旧藩庁に編纂を命じ、香春藩庁ではおそらく明治5年頃(1872年)までに編纂されたと思われる。 

『豊前村誌』の基になっているのは、当時の各藩庁に記録として残されていた幕末までの村々に残る言い伝え等の未確認資料によって編纂されていて、現在各豊前地方の郷土史の研究が盛んになるにしたがって個々の正確な内容が報告され『豊前村誌』に掲載されている記述内容に関して矛盾点や誤記等が色々と指摘されている。 

『豊前村誌』の冒頭部分の福岡県庁設置経緯によると、明治9年頃(1876年)、小倉県の福岡県との合併直後の小倉県庁開設等の記事から小倉県に属する豊前地方の村々の明細を知るために全体から分離する形で『豊前村誌』が編纂された。 

『陵墓 衛門墓ト伝フ村ノ南方字鈴麥(むぎ)ニ石碑弐個アリ其形常躰ナラス異容二シテ最モ古風ヲ存ス文字ナク又年号干支其氏墓寺古記里言共二傳ワラス』
*豊前村誌八巻中の第五巻 三三頁 

移動説の根拠となっているのが『豊前村誌8巻中の第5巻、33頁』の『陵墓に関する古文書』の文献であるが、『豊前村誌』は、いつ編纂され、どの程度信頼できる史料なのであろうか。 

『衛門墓と伝ふ村の南方鈴麦に石碑2個あり。』この鈴麦の地名が、上記の加賀山氏画伝の記述と相反する場所を示しているので、問題の矛盾点であり論点になっている。 

『豊前村誌』の編纂自体が、明確な場所の確認作業をして書かれたわけでないので、他にも事実と違う記述が多く見受けられる。従って明治になって編纂された豊前村誌の加賀山隼人の墓に関する記述は場所を取り違えて書かれていると結論付けられる。 

現実に加賀山隼人の墓のある場所は中津原字浦松地区なので、豊前村史が編纂される過程で、『村の南方』とは方角的に中津原方面を指し示しているのに、『鈴麥』という採銅所の北にある土地名が間違って記述されている。この「鈴麦」の地名は誤記だと考えられる。 

移動説の内容は『豊前村史』の記録を根拠に、もともと二つの墓は採銅所鈴麦にあり明治初年【1868年】の廃仏毀釈のとき、採銅所鈴麦(現・井堀地区)の山の上から現在地の浦松地区に移されてきたとの説だが、二つの墓の大きさから重量を計算しても、明治初年の廃仏毀釈のときに採銅所鈴麦の山の上から下ろし、約6~8キロ南東の浦松地区に移すには相当の人数と日数が要ったはずである。採銅所鈴麦地区、中津原浦松地区、両地区の古くからの地主の古老達の記憶にもその様な言い伝えがあれば覚えておられるはずだが、その様な言い伝えは聞いたことが無いと言われる。 

また鈴麦地区(現・井堀地区)の山の上と言われているような土地も鈴麦地区には存在していない。中津原浦松地区にも明治初期の廃仏毀釈の時に水神様を採銅所から受け入れたとの記録も無く、当時も墓を移動させるということは忌み嫌われたことでもあるので、中津原浦松地区の人々が反対したであろうことは容易に想像できる。 

また、明治初年【1868年】の廃仏毀釈時の移動説では、慶応年間【1865~1868年】の奥田(加賀山)興純の日記と矛盾する。 

『奥田興純は文化年間【1804年~1817年】に豊前の人にその墓の事を聞き』とあるので、少なくとも1804年~1817年の時には墓は浦松地区にあったことがわかるし『奥田(加賀山)興純自身が慶応年間【1865年~1868年】小倉戦争【1868年】のとき』に呼野山地区(採銅所地区)の村の古老の案内で加賀山隼人、半左衛門の墓を訪ねている。 

奥田興純の墓の探訪は慶応年間【1865~1868年】であり、『豊前村誌』は明治に入り明治13年【1880年】までに編纂された。奥田興純の加賀山隼人の墓碑訪問の慶応年間と「豊前村誌」編纂の間には単純に12年間の時差がある。後から編纂された「豊前村誌」に誤記があることがこの12年の時差により証明される。 

【上申書の年代の特定、及び資料の出所】

さらに田川郡香春町にある奉行所の警備隊長からの城への上申書がいつの文献か、この文献に述べられている金山とはどこの金山か。 屯所とはどこにあったのか。 この上申書がいつ書かれたものなのか、どの史料から引用された物なのか、その信憑性はどの程度あるのかを調査しなくてはならない。 

『金山を守る衛士共、心おだやかならず、屯所真近の墓石の如き石碑弐個あり、その形常躰ならず、又毎夜半奇々怪々の変あり、聞くに及ぶ所、先般細川殿この地領有の折、重臣の者故あって処断、この地に埋葬された由、ついては衛士の忠勤のため酒肴料を割増したい』            
田川郡香春町にある奉行所の警備隊長から城への上申書。

警固隊の駐屯していた場所は上採銅所の花古屋(けごや)ではないか、との柳井秀清香春町史談会会長の指摘があった。周辺には多くの間歩(まぶ・鉱山)があり、周辺の鉱山を管理するには丁度良い中心地点である。

加賀山隼人正興良の肖像画
加賀山文人氏(元・熊本日日新聞文化副部長)所蔵の掛け軸画より
「殉教余聞」に掲載された、加賀山家末裔の加賀山興純氏の描いた掛け軸画

加賀山隼人正興良の肖像画・加賀山興純氏筆 

加賀山興純氏(大正13年2月死去)は、加賀山源左衛門の三男・主馬可政の子孫で、当主は興定氏(宇土市笹原)在住。


加賀山主馬可政の墓碑・北岡公園前・安国寺墓地内にあります
加賀山主馬可政がみやの遺骨を花岡山の中腹に埋葬した
加賀山隼人正興良息女(みや)の墓碑・花岡山中腹
加賀山主馬可政が埋葬した  撮影:原田譲治
加賀山隼人正興良息女(みや)墓碑 撮影:原田譲治









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