イエズス会が記録した細川ガラシャの姿


細川忠興像・永青文庫所蔵・2018年・細川ガラシャ展図録より・熊本県立美術館
細川幽斎(藤孝)像・天授庵所蔵・2018年・細川ガラシャ展図録より・熊本県立美術館
細川幽斎(藤孝)婦人・麝香(ドナ・マリア)像・天授庵所蔵
2018年・細川ガラシャ展図録より・熊本県立美術館


明智十兵衛光秀像・本徳寺所蔵
2018年・細川ガラシャ展図録より・熊本県立美術館

イエズス会が記録した細川ガラシャの姿

イエズス会が描いた細川ガラシャの姿は、1578年(天正6)結婚後の禅宗の学びの様子から、その後の1582年(天正10)6月2日早朝、玉の父・明智十兵衛光秀の織田信長に対する謀反「本能寺の変」により、玉の三戸野での幽閉まで遡り、1587年(天正15)の春の教会訪問から侍女を通してキリスト教の教義を学び、洗礼を受けるまでのガラシャ(伽羅奢)の改心の様子を中心に、1600年(慶長5)7月17日、大坂の細川邸での自害の様子を克明に記録されている。

*「綿考輯禄」第2巻 巻13に細川藩の記録としてガラシャの最後について書かれている。

ガラシャの死後、忠興が執り行った小倉でのガラシャの追悼ミサの記録1608年(慶長13)まで、実に30年に渡るガラシャの生涯の記録として詳しく記されている。

細川藩でも「綿考輯禄」第2巻 巻13(209~234頁)に、忠興とガラシャ(玉)の結婚生活について描かれている。特にその中に忠興の家庭内での残忍な暴力行為(Domestic Violence)の行為が描かれている。
*「綿考輯禄」第2巻、第3巻 忠興公・上・下 出水叢書1,2.汲古書院

 忠興の暴家庭内暴力は、1587年(天正15)7月、豊臣秀吉の「伴天連追放令」による髙山右近の明石六万石の没収と追放を、目の当たりにした忠興の権力者秀吉への恐怖からくる自己防衛であった。 

細川家の中にキリシタンがいたら、髙山右近のように細川家が取り潰しになるという恐れからの反動であり、細川家の中にキリシタンがいたら迫害して家内から追い出さなければ、細川家が秀吉から取り潰しになるという絶対者への恐怖が引き起こした行動だった。

なぜ、このようにガラシャ(伽羅奢)に関して多くの記録がイエズス会に残されたのだろうか。キリシタン史の中でこのような扱いを受けている人物は非常に少ない。キリシタン信者の模範として髙山右近と大友宗麟も詳しく描かれている。

ガラシャが特別な貴人・大名の奥方であったこと。忠興の無理解と激しい家庭内暴力(Domestic Violence)の中でも信仰を堅持して生きたこと。その死があまりにも悲劇的であったことにもよる。ガラシャの信仰が堅固な意思と構築した思想に基づくものであることと、当時の貴夫人の稀有な信仰が模範として人々の賞賛の的であったことにも起因している。

*ガラシャについてイエズス会日本年報が明らかにしている彼女に関する記録は大きく四の時代に分けられていて、1563年(永禄6)から1600年(慶長5)までの37年間が克明に描かれている。 

1  明智十兵衛光秀の娘(三女)として生まれ、忠興に嫁ぎ幸せな生活を送っていた時代。父光秀の織田信長への謀反「本能寺の変」による、玉が受けた三戸野での幽閉の二年間 

2  大坂の細川邸でのキリシタンへの改心、洗礼を受けガラシャ(伽羅奢)となる時代。キリシタンになり、夫忠興からの家庭内暴力(Domestic Violence)に耐えて信仰を堅持し続けた忍耐と試練の記録 

3  1600年(慶長5)7月17日、細川邸での小笠原少斎の介錯による自害 

4  ガラシャの自害後の細川家のガラシャ追悼に関する記録 


細川時代の丹後半島の城の配置図
細川三代・春奈徹著 205頁

 明智家の滅亡は1582年(天正10)6月2日早朝の「本能寺の変」に始まり、13日の山崎の戦いでの敗戦、山科の小栗栖での父光秀の死去、15日の坂本城での明智家と妻木家の人々と明智秀満の自死で、明智家のすべての人々がこの世から消えてしまった。たった2週間で玉の周りにいた親しい明智家の人々がこの世から姿を消してしまった。この世の儚さ、儚い命の無常さはどこから来たものだろうか。 

父光秀が起こした謀反「本能寺の変」のために実家明智家は滅亡し玉ひとりが残された。光秀の謀反は玉の心を深く傷つけた。愛し尊敬していた父光秀の思いがけない主君織田信長への反逆に驚き、それに続いて父光秀の落命、さらに続いた実家・明智家と妻木家の人々の滅亡。突然に起こった反逆「本能寺の変」に始まった一連の出来事に、丹後の宮津城にいた玉はなすすべもなくただ茫然としてすべてを受け入れるしかなかった。 

夫忠興は常に権力者に対して脆弱であり、この時もおのれの立場を守ることを優先した。

忠興の考えは細川家の存続だけが最優先課題であり、そのためには家族の命も家臣の命も消耗しても構わないという酷き考えの思考のもとにすべてが決まられていた。忠興には細川家さえ残れば人の命などどうでもよかった。忠興のそのような思考に父藤孝は常に苦言と諌言を呈していたが、それを素直に聞くような忠興ではなかった。 

忠興の玉に対する無理解の故に、玉はその後すぐに三戸野へ幽閉され、自分の周りのすべてが崩れ落ちたかのように感じていた。玉の心にある苦悩と孤独、無気力。絶望の淵にあるという惨めさが、三戸野へ送られた当初は玉の心を支配していた。その中でも徐々に玉は自分を見失わず、聡明で堅固な意思を持ち続けていた。玉は失望して諦めることも、自分を慰めることもしなかった。三戸野での幽閉の間、玉は生きる理由を、三戸野で誕生した次男の興秋に見出している。人として生きる道を心の中で葛藤を抱えながら模索して見出している。 

細川家としては、何の罪もない嫁・玉が明智家から嫁いできているというだけで、謀反を起こした明智十兵衛光秀の仲間と思われ、織田家全体から戦いを仕掛けられることはなんとしてでも避けなければならない課題だった。謀反を起こした明智家の人間というだけで抹殺される時代である。細川家としては、嫁玉を、明智家から婚礼の時に付いてきた人々と共に、細川家から遠ざけることで周りの目を欺き、細川家としては玉を密かに僻地三戸野に幽閉することで、玉を守る意味の行動を同時にしている。 

これら一連の細川家の行動の差配をしたのは、戦国の世を、盟友明智十兵衛光秀と共に戦い、十兵衛光秀の考えや思考性を熟知していた細川家の当主・藤孝だった。藤孝は光秀との軍事行動や婚姻関係が深かっただけに、他の織田家家臣たちから、あらぬ疑いを掛けられ戦いを挑まれることを避けるためには、なるべく早く旗幟を鮮明に掲げる必要があった。 

藤孝は、突如明智光秀が起こした「本能寺の変」に驚きはしたが、冷静な判断の元、明智光秀からの行動の同行(誘い)は拒否している。明智軍と細川軍がひとつになっても、当時他の織田家家臣の軍隊と戦っても勝つ見込みがないこと。特に強大な軍事力を持って、備中髙松で毛利軍と戦っている豊臣秀吉軍との歴然とした軍事力の差を考えたら、盟友明智光秀とこの機会に同盟を解除するしか細川家の生きる道はないことが判っていた。 

藤孝は重臣の松井康之を光秀の女婿・明智秀満に遣わして、光秀との義絶を申し送り、他方では織田(神戸)信孝に使いをやって織田家への忠誠を誓っている。 

それ故に藤孝は織田信長の「本能寺の変」での横死を機に、剃髪して「幽斎玄旨」と号して第一線から身を引き、田辺城(舞鶴市西舞鶴)を隠居城と定めて、細川家の家督を若い忠興に譲っている。 

玉の三戸野での2年間の幽閉の間、忠興の実弟・興元が領する峰山城から地元住民しか知らない山道を利用して十分な援助物資を運び込んでいる。興元が三戸野に幽閉された玉の後詰めの護衛を引き受けていた。 

戦国の世を生き抜いてきた藤孝の采配はここでも細川家を存続させながら、なおかつ玉の命も守る選択をしている。 

三戸野では、明智家から婚礼の時以前から付き従っていた小侍徒が玉の心に寄り添い慰めを与え励まし支えていた。

宮津城での新しい生活 
 1584年(天正12)二年後、三戸野から宮津城に帰り、玉に新しい生活が戻ってきた。三戸野に於いての幽閉の二年間、離れていた二人の子供、長女長、長男忠隆と、三戸野で生まれた興秋との幸せな生活が新たに始まった。この生活は1584年(天正12)から、1586年(天正14)十月十一日、三男忠利(光)の宮津城での誕生を挟んで、1586年(天正14)まで、大坂玉造に新築された細川邸への移転まで続いている。 

この時代、玉が三戸野から帰ってから清原いとが玉付きの侍女頭として仕えることになった。玉が初めてキリシタンに関して興味を抱いたのは夫忠興の友人でキリシタン武将である髙山右近が話していたキリシタンに関する話がきっかけだった。 

しかも、侍女頭になった清原いとの父清原枝賢も1563年(永禄6)春にロレンソ了斎から洗礼を受けていたので、清原いとも父枝賢からキリシタンについての話を聴いて育っていたので、玉は清原いとからもキリシタンについての話を詳しく聞く機会に恵まれた。 

清原枝賢をキリシタンに導いたロレンソ了斎は稀有な修道士で、キリシタン時代の黎明期、1550年(天文19)山口でフランシスコ・ザビエル(Francisco de Javier)から洗礼を受け、1556年(弘治2)豊後府内へイエズス会本部が移って以来40年間、常に第一線に立ち、日本における黎明期の教会の土台を構築した最も優れた伝道師だった。またロレンソ了斎は五畿内のキリスト教会の中心人物だった。五畿内の教会史を見る時にロレンソ了斎の足跡がいかに偉大であるかを我々は知っている。

「神から照らされた人」ロレンソ了斎像・
狩野内膳作・南蛮屏風右隻・神戸市立博物館所蔵

ルイス・フロイス(Luís Fróis)神父は、ロレンソ了斎の宣教を支える力の源が神にあることを知っていて、ロレンソ了斎の事を「神から照らされた人」と美しい表現で呼んでいる。 

清原いとは、洗礼は受けていなかったが、キリシタンの家庭に育っていたのでかなりキリシタンに関しての詳しい話を父枝賢から聞いて知っていた。当然聡明な玉といとの間に会話としてキリシタンに関して、キリシタンは何を信じているのか。デウスとはどのような神か。キリスト教の教義とはどのようなものか、また玉の信じている禅宗とキリスト教の違いとはどのようなものか等の会話がなされていたことは容易に想像できる。 

玉が持っている聡明さと強い探求心、堅固な意思が、徐々に禅宗からキリシタンという未知の信仰の世界へ向けられていった。忠興の口から聞いた髙山右近が語ったキリシタンの話、清原いとが語ってくれる父清原枝賢が信じるキリシタンの信仰の世界。玉にとって未知の信仰のキリスト教世界に対して希望の光を求めてみようという望みが湧いてきた。
禅宗を学んでいた時と同じように強い意志でキリシタンの教えを学ぼうとしたが、大坂の細川邸に軟禁状態の玉には教会に行くすべがなかった。 

初めての教会訪問
そこに神が玉に対して教会に行く道と機会を備えて下さった。忠興が秀吉に従って九州平定・島津征伐のために出陣した1587年(天正15)三月、彼岸の折、寺に参る振りをして密かに侍女に紛れて屋敷を抜け出した玉は生涯一度だけの教会訪問をした。 

折から大坂教会では主キリストの復活祭であり、教会は美しく飾られていて、生まれて初めて教会を訪問した玉にはすべてが美しく見えた。教会ではセスペデス(Gregorio de Céspedes)神父が対応したが、セスペデス神父は十分な質疑応答ができないために、修道士コスメ髙井が帰って来るまで関白秀吉のために作られた特別の見晴らしの良い部屋へ通した。セスペデス神父は玉と侍女たちの身なりから高貴な貴婦人たちだと判ったので、関白秀吉のために特別に作られた見晴らしの良い部屋に通し、そこで寛いでいただき修道士の帰りを待ってもらっている。特別室から見渡せる大坂の街の美しい眺めに玉は満足した。 

コスメ髙井との質疑応答
 修道士コスメ髙井が帰って来ると、早速玉は抱いている諸々の疑問について質問し、玉が納得するまでその質疑応答が繰り返された。その質疑応答は、玉が現在抱えている精神的心の悩みと苦しみからの解放を意味していた。 

玉が抱え耐えている試練に対して取るべき道が示されたので、玉の抱えているすべての疑問から解放された時に、玉はすかさず自分が取るべき道がキリスト教にあり、信仰すべき道であることを確信した。それ故、直ちに洗礼を授かることを願った。突然に訪ねて来て身分を明かさない貴婦人に、いきなり洗礼を授けることを躊躇したセスペデス神父は、次回教会を訪ねる機会にと言って今回の洗礼を断ったが、二度と教会を訪ねることができない事を知っていた玉は、幾度も手を合わせて聖なる洗礼を授けてくれるように懇願した。 

玉の教理研究の手段
 それから玉は熱心に教理を学び、洗礼を授かる準備を整えた。また16人の侍女たちを機会あるごとに教会に行かせ説教を聴いて、その説教を侍女から聞いて教理を学んだ。侍女たちは次第に教理を学び徐々に改心して洗礼を受けるようになった。特に侍女頭の清原いとは、父枝賢がキリシタンであるから、キリシタンになることには抵抗なく、侍女の中で教理の理解も深く中心的役割を果たしている。清原いとは洗礼を受け「マリア」という洗礼名を授かった。 

16人の侍女たちはそれぞれに教会に行き信仰を告白して洗礼を受けた。ガラシャを中心にして霊的書物「キリストに倣いて」等を読んで信仰についての知識を深めていった。宣教師たちは密かに侍女たちに手紙を持たせて玉との連絡を取っていた。ガラシャの信仰は増々深くなり屋敷での祈りの生活は修道院のように荘厳な雰囲気に代わって行った。祈りの生活によってガラシャ自身も次第に内面から変わって行った。玉の心と態度はすでにキリシタンであるかのように変貌していった。 

ガラシャの心と態度の変化(238~239頁)

鬱病からの心の解放と人格の変貌
「ガラシャは彼女の領国(丹後)にひとつの立派な教会を建て、そこで住民の大改宗を企てる決心でいた。キリシタンになることを決めて後の彼女の変わり方は極めて顕著で、当初はたびたび鬱病に悩まされ、時には一日中室内に閉じ籠って外出せず、自分の子供の顔さえ見ようとしないことがあったが、今では顔に喜びを湛え、家人に対しても快活さを示した。怒り易かったのが忍耐強く、かつ人格者となり、気位が高かったのが謙虚で温順となって、彼女の側近者たちも、そのような異常な変貌に接して驚くほどであった。」 

*完訳フロイス(Luís Fróis)『日本史3』織田信長編Ⅲ 
 第62章(第2部106章)220~240頁

丹後の国の貴婦人にして明智(光秀)の娘であり、異教徒(細川)越中殿(忠興)の奥方 なるガラシャの改宗について 

大友宗麟とザビエルとの出会い
大友宗麟の場合、1551年(天文20)九月にフランシスコ・ザビエル(Francisco de Javier)と初めて会ったときからキリスト教に関心を持ち、その後豊後府内でのトーレス(Cosme de Torres)神父や医師アルメイダ(Luís de Almeida)の教会活動に理解を示し積極的に支援して関わりを持った。 

1556年(弘治2)山口より豊後府内へイエズス会の本部が移転してきた。府内でのイエズス会の宣教活動や病院設立での医療活動、宗麟にとって、教会の宣教活動は今まで知っている仏教世界では見たことも聞いたこともない救済活動だった。特に、仏教では前世の報いとして、仏の罰としての癩病(ハンセン氏病)を患った人々を病院に受け入れて看護している。癩病(ハンセン氏病)に関する仏教観念を持つ宗麟の思想を根本から覆すキリスト教会の医療活動だった。病院での癩(ハンセン氏病)患者受け入れは、事前に医師アルメイダから宗麟は相談を受けていて、それを了承している。宗麟の了承なしでは、府内に於いてこの様な医療活動はできなかったであろう。 

洗礼名の決め方
カトリック教会では、基本的に洗礼名は受洗者本人が決めることになっている。 
宗麟は一度は得度して禅宗へ帰依したが、禅宗の思想の浅さに疑問を抱いて、その後、慎重に禅宗かキリスト教かの選択を、実に27年間をかけて吟味して、最終的に1578年(天正6)49歳の時に洗礼を受けた。その時、宗麟自身が、自分の洗礼名を、最初に出会って強烈な印象を受けた宣教師フランシスコ・ザビエル(Francisco de Javier)に因んで「従前の願い」により「フランシスコ」と選んでいる。 

「深い喜悦と謙虚を持って聖なる洗礼を受けた。司祭(フランシスコ・カブラル・Francisco Cabral)は従前の願いに従って彼にフランシスコの(洗礼)名前を授けた」
*『16・17世紀イエズス会日本報告集』1578年10月16日付け書簡 

「従前の願い」とは、洗礼を受ける人が事前に洗礼名を選んで、その洗礼名を授けてもらうことを意味する。司祭は洗礼を授ける時に洗礼者が希望する名前を授ける。 

玉の洗礼
玉の侍女16名すべてがキリシタンとなり、残すは玉ひとりとなった。玉はなぜ自分だけが洗礼を受ける機会が訪れないのかという悩みがあったが、それも清原いとマリアが神父に代わりに洗礼を授けるという形で玉に洗礼が授けられた。この洗礼により玉はガラシャ「伽羅奢」となった。 

「ガラシャ」とは美しい言葉である。ガラシャという名はラテン語のGratiaに由来している。ラテン語のGratiaは「神から与えられる幸運・寵愛」の意味で用いられてきた。 

日本語には、恵み、恩恵、恩寵と訳されている。教会では「ガラシャ」を『聖寵』という意味で使用する。「神から与えられた聖なる恩寵」という意味である。『聖寵』とは『神の豊かな恵みが与えられたこと』を意味する言葉である。
*結城了悟著『宣教師は異国で、なぜ大名やその子女を入信させることができたのか』『細川ガラシャのすべて』 上総英郎編、新人物往来社、1994年 

 このGratiaはイエズス会の書簡の中でポルトガル語のGraça(グラッサ)スペイン語Gracia(グラシア)イタリア語Grazia(グラーツィア)として頻出している。 

 玉自身が「従前の願い」に従い、玉自身が洗礼名「ガラシャ」を選んだと考えている。「従前の願い」とは洗礼を受ける人が事前に洗礼名を選んで、その洗礼名を授けてもらうことを意味する。玉はキリシタンになる前から侍女たちから教えられた祈りをよくしていた。彼女は「毎日、聖母のロザリオを全部と、その他の祈りを唱えていた」と記されている。 

『聖母のロザリオ』とは、イエス・キリストと聖母マリアの玄義を黙想して、天使祝詞「アヴェ・マリア」を45回、主祷文「パーテル・ノステル・主の祈り」を15回唱えていた。 

「アヴェ・マリア」には「がらさ」(神の恵み)という言葉が冒頭から何度も唱えられる。玉の唱える祈りの中には「がらさ」(神の恩寵)という言葉が繰り返し唱えられていた。「がらさ」という言葉が玉の心に深く刻まれていて、玉は心の中にキリシタンの究極の希望である「神の恩寵」の中に生きる希望を強く持っていった。 

また「ガラシャ」のカタカナ表記自体はスペイン語の発音(グラシア)からきている。フロイス(Luís Fróis)のポルトガル語で書かれた書簡に中の表記もスペイン語Graciaという綴りである。 

スペイン語表記のGraciaを洗礼名に選んだのは、この時期ガラシャの案件を担当していたスペイン人のセスペデス(Gregorio de Céspedes)神父ではないかとも考えられる。 

「がらさみちみち玉ふ、まりあに御れいをなし奉る御主は御身と共に御座ますによにんの中にをひてべねぢいたにてわたらせ玉ふ、又御たいないの御実にて御座ますぜずすはべねぢとにて御座ますでうすの御母さんたまりあ、今も我等がさいごにも我等悪人の為に頼み給へ、あめん」
*尾原 悟著『きりしたんのおらしょ』44頁『おらしょ断簡』1590年版より   
 キリシタン研究第42輯、教文館、2005年 

*『おらしょ断簡』
 この断簡には「ぱてるのすてる」「あべまりあ」「けれど」、3つの祈りが漢字交じりの平仮名文で治められている。1590年(天正18)ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)らがヨーロッパから持ち帰った印刷機によって直ちにキリシタンたちに配布すべく、主要な祈りを一枚刷りにして印刷されたものと考えられる。これらの「3つのおらしょ」はその後解説を付けて「どちりいなきりしたん」に所収されたために以後単独で配布されることはなかった。おそらく著名なガラシャにもこの一枚刷りの『おらしょ断簡」が渡されていたと考えている。 

神の無限の愛が人の心に注がれる時、その人は神の子供としての資格が与えられる。ポルトガル語でもスペイン語でも「恩恵の聖母」(Nossa Senhora de Gratia)という名が使われるときは、たいてい聖母マリアに因んで授けられた。洗礼名としてガラシャの名が使われるときは、その名前は聖母マリアにちなんで授けられている。 

日本のキリスト教黎明期に豊後で建てられた教会の名称も聖母マリアに因んで「慈悲の聖母の教会」(Nossa Senhora de Piedad)だった。
*結城了悟著『宣教師は異国で、なぜ大名やその子女を入信させることがで  
 きたか』『細川ガラシャの総て』上総英郎編 新人物往来社  

神の恵みが人に注がれて満たされた人は聖母マリアである。聖母マリアと言われるが、イエスの母マリアは人間であり神ではない。人が神になることはできない。しかし、神の恵みに満たされてマリアは主イエスを体内に宿す特権を神から与えられた。エリサベツは『主の母上が私の所に来て下さるとはなんという光栄な事でしょう』とマリアに祝福を贈っている。
ルカによる福音書1章42~44節 

エリサベツの祝福に答えてマリアは有名な『Magnificat・マリアの讃歌』を歌っている。

ルカによる福音書1章46~55節 

「マニフィカト」
聖マリアの讃歌。Canticum B.Mariae Virginis.

「Magnificat anima mea Dominum・私の魂は主を崇め、私の霊は救い主なる神を讃えます」ルカによる福音書1章46~55節によるマリアの讃歌。 

受胎告知を受けたマリアが、エリザベトを訪問した際に、エリザベトから祝福を受け、マリアが答えて唱えた讃歌。聖務日課に含まれていて、毎日の晩禱(晩の祈り)で歌われるが、聖務日課以外でもよく歌われる。

西教会では5世紀ころから「ザカリアの讃歌」「マリアの讃歌」を晩祷で用いて来た。 

【歌詞】
私に魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主なる神を讃えます。この卑しい女をさえ、心に掛けてくださいました。今から後代々の人々は、私を幸いな女と言うでしょう。力あるかたが、私に大きなことをしてくださったからです。その聖名はきよく、その憐れみは、代々限りなく、主をかしこみ恐れる者に及びます。

主は御腕を持って力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引き下ろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良い物で飽かせ、富んでいる者を空腹もまま帰らせます。

主は、憐れみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました。私たちの祖父アブラハムとその子孫とをとこしえに憐れむと約束なさったとおりに。 

本名の「細川玉」の意味が「貴重な玉」というふうに解釈されてその意味を含んで「神の賜物」「神からの恩寵」と解されて洗礼名に使われたと従来一般的に解釈されているが、これは当時のしきたりからして無理があるように思える。宣教師たちがガラシャの本名である「玉」という名前を知りえたかどうか疑問に思える。 

当時、通常高貴な位の奥方たちは夫の官位と名前を付けて呼ばれていた。奥方様が本名で呼ばれることなどない時代である。ガラシャの場合『越中守忠興殿の奥方』と必ず夫の官位の次に奥方様と呼ばれるしきたりだった。当時は呼び方一つ間違えば首が飛ぶ時代である。まかりなりにも間違った呼び方を侍女たちがしたとは到底思えないし、イエズス会もそのような常識的な事には大変気を付けていた。太閤様、殿下殿、大名の名前の前にはその人の官位が付き、後には必ず「様」を付けて呼んでいる、イエズス会も当時の呼び名に対しての配慮と心配りを報告書の中でも記している。 

イエズス会冒頭の表記からも分かる様に『丹後の国の貴婦人にして明智(光秀)の娘であり、異教徒(細川)越中殿(忠興)の奥方なるガラシャの改宗について』と書かれている。 

ガラシャの場合は「越中殿の奥方」とイエズス会の記録には表記されている。ガラシャは侍女たちから「奥方様」「奥様」「上様」と呼ばれていたはずである。したがって教会の内部の宣教師たちが「越中殿の奥方」の名前「玉」という内輪の名前を知り得ることができたのかどうかの問題も残されている。イエズス会の記録でガラシャの事を決して「玉」とは表記されていないことを考えるとこの矛盾は直に判るはずである。洗礼を受けた後はイエズス会報告書では洗礼名の「ガラシャ」として記している。 

明智家時代の幼い頃の玉は「お玉様」「玉姫」「玉姫様」「姫様」と呼ばれていた。それが当時の姫君たちの呼び名だった。おそらく忠興だけが細川邸においては妻のことを「お玉」と呼んでいたのではないだろうか。 

『加羅奢様』と細川家正史の「綿考輯禄」では尊敬を込めて素晴らしい当て字で日本語表記をしている。
 

イエズス会が目指した宣教活動
 フランシスコ・ザビエル(Francisco de Javier)が日本での宣教活動を目指した最初期、1550年(天文19)ザビエルは後奈良天皇への謁見を求めて京都を目指した。天皇を改宗させることよりも、日本での宣教する許可を求めるためであった。 

京都の荒廃と天皇の力、統制力の無さを見極めたザビエルは、山口に戻り大内義隆に同じように宣教の許可を願い、その承諾を得ると、山口の人々を相手に教えを説き始めた。領主大内義隆は宣教の許可を与えてくれたが信者にはならなかった。たとえ大内義隆が信者にならなくても、山口に於いてザビエルは説教を通して民衆に教理を説き始めた。ザビエルの説教を通して、平戸の琵琶法師・ロレンソ了斎が神の元へ導かれた。ザビエルが導き、日本の宣教の黎明期を導いてきたトーレス(Cosme de Torres)神父が、ロレンソ了斎を宣教師に育て上げた。ロレンソ了斎はその後40年に渡り宣教の第一線で活躍して、多くの人々を神の元へ導いた。 

キリストの死と十字架は人々の為であり、そのキリストによる救いを延べ伝えることこそ大事な事であった。宣教の目的は領主や貴人たちを信者にすることではなかった。キリストの福音は個人の心に宿った時に初めて平安と安らぎを与えることができる。 

宣教とは大多数の群衆を救うことではなく、個々の魂を神に導くことである。神の福音は人を内的に自由にする力を持つ。神の元では全ての人は兄弟姉妹であり、神の前では、農民、商人、大名、天下人さえも平等であり、同じ権利と義務を有している。神の与える戒めに背くことを誰も命じることはできないし、神を信じる信仰を棄てることを命じることもできない。400年前の時代にすでにキリシタンたちはこの思想を心のうちに確立していた。 

 外国から渡来した宣教師だからこそ、身分の高い大名、領主、武将に接することは容易だった。高位な地位にいる人々には異国に対する好奇心が旺盛であり、それに耳を傾けるだけの余裕的時間があった。奇妙な姿の外国人の説く新しい宗教には、慣れ親しんだ仏教や禅宗とは違う興味と魅力があった。

話を聞いた人々の好奇心と興味、あるいは新規のキリスト教に対して抱いた驚きは、神は唯一の神であり、この世の全ての創造主であるという説教の内容だった。仏教や禅宗の教えで学んでいた神とは「八百万の神」であり、神に対しての根本的に異なる教義に人々は驚いた。真理を探し求めていた人々には、キリストの福音は突然に表れた光のようだった。

 当時の日本人の神思想は「八百万の神」であり、一神教のキリスト教との違いは明瞭だった。それ故にキリスト教の説教で神に関する話を聞いた人々には、神は唯一の神と言う思想は明確であり新鮮であり驚きであった。
*結城了悟著『宣教師は異国で、なぜ大名やその子女を入信させることがで
 きたか』『細川ガラシャの総て』上総英郎編 新人物往来社 


髙山飛騨守照友と清原外記、結城山城守の改心

 光を探し求めていた人たち、1563年(永禄6)春、奈良における髙山飛騨守照友と清原外記、結城山城守の改心とその後の生活にもキリシタンとしての新しい生き方を与えた。

ロレンソ了斎から唯一の神の教えを受けてキリシタンとなった彼らは、次第に戦いと政治から離れ、神から示された道を歩み始めた。右近の父・髙山飛騨守ダリオは、荒木村重の反逆の時に間違った選択をしたが、息子右近に高槻城主を譲って隠居して領民への宣教と福祉活動に専念した。織田信長から命だけは助けられ越前と近江地方へ追放された後、質素な生活をしながら眼医者としてすべての人々に援助の手を差し伸べた。追放された土地で地道に福音を述べ伝え、キリシタンとなった人たちと共に信徒組織コンフラリアを立ち上げその組織の指導者として素晴らしい働きをしている。 

 ガラシャ(伽羅奢)の信仰に中にも彼女の信仰による心の内の変化と生活態度での変化が明確に記されている。信仰を持つということは、信仰に活きるということであり、信仰による生活をすることにより新たに自分自身が変わって行き、それに伴い周りに居る人々にも良い感化を与えその感化により周りも徐々に変化していくことを表している。 

ガラシャが信仰を持って心の内的に変化が現れたことをイエズス会の記録は美しい言葉で表現している。鬱病に悩まされていたガラシャは、救い主キリストを自分の心の中に受け入れたことで、心に安らぎと平安を得ることができた。安らぎと平安に満ちた人は、神と共に歩むことができる。神が示す道は永遠の命に繋がっている。 

『キリシタンになることを決めて後の彼女の変わり方は極めて顕著で、当初はたびたび鬱病に悩まされ、時には一日中室内に閉じ籠って外出せず、自分の子供の顔さえ見ようとしないことがあったが、今では顔に喜びを湛え、家人に対しても快活さを示した。怒り易かったのが忍耐強く、かつ人格者となり、気位が高かったのが謙虚で温順となって、彼女の側近者たちも、そのような異常な変貌に接して驚くほどであった。』 

髙山右近の心の変化と信仰
髙山ジェスト右近の信仰にも彼の心の変化が明確に書かれている。

右近の信仰は、神から与えられる試練を幾度も乗り越えて見事にキリシタンとしての栄光に輝いている。信長から与えられ試練。秀吉からの領地・明石六万石の没収、それらを捨ててまでひとりのキリスタンとして信仰に生きた右近の姿は、教会の宣教師たちよりも優れていた。右近は11歳の時に、父髙山図書照友が洗礼を受けた時、一緒にロレンソ了斎からキリストの話を聴き洗礼を受けた。それ以来、生涯を真摯に信仰に生き、武将として多くの戦場にたち武功も数知れないくらい立てている。 

髙山右近の影響により武将の多くが信仰を持った。黒田官兵衛孝髙、黒田長政、蒲生氏郷、小西行長、牧村政治、毛利秀包、熊谷豊前守、大友義統等が教会に導かれた。右近の友人で細川忠興はキリシタンの話をことある毎に妻の玉にしていた。聡明な玉は、忠興から聞いたキリシタンの話を密かに心に留めていた。右近が語ったキリシタンの話が忠興を介して玉に大きな影響を及ぼして、いつかは洗礼を受けたいという気持ちを抱かせるまでになっている。 

1587年(天正15)七月二四日、博多箱崎宮の本陣において九州征伐を終えた秀吉の発した「伴天連追放令」は、髙山右近、細川忠興、ガラシャの三人のその後の生き方に大きな違いと変革をもたらした。 

豊臣秀吉の選択
秀吉はキリシタン武将である髙山右近に、キリストを取るか、自分を取るかの選択を迫った。右近は秀吉の天下人になったことによる慢心と倣漫を見抜き、秀吉の要求が神に対する忠誠の領域を犯していると感じ、自分の全てを棄てて神の道を歩むことを選択した。秀吉に棄教を迫られた髙山ジェスト右近(三五歳)は一切躊躇せずに拒否した。右近の決断は痛烈な警告となり、有頂天にある秀吉に対して人間ゆえの限界を知らしめた。 

激怒した秀吉は右近を改易して、右近の領地・明石六万石を取り上げた。右近はすべてを棄てて一人のキリシタンとなり秀吉の前から姿を消した。 

髙山右近の選択は、痛烈な秀吉への警告でもあったが、同時に、神からの福音に触れる機会でもあった。この時、秀吉にもひとつの選択が神から与えられていた。秀吉が、なぜ髙山右近がこの様に領地明石六万石を捨ててまで、神と信仰を選ぶのかを深く考えることがこの機会にできたら、秀吉も神の福音に招かれていたであろう。 

髙山右近に残されたものはただ神を信じる信仰のみだった。右近は神の言葉にすべてを信頼し自分の全てを委ねて一人のキリシタンとして神と共に歩み始めた。 

髙山右近は秀吉の命令した「伴天連追放令」により領地・明石六万石を奪われたが、追放を受けても信仰は失わず、日々神と共に生きた。髙槻、明石、金沢の3つの地から追放されるたびに示した大いなる神に対しての喜びがそれを証している。為政者秀吉に対する態度は、神と共に歩んでいる信仰者にのみできる証である。 

すべてのこの世の支配から解放され、束縛もしがらみもない自由な信仰の世界に生きる右近の生き方は真の信仰者の姿だった。肥前名護屋城で朝鮮出兵の指揮をする秀吉と共に茶の湯を楽しみ、名護屋城に集う武将たちにキリストの教えを説いた。右近は自分の心に信仰による安らぎを求めて権力者の顔色を窺うことなどしなかった。 

「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命の事で思いわずらい、何を着ようかと自分の体の事で思いわずらうな。命は食物に勝り、体は着物に勝る。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈り取ることをせず、倉に取り入れることもしない。それだのに、あなた方の天の父は彼らを養っていてくださる。あなた方は彼らよりも、はるかに優れた者ではないか。あなた方の天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることを御存知である。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、全て添えて与えられるであろう。だから、明日の事を思いわずらうな。明日の事は明日自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日でだけで十分である。」マタイ6章25~34節 

髙山右近の、この世の地位、名誉、財産のすべてを一夜のうちに棄てて、キリストを選び潔く一人のキリシタンとして生きていく様は、多くの武将たちに驚きと感動を与えた。独裁者秀吉の前で、最高の主君とは神であるキリストであり、自分のすべてを捧げる方であることを証してすべてを棄ててひとりのキリシタンとして清貧に生きる潔い姿は、多くの武将たちにキリシタンとしての生き方を示した。 

髙山右近のキリシタンとしての全てを棄てる生き方は、細川忠興にとっては恐れ以外の何物でもなかった。この世に於いて築き上げた富、財産、領地と名誉を棄てることができない忠興にとっては、右近の清貧に生きる姿は、神からの招きでもあったが、同時にその招きに答えられない己の心の内の脆弱さを知ることにもなった。 


細川忠興の選択
友人髙山右近の取った行動は、忠興にとっても痛烈な警告であり恐怖だった。右近の無言の信仰の証は忠興にとっては痛烈な説教となり、その前において忠興は何もできない自分の脆弱さを知らされた。 

髙山右近の領地召し上げと追放を友人として見ていた忠興(二四歳)は、髙山右近のすべてを棄てて神の前に歩む姿を見て恐怖を覚えた。忠興が心の中に抱いた恐怖とは、自分が今まで努力して築き上げ獲得してきた地位や財産、領地(丹後)を取り上げられることに対する恐れだった。 

忠興の持っている欲望、権威に執着する態度、権力者に対しての脆弱な態度、為政者に対する盲目的な服従、不合理な従順等、忠興の持っているすべてが、右近の取った行動から非難されていた。 

この時、忠興にもひとつの選択が神から与えられていた。髙山右近のように神を信じることへの招きであったが、忠興は自分の持っている地位や名誉や財産、丹後の領地を手放すだけの勇気を持っていなかった。持っていたのは秀吉に対する恐れと自分が獲得してきたすべてを失うという恐怖だけだった。 

信長や秀吉という絶対者の前では何もできない脆弱な忠興だが、自分の家臣に対しては、信長や秀吉と同じように絶対者として振舞っている。自分より強い者の前では従順な態度を取り、自分より弱い立場の者には暴君的振舞いをする自己中心的な領主であった。人の命さえも顧みず、自分の気に入らなければ始末(抹殺)してしまう暴君の典型的な人物だった。 

九州征伐から大坂の自邸に帰った時に、忠興は妻玉の周りのすべてが変化していること、屋敷内の雰囲気と玉に仕える侍女たちの態度で察せられた。また妻玉の態度の余りにも変わった柔和な態度から、忠興が察することはもしや玉が髙山右近のようにキリシタンになっているのかもしれない、侍女たちもキリシタンになっているのかもしれないという不安だった。 

忠興には玉や侍女たちが集団で改宗していたことは明確に把握できなかったが、忠興の感は鋭く、妻ガラシャの今までとは違う心の代わり方や彼女の柔和な態度からキリシタンであるという確信を得ることができた。もし妻ガラシャと侍女たちがキリシタンになっていたら、親友右近のようにすべてを失うという恐怖が忠興の心を凶行に走らせた。 

忠興の家庭内暴力(Domestic Violence)

キリシタンであるという明確な証拠をつかんだ興秋の乳母を捕まえ彼女の鼻を削ぎ、両耳を切り下とし、キリシタンになっていた二人の侍女の髪を切り追放した。自分の周りにキリシタンがいるという事実が、秀吉から細川家が取り潰されるという恐怖に発展しての凶行だった。 

玉の侍女頭・清原いとと、玉に長年仕えていた小侍徒には、さすがの忠興も、姻戚関係もあり直接的には手を出せなかったが、小侍徒は平田因幡に嫁がせることで、清原いとは佐久間安政に嫁がせることで、玉に一番近いキリシタン二人の影響力を排除した。 

ガラシャの影響で、細川家の中で忠興の実弟・興元、嫡子忠隆、次男興秋、長女・長、次女・多羅がキリシタンになった。多羅が嫁いだ稲葉家でもキリシタンがいる。細川家との婚姻関係で見ると、織田家、浅井家、京極家、筒井家の諸将一族に、立派に信仰を守り通した十八人を見ることができる。 

浅井(京極)初マリアは夫京極髙吉と共に1581年(天正9)安土の教会で洗礼を受けた。夫髙吉の死後も妻マリアは模範的な信仰生活を送り、他の大名の貴婦人たちを信仰に導いた。京極マリアの活躍が目立っていたので1606年(慶長11)マリアは家康の命令で京都を追放され息子の領地丹後に蟄居させられた。 
 ガラシャが亡くなったあと、京都に居たモレホン(Pedoro Morejón)神父の指導のもと内藤ジョアンの姉内藤ジュリアとのその仲間は「都の比丘尼」(ベアタス修道会)として、女子修道会の働きを展開して多くの人々がこの女子修道会の恩恵によりキリシタンに導かれた。彼女たちの働きが非常に評判になり活動が顕著だったために、家康の怒りを買い、1613年(慶長18)ジュリアたち修道女たちは逮捕され都で公然と侮辱を受け、1614年(慶長19)11月、金沢の髙山右近と共にいた兄内藤ジョアンとともにマニラに追放された。
*片岡留美子著『キリシタン時代の女子修道会・みやこの比丘尼たち』
 キリシタン文化研究会 昭和51年

 

大友宗麟の影響も、豊後における初期のキリシタン史においては非常に大きい。1577年(天正5)12月、薩摩軍に追われた日向の国の伊東氏は宗麟の影響で庇護された豊後野津町でキリスト教会に入り、その中から天正遣欧少年使節の正使として伊東マンショが遣わされた。伊東家からもマンショの実弟勝左衛門、母、姉、従兄弟の義賢、祐勝、叔父伊東祐右がキリシタンとなった。 

宗麟の嫡子・義統は黒田官兵衛如水孝髙の勧めで1587年(天正15)3月、中津教会に於いて洗礼を受けたが、7月の秀吉の「伴天連追放令」発令に恐怖を感じた義統は信仰につまずき迫害者になりキリシタン信者の尊い血を流した。 

朝鮮の役での敵前逃亡の罪で領土豊後を失い毛利輝元に預けられていた。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いの時、豊後を取り戻す戦いを起こし豊後石垣原(別府)の戦いで敗れて、再び黒田官兵衛如水孝髙の助命と勧めで信仰を取り戻し、キリシタンとしての模範的生活を送り、罪の償いのための祈りと苦行の生活を続け、コンスタンティーノ義統として信仰を全うして息を引き取った。
*結城了悟著『宣教師は異国で、なぜ大名やその子女を入信させることがで   
 きたか』『細川ガラシャの総て』上総英郎編 新人物往来社  

宗麟の影響で娘たちは他家に嫁いでも信仰を繋いでいった。久留米城主・毛利秀包(ひでかね)に嫁いだマセンシア孝子(宗麟の七女)は特に毛利家のキリシタンの中心となりその子孫にキリシタンが多くいる。 

日本における人々の改心や信仰について、彼らの信仰を構築する手順について明確に記録されている記録はイエズス会の記録しかない。日本のどの歴史記録書を探しても明確な信仰を獲得するまでの心の変化を記している記録は見当たらない。 

信仰するということは、その人の心の記録、心に中に起きる変化、あるいは思想の変化であり、思想の構築課程の記録である。それが明確に示されているのはイエズス会の記録だけであり、その人の信仰の成長の遍歴を示す重要な記録である。 

イエズス会の記録は決して教会の自己宣伝だけの記録ではない。記録の中にはイエズス会が自ら犯した過ちも、宣教師ゆえのおごり、傲慢さゆえに起こした問題、日本人に対しての差別的言動、日本人に対しての偏見の問題等も記録されている。 

キリスト教会と常に敵対する仏教諸宗派に対しては著しい偏見と拒否の姿勢が貫かれている。宗教間の対立は仏教諸宗派に対してだけではなく、ヨーロッパにおいてはイスラム教、ユダヤ教に対して持っているキリスト教会の根本的な問題だった。キリスト教優越主義の思想が他の宗教との軋轢を生じ、結果的には宗教戦争、宗教的迫害、虐殺という悲劇を生んでいる。カトリック教会も無実のユダヤ人(マラーノ)を、ユダヤ教を信じているということだけで宗教裁判にかけ、火刑に処している。 

聖人と崇められているザビエル(Francisco de Javier)の日本へ来る前の過去の行動は、無実のユダヤ人の教誨師として、生きたまま火刑に処するという残酷極まりない犯罪を犯している。それどころか、インドに於いてカトリック教会の発展のために、ユダヤ人を抹殺しようとして宗教裁判所の設立を進言している。ゴアでは後に宗教裁判所が設立され、多くのユダヤ人がユダヤ教を信じているという理由だけで虐殺されている。

キリスト教という一神教の持つ限界が他の宗教の排除という形を取った時代であった。これはイスラム教もユダヤ教も同じであり、それゆえに宗教戦争が絶え間なく繰り返された中世の時代だった。 

確かにイエズス会の記録には自分の立場、宣教する側の立場を擁護しようとする傾向が強くみられる。イエズス会の記録に弱点があるとするならば、ヨーロッパという異文化圏から来て、まったく違う社会性、独自の文化を持っている日本という国に対しての無理解である。 

時代は戦国時代であり、日々目まぐるしく変わる社会情勢に対して確かな情報源もなく、知識もない宣教師たちの判断には、巷に風聞していた噂や、その土地の信徒がもたらした情報に振り回されている記録も多くみられる。 

イエズス会の記録に弱点があるとすれば、当時の日本の社会情勢についての情報収集能力と日本に対する理解の知識が欠けていた点である。しかし、宣教師たちも長く日本に滞在するに従って、自分たちの持っていた無理解に気付き出来る限り修正しようと努めている。宣教師たちは日々目まぐるしく変わる戦国時代に日本に来て、日本を理解するように努め日本人キリシタンと共に生きた。 

宣教師たちが書き残した記録と言葉には、その時代を生きた証人としての歴史の重みがある。彼らは同時代を武将たちと共に生きた宣教師・外国人であり、出来事を直接体験して証人として見聞きした。 

得に信仰の問題は心の成長の記録である。日本のどの記録にもそのような記述は見いだせない。イエズス会の記録に記されている信仰の記録は、その人の人生における思想の変化であり、思想の再構築の記録である。すべての記録が伝える心の成長の遍歴には力がある。神に対しての告白が信仰であり、その信仰の記録には真摯な姿が宿っている。 

 日本で宣教する宣教師たちの「日本に対する異文化理解の欠如」の問題は、直接的に信仰の在り方にも影響を及ぼしている。信仰の問題点の多くは日本とヨーロッパの生活の違い、文化の相違から起こる問題を多く含んでいる。日本にある仏教や神道の信仰の捉え方の違いから起こる宗教の問題、教会に関わったすべての人々において起こった信仰の問題である。 

後に棄教して教会から離脱した人たち、教会から「背教者」と呼ばれた不干斎ファビアンと千々石ミゲル、フェレイラ(Cristvão Ferreira)神父の棄教問題。彼らの棄教は彼らの信仰の浅さではなく、信仰の篤さにあった。 

真摯な信仰の故に、カトリック教会や宣教師たちの不正に対して異議を唱え、教団としての純粋性の在り方に限界を感じてカトリック教会から離れて行った。軋轢の原因は宣教をする側の「異文化理解・inculturation」の精神の欠如にある。日本文化軽視と日本人軽視が根本にある宗教は日本には根づかない。教会と宣教師たちの日本に対する深い理解なくしては、本当の信仰は根づかない。イエズス会の関与した日本人奴隷売買の問題等、日本においても教会は様々な問題を提起していた。
*『天正遣欧使節・千々石ミゲル』大石一久著 第5章 棄教問題の本質   
  349~351頁 

400年後に記録を精査する歴史家の義務は与えられた記録を公平に読み解き、当時の日本に残された記録と付け合わせをして正しく判断して、調査後には正しく公平に正直に意見を書くことだけである。 

キリシタンとして生きた武将たちの歴史を書く時,歴史の出来事だけでその人物が描かれているが、それが本当にその武将の生涯を描いているのか疑問を感じる。 

イエズス会の記録の中にはキリシタン武将に関する多くの行動の記録が描かれている。髙山右近、大友宗麟、黒田官兵衛孝髙、大村純忠、有馬晴信等のキリシタン大名と呼ばれている人々の信仰の記録、改心(心を入れ替える)の課程、回心(神の道へ心向ける)の歩み、改宗(新しく生きること)後の人生の歩み等を描くことで、本当のキリシタン武将としての姿が表われてくるのであり、そのような描き方をしない限りキリシタン武将の本当の姿は理解されない。
 

大村純忠の純粋な信仰

1562年(永禄5)三月、豊後府内より、肥前横瀬浦にイエズス会本部が移された。領主大村純忠が洗礼を受けて、イエズス会に横瀬浦を教会領として寄進した。横瀬浦は西海の小さな漁村であるが、外国船の寄港地としては素晴らしい条件に恵まれていた。深い藍色の美しい海は今でも400年前と同じ美しさを持っている。 

トーレス(Cosme de Torres)神父とアルメイダ(Lufs de Almeida)によって建てられた港を見下ろす小高い丘の上に立てられた小さな教会は「御助けの聖母」教会と呼ばれた。トーレス神父は小さい教会でも許される限り、日本の習慣に従って祭壇の近く上座に殿のための貴賓席を設けたが、純忠はその席には一度たりとも就かず、会衆と同じ間に座って説教を聴いた。神の前ではすべての人は等しく平等である。純忠は領主であったが、キリシタンの教えを心から理解して実践した人だった。 

大村純忠の信仰が本当の信仰だったという記録がある。純忠は当時日本の副管区長だったコエリョ神父から無理な要求を突き付けられた。その要求があまりにも不当な要求だったので純忠は拒否した。コエリョ(Graspar Coelho)は自分の要求が拒否されたことに怒り、大村領において宣教活動をしている神父たちの撤退を命令した。コエリョの要求は政治的なものであり不当な要求だった。まして自分の要求が通らないからと言って宣教活動を停止する行為そのものが、教会を自己支配下に置く不当な行為だった。 

コエリョ神父には純忠に対して要求する権利もなかったし、領主純忠がその要求に応じる必要もなかった。純忠の家来たちはコエリョ神父の要求が不当である上に領主に対して無礼な振る舞いであったので、主君純忠に対してキリシタンを辞めて仏教へ戻ることを勧めた。 

しかし純忠は「自分がキリシタンであるのは神父の為ではなく、その教えには誠の救いがあると信じ確信したので洗礼を受けてキリシタンになった。もし神父がその信仰を棄てたとしても自分は信仰を棄てるつもりはない」と告白した。 

1566年(永禄9)一月から、五島の福江の教会でロレンソ了斎とアルメイダ(Luís de Almeida)は共に宣教に従事した。病気になったアルメイダはトーレス(Cosme de Torres)神父に口之津へ呼び戻され、ロレンソ了斎は獲得した信徒たちの助けを借りながらただひとりで宣教活動をした。 

一年後、モンテ(Giovanni Battista de Monte)神父が五島に行き、ロレンソ了斎と共に働いた。領主の五島淡路守純定の次男純尭に洗礼を授け、ドン・ルイスと呼ばれた。純尭はミサのために教会に来た時モンテ神父に「祭壇に御臨在なされている神の前では主君も家臣も皆同じです。」と言って家臣たちの間に座りミサに与った。純定の長男は若いうちに亡くなっていたのでドン・ルイスは父の跡継ぎとして大きな期待をかけられていたが彼もまた若いうちに亡くなった。
*結城了悟著『宣教師は異国で、なぜ大名やその子女を入信させることがで 
 きたか』『細川ガラシャのすべて』上総英郎編 新人物往来社 1994年 

戦国時代に個人の信仰は存在しないかのように見られているが、イエズス会の記録から見るキリシタンたち個々の改心とその後の信仰生活が語る言葉には、400年の時を超えて語りかけてくる真実がある。 

カトリック教会の指導者の中には日本人に対して強い偏見を持ち、白人優越主義を堂々と主張する宣教師もいた。悲しいことだが、コエリョ(Gaspar Coelho)とカブラル(Francisco   Cabral)ラモン(Pedro Ramón)の名前があげられる。このような偏見と祖国優越思想を持つ宣教師が日本において指導者として舵を取った時代には、常に教会の中で宣教師と信徒の間に対立と諍いがあった。宗麟もカブラルの宣教師としての態度に対して諌言もして注意を促したが、そのようなことで高慢なカブラルの態度が変わることはなかった。 

教会の中にも支配思想を持つ指導者による暗黒時代が確かにあった。このような宣教師がいる限り、命を捧げて日本において真摯に宣教活動をしている他の真面目な宣教師たちの努力が同じように見られてしまい、教会にとっては大きな負の遺産として残った。

 

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