細川忠興による清原マリアいとと小従徒の解任

細川忠興肖像画・永青文庫所蔵・細川ガラシャ展図録より


細川忠興所蔵の阿弥陀妙坐像・八代市盛光寺所蔵


前田青邨・日本画家・1885年(明治18)~1977年(昭和52)
1977年(昭和49)ローマ法王庁より依頼を受け
バチカン美術館に「細川ガラシャ夫人像」を納める

細川忠興よる清原マリアいとと小侍徒の解任

イエズス会の報告より
*『16,17世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第3巻 244~248頁

これら変革の時、大坂で生じたキリシタン夫人(細川)ドナ・ガラシャの悲しむべき死去について(第27章)より

1600年(慶長5)オルガンティーノ(Soldo Organtino)神父のの書簡によると『彼女(ガラシャ)は司祭たちにはいとも従順で、彼らと自らの霊魂の事について語らった。彼女の従順さは、司祭たちが彼女に、邸内に、良心的には三人もの重立った婦人を奉仕させるのはよくないことだと述べると、彼女はすぐに彼女たちを解任したほどであった。また万時に付け、その他疑わしいことは尋ね、自らの霊魂のために良いと言われたことをすべて果たした。』と述べている。

ここで述べられている「良心的問題」とは何かについて考えたい。

ガラシャの側には侍女頭として、ガラシャの細川家正室として果たす外交面を補佐し代行していた清原マリアいとがいる。またガラシャの身の回りの世話をしている小侍徒がいた。特に小侍徒は明智家から玉(16歳)が細川家に婚礼(1578年8月)の際に附いてきて、1582年(天正10)6月2日の「本能寺の変」の際、三戸野へ幽閉された時も従い、約10数年の長きに渡り玉の心の支えとなった侍女である。ガラシャの残された書状17通の内大半が「松本小従徒宛」となっていることを見ても、いかに小侍徒がガラシャの心の支えになっていたかを知ることができる。ガラシャの残された書状に「清原マリアいと」宛の書状はない。ガラシャと小侍徒の間には、明智家時代からの姉妹とも呼べる心の通いが出来上がっていた。玉の世話役として明智家から細川家に嫁いできた以前から、小侍徒は玉に仕えていた。 

玉の父・明智光秀が起こした謀反「本能寺の変」の時、細川藤孝(舅)と夫忠興は、明智家から嫁としてきた玉を守るべく、明智家の領地である三戸野へ匿う意味で幽閉した。三戸野へ随行した家臣・侍女たちは、全て婚礼の時、明智家から玉に付き従ってきた人々で、そのまま細川家の家臣・侍女に組み込まれていた。

オルガンティーノ(Soldo Organtino)神父の言う「良心的問題」の答えを導き出す前に、ガラシャ、清原マリアいと、小侍徒たち、三人の置かれていた状況について考える。

ガラシャ(伽羅奢)の抱えていた三つの問題
ガラシャが抱えていた問題は下記の3つの問題が複雑に絡み合っている。

1, 夫忠興の家庭内暴力(Domestic Violence)と残虐行為、忠興の圧政的  
家庭内の支配
2、 キリシタンとし
の信仰を堅持する問題
3、 ガラシャの離婚問題、現実からの逃避問題

ガラシャの考えていた夫婦関係
当時の武家社会(大名社会)においては「一夫一妻(正室)多妾(側室)制」が当たり前と考えられていた。これは家名存続の立場から考えられた制度で、特に世継ぎの男子を生むことが正室には望まれていた。正室が男子を産めない場合、側室に生まれた男子が継承することになっていた。あるいは、女子の継承者の場合、同じ位の家から婿を取るか、自分の家格より上の次男以下の男子を婿に迎えることで家名存続を図っていた。

1587年(天正15)、ガラシャは洗礼を受けて以来、キリシタンとしての学びを深めていたが、その過程で「十戒」を学んでおり、必然的に「一夫一妻」の教義に触れることになる。
ガラシャは教会が教える「一夫一妻」制が理想の婚姻形態と必然的に考えるようになった。忠興には当時5人の側室が存在していた。

ガラシャが自分の置かれた立場を考えた時に、あまりにもキリスト教の説く「一夫一妻」制からかけ離れている自分の家庭の状態を少しでも理想の形に近づけようと考えることは当然のことであった。それが叶わない時に、ひとりの信仰者・キリシタンとして最終的に行き着く結論が忠興との離婚であり、ガラシャがおのれ自身をキリシタンとして正しく保つためには離婚は最後の選択肢だった。

忠興が秀吉に従って1587年(天正15)3月、九州平定(薩摩征伐)に参加していた時期に、玉は密かに教会を訪ね、それ以来、侍女たち17名を先にキリシタンにして、侍女たちを通して自らも熱心に教理の学びをした。玉にとって直に洗礼を受けることができなくても、少しでもキリシタンとして生活することが自分に課せられた使命だと思っていた。

最終的には先に洗礼を受けた清原マリアいとが、神父に変わり玉に洗礼を授けた。こうして玉はガラシャ(加羅奢)という洗礼名を受けた。この洗礼を受けた日以来、玉は身も心も「加羅奢」となり、キリシタンとしての道を真摯に誠実に歩み始めた。

このようなガラシャの家庭内の変化に忠興は気付き始めた。ガラシャの心の変化が態度に現れていた。家庭内が穏やかに変化していたことに気が付かない忠興ではなかった。
しかし、その家庭内の穏やかな変化がどこから来たのか忠興は判らなかったようだ。まして妻玉がキリシタンになっているとは気が付かなかった。

夫忠興の家庭内暴力と残虐行為、忠興の圧政的家庭内での支配、

*1588年2月20日付け フロイス(Luís Fróis)書簡の内
ガラシャ本人の書簡、大坂より1587年11月7日附け

「越中(忠興)殿は、戦さ(九州平定制覇・1587年・天正15)から帰り(そのやり方は厳しい)私の子供達の乳母の一人(この人もまた受洗している)を、些細なことで捕らえ、その耳と鼻を切り取って外に追い出した。その後、二人の髪を切り、三人ともキリシタンであるため暇を出した。彼女らが必要な物は、すべて都合するよう私は気を配っているし、信仰を堅持するように励ましている。」 

「数日前、越中殿は丹後の国に行ったが、出発する前、帰ってきたら,家中で或る種の取り調べをすると私に言った。私たちが抱いている懸念は、デウス様の掟の教えについてと、キリシタンになった者が邸の中にいるかどうかについてのものに違いない。私とマリアは、越中殿であろうが関白殿であろうが、一層の迫害が来ることに対して準備ができており、デウス様への愛のために、このことで少し苦しむ位は喜んで受けるであろう。」 

*『16、17世紀イエズス会日本報告集』第Ⅲ期 第7巻 227~231頁
1588年2月20付、有馬発信、ルイス・フロイス(Luís Fróis)の書簡

1587年度日本年報
「この迫害の最も激しい最中に、丹後の国衆の奥方ガラシャが武家出の侍女十七人と共に洗礼を受け、彼女たち同士の間で,夫、或いは関白が彼女たちを棄教させようと望んだときは、そのために死ぬ誓いを立てた。」

*1589年2月24日附け 日本副管区長ガスパル・コエリョ(Gaspar Coelho)のイエズス会総長宛

1588年度・日本年報
「(細川)ガラシャは夫(細川忠興)が与えた大いなる苦難を甞(な)めた。彼女はいまだにこの苦難の途上にあり、また動揺の船の真只中にいるが,なお志操堅固であり、彼女が異教徒だったころにはほとんど想像もできなかったほどの忍耐の美徳で自らを包み込んでいる。彼女は他の方法では自分を救えぬと確信し、夫から逃げ出して下のこの諸地方へ赴く決意をした。彼女はこのことを私に知らせてきたので、私は彼女に次のような伝言を送った。

「そのようなことはそなたや伴天連たち、さらには他の全てのキリシタンたちを破滅に追い込もうとする悪魔の所業であり誘惑である。なんとなればそなたは身分の高い方であるからだ。以上の事は、そなたの夫にたいそう目をかけている関白殿を知キリシタン集団、および司祭たちへの全面的な迫害に踏み切らせるに十分な口実となりうる」と。ところが彼女はこの考えに浸りきっているので、これが悪しき誘惑であることを彼女に理解してもらうのに私は大いに苦労した。彼女に気持ちを和らげるために幾度も伝言や書状が必要であった。しかし我が主は彼女が然るべき理解に達し、デウスへの愛情から十字架を抱く決意をすることを嘉し給うた。彼女は私に書簡を送り、自分が満足していることを伝えてきた。私が都の赴いた重立った理由にひとつは、この貴婦人を慰め、かなり厄介なこの誘惑から彼女を解放してあげることであった。 

彼女の夫は彼女がキリシタンであることをまだ知らない。もし彼がそれを知れば、彼は彼女に大きな苦難を与えるばかりか、この五畿内全域でキリシタンに対する迫害を更新し、これに火を注ぐこととなろう。彼女は(私の来訪によって)慰められ、自らのキリシタンの侍女たちと共に心中この苦難をよく乗り切っている。デウスが彼女の霊魂の中に配し給うた恩寵が明らかに見られることは確かに否定できない。」

細川藩の記録
*『綿考輯禄』第二巻 忠興公(上)巻13より

忠興の残虐行為
 
忠興の残虐行為は、イエズス会の書簡だけではなく、細川藩の公式記録である『綿考輯禄』第二巻 忠興公(上)巻13にも記録されている。

『綿考輯禄』は熊本藩士小野景湛が編纂した細川家公式の正史である歴史書。初代藤孝から四代光尚まで、各当主の生涯をたどって時系列に編纂されていて、1782年(天明2)に清書を終えた。

幽斎(藤孝)は1610年(慶長15)77歳、忠利は1641年(寛永18年)55歳、
興秋は1642年(寛永19)59歳、三年後、忠興は1645年(正保2)に83歳で熊本八代城において亡くなっている。

『綿考輯禄』は忠興の亡くなった1645年から137年後の1782年に編纂が完成された細川藩の正史であるので、基本的にはその各藩主の時代に書かれた記録が基になっているが、全てが事実というわけではなく、藩にとって都合の悪い事実等、削除されているし書き直されている。細川藩の正史の中は色々と口伝や伝承も織り交ぜながら書かれている。

写本は「藤孝君」八冊、「忠興君」19冊、「忠利君」27冊、「光尚君」11冊、総計66冊で構成されている。

現在は再編集されて第1巻「藤孝」、第2巻「忠興」(上)、第3巻「忠興」(下)、第4巻「忠利」(上)、第5巻「忠利」(中)、第6巻「忠利」(下)、第7巻「光尚」(上)、第8巻「光尚」(下)が刊行されている。

 特に『忠興公』(上)巻13には、ガラシャの最後と殉死者の特集により構成されていて非常に興味深い。藩主に関する公式記録では、藩主の犯した殺害等はまずは隠蔽削除されて書かれないものだが、こと忠興に関しては、事実として家臣を手打ちにした記録まで明細に記録されている。

いかに忠興が短気で気性が荒く、見境なく人を殺めたか、忠興の家臣たちがどのように忠興に対処したか等、赤裸々に描かれている。このような殺人者忠興を夫に持ったガラシャの心痛はいかほどだったか。自分の目の前で平気で家臣を手打ち(殺害)にする忠興に対して、どんなに心を込めて諫めても聞き入れない暴君と化した夫に言う言葉さえ見つからないガラシャの置かれた立場は現在の我々には想像もつかない修羅の世界だった。

細川記に描かれた忠興の残虐行為
*『綿考輯禄』忠興公(上)巻13 219頁

 1、「奥の御台所」に入り込んだ下部を手打ちにした忠興が「伽羅舎様」が着ていた小袖で刀の血をぬぐったところ、ガラシャはそのまま三日、四日も着続けて、遂には忠興が詫びた。
忠興が「汝は蛇也」と言ったら、ガラシャは「鬼の女房には蛇かなる」と返事をした。
侍女たちは驚き騒ぎ出したが、ガラシャは「女たりといえども武家に宮使いする者は猥(みだり)に騒ぐべからず」とお示しになった。

2、忠興公がお手打ちにされた者の首をガラシャの御座所の棚の上に置いた。いつまでも取り除かないので、遂には忠興も迷惑と思い謝ったが、ガラシャが許さなかったので、幽斎様が取りなしてくださったので、置かれていた首を取り除いた。

3、忠興とガラシャが一緒にいた時、居間の屋根の修理をしていた職人が誤って足を滑らして落ちてしまった。忠興は怒りその職人の首を刎ねた。その首をガラシャの膝に投げ置いたが、ガラシャは少しも驚かなかった。この件は御夫婦が共に居る所を、屋根から落ちてきた職人が見たことに腹を立てて成敗したという。

4、忠興とガラシャが共に食事をしていた時、忠興のご飯の中に髪の毛が一筋入っていた。ガラシャはこの事で台所の者たちに迷惑がかかるといけないと思い、椀を膳の脇に隠したが、忠興がそれに気付き、隠した物は何かと取り上げて、髪一筋が入った椀を見とがめて、ガラシャが台所人をかばったことにねたみ、台所に走って行き台所人の首を斬り、その首をガラシャの膝の上に置いた。ガラシャは何も言わず、終日そのままにしていた。さすがの忠興も自分の行動を悔やんで、その首をガラシャの膝から取り除いた。これも幽斎様が取りなしてくださりガラシャも了承した。

『名将言行録』
奈良の豪商茶人が書いた『茶道四祖伝書』(菊池寛著「標註名将言録」)

永井日向守が忠興に、細川家の家臣たちの作法を「殊の外能く神妙」と賞し、いかにして躾けたを尋ねた。忠興は答えた。「家来共に二度までは教え申し候。三度目には斬り申し候故か、行儀能く候」

永井日向守が忠興に『細川家の家臣たちは殊の外神妙であるが、どのように躾けたか』と尋ねた。忠興は『家来たちに二度までは教えるが、三度目には斬るので、それゆえに行儀がいいのだろう』と答えている。

『茶道四祖伝書』
奈良の豪商茶人が書いた『茶道四祖伝書』(菊池寛著「標註名将言録」)
『忠興は天下一気が短い人であり、反対に気が長いのは蒲生氏郷である』


『脇差 銘 運有天敢莫退 晴思剣』
細川忠興所用
鉄鍛造 刃長54,4㎝ 反り1㎝ 室町時代 1400年代 島田美術館所蔵
忠興が織田信長から拝領した脇差 

脇差 銘 『運有天敢莫退』は「運は天に有り、あえて退くことなかれ」と茎(なかご)の左面に彫られている。「晴思剣」は忠興が茶坊主に化けた間者を切りつけ、思いを晴らしたことで彫り入れた。忠興が信長の小姓として仕えていた時に拝領して以来の忠興の愛用の脇差である。もとは忠興の長男忠隆に伝えられ、忠隆の孫の代に細川家に仕えるようになった内膳家旧蔵の名品である。

刀身は薙刀直しの造込みに鎬筋と横手を設け、大切先になった脇差しである。一見鎌倉時代の薙刀が想像され映りと互い目丁子という点で備前物、いわゆる応永備前の薙刀であったとみられる。

『大和守藤原宜貞』脇差し 銘 (号『希首座』)
細川忠興所用 細川内膳家(砂取細川男爵家)伝来
刃長49,8㎝ 反り1,4㎝ 豊後 江戸時代 1600年代 島田美術館所蔵

この脇差しは忠興所用とされ、大徳寺僧の希首座を忠興が境内で刺殺したことから『希首座』との号が付いている。

希首座は丹後国守護家一色義有、または義清の遺児と言われ、1582年(天正10)の丹後一色家滅亡後に大徳寺に入ったとされる。主座は禅宗の修行僧の高位で、六頭首の第一位。長老、第一座と尊称される住職に次ぐ僧位。大徳寺創建以来、神聖な境内で起こった唯一の殺傷事件。大徳寺はすぐさま朝廷に裁きを訴えた。

1606年(慶長11)二月中旬の出来事。忠興は神聖な朝廷の勅願寺の大徳寺境内で高僧を惨殺したことで、大徳寺から朝廷に訴えられた。忠興は幕府の力と莫大な金を使って強引に無罪を勝ち取っている。本来ならば、忠興には責任を取って切腹が申し渡されたはずである。
*『綿考輯禄』第2巻 忠興公(上)435頁

 『慶長十一年(1606年)二月中旬、大徳寺の希首座を子細有りて御手討被成候。此事付きニ大徳寺の僧衆、板倉伊賀守殿迄訴状を上候へハ、伊賀守殿仰ニならぬ迄も、越中殿の身体を是非亡し可申すと何も被存候哉、夫ならバ一山江戸へも御訴訟有るべし、若又夫程迄強く不被思い候ハ,御分別あるへし、大徳寺ニかへても越中殿の身体を御潰し可被成と、よもや公儀に被思召ましきと存じ候と被仰せしニより、自ら泣き寝入りに成し也、此事ニ付希首座弟速水孫兵衛を御成敗被仰せ付け候、仕手ハ松山権兵衛・松岡久左衛門にて候、江戸御普請の石場伊豆国宇佐美にての事也、諸国の者入り込ニて候間、騒敷無之様ひそかに仕廻り可申旨ニて、増田蔵人宿ニ夜中ニ孫兵衛を呼び寄せ候処、間に油火有之を権兵衛飛越手籠めニいたし、久左衛門突き申し候』

希首座を大徳寺境内において御手打ちにしたのみならず、その希首座の実弟・速水孫兵衛も密かに殺害している。増田蔵人の宿において夜中に孫兵衛を呼び出し、松山権兵衛が手籠めにして松岡久左衛門が突き殺した。

京都を代表する神聖な大徳寺の境内を未だかつて誰も血で汚したことはない。大徳寺創建以来の不祥事件だった。大徳寺での刃傷沙汰は忠興唯一人である。通常ならば切腹の沙汰が下ってもおかしくない大問題であるのに、幕府からの圧力と金の力で無罪にした強引さにただただ呆れてしまう。

『歌仙兼定』 刀銘 濃州関住兼定作
細川忠興所用 
刃長61㎝ 反り1,4㎝ 室町時代後期 永青文庫所蔵

忠興所用の刀。『兼定』とは美濃国関(現岐阜県関市)の刀工で室町時代後期の関刀工を代表する名工。忠興は拝領の脇差「信長」と共に「歌仙兼定」を愛用していた。

この「歌仙兼定」の由来は、細川忠利に家督を譲って八代に隠居していたころ、その施策に滞りがあったために、忠利の側近を呼びつけ、この刀で忠利の家臣六名(一説に三六名)を成敗したことから「三六歌仙」になぞらえて名付けられた。

隠居した忠興が細川家・肥後熊本藩主の忠利の政策に常に口出しをして、その政策が気に入らなければ忠利の家臣を呼び出して成敗(殺害)することは、常識では考えられない異常な越権行為であり基本的に許される行為ではなかった。それを行動にしてしまう所に忠興の異常さが現れている。

この様な元藩主である忠興の異常な行動が幕府に知られてしまうと、忠興に切腹の沙汰が下されて当然の案件であり、また藩主忠利にも監視不行き届きとして、悪ければ細川藩召し上げ、または国替え、最悪の場合、細川藩御取り潰しの沙汰が下ってもおかしくない事案である。おそらく細川藩内部の案件として幕府に悟られないうちに秘密裏に処理したと考えられる。

*岡村半右衛門を手打ち事件 「綿考輯禄」忠興公(上)巻18 449頁~1610年(慶長15)の始め、家康は西国と北国の諸大名に、尾張名古屋の築城を命じた。1606年(慶長11)には江戸城本丸周りの石垣普請が諸大名に割り当てられているので、諸大名の負担は二重になっていた。特に名護屋城の築城工事は急がされ、自国の普請を中断してまでも駆り出される有り様だった。

細川家からも役夫が駆り出され小倉から名古屋へ向かった。木附城の松井康之からは三十船に役夫を載せて出船した。名護屋城普請は総勢11組に分けられていた。城の普請が遅れているという理由で、五月二十日、忠興の息子・忠利も普請奉行の岡村半右衛門を手打ちにしている。

興秋乳母の鼻耳削ぎ事件
*ガラシャ本人の書簡、大坂より1587年11月7日附け、イエズス会日本年報

『越中(忠興)殿は、戦さ(九州平定制覇・1587年・天正15)から帰り(そのやり方は厳しい)私の子供達の乳母の一人(この人もまた受洗している)を、些細なことで捕らえ、その耳と鼻を切り取って外に追い出した。その後、二人の髪を切り、三人ともキリシタンであるため暇を出した。』 

何の落ち度もない興秋の乳母がキリシタンであるというだけで些細なことで怒り、馬乗りになり脇差しを抜き、鼻と耳をそぎ落とす暴挙を目の前でされた正室ガラシャの驚きと怒り、いきなり部屋に入ってきて行われた残虐な行為(Domestic Violence)鼻と耳を切られ血だらけになって助けを求める乳母。あたり一面血の海と化した室内。止めても聞かない制御不能な忠興の残忍な暴行に対しての諦め。ガラシャの置かれた現状は、忠興の圧政と暴力、容赦ない残忍な暴行と殺人と監禁という、現代の我々からは想像もつかないまさに地獄のような修羅の日々だった。この事件を取っても、ガラシャと忠興の家庭はすでに崩壊していたことが判る。

 それ故にガラシャが求めたものは心の平安と安らぎであり、残忍な暴行と殺人を家庭内で平気で行う夫忠興からの逃避であった。忠興からの暴力(Domestic Violence)残忍な仕打ち、監禁された日常、常に死と隣り合わせの毎日。確かに殺し合いは戦国時代にはあり得たが基本的にそれは戦場での殺し合いであり、妻子が心安らかに暮らす家庭では通常は起こらないことであり、家庭には守るべき平和があった。その平和であるはずの家庭の中にこともあろうことか、最も忌み嫌われる暴力と残忍な殺略が持ち込まれれば、そこには平和も心の憩いも安らぎもない。ただあるのは修羅と化した家庭だけだった。その屋敷の主として自分は存在することができるのか。ガラシャの心の葛藤はだれも慰めえない深淵な底にひとりあった。

 この時代のガラシャの心の内を表すならば、それは「ひたすら耐える」という言葉しか見つからない。キリシタンとして誠実に生きるためには、忠興の暴挙の前に「すべてに耐える信仰」のみがある状態である。自分が謀反を起こした明智光秀の娘として一人残った現実に耐えること。細川家での置かれた境遇と運命に耐え、時という戦国の時代に耐え、細川家の正室であることに耐え、自分の生まれた存在に耐え、女であり母であることに耐え、キリシタンとして生きることに耐え、それゆえに孤独に耐え、忠興の残忍に耐える。自分が自分であることに耐え、そうして、耐えている自分に耐えることであった。

 ガラシャはこのような与えられた試練を通して、ひとり孤独の道を歩んでいたが、神の存在を知って、神が共に人生を歩んで下さることにより、ガラシャの孤独は孤高へと昇華していった。

ガラシャが見出した「信仰による忍耐」
 ガラシャが見出した「信仰による忍耐」とは、この世の定めとか、諦めという消極的な耐えている状態とは違う次元の忍従である。謎に満ちた人生の矛盾と苦悩の中に見出す人間の現実のすべてをあるがままに受け取って生きていくという驚くべき積極的信仰による生き方であった。

『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、全て添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。』
マタイによる福音書 6章33,34節

『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なるあなたの神を愛せよ』『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』
マタイによる福音書 22章37~39節

玉がキリシタンの教理を学び始めた時、まず初めに「神を愛すること、そして人を愛すること」を学んだ。つまり、全ての苦しみ、悲しみ、痛みを受け入れて愛すること。今自分が置かれている立場で自分として神に総てを委ねて生きていくこと。自分が神に選ばれてひとりの人として創造されて生まれ生きていくことを選ぶ生き方をガラシャは信仰の中に見出した。信仰による再生された人生の生き方をガラシャは神を信じる信仰に中に新しく見出した。

 「神による救い」と言う教義は、人のこの世での修行により悟りを得る、或いは悟りの境地に達するという仏教や禅宗の教義とは違うものである。「救い」とは神の恩寵・聖恩寵により人は救われるのであり、神が人に求めることは主キリストを信じることのみであり、キリストによる救いを受け取ることである。「信仰により人は神に受け入れられる」という真理をただ信じることである。

真に人間的な、キリシタンとして生きていく生き方こそ、断乎たる自由の行為そのものである耐える姿なのだとガラシャは真摯な信仰ゆえにその思想に行きついた。耐えている自分の心をキリストが共に耐えていてくださる。それ故に、ガラシャは心に平安と安らぎを宿すことができた。神は「忍耐と慰めの神」(ローマ15章5節)ゆえに、ガラシャはその神を信じることにより、神から与えられる慰めと心の平安の世界を見出した。

「忍耐と慰めとの神が、あなた方にキリストにならって互いに同じ思いを抱かせ、こうして、心を一つにして、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神を崇めさせてくださるように」
ローマ人への手紙15章5,6節

 信長も秀吉も家康も、人間がこの世のすべてを手に入れて為政者になった途端、人として神になろうとした。神はその傲満な人間としての企てを静かに人間の領域に押し戻された。傲慢に満ちたその人生の終わりは悲劇的である。神の領域に人は入ることはできない。神は総てを治める方であるので、そのような企てをする為政者の驕りを天に座す神は笑い退けられる。
「天の座する者(神)は笑い、主は彼らを嘲られるであろう」
 詩編2編4節

法律の秩序が確立された平和な現在、人権が保障された現代からは想像できない残酷と暴挙の存在した世界に生きていたガラシャ。人として求める平和の道は、過去も現代も同じではないだろうか。平和と憩い、安らぎに満ちた家庭と日常。人としての生きる平和な道。心穏やかに過ごせる日々。笑顔の絶えない家庭。ガラシャはそのすべてをキリシタン信仰に中に見出していた。

戦国の修羅と化した世界にキリスト教がもたらした平和の理念と理想。神の許の基にある人間の平等の思想。来世において約束された安らぎの平和な世界。そこにこそガラシャが心から希求した理想の世界があった。

ガラシャに仕えている小侍徒と清原マリアいともどんなにガラシャの心中を察して慰めたことだろうか。ガラシャが折角見出したキリシタンとしての平和と心の安らぎを、あざ笑うかのように残忍な暴力(Domestic Violence)で支配し押さえ付けようとする忠興。忠興のガラシャに対する愛情は非常に歪な形だった。忠興はガラシャが信仰している神に対して嫉妬していた。

ガラシャが心から頼りにしている小侍徒と、ガラシャの外交的な交渉事を引き受けて処理してきた侍女頭である清原マリアの二人は、ガラシャの親戚であり、ガラシャの良き相談相手であった。ガラシャが心から頼りにしている二人をガラシャから引き離すことで、忠興はより一層、ガラシャを孤立へと追い込もうとした。そうすることでガラシャが自分に従うと忠興は信じていた。忠興からのどんな嫌がらせにもガラシャは決して屈しなかった。

二人のガラシャからの解任と追放は、おそらく1588年から1589年頃にかけて行われている。オルガンティーノ(Soldo Organtino)神父の代わりにガラシャに洗礼を授けた清原マリアいとは、忠興により佐久間安政の後妻として嫁がされている。小従徒も同様に幽斎の家臣で丹波田辺城に勤める松本(平田)因幡に嫁がされている。

二人の後任には『霜(志も)とおく』が奉公に上がっている。二人は、1600年(慶長5)7月17日の夜、ガラシャが小笠原少斎の太刀により胸を刺し貫いて自害するのを側にいて見ていた。その後細川邸が小笠原少斎たちにより火を掛けられて完全に消滅した時「霜とおく」は大坂の教会に避難していて難を逃れている。

霜とおくの二人はガラシャが自害した時、ガラシャの自害を直接見届けていた。それゆえ、ガラシャが自害した部屋の位置を知っていて、完全に焼け落ちた細川邸の焼け跡から、ガラシャの自害した場所を特定できたのは、霜とおくの二人の侍女だけであり、焼け跡からガラシャの僅かに残った遺骨を拾うことができたのも、ガラシャの自害した場所を知っていたからだった。

このようにして、忠興は、ガラシャが頼りにしている二人の側近・小従徒と清原マリアいとをガラシャから遠ざけることにより、より一層、ガラシャを孤立させ独り占めにしようとした。頼るべき二人を失ったガラシャは忠興により孤独にされたが逆に増々神を頼るべき神として見出し、神に対するその信仰と信頼は以前よりも確固たるものになって行った。

ガラシャの孤独な心は、神により頼むことにより孤高になっていった。ガラシャの心は与えられた試練により気高く強くなり、その信仰心は増々神に近づいていった。

忠興の歪なガラシャへの愛情
*完訳フロイス(Luís Fróis)『日本史3』織田信長編Ⅲ 
第62章(第2部106章)220~240頁 

忠興の玉に対しての極端な幽閉と監禁(222~224頁)
「その後、関白殿が、諸国の君主や領主を人質のように手許に留め置こうとして、彼らに妻子ら家族を伴って大坂の政庁に居住せよと命じたことが伝えられるに及び、彼女の夫越中殿も、身分相応の立派な邸宅を大坂に構え,諸室の設備を整えた後、その地に妻を伴った。 

当初彼らは似合いの夫婦であり、すでに両人には二、三人の子供がいたが、この若い越中殿の妻に対する過度の嫉妬と彼女に対して行った極端な幽閉と監禁は,普通一般日本人の習慣とは大いに異なって、信じられぬほど厳しいものであった。彼はその厳しさをいっそう強化しようとして、身分の高い二人に家臣(小笠原少斎と河北五郎右衛門)にそれぞれ一千クルザード近い収入を与え、昼夜不断に自邸で妻の監視を義務付けた。 

この両人は既婚者で、そこには妻や家族が一緒にいたのであるが、越中殿は彼らに対して、自分が外出する時には、いかなる使者が家に入り、またいかなる女たちが家から外出したか、そして誰が彼女らを出させたか、また彼女らはどこに行ったかを観察し、その月日を記録して、書面によって自分に報告するように命じた。また、ごく親しい親戚か身内の者でない限り、彼女に対してはいかなる伝言をも許さぬように、そして彼女に伝えられることはまず彼ら両人の検閲と調査を受けるようにと命ぜられた。彼らはその通りに振舞い、そのため越中殿が出陣するにあたっては、彼らは側近者としての特権を与えられる名誉をもって遇さられた。 

 越中殿は家族に対して、上記の命令以外にも厳しい命令や掟を課しており、そうした支配において厳しい男として天下に知られていた。」

*『16,17世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第3巻 244~248頁
『徳宗や役割によって夫(細川忠興)は彼女(玉)をこよなく愛した。さらに彼女がキリシタンとなった当初は、夫は彼女に罪深い生活をさせていたし、彼女にとっては大いに苦労や苦痛の種であった。(ガラシャは)キリストの教義を受け入れたので、それらはすべてに対し大いなる忍耐と慎重さで振舞い、そのことで夫を感動させるようになった。

したがって、夫を慰めるのみでなく、今ではもう夫は彼女がキリシタンであることを非常に喜んで、伏見から大坂の市に移り、彼女が慣わしとしていたように祈祷に専念できるように祈祷室と祭壇の修復を彼自身が行った。』

秀吉の出した「伴天連追放令」の施行は実際貿易が絡んでいたので、それほど厳格なものにはならなかった。宣教師たちは逃れていた長崎や平戸から徐々に担当していた地域に密かに戻り布教活動を再開している。

オルガンティーノ(Soldo Organtino)神父も畿内に戻り京都に潜伏しながらガラシャと連絡を取り合っている。オルガンティーノ神父が京都に戻った理由はガラシャへの対応だった。オルガンティーノ神父の考えに中には、ガラシャが信仰を堅持することにより夫忠興がいつかは改宗するのではないかとの希望を抱いていたことがわかる。

髙山右近が政権中枢から遠ざけられた今、髙山右近が果たしていた役割を忠興が代わりに果たしてくれることをイエズス会は期待していた。

 「伴天連追放令」は忠興が思っていたものよりも厳格でなく、徐々に秀吉の政策も緩んできたことを確信した忠興は、キリシタンが細川家の中にいても家の存続に関わるほどではないことを理解して徐々にガラシャの信仰を認める態度に変わっていった。

実際忠興の周りにいる家中のキリシタンたちは非常に柔和で平和であり敬虔な人々であったので、忠興さえ暴力的になりさえしなかったなら総ては平和的に収まることが判った。徐々にだが忠興にもキリシタンの良さが判るようになりキリシタンを理解して受け入れることができるようになった。ガラシャが忠興を導きキリシタンになることをイエズス会は強く望んでいた。

1589年(天正17)ガラシャは忠興に自分がキリシタンであることを告白した。『世の人々が皆私をキリシタンと申していますことを御存知ではございませんか』と忠興に尋ねた。忠興は『そちがこの優れた教えを奉じたければ苦しゅうない』と答えた。
*Gaspar Coelho. 24.Feb.1589 in Cartas Ⅱ 258
ヨハネ・ラルレス著『細川家のキリシタン』キリシタン研究第四巻 24頁

 ガラシャの信仰的振舞に感化されて忠興も徐々にだがキリシタンに対して協力関係を築くようになった。忠興自らガラシャの信仰を認め、ガラシャのために祈祷室(礼拝堂)を玉造の屋敷内に作っている。

『ガラシャはキリストの教義を受け入れたので、それらはすべてに対し大いなる忍耐と慎重さで振舞い、そのことで夫を感動させるようになった。したがって、夫を慰めるのみでなく、今ではもう夫は彼女がキリシタンであることを非常に喜んで、伏見から大坂の市に移り、彼女が慣わしとしていたように祈祷に専念できるように祈祷室と祭壇の修復を彼自身が行った。』

1587年度日本年報
「丹後の国のガラシャ夫人である。この夫人が、先年書き送ったように信長を殺した明智(光秀)の娘で、その国の領主の(細川)越中(忠興)殿という異教徒に嫁いでいた。この人物は生来非常に乱暴で、特に嫉妬深く、邸の中で厳格であった。今回関白殿に従って西国の戦に行くことになったので、彼はその奥方に、彼が帰るまで決して外出しないように厳重に命令していき、自分の信頼している二人の老家臣に奥方を託した。彼らは異教徒であり、大坂に有している豪壮な邸に妻と住んでいたが、この人たちに奥方を厳重に監視するよう、また邸の外に絶対出さぬよう頼んでいた。」

1591・92年度・日本年報
「彼女は日本人の中でも非常に苛酷な或る大名(細川越中守忠興)に嫁していた。」 

1595年10月20日付、長崎発信、ルイス・フロイス(Luís Fróis)神父
「彼女の生活の独居と厳格さは、他の高貴な殿たちの生活習慣とはひどくかけ離れていた」

イエズス会の報告からも判るように、当時忠興と交流のあった他の武将たちの間でも、忠興のガラシャに対する愛情が異常な嫉妬深さによるものであり、邸内での制約も厳格な監禁に近い状態に置かれていたことが述べられている。

忠興のガラシャに対する愛情は、彼女に対する過度な嫉妬からくるものであることは他の武将たちには判っていたし、当時の一般常識からみても、忠興は異常とも思えるほど彼女を己の管理化に置いていた。忠興の妻ガラシャに対する異常さは、当時の武将たちの間でも評判であり、決して良い印象は与えていなかった。

「越中殿の妻(ガラシャ)に対する過度の嫉妬と彼女に対して行った極端な幽閉と監禁は,普通一般日本人の習慣とは大いに異なって、信じられぬほど厳しいものであった。彼はその厳しさをいっそう強化しようとして、身分の高い二人に家臣(小笠原少斎と河北五郎右衛門)にそれぞれ一千クルザード近い収入を与え、昼夜不断に自邸で妻の監視を義務付けた。」「越中殿は彼らに対して、自分が外出する時には、いかなる使者が家に入り、またいかなる女たちが家から外出したか、そして誰が彼女らを出させたか、また彼女らはどこに行ったかを観察し、その月日を記録して、書面によって自分に報告するように命じた。また、ごく親しい親戚か身内の者でない限り、彼女に対してはいかなる伝言をも許さぬように、そして彼女に伝えられることはまず彼ら両人の検閲と調査を受けるようにと命ぜられた。

越中殿は家族に対して、上記の命令以外にも厳しい命令や掟を課しており、そうした支配において厳しい男として天下に知られていた。」

 忠興のキリシタンに対する常軌を逸した反応は、秀吉の出した「伴天連追放令」に起因している。秀吉の側近である忠興の家中にキリシタンがいることが判れば、細川家が取り潰しになりかねない、髙山右近と同様に改易されるという恐怖心、この世で獲得した自分の総てのものを失ってしまうという恐れからくる自己防衛行動だった。

 忠興にとって自分が築いてきた全ての物を失わせるものがキリシタンの存在だった。それ故に家中のキリシタンに対して酷い行動・暴力的振舞(Domestic Violence)に出る忠興は、常に為政者秀吉の顔色を伺い、保身に走り、怯えて行動する心弱き武将であった。上に対しては従順であり、下に対しては圧制的態度を取る支配者だった。

確かに忠興はガラシャを愛していた。しかしその愛情の表現が非常に歪な形だった。その歪な愛情は、ガラシャに対して幽閉という形で自宅に監禁状態に置くという形で表された。ガラシャに対する愛情は忠興の欲望から発展した独占欲による支配となり、愛の裏返しとして異常な形の嫉妬深さとなって表わされる。その嫉妬の矛先が、ガラシャがかばった料理人に向けられると、かばった料理人の首を刎ねるという常軌を逸した行動に走り、洗礼を授かった四歳の興秋のキリシタンの乳母の鼻を削ぎ、両耳を切るという行為に走らせた。

忠興はガラシャを偏愛していたので、ガラシャには決して手を出さなかった。ガラシャの大事な家族、また清原マリアいとや小侍徒にも手を出してはいない。清原いとは彼女の出身が自分の祖母の実家であること、小侍徒もガラシャの近い親戚、明智家の出身であることもあって、さしもの忠興も手出しはできなかった。また、家族の者たちと清原マリアや小侍徒に手を出したらガラシャ自身が死を選ぶことを忠興は判っていた。それ故に、ガラシャに対しての嫌がらせとして周りにいる弱い者たちに忠興は牙を向けている。

現代人の我々は、忠興の異常な行動を家庭内暴力(Domestic violence)、精神異常者、人格形成異常、発達障害者として見ることができる。忠興の行動はそれほど常軌を逸した行動だった。忠興の行動自体、赦されない精神異常者の行動であり、異常なまでの愛情の歪さを露呈している。

またガラシャのひとつひとつの行動にさえ見張りを附け監視させ報告させる行動は、精神異常者行動の典型的な形であり、現代ならばこのような異常者は精神病院へ即刻収監されるだろう。現代社会においても、このような精神異常者による女性に対する誘拐監禁事件は後を絶たない。犯罪者はその女性が自分の好みに合っているという理由だけで誘拐し監禁し最後は殺害している。現代の犯罪事件と、400年前の忠興の取った行動とにどのような違いがあるだろうか。忠興のしてきた行動を現代社会に置き換えるだけで、彼の異常な行動が単純に理解されるだろう。

武士道の価値観とガラシャの殉死
忠興の求めていた武士道
「この領主(忠興)は関東の戦さに内府様に随行した諸侯の一人であった。そして彼は、自らの極めて重立った身分の高い家臣の小笠原殿(小笠原少斎)および他の家臣に、自分の妻と邸を守っていた他の者たちに次のように命じるのが常であった。もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、我妻と共に死ぬように、と。」 

忠興にはその「恥じなき振舞」の意識が常に優先するべき行動の第一であった。それ故に、忠興が出陣する際に常に家臣に命令することは、ガラシャの命を守ることではなく、細川家の名誉を守ること、細川家として恥じ無き振舞をすること、家臣は主人である忠興の命令を守って殉死することであった。忠興が最も大切に思い求めていた武士道の価値観からくる「恥じることのない」生き様を忠興は総ての人々に強制していた。

妻ガラシャにも家臣たちにも、あろうことか父幽斎にさえ、その生き方と死に方を忠興は求めた。この忠興の間違った価値観を作り出した人物は、幼い頃に小姓として仕えた織田信長だった。織田信長の支配構造は、完全服従か、相手の殲滅の二つに一つの選択肢しかなかった。忠興は信長の小姓として仕えている間に、織田信長の残忍で無慈悲な武将としての生き方に自分の生き方を見出し、それが忠興の人生における価値観として形作られている。

忠興が命より大切に守ろうとしていたのは「恥じなき振舞をすること」であり、そのためには妻ガラシャの命も父幽斎の命も家臣たちの命も軽んじられていた。他人が自分をどう見るのか、他人は自分をどう評価するのか。その評価に値する生き方をすること、常に人の目を意識して、他人が自分をどのように見ているのかが自分の生き方の基準になっていた。もしそれができなければそれは「恥じ」であり、生きるに値しないことであった。 

「恥じ」とは、世間や他者の評価を意識して生きること、他者の評価と世間の評価が自分の行動の基準となっている生き方だった。相手に対して自分を表現して、相手の評価を意識して生きることであった。「恥じる」ことを最も嫌い、恥じるよりは命を棄てる武士道の根本的思想がその根底にあった。「恥じることのない生き方をすること」こそが、武将たちの基本的な価値観であった。忠興の武士道の基本もこの「恥じない生き方」に縛られていた。

 また人から受ける「辱め」も「恥じ」の裏返しとしてとらえることができる。相手からから「恥じをかかされた」という意識も、その裏返しとして「恥じ」に対する報復と言う行動に出るだけの根拠になり得た。「恥じをかかされた」というだけで、相手を殺害する動機となり得た。

1600年(慶長5)7月17日、玉造の細川邸で自害した妻ガラシャと家臣たちに忠興が求めたものも、この「恥じ無き振舞を優先した武士の価値観」であった。忠興の考える武士の価値観に殉じた死に方こそ、忠興の求める理想の死に方であった。忠興の間違った武士の価値観に準じた死に方の思想を忠興は終生変えなかった。実にそのために多くの尊い命が失われた。身内である細川家からでさえ多くの犠牲者を出している。

この忠興の理想とする生き方に異議を唱え反対した人々は、身内の争いをさけるため、自ら細川家を出奔という形で出て行った。忠隆(休無)、興元、興秋たちは、キリシタンであるので、細川家の御家騒動になることを避けるために自ら争いを避けて出奔という形で身を引いた。

実弟興元、次男興秋の出奔事件も忠興との軋轢と戦いを避けるために、キリシタンであるがゆえに、細川家から静かに身を引いたキリシタンたちだった。興元、興秋が何故平和的に細川家から身を引いたのかが根本的に忠興には理解できなかった。忠興は自分の命令に逆らった実弟興元、嫡子忠隆、次男興秋を絶対に許そうとはしなかった。

忠興の武士道の基本である「恥じない生き方」に相反する思想が、キリシタンが理想とする神のもとの平等思想である。神の基では人は平等であり、互いに助け合い、愛し合い、理解してより良い世界を作るという精神が、忠興の理想とする生き方とは根本的に相反する生き方であった。

忠興のキリシタンに対する無慈悲・無理解に、最も心を痛めていた父幽斎(藤孝)は、逆を言えばキリシタンとして生きる次男興元、嫡孫である忠隆、興秋に対して最も深い理解を示していたといえる。    

幽斎は、忠興から豊前への同行を拒否された忠隆、出奔した興元、興秋を経済的に援助し続け、洛中(京都)での彼らのキリシタンとしての生き方に理解を示し、京都での保護者であり庇護を引き受けている。幽斎の人物の大きさ、思想的な理解の深さ、キリシタンである息子と孫たちに対する受容の懐の深さを改めて考えてみなければならない。

幽斎の妻・麝香にとっても、ガラシャのキリシタンとしての生き方、京都における次男興元一家、孫である忠隆一家、興秋一家との交流は、彼らのキリシタンとしての生き方に深く触れ理解する機会でもあった。

幽斎が死去する1610年(慶長15)八月までの十年間は、幽斎・麝香夫妻にとって、興元の家族、忠隆の家族、興秋の家族との心温まるキリシタン家庭との触れ合いであり、キリシタン家庭がいかに素晴らしいものかを垣間見る機会でもあった。それ故に麝香夫人はキリスト教を受け入れて洗礼を受けキリシタンとなり「ドナ・マリア」という洗礼名を授かっている。

幽斎と忠興の価値観の衝突
1600年(慶長5)9月、田辺城籠城戦が終わった時、少数精鋭500名で籠城戦を戦い抜いて生き残った父幽斎にさえ忠興が求めたものはこの「恥じ無き振舞の価値観」による名誉の死であった。しかし、父幽斎に忠興はたしなめられている。忠興の求める「恥じ無き振舞の価値観」を幽斎は一括している。「命より大切なものがあるのか」と。

烈しい2ヶ月に渡る田辺城籠城戦を戦い抜いた幽斎の言葉に自分を心の未熟さを反省した忠興であったが、忠興の作り上げた武士の死様の理想思想感は容易く変えられるものではなかった。

父幽斎の言葉により忠興はその場では涙し反省したが、それゆえに自分の生き方を変えるという言葉と行動はなかったようだ。父幽斎からたしなめられた同じ月に、ガラシャが救った忠隆の新妻千世(キリシタン)の命を、ガラシャと一緒に自害しなかった、自分の命令に従わなかったとして、忠隆に新妻千世の殺害を命令している。 

9月20日、ようやく忠興は亀山城に着いた。幽斎は忠興を迎えに輿に乗って城外で出迎えた。幽斎は忠興へ『帰陣、めでたし』と声をかけたが返事はなかった。幽斎は『汝は田辺城を明け渡したことに腹立ちと見えるが、命が惜しかったわけではない。三度まで勅使を受けて開城した者がいたと思うか』と忠興をたしなめた。この父幽斎の言葉に己の考えの浅はかさを悟った忠興は、馬から降りて平伏して涙を流し父幽斎へ詫びた。 

孤立無援の田辺城籠城戦という局面の結果しか見ていない忠興と、天下分け目の戦いの情勢全般への目配りを見つめて、五百名の少数精鋭の兵とで西軍一万五千人の敵を相手に田辺城籠城戦をできるだけ長引かせ2ヶ月に渡り戦い、西軍一万五千人を、天下分け目の関ヶ原の戦いに参加させなかった父幽斎との器の大きさの違い、人として持っている品格の相違である。

忠興は家康より田辺城の父幽斎の救援を9月18日に命じられた。翌日19日に山城の国に入るところで田辺からの使者により開城を知った。西軍の亀山城主の前田茂勝(京都所司代前田玄以の次男)が、亀山城の本丸に幽斎を入れ、自分は二の丸に下がって丁重にもてなした。

忠興は田辺城籠城の後始末として、小野木縫殿之介公郷の福知山城を攻めることを許可された。小野木が大坂に行っていて不在だったため、敵将がいない城を攻めることは不本意だとして小野木の帰城を待った。田辺城籠城戦を指揮した西軍は丹後福地山城主の小野木公郷重勝を大将に福知山城に籠った。福知山城は堅固な城で、大砲での攻撃にも屈しないまま十余日が過ぎた。徳川家康は関ヶ原の戦いが既に済んだのにいつまでも戦いを続けることは好ましくないとして側近の山岡景友を使者に立て開城末するように提案させた。小野木縫殿之介公郷は兵の助命を条件に城を明け渡し亀山に赴き、十月十八日、城下の寺で切腹した。
*『綿考輯禄』第2巻 忠興公(上)385頁 

この時も家康の側近、井伊直正が小野木縫殿之介公郷の助命を嘆願したが、忠興が聞き入れずに、切腹が決まっている。井伊直正は小野木縫殿之介公郷を敢えて切腹に追い込んだ忠興の態度を「酷き者」として非難した。関ヶ原で勇猛果敢に戦い勝利に導いた豪気な武将である井伊直正ですら、忠興の呵責容赦ない態度には眉をひそめることがあった。武将の間での忠興の評判は「酷き者」として決して良いものではなかった。 

当初、家康は忠興に、関ヶ原の恩賞褒美として丹後、但馬を加増するつもりだったが、家康の重臣である井伊直正の「忠興は酷き者故、上方の近辺に置くのは政治上のためになりますまい」との進言があったので、上方周辺から遠い九州豊前への転封が決められた。 

豊前の国の他、豊後の国の国東郡(木附)と速見郡(湯布院)の一部を拝領した忠興は、およそ三九万石の領主になった。丹後時代と比べて実に三倍強の加増である。幽斎には京の吉田において別に隠居料六千石が下された。田辺城籠城戦の褒美としての下賜である。

全てを理解して死に臨んだガラシャ
ガラシャは忠興が命より大切に守ろうとしていた「恥じなき振舞をすること」を理解していた。明智家という武家の家に生まれ、忠興と同じ「恥じ無き振舞をすること」がどのような事かを明確に理解した上で全てを受け入れて死に望んでいる。

ガラシャ自身も細川家の正室として忠興の名に恥じない行為が何なのかを明確に認識していた。また彼女は明智家のただ一人の生き残った者としての誇りも担っていた。

キリシタンとして生きていることに誇りを持ち、自分の置かれた立場を理解した上で死に臨んでいる。教会がガラシャに要求した忠興との離婚ができない立場であることも受け入れている。ガラシャはキリシタンとして余りにも著名人であるが上に、もしガラシャが離婚して西国へ逃亡することがあったら,忠興からこの近畿の地に残されたキリシタンたちに大きな迫害がもたらされるであろうことも理解して教会の要請を受け入れて離婚を思い留まった。このことを受け入れることには相当に心の葛藤があった。しかしガラシャは自分がその葛藤を我慢することでこの教会からの要求を受け入れている。

ガラシャは一人のキリシタンとしての自由な選択さえも許されない立場に居続けることは、忠興からの嫌がらせを受け続けることを意味していたし、それを耐え忍ぶことへの不安があった。

「あなたがたのあった試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に合わせることがないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道も備えてくださる。」
コリント人への第一の手紙第10章13節

ガラシャには「神は耐えられる試練しか与えない。試練と同時に、それに耐えられるように逃れる道も備えて下さる」という御言葉に希望を持ち耐え続ける忍従の道が示された。ガラシャは信仰によりその忍従の道を選び神に信頼を置き歩んだ。

ガラシャは、また忠興からの束縛から逃れる唯一の道はいつか神が与え給うときに死ぬことであることも理解していた。ガラシャは死がもたらしてくれる忠興からの解放も望んでいた。明智光秀の娘としての自分の名誉を守り、細川家の名誉も守り、教会の要請を受け入れて、なおキリシタンとしての名誉ある死に望むことができることをガラシャは理解していた。

ガラシャは自らに課せられたすべての重荷を負いつつ、いつの日にか自分に訪れる死がすべての束縛から解放してくれることも理解していた。

ガラシャの望んだ離婚
ガラシャは忠興との離婚を望んでいたことはイエズス会の記録からも明らかである。ガラシャが入信してから忠興との離婚を強く希望していたことが宣教師の記録から判る。
オルガンティーノ(Soldo Organtino)神父はガラシャから離婚の相談を受けていた。

1587年(天正15)の日本年報に記されているように、ガラシャは秀吉が発した「伴天連追放令」に従って、忠興がキリシタンを非常に嫌っていることを知っていたし、忠興の性格の残忍さをオルガンティーに神父に訴えている。ガラシャに明確な忠興との離婚の意思があることを示す内容である。フロイス(Luís Fróis)の記録にはガラシャが離婚の是非についてオルガンティーノ神父に相談したことが記されている。

*1588年(天正16))5月6日付けのオルガンティーノ(Soldo Organtino)書簡
『悪魔は、夫忠興から受けている妨害と混乱によって、彼女に救いが訪れないとささやき迫害している。この事について、彼女は一通の書簡を寄越したが、それが私にとって大きな心配以上のものとなっている。なぜなら、彼女が司祭たちのいる西国地方に行きたいと述べているからである。そうなれば我々に対する迫害の炎は増大し、わずか数日ですべてを破壊してしまうことになる。これは、この五畿内のキリシタンたちも心配していたことである』

 ガラシャは小侍徒への書状の中で「豊後へ行きたい」と述べている。つまり宣教師たちのいる西国、豊後、九州地方、長崎に行き、キリシタンとして静かに信仰に生きて余生を過ごしたいと考えていた。西国へ行くということは忠興と離婚して細川家から出て行くことを明確に表明している。ガラシャの中には明智光秀の娘、謀反人の娘として負い目と世間の目から逃れたいという思いと、忠興の家庭内暴力(Domestic Violence)から幼い子供たちを守りたいという希望、忠興による幽閉のような日常から逃れて、自由に信仰を守り教会生活を送るためには離婚以外にないと考えていたことを示している。

 ガラシャの霊的指導者であったオルガンティーノ(Soldo Organtino)神父は、その書簡の中で『私が都に来ることを希望した理由にひとつは、このガラシャの霊魂に対する愛情からであった』と述べている。

「伴天連追放令」により多くの宣教師たちが長崎地方へ撤退したが、オルガンティーノ神父はガラシャのために敢えて五畿内に戻り留まっていた。ガラシャの離婚への対応がイエズス会にとっても非常な重要な案件となっていた。

 もしガラシャが神父たちの助けを借りて九州(長崎)へ行き信仰生活のために隠棲したら、ただでさえ嫉妬深い忠興の事だから、秀吉と共に五畿内のキリシタンたちを一層迫害することをオルガンティーノ神父は明確に認識していた。忠興の残忍な迫害と秀吉の迫害により、五畿内及び日本におけるキリシタンに対する迫害は確実に激化して教会は壊滅していたに違いない。

 それほどにガラシャの置かれた立場は、細川家の奥方で高貴な人であり、秀吉の寵臣であり重要な家臣である忠興の妻であること以上に、ガラシャは教会にとっても日本のキリシタンの存続にかかわる非常に重要な人物だった。

ガラシャの行動の選択によっては、イエズス会に取っても、これからの宣教の事態が大きく改善する可能性もあったし、逆にガラシャの離婚によって引きおこされる迫害の勃発が、強いては教会の破滅へと繋がる危険性も同時に秘めていた。

1589年2月24日附け 
*日本副管区長ガスパル・コエリョ(Gaspar Coelho)のイエズス会総長宛

1588年度・日本年報
「(細川)ガラシャは夫(細川忠興)が与えた大いなる苦難を甞(な)めた。彼女はいまだにこの苦難の途上にあり、また動揺の船の真只中にいるが,なお志操堅固であり、彼女が異教徒だった頃にはほとんど想像もできなかったほどの忍耐の美徳で自らを包み込んでいる。彼女は他の方法では自分を救えぬと確信し、夫から逃げ出して下(九州)のこの諸地方へ赴く決意をした。」 

ガラシャの忠興と離婚をしてまでもキリシタンとして生きていく決心を知らされたオルガンティーノ神父は、ガラシャの置かれた高貴な人という特別な立場、もしガラシャが離婚に踏み切り、西国へ行くならば、それによって引き起こされる忠興をはじめ秀吉のキリシタンに対する五畿内に於ける迫害の大きさを考えてガラシャに離婚を思い留まる様に必死になって説得している。

彼女(ガラシャ)はこのことを私(オルガンティーノ)に知らせてきたので、私は彼女に次のような伝言を送った。

「そのようなことはそなたや伴天連たち、さらには他の全てのキリシタンたちを破滅に追い込もうとする悪魔の所業であり誘惑である。なんとなればそなたは身分の高い方であるからだ。以上の事は、そなたの夫にたいそう目をかけている関白殿がキリシタン集団、および司祭たちへの全面的な迫害に踏み切らせるに十分な口実となりうる」と。ところが彼女はこの考えに浸りきっているので、これが悪しき誘惑であることを彼女に理解してもらうのに私は大いに苦労した。彼女に気持ちを和らげるために幾度も伝言や書状が必要であった。しかし我が主は彼女が然るべき理解に達し、デウスへの愛情から十字架を抱く決意をすることを嘉し給うた。彼女は私に書簡を送り、自分が満足していることを伝えてきた。私が都に赴いた重立った理由にひとつは、この貴婦人を慰め、かなり厄介なこの誘惑から彼女を解放してあげることであった。 

彼女の夫は彼女がキリシタンであることをまだ知らない。もし彼がそれを知れば、彼は彼女に大きな苦難を与えるばかりか、この五畿内全域でキリシタンに対する迫害を更新し、これに火を注ぐこととなろう。彼女は(私の来訪によって)慰められ、自らのキリシタンの侍女たちと共に心中この苦難をよく乗り切っている。デウスが彼女の霊魂の中に配し給うた恩寵が明らかに見られることは確かに否定できない。」 

オルガンティーノ(Soldo Organtino)神父はガラシャの愛読書「キリストに倣いて」の中の第2巻「キリストを学び奉る」第12章「尊い御クルス(十字架)の御幸の道」を引用して、ガラシャに忍耐の徳を解いている。「尊き御クルス(十字架)の御幸の道」の主題であるマタイによる福音書16章24,25節の聖句の主題は「キリストに従うこととは自分を棄て、自分の十字架を負うて、キリストに従うこと」が述べられている。 

「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい。自分の命を救おうとするものはそれを失い私のために自分の命を失う者は、それを見出すであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら何の得になろうか。また、人はどんな代価を払ってその命を買い戻すことができようか」
マタイによる福音書16章24,25節 

オルガンティーノ神父は今のガラシャの置かれた状態を説明している。忠興との離婚は直面している問題からの現実逃避であり、その現実逃避が支払う代価は五畿内のすべてのキリシタンに起こって来る迫害という十字架であると説いた。 

「心のうちに平安を保ち、悟りの境地の冠を得たいと望むならば、どこでも忍耐強くいることが肝要である。快く心から十字架を担って行くならば、あなたの願う所へと十字架が導くはずである。すなわち辛労辛苦の全くない快楽のところである。また心から十字架を担えないのであれば、さらに十字架は重く感じる。しかしながら、それでも耐えなければ願いはかなうことがない。ひとつの十字架を棄てれば、また別の十字架に遭うであろうことは疑いもない。もしくはなお一層重い十字架になるであろう。」
*キリストに倣いて 

『耐え忍んで善を行って、栄光と誉れと朽ちぬものとを求める人に、永遠の命が与えられる』
ローマ人への手紙2章7節 

『私たちは、さらに彼(キリスト)により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望を持って喜んでいる。それだけでなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っているからである。そして希望は失望に終わることはない。なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。』
ローマ人の手紙5章2~5節 

 ガラシャは自分の総てをキリストに委ねキリストの歩んだ道を歩むことを選んだ。その道は自分の思いを放棄して、信仰によりキリストの歩んだ道を歩むことにより、キリストに活きキリストと共に死ぬことにより得られる信仰による心の平安であった。 最終的にガラシャはオルガンティーノ神父の説得に応じて忠興との離婚をあきらめ、信仰により忠興との忍従の生活を耐えることを選んだ。 

*『16,17世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第3巻 244~248頁
「日々にガラシャは、徳操においても、また立派なキリシタンとしての実践においても、ますます卓絶してきている。彼女は至って悔俊(の業)を好み、去る四旬節には、自分の多くの侍女たちと共に深い信心をもって鋲釘のついた金具で鞭打ちの苦行を行って、涙と 血を流した。彼女は慈善事業や喜撰にすこぶる献身的で、自らの手で邸に養育している幾人かの捨て子の身体を洗い、衣服を着せる。家臣たちの改宗についても極めて熱心なので、自分の領国で福音を説くイエズス会員の五ないし七名の扶養を申し出ている。そして彼女は司祭たちにいとも従順で、彼らと自らの霊魂の事について語らった。彼女の従順さは、司祭たちが彼女に、邸内に、良心的には三人もの重立った婦人を奉仕させるのはよくないことだと述べると、彼女はすぐに彼女たちを解任したほどであった。また万時に付け、その他疑わしいことは尋ね、自らの霊魂のために良いと言われたことをすべて果たした。」 

オルガンティーノ神父の誇張
「彼女の従順さは、司祭たちが彼女に、邸内に、良心的には三人もの重立った婦人を奉仕させるのはよくないことだと述べると、彼女はすぐに彼女たちを解任したほどであった。」 

 当時のオルガンティーノ(Soldo Organtino)神父にガラシャの侍女たちを解任させる力はまったくなかった。ガラシャ自身も、家庭内で最も信頼する小従徒と清原マリアいとと別れようとする意志は毛頭なかった。ガラシャから小従徒と清原マリアいとを取り上げる(解任する)力があるのは忠興だけだった。 

ガラシャの小侍徒宛の書状に『我身もはやはやひまあき申候まま、やかてやかてふんこ(豊後)へくたり候ハんまま』とあり、すでに、ガラシャが忠興との離婚を考えていた時期には、小侍徒は田辺城主の幽斎(藤孝)の家臣・松本因幡に妻になっていたことがガラシャの書状より判る。ガラシャは偽らざる心の内の悩みを信頼する小侍徒宛てに書いている。 

忠興による小侍徒と清原いとの解任
 つまり小侍徒と清原マリアいとは、ガラシャの忠興との離婚問題が出ていた時、既に、忠興によってガラシャの許を追われていたことが判る。小侍徒は田辺城主の幽斎(藤孝)の家臣・松本因幡へ嫁ぎ、清原マリアいとは佐久間安正の後妻として嫁いでいる。 

 小侍徒と清原マリアいとがガラシャの侍女から解任させられた背景には忠興と離婚問題が明確に存在していた。つまり小侍徒と清原いとのガラシャのもとからの追放を忠興は、それぞれに結婚させるという形で処理したことが判る。 

二人の信頼する侍女がガラシャのもとを去った明確な時期は断定できないが、イエズス会の報告から離婚問題が持ち出された1588年(天正16)頃の事と推測される。この時期はガラシャからの小侍徒宛ての書状の内容からも証明される。離婚を考えていること、西国(豊後)へ下りたいと希望を書状の中で述べていることからも明らかである。 

 オルガンティーノ神父の言う「良心的には三人もの重立った婦人を奉仕させるのはよくないことだと述べると、彼女はすぐに彼女たちを解任したほどであった。」という言葉から、ガラシャに仕える小従徒も清原マリアいともガラシャの離婚問題に賛成していたことが理解される。 

忠興の暴力的圧政から逃れる道は離婚しかないことをガラシャの身近にいた二人は容認していた。二人は当然ガラシャの考えに賛同していたし、ガラシャを精神的にもキリシタンとして支えていた。それ故に、オルガンティーノ(Soldo Organtino)神父の意見とは違う考えだったので、オルガンティーノ神父としては、ガラシャの近くに離婚を支持する二人の側近がいることはよくないと判断したと思われる。 

だからと言ってオルガンティーノ神父に二人を解任することができるだろうか。オルガンティーノ神父に二人を解任する力や強制力があっただろうか。ガラシャの家庭内のすべての事は忠興に決定権があった。 

忠興により解任された二人の事を、ガラシャがオルガンティーノ神父の意見に従って解任したように言うことは、かなりの誇張した発言と思われる。オルガンティーノ神父にはガラシャの二人の侍女を解任する権利など持ち合わせてはいなかった。 

 オルガンティーノ神父の言う「良心的には三人もの重立った婦人を奉仕させるのはよくないことだと述べると、彼女はすぐに彼女たちを解任したほどであった。」という言葉から、あと一人、同じ時期に解任された、あるいはガラシャの許を去らなければならなかったキリシタンがいたことが考えられる。

 ガラシャは都の上京に自宅を構えるキリシタン「孫四郎殿」やその妻で丹後のマリイナと呼ばれていた女性と使者を介して連絡を取合い、信仰を守っていた。オルガンティーノ神父の書簡もこの「孫四郎殿」を介してガラシャの許に運ばれていたと考えられる。

「ルイザ」
 ガラシャが忠興との離婚を真面目に考え出した一つの原因に、ガラシャに仕えていた侍女の中にルイザと呼ばれていた女性がいた。忠興はルイザを翫(もてあそぶ)ぼうとした。もうすでに5人の側室を持っている忠興のそのような身勝手を、正室のガラシャがキリシタンとして許すはずがなく、ガラシャは孫四郎夫妻と教会のコスメ髙井修道士の手を借りて細川邸から京都へ逃がした。

 「ルイザ」についてはガラシャの侍女として洗礼名は判っているが実名は不明。1587年(天正15)ガラシャが洗礼を受ける前に他の侍女たち16名と共に受洗している。ガラシャの親戚と言われガラシャに似て美しい人だった。忠興が側室にと強く望んだためにガラシャがルイザを京都に逃がした。ガラシャはルイザに忠興宛てに手紙を書かせ、すでに奥方や側室(藤)がいるにもかかわらずその侍女と懇(ねんご)ろになりたいなどとは卑しむべきことであると批判させた。

「孫四郎」(生没年不明)
 孫四郎は武士ではなく京都の町人であった。おそらく細川家に出入していた商人ではないかと推測される。母もキリシタンで「メシア」。妻「マリイナ」は丹後の出身と言われている。京都周辺に潜んでいる宣教師たちを支援、あるいは匿っていた。

ガラシャもオルガンティーノ神父やコスメ髙井修道士等の宣教師たち、またキリシタンたちと連絡を取るときに孫四郎の手を借りていた。孫四郎はガラシャの侍女「ルイザ」の逃亡に尽力した。迫害が激化して状況が悪化すれば宣教師たちが自分を見放すのではないかと危惧するガラシャを励ましている。
*上総英郎編『細川ガラシャのすべて』160~172頁 新人物往来社

「小也・小也々」(1578~1635年・天正6~寛永12年)
 明智光秀の従兄弟、明智光忠の娘。父の光忠は光秀の従兄弟と言われているので、ガラシャにとって「小也」(しょうや・小也々)は「はとこ」になる。

小也は1582年(天正10)6月の「本能寺の変」の時、明智一族が滅亡した直後からガラシャが小也をかくまっていた。小也は当時4歳。1587年(天正15)ガラシャ(24歳)が洗礼を受けた時、小也は9歳の少女だった。ガラシャの許で実の娘のように育てられた。ガラシャの許で、共に教理を学びキリシタンになったと思われる。イエズス会の記録には直接的に小也の名前は出てこないが洗礼を授かった16名の侍女に中の一人が小也だと思われる。小也はガラシャの指導と感化を受け信仰を深め洗礼を受けキリシタンになった。

忠興はガラシャの侍女「ルイザ」に手を出そうとしたが、ガラシャがルイザを忠興の手の届かぬ所へ逃がしたので、ガラシャの侍女に手を出すことを一旦は諦めていたが、忠興が小也を妾としたのは1593年(文禄4)9月頃、文禄の役から大坂に帰ってきたころと推定される。小也(15歳)を妾として手に入れて、1597年(慶長3)、小也は19歳の時、忠興の四女・万を生んでいる。また小也は男子を生んでいるがこの子は早世している。

忠興の次男興秋(22歳)は1604年(慶長9)11月頃、長らく江戸で徳川の証人(人質)になっている実弟忠利と入れ替わりに江戸へ人質としていくように父忠興に命じられた。興秋は始めこれを拒んだ。しかしその年の暮れには中津城から江戸へ向かって出立している。

この時興秋は、11月16日付けで「小さい将」(小宰相・当時26歳)宛てに手紙を書き、『今度のことで父の機嫌を損ねたが、あなたの執り成しでどうにか済ませることができた。有難く思う。誓詞も、あなたが下書きをくれたので、その通りに書いて出した。この通りにする。もし私が意に従わないことでもすれば、私の人質をどのように処置してもよい。』と述べている。また人質になるにあたって「起証文」も認めている。
*『小さい将宛て書状・長岡与五郎』 松井文庫所蔵
『起請文』松井文庫所蔵 八代市立博物館未来の森ミュージアム寄託

母ガラシャの亡き後、興秋と「小也・小さい将」の間には年齢も4歳しか違わない姉弟のようにキリシタンの家族としてガラシャの許で共に育ち、また小也は興秋にとっても母ガラシャの身代わり、姉として心通わすものがあったのであろう。この後、1605年(慶長10)1月2日の朝、突然、興秋は京都建仁寺の塔頭十如院から出奔する。興秋の出奔には、京に住む養父興元に手引きがあった。京に在住している興元、嫡子の座を奪われた忠隆、この二人のキリシタンの経済的援助をしていたのは、京都吉田に隠居していた祖父・細川幽斎(藤孝)だった。

母ガラシャの影響を受けて敬虔なキリシタンとして歩んだ興秋にとって徳川家康の人質になることは死を意味していた。またキリシタンを嫌っている徳川家康のもとで人質として奉公しても、いずれ思想的に相容れなくなり、興秋は立場が無くなってしまうことも理解していた。興秋の立場と苦悩を理解して京都において興秋の出奔を手助けしたのは養父興元だった。この事により、興元と興秋の親子関係は、元小倉城主である興元が細川家より出奔した1601年(慶長6)12月以後も続いていたことが判る。興元の出奔により、興元と興秋の養子関係が解消されたと思っていたのは忠興ひとりだった。

 小也はガラシャの死後、忠興や細川家中の家臣たちから正室に準ずる待遇を受け母子共に大切にされた。小也の娘「万姫」は、1615年(元和元)11月19日、京都の大納言烏丸光賢に嫁いでいる。忠興はガラシャの死後、正室は置かずに、小也が忠興の身の回りの世話を引き受けていた。忠興が側室の誰も正室にしなかったのは、ガラシャに対する罪の償いの思いからだったのか、ガラシャの遺言「藤を正室にすることなきよう」という言葉の重みの故なのかも知れない。忠興の心の中にはいつまでもガラシャが生きていたのかもしれない。

 小笠原玄也一家の殉教した1635年(寛永12)12月23日の記録に「小也」の名前が出てくる。小笠原玄也一家と共に御誅伐された「こさいしょう」(小宰相)とはどのような人物だったのだろうか。細川藩『切支丹御改之事』「御奉行所日帖」(裁判記録)を調べても「こさいしょう」の明細な記録は見当たらない。しかし「こさいしょう」がキリシタン故に御誅伐にあったことだけは確かである。権力を有する者の近くにいる人故「小さい宰相」と呼ばれてもおかしくない妻妾。正室のガラシャ亡き後、細川藩で正室に準じる扱いを受けていた人は「小也」(小宰相)だけだった。

さいしょう:宰相(権力を有する者)
さいしょう:妻妾(妻、妾・めかけ)

*新撰御家譜原本巻五 忠利公の部
「一、十二月廿三日、小笠原玄也妻子、下々迄惣而十六人於禅定院御誅伐、志賀休也、こさいしょう、貴理師旦に付同日御誅伐被仰附候」

 小笠原玄也一家を処刑することになったとき、忠興は側室である「こさいしょう」にも棄教を迫った。忠興にとって、たとえ長年連れ添った妻であっても細川家の中にキリシタンがいることは家の存続に関わることであり、全てのキリシタンを家中より取り除くことが家の安全を保つためには必要不可欠なことであった。忠興の酷き者の姿勢は終生変わることはなかった。

こさいしょうは、夫忠興の要求が、自分の中にある神の永遠の普遍なる道徳、神に対する忠誠の領域を侵していると感じ、自分が神の側に立つときがきたことを悟った。細川という血で繋がっている家系から離れ、神の民の家系、信仰の系譜に名を連ねることを決断した。こさいしょうは細川家の中に自分の名前が刻まれること、人に呼ばれ語り伝えられることで後の世に残ることを望まなかった。ただ、夜と闇のなかでたったひとり神にむかい合った時に、神が彼女を呼ぶ名前を持ちさえすればよかった。これまで忠興はあまりにも多くの罪のないキリシタン達を平然と処刑してきた。その過ちと、忠興の心のなかで押し殺してしまった神の愛に、こさいしょうは自分の命を犠牲にすることで気づいてほしかったのだ。

こうして、こさいしょうは、信仰ゆえに継続する系譜に名前を連ねた。伯母・細川ガラシャ、細川興秋、髙山右近、黒田官兵衛孝髙、伊東マンショ、中浦ジュリアン、加賀山隼人、小笠原玄也。信仰ゆえに全てを棄ててキリストに従った人々の中にこさいしょうは自分の名を刻み込んだ。

『ただ神にのみ仕えよ』というマタイによる福音書の言葉が、これらの人々の歩んだ道を思うときに、命の輝きと精彩を帯びて心に響いてくる。

 『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。』
マタイによる福音書十六章二十四~二十六節 

 もし『こさいしょう』が忠興の妻妾ならば、一六〇〇年(慶長五)に細川忠興(三十八歳)は妻ガラシャを失い、この年、一六三五年(寛永十二)忠興(七十三歳)、三十五年間も連れ添った、愛する妻妾こさいしょう(五十七歳)まで、二度もキリシタン故に愛する妻を失ったことになる。

領国と細川家を守るための政策として、豊前に於いて48人の罪のないキリシタンを迫害し処刑してきた細川忠興。最も凶暴な狂った独裁者とイエズス会の神父達から言われ、キリシタン達から恐れられた細川忠興が、自分の行ってきたキリシタン政策の代償として愛する妻を失ったことも大きかった。こさいしょうを失ったことで、忠興は心の中に空しさと悲しさ、虚無と大切な者の喪失を味わった。 

 処刑場で小宰相に会った時の小笠原玄也の驚きはどのようなものだっただろうか。忠興に小姓として仕えていた頃(十五歳から二十二歳頃)にはたびたび顔を合わせ、キリシタン同胞として声を掛けていただいた忠興の妻妾(小宰相)と共に死に臨むとは思いも掛けなかったのではないだろうか。 

 細川忠興は愛して止まないこさいしょうの最後のはなむけとしてこの処刑を立派なものにして、送り出したかったのであろう。忠興は自分の愛刀「三十六歌仙」になぞらえて名付けられた「歌仙兼定」(関の兼定)を処刑のために遣わしている。

 細川藩の記録『綿考輯禄』には,小也は一六三五年(寛永十二・五十七歳)、八代で病没していると記載されている。法名 周岳院雪山宗広。 

八代の盛光寺は1623年(元和9)中津で亡くなった忠興の愛妾・小山りんのために中津に建立した寺で、初め西光寺と称し八代に移ってから盛光寺と名称を改めた。

『綿考輯禄』には忠興の愛妾・小山りんの菩提寺である八代の盛光寺(八代市本町三)に葬られたと書かれている。この寺には忠興の念持「仏阿弥陀如来座像」(現在八代市立博物館未来の森ミュージアムへ委託)と、忠興とガラシャとの間に生まれた長女・長(一六〇三年[慶長八]九月二十九日死去)の位牌も祭られている。

ガラシャの長女・長の位牌・八代市盛光寺所蔵

 八代の盛光寺を訪ねて、御住職にお願いして、過去帳を開示して頂き、一六三五年(寛永十二)の記録を調査したが、寺の法名禄(過去帳)には「法名 周岳院雪山宗広」は記載されていなかった。また八代の盛光寺の墓地内に小也の墓はなかった。盛光寺に始めから埋葬されていないことは確かなことで、どこに葬られたのか不明である。

恐らく小也の愛娘である「万姫」に母小也は病死したとして、遺骨を届けさせたと考えている。万姫は1615年(元和元)11月19日、京都の大納言烏丸光賢に嫁いでいる。

キリシタンの遺体処理の仕方
当時キリシタンに対する遺体処理はまず焼却され、焼け残った骨は粉砕され袋に詰められて海に捨てられていた。処刑された小笠原玄也一家の遺体も焼却され焼け残った骨は粉砕され遺灰も残らず袋に詰められて川か海に捨てられている。

*後藤典子著
『細川家文書に見る近世初期のキリシタン穿鑿の実態・金川惣右衛門尉同類の穿鑿一件』

小笠原玄也の妻・みやの遺骨だけ、従兄弟の加賀山主馬可政が密かに引き取り、祇園山(現花岡山)の中腹に埋葬している。加賀山主馬可政は、自然石に「加賀山隼人正藤原興良息女墓」と彫り込んだ土台石を墓碑として建立している。文政年間(1818~30年)祇園山の中腹に、この墓碑が偶然に発見され、加賀山一族の関心を呼び起こした。

その後、加賀山一族が新たに丸形の自然石をその上に立てたが尺不足にため藤原の二字を省いて「加賀山隼人正興良息女墓」と彫って祭った。これが現在の墓碑である。

キリシタンとして処刑された小也の遺体は忠興の奥方である故、禅定院で焼却され遺骨は大事に骨壺に入れられ京都の大納言烏丸光賢に嫁いだ実の娘「お万」に引き取らせたと考えている。

*後藤典子著
『細川家文書に見る近世初期のキリシタン穿鑿の実態・金川惣右衛門尉同類の穿鑿一件』17~48頁 熊本大学文学部附属永青文庫研究センター 
年報 第6号 2015年

忠興と小也との間の四女で末娘「お万」を忠興はことのほか大切にして可愛がった。京都の大納言烏丸光賢に嫁いでいる万の許には江戸へ登るときも小倉へ帰るときにも、必ずと言って良いほど可能な限り訪問している。忠興から万に宛てた書状にも心を許した実の娘への愛情を感じる内容が書かれている。京都での忠興の細川邸と大納言烏丸光賢邸は隣同士の敷地(大きなひとつの敷地に2つの館)に立っている。

焼却されていた小笠原玄也一家15人の遺体
1641年(寛永18)9月15日、四ツ時(午前十時)金川惣左衛門他三人は熊本の白川の長六河原で火炙りになり誅伐された。

金川惣左衛門のキリシタン調書に中に「小笠原玄也一類のくりきの物、黒焼きの灰がある。これは玄也一類が誅伐された時、禅定院で焼かれたもの(遺体)を「はいよせ」(灰寄せ)に参り、私が取ってきて置いたものである」との証言により、小笠原玄也一家の遺体はキリシタンの遺体処理の方法により禅定院で焼却され残った骨は粉砕されて残った灰も袋に詰められ海に棄てられたことが判る。

金川惣左衛門は1635年(寛永12)12月23日、小笠原玄也一家が処刑された日の夜中に、小笠原玄也一家遺体の焼却された場所(禅定院)へ行き、彼ら遺体の焼かれた灰を壺にとり隠し聖遺物として持っていた。当時殉教した人々の遺骨、遺灰、遺品等は聖遺物としてキリシタンたちに特別に崇められていた。

また1634年(寛永11)の暮れ、金川惣左衛門の同調書に小笠原玄也と息子左近(27歳)が熊本へ呼び出された折、玄也の妻みやの末妹りゅうが嫁いでいる後藤又市郎宅をたびたび訪れている。

調書には「市十郎殿の御母を小笠原玄也の子息左近殿が見回りに来たとき、左近殿が私に言って聞かせるのには、私は祖父、親の代々のキリシタンの血筋であるので宗門に立ち返るべきだと、色々勧めるので、宗門に立ち返った。そして、宗門に立ち返るとき坊主がいないのはどうかと言う私に、小笠原左近(幼名源八)殿は「やむを得ない」と仰せられた。

金川惣左衛門の調書により、小笠原玄也の息子・源八(27歳)が、成人して父玄也と同じ左近を名乗っていること。玄也の妻みやの妹りゅうの家・後藤又市郎宅をたびたび訪ねて、キリシタンに戻る様に説得していること等が記録から判る。20~21頁

*後藤典子著
『細川家文書に見る近世初期のキリシタン穿鑿の実態・金川惣右衛門尉同類の穿鑿一件』17~48頁 熊本大学文学部附属永青文庫研究センター 
年報 第6号 2015年

 花岡山(元祇園山)の中腹にある「加賀山隼人正興良息女墓」の1936年(昭和11)の建立基礎工事中に、地中から出てきた長方形の石棺(横30㎝、縦20㎝)の蓋に「加賀山隼人正藤原興良息女」と刻んであった。石棺の中の遺骨は、おそらくみやの従兄弟の加賀山主馬可政が、禅定院に於いて玄也一家の遺体を焼却する時、その場に立ち会い、みやの遺骨だけを少しだけ加賀山家代表として特別にもらい受けて、石棺に入れて同地(祇園山)に密かに埋葬したものと考えている。



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