マリア清原いと(ガラシャの侍女頭)について
マリア清原いと(ガラシャの侍女頭)について
いとは儒学者の清原枝賢に次女として生まれている。清原家と細川家とは姻戚関係にあった。おそらく明智玉(16歳)が細川家に輿入れした1578年(天正6)頃には、侍女として細川家に仕えていたと考えられる。いとは細川家に仕える侍女であり、1582年(天正10)6月2日『本能寺の変』により玉の三戸野への幽閉が決められた時、玉に随行する人々は明智家から玉の婚礼に付き従い、そのまま細川家に仕え組みこまれた人々により構成されているので、細川家に奉公する清原いとは三戸野へは行っていない。
*忠興の祖母が清原宜賢・のぶかたの娘でありこの女性は清原業賢、吉田兼右の姉妹である。*細川家・清原家・吉田家の家系図より
『宇野主水記』に「オイトノカタト申上ラウ」と名前が書いてある。「主水記」は、漢字以外はすべてカタカナで表記されているので「清原イト」の表記も平仮名の「いと」であると考えられる。
*細川ガラシャ 126頁 田端泰子著 ミネルヴァ書房
1582年(天正10)6月2日早朝、本能寺の変で、明智光秀が織田信長に対して謀反を起こした。光秀は同盟関係にあった細川藤孝・忠興父子を味方に誘ったが断られ、光秀の組下の筒井順慶も中立の立場を保った。丹後、丹波での戦いで協調して戦ってきた細川藤孝・忠興、筒井順慶にも、協力を願ったが断られている。これにより明智光秀は、自分の持っている軍勢単独で敵対する織田信長の家臣たちと戦うこととなった。
6月13日、山崎の戦で、羽柴秀吉軍に破れて近江大津の居城坂本城へ遁れる途中、山科勧修寺付近の藪(通称小栗栖)において土民に襲われ命を失った。光秀の首は本能寺に梟(きょう)され、屍は粟田口にて磔にされている。明智一族と重臣たちは居城の坂本城で滅亡した。明智一族は本能寺の変の後11日余りでこの世から姿を消した。明智光秀と妻煕子(ひろこ)、彼女の実家妻木氏も討たれた。
明智家の墓所は近江大津の坂本(現・大津市坂本)の西教寺にある。西教寺過去帳には『天正4年(1576)11月7日死去・明智惟任日向守光秀御臺』と記録されている。
丹波・丹後平定の戦い
1577年(天正5)10月、明智光秀と細川藤孝・忠興父子は丹波・丹波を平定した。丹波攻撃開始から実に2年8ヶ月の長期に渡る戦いだった。
1580年(天正8)7月、織田信長は明智光秀・細川藤孝を安土城に召し、丹後は細川藤孝に、丹波は明智光秀に与えた。
1580年(天正8)8月、細川氏が丹後に入国した時、弓木城には一色義定(義有)が城主をしていて、中・竹野・熊野の三郡を支配していた。細川氏は与謝・加佐の二郡を与えられ、丹後一国における不均等な二頭政治の状況になった。
丹後の国衆一色氏や矢野氏が明智光秀に呼応しようとしていた。丹後の国より細川家の支配を排除して、丹後の国の勢力図を変える動きがにわかに動き出していた。丹後での不穏な動きの情報を羽柴秀吉から聞いた藤孝忠興父子は急ぎ居城の宮津城に帰国した。
*細川家記
同年九月八日、一色義定(義有)は細川家の居城・丹後宮津城で饗宴に招かれた時、細川藤孝・忠興父子に謀殺された。一色義定は家老日置主殿助等の家臣とともに宮津城に来ていたが大半が命を失った。この後、一色氏の居城・弓木城(稲富伊賀守祐直が城代を務めていた)は全面降伏して弓木城は細川氏の城となった。
このようにして、織田信長の死去後、最強の権力を持っていた羽柴秀吉の承認を後ろ盾として細川幽斎(藤孝)忠興父子は丹後一国を平定して、秀吉配下の丹後国主となった。
元一色氏の家臣で、後1600年7月17日、大坂の細川藩邸でのガラシャ殉死の際、正門の防御を任されていた稲富伊賀守祐直は、細川家に仕えることになった。ガラシャが三戸野へ匿われたとき、一色家の家臣、一色宗右衛門が護衛の責任者となったが、一色宗右衛門もこの時以来、細川家に召し抱えられている。
一色義定の妻は細川忠興の妹「伊也」である。「伊也」は1581年(天正9)に一色義有と結婚している。2人に間には嫡子「五郎」が生まれている。卑劣な謀殺で自分の父兄、細川幽斎と忠興に、夫義定を殺された「伊也」は、実家細川家に戻って忠興対面した時、兄の忠興に脇差を抜いて斬りかかったと書かれている。それほど卑怯な手を使い愛する夫を謀殺した実の兄忠興が許せなかったのであろう。その後、「伊也」は吉田社祠官吉田(卜部)兼治に再婚させられ、多くの子供に恵まれて幸せな生活を送っている。義定と伊也の長子「五郎」は剃髪して京都愛宕神社の福寿院の僧侶となり『幸能法印』と名乗ったが、25歳の若さで死去している。
「伊也」の嫁ぎ先の吉田家と清原家も共に養子関係で繋がっていて、細川家と清原家、吉田家は婚姻関係で結ばれている。
同年(1582年・天正10)10月、忠興の側室お藤が女子「古保」を出産している。「古保」は後に細川家の筆頭の重臣・松井康之の嫡男・松井興長に嫁いでいる。正室玉が三戸野へ幽閉(隠蔽)されていた時期だったので、側室藤が「古保」を出産したことは、玉にとって精神的苦痛と情緒不安定にさせる要因ともなっていた。
明智家の滅亡は1582年(天正10)6月2日早朝の「本能寺の変」に始まり、13日の山崎の戦いでの敗戦、山科の小栗栖での父光秀の死去、15日の坂本城での明智家と妻木家の人々と明智秀満の自害で、明智家のすべての人々がこの世から消えてしまった。たった2週間で玉の周りにいた親しい明智家の人々がこの世から姿を消してしまった。この世の儚さ、儚い命の無常さはどこから来たものだろうか。
父光秀が起こした謀反「本能寺の変」のために実家明智家は滅亡し玉ひとりが残された。光秀の謀反は玉の心を深く傷つけた。愛し尊敬していた父光秀の思いがけない主君織田信長への反逆に驚き、それに続いて愛する父光秀の落命、さらに続いた実家・明智家と妻木家の人々の滅亡。突然に起こった反逆「本能寺の変」に始まった一連の出来事に、丹後の宮津城にいた玉はなすすべもなくただ茫然として全ての事実を受け入れるしかなかった。
夫忠興は常に権力者に対して脆弱であり、この時もおのれの立場を守ることを優先した。
忠興の考えは細川家の存続だけが最優先課題であり、そのためには家族の命も家臣の命も消耗しても構わないという酷き考えの思考のもとにすべてが決まられていた。忠興には細川家さえ残れば人の命などどうでもよかった。忠興のそのような思考に父藤孝は常に苦言と諌言を呈していたが、それを素直に聞くような忠興ではなかった。
忠興の玉に対する無理解の故に、玉はその後すぐに三戸野へ幽閉され、自分の周りのすべてが崩れ落ちたかのように感じていた。玉の心にある苦悩と孤独、無気力。絶望の淵にあるという惨めさが、三戸野へ送られた当初は玉の心を支配していた。その中でも徐々に玉は自分を見失わず、聡明で堅固な意思を持ち続けていた。玉は失望して諦めることも、自分を慰めることもしなかった。三戸野での幽閉の間、玉は生きる理由を、三戸野で誕生した次男の興秋に見出している。人として生きる道を心の中で葛藤を抱えながら模索して見出している。
細川家としては、何の罪もない嫁・玉が明智家から嫁いできているというだけで、謀反を起こした明智十兵衛光秀の仲間と思われ、織田家全体から戦いを仕掛けられることはなんとしてでも避けなければならない課題だった。謀反を起こした明智家の人間というだけで抹殺される時代である。細川家としては、嫁玉を、明智家から婚礼の時に付いてきた明智家の人々と共に、細川家から遠ざけることで周りの目を欺き、細川家としては玉を密かに僻地三戸野に幽閉することで、玉を守る意味の行動を同時に選択している。
これら一連の細川家の行動の差配をしたのは、戦国の世を、盟友明智十兵衛光秀と共に戦い、十兵衛光秀の考えや思考性を熟知していた細川家の当主・藤孝だった。藤孝は光秀との共同軍事行動や婚姻関係が深かっただけに、他の織田家家臣たちから、あらぬ疑いを掛けられ戦いを挑まれることを避けるためには、なるべく早く旗幟を鮮明に掲げる必要があった。
藤孝は、突如明智光秀が起こした「本能寺の変」に驚きはしたが、冷静な判断の元、明智光秀からの行動の同行(誘い)は拒否している。明智軍と細川軍がひとつになっても、当時他の織田家家臣のそれぞれが持つ軍隊と戦っても勝つ見込みがないこと。特に織田家随一の強大な軍事力を持って、備中髙松で毛利軍と戦っている羽柴秀吉軍との歴然とした軍事力の差を考えたら、盟友明智光秀とこの機会に同盟を解除するしか細川家の生きる道はないことが判っていた。
藤孝の素早い決断の元、重臣の松井康之を光秀の女婿・明智秀満に遣わして、光秀との義絶を申し送り、他方では織田(神戸)信孝に使いをやって織田家への忠誠を誓っている。
それ故に藤孝は織田信長の「本能寺の変」での横死を機に、藤孝は剃髪して「幽斎玄旨」と号して第一線から身を引き、田辺城(舞鶴市西舞鶴)を隠居城と定めて、細川家の家督を若い忠興に譲っている。
幽斎(藤孝)の直臣である小笠原少斎もこの時、主人幽斎と共に剃髪して、名前を小笠原備前守秀清から、法体して号を「少斎」としている。玉が三戸野へ隠蔽されるときに付き従った人々は明智家から付いてきた人々に限られていた。幽斎の直臣である小笠原備前守少斎が、三戸野へ行く理由が見つからない。従って小笠原少斎は三戸野へは随行していない。
藤孝は「幽斎玄旨」と号して禅宗へ帰依。小笠原秀清は真宗へ帰依して「少斎」と号した。
一五六五年(永禄八)五月、松永久秀は三好三人衆と組んで将軍足利義輝の邸宅を急襲し暗殺した。小笠原少斎の父稙盛は足利義輝とともに討ち死にしている。少斎は義輝暗殺された後に浪人して京都深草に住んで名前も加々美少左衛門と改めた。
父小笠原稙盛と親交があり長男少斎(二〇歳)のことをよく知っていた細川幽斎が丹後に招き、お伽衆として知行五〇〇石で召し抱えた。名前を小笠原備前守秀清と改めた。1582年(天正10)6月2日「本能寺の変」の報告を受けた幽斎が剃髪し、禅宗へ法体した時、幽斎の意を受けて秀清も真宗へ改宗して、法体し名前も「少斎」と改めた。幽斎は禅宗、少斎は浄土真宗を信仰している。
玉の三戸野での2年間の幽閉の間、忠興の実弟・興元が領する峰山城から地元住民しか知らない山道を利用して十分な食料等の援助物資を運び込んでいる。興元が三戸野に幽閉された玉の後詰めの護衛を引き受けていた。
戦国の世を生き抜いてきた藤孝の采配はここでも細川家を存続させながら、なおかつ大事な嫁である玉の命も守る選択をしている。
三戸野では、明智家から付き従っていた玉付きの小侍徒が玉の心に寄り添い慰めを与え励まし支えていた。 玉(ガラシャ)と小待徒に間には17通の書簡が残されている。互いの近況を知らせ会う内容が多く、いかにガラシャが小待徒を姉妹のように心の底から頼っているかがわかる内容である。
玉は光秀の三女であり、細川忠興の正室でもあるので、細川家は玉を守るために、一色氏の領地の中にあった明智家の飛び地であった三戸野(味土野)(現・京都府与謝郡野間村字味土野)の辺地へ玉を幽閉して匿った。
玉の三戸野へ付き従っているのは、忠興との婚姻の時、明智家から付き従ってきた家臣たちと侍女たちだけである。細川家より明智光秀の娘・玉を始め、明智家から玉に付いてきた明智家の従者たちを放逐した形にして処理している。
当時、清原いとは、細川家に侍女として奉公していたが、玉に従って三戸野へは行っていない。同様に、ガラシャが自害した時に介錯をした小笠原少斎も三戸野には行っていない。
小笠原少斎は細川幽斎・藤孝の直臣であり、幽斎の直臣である小笠原少斎が、細川家から放逐した形にした明智家から玉の輿入れの時に付いてきた人々と共に、三戸野へ行く理由がない。
もし清原いとが玉と共に三戸野へ行っていたならば、玉は三戸野で,清原いとよりこの時期に、キリスト教のことを聞いていたと思われる。しかしイエズス会の記録を読むと、玉がキリスト教に触れるには、三戸野から丹後宮津城に帰ってからであることがわかる。つまり、清原いとが、玉に仕え、侍女頭としての役目を始めるのは、玉が三戸野から宮津城へ帰ってきた1586年(天正14)からか、同年に完成した大坂への細川邸へ移った時期からと考えている。
味土野の呼び名に関しては現在の地名「味土野」が使用されているが、当時の記録では『三戸野』と書かれている。記録の成立順では「太閤記」丹後三戸野、「忠興公譜」丹後三戸野、「明智軍記」丹波三戸野、「綿考輯禄」丹波三戸野一書、丹後国上戸村、と記されている。
三戸野の呼び名の通り、玉が幽閉された三戸野には、林業に従事する農夫の家族が三戸軒、あるいは数軒あるだけの非常に奥まった僻地だった。三戸野も丹後に点在していた明智光秀の領地のひとつだった。明智の三戸野の領地に戻すこと(匿う事)により、その意味では、玉は実家・明智家へ帰されたと言うことができる。
1578年(天正6)明智玉(16歳)は細川忠興と結婚。
1579年(天正7)長女 長が誕生している。
1580年(天正8)長男・忠隆が宮津城に於いて誕生している。
1582年(天正10)6月2日早朝、父明智光秀が主家・織田信長に謀反して
「本能寺の変」を起こし、本能寺に於いて織田信長は殺害された。
明智光秀は盟友・細川藤孝・忠興父子に応援・協働を依頼したが、細川藤孝は同意せずに、直ちに明智光秀との縁を切っている。細川藤孝の「本能寺の変」の後の、世の中の流れ、織田家臣・他の武将たちの動向を推測しての、盟友・明智光秀との絶縁を選択している。
細川家にとって問題となることは、細川忠興は明知光秀の三女・玉を嫁として迎えていることで、明智家と同動として、他の織田家の武将たちから思われることだった。
すでに次男・興秋を妊娠している玉を捨てること、細川家から遠ざけることしかできないから、明智家に戻す意味で、丹後の明智家の飛び地である僻地・三戸野へ、明智家から輿入れの時に付いてきた侍女と明智家の家臣たちを同伴させて匿った。これで対外的に、明智家の人々を細川家より明智家に戻したことになった。
突然の父明智光秀の主家・織田信長への謀反に、玉も非常に驚いたことであろう。この日を境に、玉の周辺は一変した。身重の体を抱えて,僻地三戸野での幽閉監視される生活を強いられている。この三戸野幽閉は、細川家の大事な嫁でもあり、嫡子忠隆を生んでくれた玉を守るという意味でもあり、対外的には明智家の人々を細川家から追放・放逐したという意思表示でもあった。
僻地三戸野での幽閉生活は、この上もなく寂しいものでもあったことは容易に想像できる。「本能寺の変」という謀反を起こして、山崎の戦いで敗死した父光秀と家臣たち。居城の近江大津の坂本城で無念の死を遂げた明智一族の人々。
これらの明智一族の滅亡を僻地三戸野で聞いた玉の心は、絶望の底にあり悲惨に暮れたであろう。このような絶望の底へ落とし込まれた玉の心を支えたのが、新しい命として生まれてきた興秋だった。宮津城の長女・長、長男・忠隆から引き離された寂しさを慰めてくれたのも生まれた興秋の存在だった。今まで熱心に学んできた禅宗の教えは、この時の玉の心を支えたのであろうか。この世の無常のどん底を突如として味合わせられた玉にとって、禅宗の教えは心の支えとはならなかった。乾ききった玉の心は、失意の奥にある心の渇きを求めて、夫忠興から聞かされていた髙山右近が語っていた新しい宗教・キリスト教へと向かった。幽閉が解かれ、宮津城へ戻ることができたなら、髙山右近が語っていたキリスト教を学びたいと心密かに決めていた。
新しい宮津城での生活
1584年(天正12)二年後、隠棲先の三戸野から宮津城に帰り、玉に新しい生活が戻ってきた。三戸野に於いての幽閉の二年間、離れていた二人の子供、長女長、長男忠隆と、三戸野で生まれた興秋との幸せな生活が新たに始まった。この生活は1584年(天正12)から、1586年(天正14)十月十一日、三男忠利(光)の宮津城での誕生を挟んで、1586年(天正14)まで、大坂玉造に新築された細川邸への移転まで続いている。
この時代、玉が幽閉先の三戸野から帰ってから清原いとが玉付きの侍女頭として仕えることになった。玉が初めてキリシタンに関して興味を抱いたのは夫忠興の友人でキリシタン武将である髙山右近が話していたキリシタンに関する話がきっかけだった。
しかも、新たに玉の侍女頭になった清原いとの父清原枝賢も1563年(永禄6)春にロレンソ了斎から洗礼を受けていたので、清原いとも父枝賢からキリシタンについての詳しい内容の話を聴いて育っていたので、玉は清原いとからもキリシタンについての話を詳しく聞く機会に恵まれた。
清原枝賢をキリシタンに導いたロレンソ了斎は稀有な修道士で、キリシタン時代の黎明期、1550年(天文19)山口でフランシスコ・ザビエル(Francisco de Javier)から洗礼を受け、1556年(弘治2)豊後府内へイエズス会本部が移って以来40年間、常に第一線に立ち、日本における黎明期のキリスト教会の土台を構築した最も優れた伝道師だった。またロレンソ了斎は五畿内のキリスト教会の中心人物だった。五畿内の教会史を見る時にロレンソ了斎の足跡がいかに偉大であるかを我々は知っている。
ルイス・フロイス(Luís Fróis)神父は、ロレンソ了斎の宣教を支える力の源が神にあることを知っていて、ロレンソ了斎の事を『神から照らされた人』と美しい表現で呼んでいる。
清原いとは、洗礼は受けていなかったが、キリシタンの家庭に育っていたのでかなりキリシタンに関しての詳しい内容の話を父枝賢から聞いて知っていた。当然聡明な玉といとの間に会話としてキリシタンに関して、キリシタンは何を信じているのか。デウスとはどのような神か。キリスト教の教義とはどのようなものか、また玉の信じている禅宗とキリスト教の違いとはどのようなものか等の会話がなされていたことは容易に想像できる。
玉が持っている聡明さと強い探求心、堅固な意思が、徐々に禅宗からキリシタンという未知の信仰の世界へ向けられていった。忠興の口から聞いた髙山右近が語ったキリシタンの話、清原いとが語ってくれる父清原枝賢が信じるキリシタンの信仰の世界。玉にとって未知の信仰のキリスト教世界に対して希望の光を求めてみようという望みが湧いてきた。
禅宗を学んでいた時と同じように玉は強い意志でキリシタンの教えを学ぼうとしたが、大坂の細川邸に軟禁状態の玉にはキリスト教会に行って教理を学ぶすべがなかった。
いとの実家清原家は儒学者の家であるので、細川家とは学問を通じて交友関係があったと思われる。また姻戚関係もあったので、いとは玉の侍女の中でも高い地位が与えられていた。1585年(天正13)いとは細川家の上臈として、玉の付きの侍女頭として、玉の家臣を従えて他家へ玉の名代として挨拶に赴く程、玉の外交の代わりを務める重責を担っている。
イエズス会日本報告集に玉ガラシャが、大坂の教会を訪れた際に「非常に高い教養と儒教の教養、日本の宗教、特に禅宗に関しての深い教義の理解を示した」と褒められ驚かれているが、儒学に関しては、清原いとから学んだ教養と薫陶があったからである。
*完訳フロイス(Luís Frós)日本史3 織田信長編Ⅲ
第62章(第2部106章)228~229頁
「翌日、彼女はその邸の重立った夫人の一人を通じて教会に伝えるところがあった。その婦人(清原いと)は(細川)家の家事いっさいを司っており、奥方(細川玉・ガラシャ)の親戚にあたり、かつて大和の国において、もう一人の貴人結城山城殿とともにキリシタンになった(清原)外記殿という内裏の師傳を務めた一公家の娘(清原いと)であった。奥方の師であり(細川)家の侍女頭でもあるこの婦人は、知識においても奥方にほとんど劣りはしなかった。奥方はこの婦人を通じて教会で受けたもてなしに対して礼を述べ、前日の説教に関して生じた幾つかの疑問を書きしたためてこの婦人に携えさせ、彼女にそれらについての返答を持ち帰るように命じた。
さらにこの同じ婦人(清原いと)に、彼女が教会で特別にカトリックの教理の説教を聞き、帰宅後に、自分にそれらを伝える役目を続けるようにと命じた。こうすることによって、奥方の胸中には、デウスの教えに対する嗜好と、己が救霊への異常なばかりの情熱や熱意が高まっていき。自分に仕える貴婦人たちと一緒にいる時には、昼夜を問わず、デウスの教えとか、教会や伴天連たちのこと、それにキリシタンになりたいとの燃えるような希望以外のことは決して話さなくなった。
ついにこの侍女頭(清原いと)は、すべての説教を聞き終えると、聖なる洗礼を受けた。そして洗礼と共に多くの(主なるデウスの)恩寵を受け、その結果、この奥方の洗礼への望みもますます強められた。」
清原いととキリスト教
*16、17世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第7巻 227~231頁
1588年2月20付、有馬発信、ルイス・フロイス(Luís Frós)の書簡
1587年度日本年報
「(玉は)家の中では尊敬され知恵のある身分の高いある女性(清原いと)を仲介者にして事を運ぼうと決心した。その女性は、彼女の執事であり、彼女を大いに愛しており、また彼女もその女性を深く信頼していた。この女性も依然彼女といっしょに我らの教会に来た人で、説教を聴き、また我らの教えに傾いていて、キリシタンの掟の教えが良く判らなかったのでは誠に残念なので、聞いたことについて生じたすべての疑問について質問したいと彼女に言っていた。奥方のほうはもう外出できないので、その女性がふたたび司祭たちのところへ行って話し、奥方に代わってこちらから質問し、説教の残りの部分を聴いて,後で彼女に話してもらいたいと言った。
この武家出の女性は、奥方の命じたとおりにし、また思慮深く才能があったので、説教を聴きに行っただけでなく、聴いたことを納得し引き込まれていったので、キリシタンになる決心をし、この望みを奥方(奥方の方がより大きく動かされキリシタンになる大きな願いを持った)に話した。奥方は彼女の決心を称賛し、また自分の心の内も明らかにした。この武家出の邸の中で重きをなしている女性は洗礼を受けマリアと称し、奥方と同様彼女も他の婦人たちに語りかけて心を動かし、その邸の十七人も主な婦人たちが徐々に説教を聴いてキリシタンとなり、残るは奥方のみとなった。奥方は彼女たちの中でも最も洗礼を受けたいとの熱意に燃えたが、司祭の手によってしか洗礼は授けられないと考えて大いに苦しんでいた。奥方は彼女たちを通じ、その気持ちを最初に司祭に明かし、長い間キリシタンだった人のように、第三者を介して司祭たちと親しく話し、毎日沢山の贈り物を届けさせ、また若干の寄進をし、我らの教えについて日本語で書かれた書物を送ってくれるよう頼み、それを熱心に読んで,判らない所をすべて問い合わせ、疑いを持った点を提示し、答えをもらって満足し、あまりにもその人柄が(マリアが言うには)皆の者が驚かされた。というのは、まったくキリシタンの人のように,コンタツをもって祈り、我らの主に煩雑に祈りを捧げ、様々の寄進をし、キリシタンの婦人たちを慈悲と愛をもって接するので、主人というより同輩のように見え、常にどういう方法でキリシタンになれるか考えを廻らしていた。この熱意に燃えていた間に、関白殿の発した布告(伴天連追放令)と大いなる迫害の知らせが届き、司祭たちが全員追放されると聞いて奥方は大いに悲しんだが、彼女の願いは冷えるどころかむしろ以前よりずっと強くなり、彼らが出発する前に何としてでも洗礼を受けようと決心し、決して育央とのままでいるべきではないと言っていた。
他にももっと楽な方法がないので、一台の駕籠の中に入って蓋をし、司祭たちの教会に運ばれていくことに決めた。その間あのキリシタンになった婦人たちも何人かが行って向こうで待ち、洗礼を受けた後同じ駕籠に入って戻ってこようというのである。このようにすることを決め、司祭たちに判るように伝言させたが、彼女は身分も高く重要な婦人であり、そのようなことをすれば大きな不都合が後で起こると思われたことと、他方彼女を励まし、出発前に洗礼が受けられないことがないよう、他の方法を講ずることにし、マリア(清原いと)に洗礼を授ける方法を教え、司祭を頼む方途がない場合には誰でも洗礼を授けることができることを知らせ、マリアの手から洗礼を授けることを命じた。
これによって彼女は大いなる励ましを得、深い尊敬と献身の心をもって跪き、(清原)マリアの手から洗礼を受け、ガラシャ(伽羅奢)いう名が付けられた。
マリアはこのように大きな秘跡(洗礼のような)を司った以上,賤しい肉感的事にかかわるべきではないと考え、直ちに教会へ行き、祭壇の前で、司祭たちも列席の上、自分がキリシタンとなったことを我らの主に感謝し、また自分の主人に洗礼の秘跡を授けるような大きな御慈悲に感謝し、その一生不犯を守ることを公に誓った。その印として、その同じ教会で、日本では夫が死んだ時その妻が習慣として行う,或いはこの世を捨てようとする時行うように剃髪をした。このようにして、この迫害の最も激しい最中に、丹後の国衆の奥方ガラシャが武家出の侍女十七人と共に洗礼を受け、彼女たち同士の間で,夫、或は、関白が彼女たちを棄教させようと望んだときは、そのために死ぬ誓いを立てた。」
*参考資料
日向志保著『ガラシャ改宗後の清原マリアについて』織豊期研究 第13号 2011年
清原いとの父・清原外記枝賢(えだかた)の受洗
三好長慶が京都の奉行をしていて、その家臣松永弾正久秀が当時五畿地方の政治を司っていた。都では三好長慶と畠山髙政との間に戦いが続いていた。1561年(永禄3)の降誕祭は、初めて和らいだ雰囲気の中で姥柳通りに立てられた小さな教会で行われた。
続く1562年(永禄4)の四旬節の間、信者になった人々の信仰教育が熱心に行われ、復活祭の後にヴィレラ神父とロレンソ了斎は堺の日比屋了珪の家を教会として堺において宣教活動をした。三好長慶と畠山髙政との間の休戦中の1562年の12月、降誕祭を信者とともに祝うためにロレンソ了斎は都に戻った。都での戦いが終わるとヴィレラ(Gaspar Vilela)神父とロレンソ了斎は1563年(永禄5)の復活祭を祝うために堺から都に戻った。復活祭の後ふたたび堺の日比屋了珪の家の教会に戻って堺の新しい教会の司牧の力を注いだ。
細川ガラシャ(明智光秀の三女・玉)と細川忠興もこの年、1563年(永禄6)に生まれている。
神自ら五畿内の教会のために、新しい道を備えて開きたまいた。人の英知では考えが及ばない神の領域が、五畿内の教会の前に備えられた。ロレンソ了斎がその重責を担っている。
松永弾正久秀の支配力は次第に強くなり、奈良に近い居城多聞城から五畿内の政治を行っていた。松永弾正久秀の家臣に結城山城守忠正がいる。結城山城守忠正は天文学や彼の学識と経験で松永弾正久秀に尊重されて用いられていた。キリスト教に不満を持つ仏僧たちはヴィレラ神父とロレンソ了斎を都の教会から追放して、その教会を自分の手に入れるために、松永弾正久秀に追放の話を持ち掛けた。松永弾正の意を受けた結城山城守忠正が宗門論争の責任を受け持った。結城山城守忠正とともに結城山城守忠正の友人で、公卿の清原外記枝賢(1520~1590)が宗門論争に加わった。
清原外記(43歳)は中国と日本の漢字の専門家で、正親町(おおぎまち)天皇の師でもあった。また清原家は朝廷の要職にある儒学者でもあり,神道の指導者でもあった。唯一神道の大成者・吉田兼倶(かねとも)の曾孫。1535年(天文4)元服後、清原家世襲の大外記に進む。少納言・侍従を経て宮内卿。1581年(天正9)正三位に叙され後出家し、道白と称した。
後に清原外記の娘いとは細川ガラシャ(伽羅奢)の侍女頭として仕えキリシタンとなり、セスペデス(Gregorio de Céspedes)神父の指導で細川ガラシャに洗礼を授けたのち、教会に仕えている。
京都での宣教と試練 一五五九年~一五六五年
一五五九年(永禄二)九月八日、ロレンソ了斎、ヴィレラ神父と共に都に布教を開始する。
*フェルナンデス(Goncalo Fernandes)修道士書簡
1564年(永禄7)10月9日付け 194~196頁
16、17世紀日本イエズス会報告集 第Ⅲ期第2巻
「都の政治は三名の人物に依存している。第一の人は、公方様(将軍足利義輝)と称する全日本の王である。第二は、彼の家臣の一人で、三好(長慶)殿と称する。第三は三好殿の家臣で、名を松永(久秀)殿という。第一の人は国王としての名声以外に有るものがなく、第二の人は家臣ながらも権力を有している。また第三の人は第二の人に臣従し、国を治め、法を司る役職にある。比叡山の仏僧らは日本の全ての仏僧の頭である。というのも,諸宗旨はことごとく、かの比叡山において分派し、かつ承認を受けているからである。
過ぐる年、都に二人の有力な妖術師がおり、一方は(結城)山城(守進斎)殿、(*Xamaxicodono. F.Yuquiyamaxiro),他方は(清原)外記(枝賢)(*Quiwuodono.F.Guequidono)と称した。
彼らはあらゆる宗旨と偶像礼拝について甚だ学識があり、一人は国主に偶像崇拝に関することを教え、もう一人は悪魔に尋ねて、戦ではいかに対処すべきかを三好殿に教えていた。或る宗派に関して疑いが生じたときは、彼ら二人が判定し、公に示した。彼らは俗人であるとはいえ、大いなる知慧者とみなされているからであった。」
比叡山の仏僧らの、伴天連追放の要請を受けた松永(久秀)殿は以下のように答えた。
「松永殿はこれに対して、司祭は外国人であり、公方様や三好殿、また彼のもとに庇護を請うて来たのであるから、予め尋問することなく司祭を追放するのは彼らの名誉にとって好ましいことではなく,それ故、司祭が説いていることを吟味して、もし国に害をもたらすものであれば、司祭を都から追放し、教会を没収するため、(結城)山城殿と(清原)外記殿の両妖術師に調査を依頼するであろうと答えた。これを知ると,件の妖術師らは司祭を困惑させ、国外に追放し、己のために教会を奪う決意した。」
「その頃、ディオゴと称するキリシタンが金銭を借りようとして(結城)山城殿のもとを訪れるということがあった。彼はその人物(の素性)を知ると、嘲笑って言った。「汝はキリシタンか」。『然り』と答えた。山城殿が、「汝の信じるものは何か」と問うと、ディオゴは「私はキリシタンの教えをいとも神聖にして真なるものと考えているが、己は信仰においては新参者であるため、それを説き示すだけの力がない」と答えた。山城殿は何か話すように強く迫ったので、ディオゴは霊魂が不滅であることや、永遠なる創造主が存在して、物をもたらし,いっさいの被造物を支配していることについて話し始めた。
山城殿は彼の言葉を聞くと、それが審理であるように思われ、ディオゴに言った。「行くがよい。そして、今説いている教えを予に説明するためにここへ来るように司祭に伝えよ。何となれば、新参者の汝がこれほどよく語るのであれば、汝の師はさぞよく語るであろうし,事によれば司祭は予をキリシタンにすることになるやも知れず、また(清原)外記殿も真理であると理解すれば、これを信奉するやも知れぬからである」と。
ディオゴはこれをデウスより授かったものと考えたので、直ちに(借金の)請願を取り止めて、(同地から)十六里弱の堺へ向かい、司祭(ヴィレラ)に出来事を語った。司祭と共にいたキリシタンは皆、彼(司祭)を殺すため、偽りの招請を行っているに違いないと考え、決して行かぬように勧めた。司祭も同じ意見であったが、彼(山城殿)らが聴きたがっている説教を拒否せぬため、ロレンソを彼らのもとに遣わし,我が聖なる教えについて説明させることにした。同人(ロレンソ了斎)は肉体の生命を失う危険があるにもかかわらず行くことを喜び、いかなる場合にも四日後に戻ることし、四日目に帰還しなければ悪しき印と見なすことを彼(ヴィレラGaspar Vilela)と申し合わせた。
ロレンソ(了斎)が発った後、四日経過したが戻らず,諸人は彼(ロレンソ)が死んだか,或いは何らかの難儀に見舞われたものと考え、事情を知るため、アントニオと称するキリシタンを派遣した。彼は途中でロレンソ了斎と同行者二名に出会ったが、彼らは(キリシタン宗門に)帰依した山城殿と外記殿に洗礼を授けに司祭が赴くための乗馬一頭を連れていた。そこで司祭(ヴィレラ・Gaspar Vilela)は他の人々を伴って都の戻り、二人の妖術者とともに三好殿の親戚で、瞑想の甚だ精通しているシカイドノ(結城左衛門尉)と称する貴人に洗礼を授けた。かくして全キリシタンは大いに喜び(信仰を)堅固にし、仏僧らは、己の支えとしていた重立った二人が今やキリシタンになったのを見て非常に困惑した。」
結城山城守忠正の嫡子結城左衛門尉の受洗
結城山城守忠正は受洗して「エンリケ」という受洗名を授かり、嫡子結城左衛門尉は父の勧めに従いロレンソ了斎の説教を聞き,改心して、自分の友人の七名の武士とともに受洗して「アントニオ」という名前を得た。
「シカイドノ(結城左衛門尉)は受洗後、都から八里の、飯森と称す得る三好殿の城に行った。彼は同所の出身であったが、友人や同僚らに己の信奉する心理を説いたところ、皆、それを信奉することを希望したので、司祭に対し、自らデウスの教えを説きに訪れるか,或いは誰かを差し向けるように求めた。司祭はロレンソ了斎を遣わしたが、その説教を聴いて帰依し、教えを受けた後、貴人六十名とその他の人々、総勢およそ五百名が洗礼を受けた。やがて彼らはデウスのことを語り、祈りを捧げる参集の場として城に教会を設け,かくしてロレンソ了斎は都に戻った。」
第14章(第1部38章)162~175頁 司祭(ヴィエラGaspar Vilela)が奈良に赴き、結城殿、清原外記殿、及び屋の高貴な人々に受洗した次第、ならびに河内国飯森城における73名の貴人の改宗について
*完訳フロイス(Luís Frós)日本史1 織田信長編Ⅰ 中公文庫
「結城(山城守)殿には30歳になる長男があった。彼は三好殿幕下の武士で,希有の素質とはなはだ優れた理性の持ち主であった。彼は伴天連が堺からその地に赴いた時に、たまたま奈良の父の許にいた。彼は教理の説教をことごとく聞き、そこで7名の他の武士とともに、同じく洗礼を受けた。したがって当時そこでは10名の武士が受洗したことになった。」
「結城山城殿の長男は、既述のように同じく奈良で父とともに洗礼を受け、結城アンタン左衛門尉と称し、当時天下のもっとも著名な支配者の一人であった三好殿に仕えていた。我らの主なるデウスは、キリシタンとして彼に多くの素質を与え給うた。というのは、彼の献身、布教事業における熱意、および司祭たちや教会のあらゆることに対する愛情は並々ならぬものがあったからである。
なぜなら彼は従来、はなはだしく悪習や放縦な生活に沈溺していたのであるが、今は大いに変わって皆を驚かせ、非常に落ち着き有能な性格の持ち主となって、一兵士と言わんよりは、むしろ修道士のようになったからである。そして善事はおのずから他に伝わるのが常であるから、彼は奈良から三好殿が居住していた河内国の飯森城に帰ると、自分の同僚であり友人である他の武士たちに、絶えずデウスのことを話し、「御身らは、あらゆる道理、あらゆる良き判断にもかなうキリストの福音の教えを傾聴してみるように。それはいとも耳新しく、日本ではまったく知られていない教えなのだから、少なくとも聞く必要がある』と説いてやまなかった。この点、彼はいかなる機会も見逃すことなく不断に皆を説きつけたので、ついに他の武士たちは、一つには彼を満足させてやるために、また一つには好奇心から、彼にこう言った。
「伴天連の都から我らを訪ねて来てもらおう。そしてそれが不可能なら、少なくとも説教師のイルマン(伊留満)を派遣してもらい、その教えを承ろう」と。左衛門尉は願ったりかなったりでロレンソ了斎修道士を伴うために、すぐ一頭の馬と人を派遣した。そして、「遅滞することなく、できるだけ速やかに当地の武士たちに説教するために御来訪を乞う。彼らが好んで説教を聞くなら、彼らは良い素質を持っていることになれば,必ずやキリシタンになるであろうとデウスに大いに信頼している」と依頼させた。そこには何らの遅滞もなかった。よいうのは、ガスパル・ヴィエラ(Gaspar Vilela)師はただちにロレンソ了斎修道士をかの地に遣わしたからである。」
飯森城においてのロレンソ了斎の説教と活躍
169頁
「既述のように、ロレンソ了斎は、外見上ははなはだ醜い容貌で、片目は盲目で、他方もほとんど見えなかった。しかも貧しく賤しい装いで、杖を手にして、それに導かれた道をたどった。
しかしデウスは、彼が外見的に欠け、学問も満足に受けないで、読み書きもできぬ有様であったのを,幾多の恩寵と天分を与えることによって補い給うた、すなわち、彼は人並み優れた知識と才能と、恵まれた記憶力の持ち主で、大いなる霊感と熱意をもって説教し、非常に豊富な言葉を自由に操り、それらの言葉はいとも愛嬌があり、明快、かつ思慮に富んでいたので、彼の話を聞く者はすべて驚嘆した。そして彼は幾度となく、はなはだ学識のある僧侶たちと討論したが、デウスの恩寵によって、かつて一度として負かされたことがなかった。」
170頁
「ロレンソ了斎修道士が飯森山城に到着し、武士たちが彼を見ると、ある者はその容貌を嘲笑し、またある者はその貧しい外見を軽蔑し、さらにある者は、自分たちの霊魂の救いを願うことよりは好奇心から、彼の話を聞きたがった。しかし我らの主なるデウスは彼とともに在し給い、また彼は弁舌にかけては大胆不敵であったので,彼が一同に説教し始めるいなや、彼らは初めとは違った考えや意見を抱き、彼に対して大いなる畏敬の念を表し始めた。
数多くの質問が出され、討論はほとんど昼夜の別なく不断に行われた。彼は一同に非常に満足がいくように答弁し、悪魔が彼らを欺くのに用いている偶像崇拝と虚偽の宗教が誤っていることについて明白かつ理性的な根拠を示し、さらに世界の創造主の存在、霊魂の不滅、デウスの御子による人類の救済について説いていたので、三好殿幕下の73名の貴人たちは全く納得して、すぐにでもキリシタンになることを決心するに至った。
その中には三人の首領ならびに重立った人たちがいた。重立った人たちの一人は三ケ伯耆殿、二人目は池田丹後殿、三人目は三木判太夫殿であった。そして彼らは皆すぐに聖なる洗礼を切に願って、伴天連を伴って来るためにさっそく馬と人を都には派遣し、司祭に対しどうか飯森城に来て、自分たちに洗礼を授けていただきたいと乞うところがあった。」
ロレンソ了斎の印象
(10年後・1573年にフロイスに飯森城主三ケサンチョ頼照殿が語った話)
完訳フロイス(Luís Frós)日本史2 織田信長編Ⅱ 91~99頁 中公文庫
93頁、
「今や我らの主なるデウス様は、我々日本人の傲慢さを恥じ入らせようとして来たり給い、我らがいる都地方に一人の見慣れぬ伴天連様を派遣されるのであるが、その人の言語、衣服、衣裳、風習は、我らの眼には、初めて見た時、冷笑、嘲笑,愚弄の種を提供するほか、何の役にも立たぬと思われるほど、ひどく滑稽なものでありました。私たちはその人が、どこから来たのか天から落ちて来たのか、力は生え出て来たのか判りませんでした。そして彼は自分のことで、我々に異なった考えを抱かせるに足立だけの素質に非常に欠けた人のように見受けられましたので彼は少なくとも、我々をしてその教えを聞くように駆り立てるためには、ある著名な人物とか、我らに知られている偉大な学者の権威や名声に頼るほかあるまいと思われました。しかるに主なるデウス様は、我々の傲慢と不遜を嘲笑おうとなされ、その伴天連様にかの伊留満ロレンソを伴侶として与えたもうたのですが、彼こそは皆さんが今、我らの教会で祈っているのを御見受けになされる方にほかなりません。
あの方は、片眼は見えず、他の片方の眼もほとんど何も見えませんし、まだ異教徒であったころには生計を立てるために、手には杖を持ち背には琵琶を背負い、家々で琵琶を弾き、そして機知にとんだ着想を語って歩く物乞いに過ぎませんでした。しかも彼は都地方の人ではなく、日本の片田舎である肥前の国(平戸の白石)の、しかも賎しい家の生まれでありました。そればかりか、彼は私たちの耳に、いとも風変わりで、私たちの概念からおよそ距たったことを私たちに信じさせるために、今やいとも深い学識を身につけているのです。
その学識たるやかつて何も知らず、何も学ばず、ABCと言った最初の文字だけでも学ぶための眼を持っておらず、顔は醜く、衣服はみすぼらしく、ひどい外見なので、私の子供たちは彼を見た時に、恐れて逃げ去ったほどでありました。その後私たちは面白半分から彼の言うことを聞き始めましたが、そこで彼が私たちに対して話をした最初のことは次のようなことでした。
私たちが拝んでいる神々は悪魔であり人間の敵である。私たちが頼りとして生きているあらゆる宗教や戒律は偽りであって、それらにおいては何ら救われないばかりか、私たちがそれらを奉じ。それによって生きているならば、永遠の苦しみに陥る、と。しかもその上、彼は率直にこう言いました。『あなた方がおおいに畏敬しておられる、師であり親戚にあたる仏僧たちは、悪魔が欺瞞のために用いる道具であり、彼らの生活は厭うべきもので、その行為は非難と懲罰に価する者である。あなた方はたとえ身分が高く貴い方々であっても、あなた方の行動や振る舞いは理性にもとり、真実の高尚ということには反しています。なぜならば、あなた方が娯楽のために抱えている若衆たちと、品行方正の手本と見なされている仏僧たちとの交わりは極めて重大で嫌悪すべき罪悪だからであります。あなた方はただ一人しか妻を持ってはなりません。そして彼女を死ぬまで去らしめることなく、彼女を捨てて他の女を娶ることがあってはなりません。あなた方は殺したいと思う者を殺してはならぬし、高利を貪り、他人の財産を奪うこともしてはなりません』と。(中略)
97~99頁
「我々は困苦を喜ぶべきであり、侮辱に対しては復讐することなく、それを許し、腹立つことに対しては怒らず忍耐すべきである。また禅宗の教えに反して、我らの何人も理性的霊魂を有しており、それは肉体を離れても死滅することはない、と。彼はまた、そのほかにも我らの許ではかつて見も聞きもしたことがない幾多のことを語りましたが、その際彼が言ったそうした多くのことは、きわめて肉体の掟に反するものでありました。
ですがそれにもかかわらず、この伊留満様を通じて語られた伴天連様の子の言葉はいかにも効力があって、私たちの心の奥底にまで滲み通るに至りましたので、ここにおります者は、皆様方御一同も私も、なんらかの権力、あるいは誰からかの強制によることなく、彼らの前にひざまずきました。そしてそれまでにすでに大いなる畏敬と尊敬の念をもって、両手を挙げ、伴天連様の手によって洗礼を授けていただきました。そしてその際、我らの祖先が我らの教えてきたいっさいのものを捨て去って、我らが我らに説いたこの新しい教えを信奉し、それを護るために死を賭するであろうとの確乎たる決心をするに至ったのです。
ところで私個人について申しますならば、私はキリシタンになってすでに八年ないし十年くらいになりますが、彼らに接するたびごとに、彼らには何か人間を超えたものがあると思うほどあの方々に深い尊敬の念を抱いていることを確言いたします。そして私はまるで自分の一生を彼らに養育していただいたかのように彼らを深く愛しているのです。デウス様の御言葉の力と効能はなんと偉大なことで有りましょうか、そして私たちの間にこれほどの影響を与えた福音の力はなんと偉大なことでありましょうか」と。
ロレンソ了斎に対する興味や好奇心が、ロレンソ了斎が語る説教により,ロレンソ了斎に対する尊敬と畏敬の念に変わっていった。ロレンソ了斎は巧みに語ることにより、キリストがあなたの罪のために死なれ,それ故にあなたはあがなわれ、神の民に加えられるという希望を、一人一人の個人的な問題として受け入れられるように話している。数日間にわたる討議と質疑の後、73名の若者が洗礼を受けた。全員が三好良慶の側近の者たちであった。
この時以後、すでに有名な人物が洗礼を受けている。そのうちの三人は、三箇サンチョ伯耆守、八尾城の池田シメオン丹後守、三木半太夫である。
三木半太夫は勇敢な武士で有り、人格的にも素晴らしい武士と言われていた。彼は自分の一人息子を教会に差し出し、教会に養育してもらうために託した。その息子は、1580年(天正8)安土のセミナリオの第1期生で、本能寺の変の後高槻・大坂へ移り、1586年(天正4)豊後臼杵の修練院へ入る。
秀吉が禁教令を出した時には島原の有家,生月へ行き、同地で修練期を終えた。後天草のコレジオで学び、1592年(文禄元)長崎へ移る。イルマンとして大坂で布教に従事。1596年(慶長元)京都で捕らえられ、長崎まで歩かされて長崎西坂において殉教した。
また結城山城守忠正と清原外記はヴィレラ神父を松永弾正久秀に紹介したが、松永弾正はヴィレラ神父を親切に迎えたが、多忙を理由に説教を聞くのを断った。この時以後、五畿内では松永弾正が教会の最大の敵となった。
ロレンソ了斎の説教は休みなく続いていた。結城左衛門尉が仕えていた三好長慶の飯森山城と髙山飛騨守友照の沢城が次の舞台となった。
奈良では結城山城守忠正と清原外記のもうひとりの友人髙山飛騨守友照が、二人からキリスト教の話を聞いていたので、松永弾正からの命令されていた使命があったにもかかわらず、奈良の家に隠れてロレンソ了斎の説教に耳を傾けた。ロレンソ了斎は『唯一の神がすべての者の創造主であり、霊魂の不滅とキリストがすべての人々の罪の贖いのために死んでくださった神の偉大な愛について』語った。ロレンソ了斎の説教によりキリスト教のすべてを悟った髙山飛騨守友照は、大いなる喜びと新しく生きる希望を抱くことができたので、洗礼を願い、受洗してダリオという洗礼名を授かった。
髙山飛騨守友照と沢城においての宣教
ロレンソ了斎は飯森山城での活動の数日後、髙山飛騨守友照の沢城に招かれた。髙山ダリオは回心の時に「神からの豊かな恵みを受けた」と告白している。
*完訳フロイス(Luís Frós)日本史 織田信長編1
第15章(第1部39章)176~188頁
沢,余野,および大和国、十市城における改宗について
「奈良で洗礼を受けた髙山ダリオ(飛騨守)殿は、五畿内全域におけるもっとも傑出した人々の一人であり、正真正銘のキリシタンで、その行いは常にすべての人々の感嘆の念を起こさせるほどであった。すなわち聖霊が彼に宿り、その恩寵と賜物を主が分かち与え給うのにすごくかなった性格のように思われた。彼は当時、奈良から十三里隔たった沢という一城の主で、彼はそれを霜台から授けられていた。」
「ダリオの信仰熱は非常なもので、彼は自分の家族や兵士たちがデウスのことをよく理解した有様に接すると、深い喜びと慰めの感情を禁じ得ないほどであった。そして彼は、最近ようやく洗礼を受けたばかりであるにもかかわらず、受洗してから間もないのに、その熱心さ,宣教の熱意,信心,謙虚などでは、ヨーロッパの古い誠実な信者のように思われた。そして彼の全生涯に一番際立ったのは,愛徳と慈悲の行いであった。
ロレンソ了斎はしばらく説教を続け、一同は聞いたことをよく理解するに至ったので、修道士は150名の者に洗礼を授けた。その中には、彼がマリアの教名を与えたダリオの妻や、息子たちと娘たち、また身分ある人たちや城兵がいた。ロレンソ了斎が彼らにとやかく勧告する必要はなかった。とうのは、ダリオは自分の行いは何事においても極めて入念にする人であったので、さっそく場内は極めて清潔で、美しく装われた教会を建てたからである。」
沢城でのロレンソ了斎の仕事は、落ち着いてダリオ髙山の家族と家来とに説教すること、キリストの教えを説明することだった。最初の洗礼を受けたのはダリオの妻でマリアの名前が与えられた。次に子供たち、親戚と家来、105名が受洗した。この時ダリオ髙山飛騨守友照の嫡子・右近(11歳)が受洗して、ジェスト(正義の人)という洗礼名を受けた。この11歳の少年が後の髙山右近(1552~1615年)であり、日本のキリシタン武将の誉れと言われ、信徒使徒職の優れた模範になった。
髙山飛騨守友照の友人で髙山城の近くにある十市城に石橋殿という老年の武士が亡命していた。髙山ダリオは石橋殿に手紙で、自分が受けた神の大きな恵みについて語り、もし差し支えなければロレンソ了斎を伴って友人の石橋殿のところへ行き、説教を聞いていただきたい旨、打診した。石橋殿が承知したので、髙山ダリオはロレンソ了斎を伴って石橋殿を訪れ、彼とその妻子にキリスト教について話を聞かせた後、洗礼を授けた。
その後、髙山ダリオは自分の母のいる髙山城に行き、キリスト教を勧めて、母と母に仕えている人々をキリシタンに導いた。
翌年、ヴィレラ(Gaspar Vilela)神父とロレンソ了斎は再度、髙山ダリオを訪ねて沢城へ行き、洗礼を希望する家来たちに洗礼を授けた。また隣国に、髙山ダリオの二人の姉妹がいたが、ロレンソ了斎はこの二人を訪ねて説教をして、このふたりの姉妹は家族とともにキリシタンになった。
最後にロレンソ了斎は余野城に行き,40日間説教をして余野城主と53名に洗礼を授けた。余野城主の名前は記録にない。ロレンソ了斎は1563年から1654年にかけて,城から城へ陣営から陣営へ宣教に行き、奈良、大和、河内、摂津の国を歩いて説教を続けた。
フロイス(Luís Fróis)はロレンソ了斎の活躍を「彼は五畿内の国々での教会の基礎を据えた人であった。」と紹介している。
五畿内教会の誕生と京都での宣教と試練
都地方におけるキリシタン宗門の伝道が開始されたが、豊後九州と違うのは五畿内においては領主層のキリシタンが出現した。領主のうちのキリシタンの有力者は、南蛮貿易とは無関係に都地方におけるキリシタン領主層は、一五六三~一五六四年(永禄六~七)になされた大和・河内における一連の改宗や、一五五〇年代に行われた布教に基づく改宗者を含む結果として出現した。
大和・河内における改宗
一五六三年(永禄六)、ロレンソ了斎は、宗門弾劾を企図した老天文学者の結城山城守等に招かれて奈良で説教した。この時の説教は参会者に大きな感銘を与え、大和・河内の小領、主層を多数入信させた。受洗者には、結城山城守忠正、髙山図書(飛騨守)友照、公家の清原枝賢がいる。
翌年、一五六四年(永禄七)三箇伯耆守、池田丹後守、髙山図書(飛騨守)友照と嫡子の髙山右近が改宗した。
大和・河内における領主層の改宗と同領地におけるキリシタン領主たちの政策の方針は、以後の畿内におけるキリシタン大名領国形成の前提となった。
結城山城守の洗礼名アンリケ、一族には結城弥平次(後の肥後矢部の愛藤寺城、島原金山の結城城の城主)河内岡山を領した結城ジョアン(一五七二年受洗)がいる。
髙山図書(飛騨守)友照
洗礼名はダリオ、大和沢城主。嫡子右近の洗礼名はジェスト、髙山父子はその後摂津高槻を領し、右近の代には播磨明石六万石を所領した。
三箇伯耆守
洗礼名はサンチョ、河内国三箇領主。領内に教会を建て寺社の破壊と領民の改宗を勧めた。本能寺の変後、明智方に同与して没落、同地のキリシタン集団は離散を余儀なくされている。
池田丹後守
洗礼名はシメオン。河内若狭の武将で、同地に教会を建てイエズス会に地所を寄進した。
髙山右近の影響
髙山右近は豊臣秀吉に属し、同配下の武将たち、蒲生飛騨守氏郷、黒田官兵衛孝髙、市橋兵吉、牧村長兵衛、小西行長、京極髙吉等が髙山右近の感化と布教活動によりキリシタンとなった。各地に領地を賜った武将たちは、その領地で宣教を始めて各地でキリスト教が広まって行った。
蒲生飛騨守氏郷
洗礼名はレアン。近江日野から伊勢松島を経て、会津若松に所領を賜った。蒲生飛騨守氏郷が会津若松に来たことで、東北地方に初めてキリシタンの教えがもたらされて布教活動が進展した。猪苗代湖のほとりにレジデンシアが建てられている。
黒田官兵衛孝髙
洗礼名はシメオン。播磨から豊前中津に領地替え、嫡子長政の代に福岡・博多(名島)の地五二万石を賜り、博多、秋月にはレジデンシアが置かれるなど筑前筑後豊前地方のキリシタンの拠り所となった。
小西行長
洗礼名はアゴステーニョ。行長は父小西隆佐(堺の政所)の影響のもとで入信。小豆島、室の津等の領民の改宗に力を尽くした。一五八七年(天正一五)七月、博多筥崎宮に於いて豊臣秀吉が出した『伴天連追放令』に伴う髙山右近の棄教拒否と播磨明石六万石没収後、小西行長は髙山右近を小豆島にかくまった。肥後に増転封された。小西行長の時代、天草はキリシタンの拠り所として迫害を逃れて多くのキリシタンたちが移住してきた。
一六〇〇年、関ヶ原の戦いで西軍に付き敗北、京都の三条河原にて斬首され、領地の肥後南半分と天草は加藤清正に譲られた。
京極高吉
近江上平城城主。改宗した一族により、近江近辺にいる宣教師たちへの援助がなされた。
市橋兵吉
美濃に領地を賜った。牧村長兵衛は近江で所領を得ている。
髙山右近はキリシタン理念に基づく領国形成を明確に推進した。摂津髙槻で領内の寺社仏閣を破壊ないし教会に転用して、領民の集団改宗を進め、弱者救済のために様々な対策を講じた。移封先の明石でも、領民の改宗を進め、同地でのキリシタン宗門の浸透を進めている。右近は、領民への宣教による霊魂の救済を最終目的としていた。信仰を持たせることが全世界に勝る最高の価値であるとの信念を持って領国の政策を推し進めた。
京都における宣教の第2の時代・1569年~1587年
1569年(永禄12)(ロレンソ43歳)
3月
ロレンソ了斎、再度、五畿内の布教を任されて堺に赴く。ルイス・フロイス(Luís Frós)神父と共に布教に従事。この後、ロレンソが九州の豊後の地に戻ることはなく、ロレンソ了斎と豊後との関係はこの年が最後となった。以後、ロレンソ了斎の活動は五畿内を中心に行われている。
1565年(永禄8)5月、松永久秀は三好三人衆と組んで将軍足利義輝の邸宅を急襲し暗殺した。暗殺により将軍足利義輝の保護を教会は失った。都地方はあちこちで紛争が起こり混乱を極めていた。更に正親町天皇綸旨によって宣教師たちは京都を追放され堺の日比谷了慶宅に避難した。
1568年(永禄11)9月、織田信長は暗殺された将軍足利義輝の弟・義昭を擁して京都に入り三好三人衆を阿波徳島に追い落とし、松永久秀を降伏させた。
1569年(永禄12)4月、ヴィレラ(Gaspar Vilela)神父の後任としてルイス・フロイス(Luís Fróis)神父が都地区の責任者となった。フロイスは高山飛騨守ダリオと親しい和田惟政との尽力により入京して織田信長、将軍足利義昭に拝謁した。4月8日付けで信長より京都での布教と居住の許可の朱印状と4月15日付けで将軍義昭の制札とが出された。
4月20日、信長は定宿の京都妙覚寺で、フロイス神父とロレンソ了斎をキリシタン宗門に反対の政僧・日乗上人とを面前で宗論させた。内容はデウス論、不可視・不滅の霊魂論に及んだ。論争に敗れた日乗上人はキリシタン反対運動をはじめた。織田信長は一貫してキリシタンを保護した。7月、日乗上人と再度、宗論をする。1570年(元亀元)7月、日乗上人、信長の側近より遠ざけられる。
1572年(元亀2)11月、岐阜を訪れた日本布教長カブラル(Francisco Cabral)も信長から歓待されたし、1574年(天正2)3月、再度上京したカブラルを信長は引見している。
1575年(天正3)都の布教長に就任したオルガンティノ(Soldo Organtino)、フロイス、(Luís Fróis)高山飛騨守友照・右近父子、結城弥平次、池田丹後守、ジュスト・メオサン、清水里安等の五畿内の主だったキリシタンたちが、京都四条坊門姥柳町に3階建ての南蛮寺を起工した。
1576年(天正4)7月21日、サンタマリア御昇天の祝日に未完成のまま献堂式を挙行して、1577年(天正6)春に教会堂は竣工した。1581年(天正9)には隣接家屋を購入して敷地を拡げ、蛸薬師通りと室町通に門を設けた。
織田信長は、近江の安土に1576年(天正4)1月から築城を開始し、2月に安土に移住した。1579年(天正7)5月、安土城天守閣が竣工、1580年(天正8)3月、オルガンティノ(Soldo Organtino)の要請により安土城下の埋立地(現安土町豊浦新町小字ダイウス)を造成して、同年4月に与えた。
安土教会は和風木造3階建ての教会で、修道院と3階はセミナリヨが開設された。
1581年(天正9)2月、巡察師ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)は京都本能寺で信長に謁見した後、3月、安土城を訪問、6~7月、2ヶ月、安土に滞在した。
信長はヴァリニャーノが安土を離れる際に安土城と城下を描かせた屏風を送った。屏風は教皇グレゴリオ13世に4人の少年遣欧使節が届けた。
1582年(天正10)6月2日、信長は京都本能寺で明智光秀により殺害された。
1583年(天正11)ロレンソ了斎(57歳)、髙山右近と共に大坂に羽柴秀吉を訪ねる。右近の友人に説教、小西行長を教化する。ロレンソ了斎精力的に五畿内で布教する。
1584年(天正12)~1585年(天正13) 五畿内での布教は順調に発展する。
1586年(天正14)5月、ロレンソ了斎(60歳)、コエリョ(Grasper Coelho)神父を伴い大坂城に豊臣秀吉を公式訪問、秀吉より厚遇される。
小笠原備前守少斎(小笠原玄也の父)の受洗
玄也の父・小笠原備前守少斎が受洗してキリシタンであり、その後忠興の命令により棄教したこと示すイエズス会の記録がある。
『彼(小笠原玄也)はこう返答したので、暴君(細川忠興)によって死罪か永久追放を受けるものと覚悟し、教会に赴いて告白し、あらゆる場合に備えた。暴君はその返事を聞くとそれ以上することは望まず、自分の敗北であると判断した。また他の手段を用いて多くの霊魂を試みたが、彼らは同様に堅い信念でそれを拒んだ。その中に殿の小姓(小笠原玄也)が一人いたが、(殿・忠興は)小姓がどんな態度をとるか自分の耳で聞けるよう、小姓に同様に勧めさせるよう命じた。またいっそう回心を容易にさせようと「同じ信徒である父親(小笠原少斎)が信仰を棄て、それを証明する自筆の証文があるから、父の例を模範として従うように」と説得させた。』
*一六,十七世紀 イエズス会日本報告集 第Ⅱ期第一巻 二四一~二四二頁
小笠原少斎とガラシャ夫人
一五八七年(天正十五)三月二九日。ガラシャが大坂の教会を訪問できたのは、生涯でたった一度だけだった。この日は偶然にも復活祭で、教会は復活祭を祝うために聖堂は華やかに飾られていた。ガラシャは正午過ぎに教会に着き、ガラシャが教会を訪問した時にセスペデス神父がいた。セスペデス神父は突然教会を訪れた夫人が高貴な女性であるうえに、非常に優れた教養と高い能力の持ち主であり、身なりから既婚者であり、真摯にキリストを求めて訪問していることを理解した。セスペデス神父が直接対応しなかったのは、ガラシャに教会教理を説明して議論できるような日本語での会話能力と質疑応答が十分にできないために、代わりにイルマン・コスメ髙井が対応した。対応した日本人修道士コスメ髙井から熱心にキリスト教の教義を聞き、それについて多くの質問をしている。ガラシャはコスメ髙井との質疑応答で、教えの内容にかなり踏み込んだ確信的質問を交わしている。この質疑応答は夕方日の暮れるまで続いた。ガラシャはコスメ髙井との教会教理の質疑応答に満足したので、その場で洗礼を受けることを希望した。
ガラシャは「再び教会にこられないことを十分に承知していたので、聖なる洗礼を授けるように願い、何度も両手を合わせてその願いを繰り返した」
しかしセスペデス神父は、名前も身分も明かさないガラシャに、今すぐに洗礼を授けることは適当ではないと判断して、次までに一層深く教理を理解できるように「キリストに倣いて・コンテムス・ムンジ・Contemptus mundi」の写本を持たせた。次回教会を訪れた時に洗礼を授けることで、今日の訪問を終わりにした。
ガラシャのキリシタンへの渇望はますます深くなった。夫忠興から外出を禁じられていたガラシャが、教会との連絡を取るためには、侍女マリア清原に頼るだけでは不十分であり、一度きりの教会訪問以来,以前にも増して厳しくなった警護の監視を抜けて、教会へ行くことは絶望的になった。そこでガラシャの代わりに「警護隊長」(小笠原少斎)を大坂の教会に赴かせることにした。
『ガラシャ夫人は、この成功(侍女の夫の受洗)に勇気を得て、夫の重臣の一人で警護隊長(小笠原少斎)である人を改宗させることを試みた。夫人はそのために次の大胆な方法を用いた。すなわち、その家臣を呼び寄せて、次のようにいった。「そなたも知っている通り、間もなく父上(明智光秀)の年忌です。私たちの習慣に従って父上の御霊に供え物を差し上げなければなりません。ところが、キリシタンの教えでは私たちのこういう儀式は無益のことであり、私たちのすることは偽りであると考えていると,侍女から聞きました。ですから、キリシタンの聖堂に行って、パードレ方からよく話を伺って、なんと仰ったか、そなたの意見もあわせて隠さずに私に伝えてください。父上(明智光秀)のお喜びにならないことをするのは道に外れていると思います。また、侍女たちのいうことを鵜呑みにして信じたくもありません。あなたには思慮があり、事情をよくご存じなので頼みます。我々は、この経緯を知って、この人に説教すべき日本人の宣教師を用意した。この人は、夫人のもとに帰ると、我々が死者のために通常どのようなことを行うのか報告した。その後、彼は自分の息子のために祈りを捧げてもらい、自分の妻にキリシタンになることを許した。それと同時に彼自身も洗礼を準備することになった』
*アントニオ・プレネスティーノの報告書
プレネスティーノはイタリアのカラブリアのポレステーナで生まれ、一五七八年(天正六)来日。豊後府内や大阪でラテン語の教師を務めていた。ガラシャが教会を訪れたとき、その場にいたセスペデス神父からこの話を聞いていた。同年七月二四日、秀吉の伴天連追放令により、長崎の平戸に一時的に避難。同年一〇月、平戸からローマにイエズス会総長宛に送った書簡で、ガラシャの教会訪問と受洗を報告している。
フロイスも一五八八年(天正一六)二月、島原の有馬から「日本年報」として同様の内容を一章に書いて報告している。
*参照
『ガラシャ夫人の洗礼』
*一六,一七世紀イエズス会日本年報 第三期第七巻 二二六~二三一頁
小笠原少斎は一五四六年(天文十五)生まれ。一六〇〇年(慶長五)七月一七日、大坂の細川邸でガラシャ(三七歳)を介錯したのち殉死した。享年五四歳。法名隆心院功岩道忠居士
生家の小笠原氏は、室町時代初期に小笠原宗家(信濃小笠原氏)から分かれて、代々京都で奉公衆として室町幕府に仕えていた。父稙盛は公方足利義輝の近習であった。同じ時期に明智光秀と細川幽斎も共に足利義輝に仕えていた。その時に明智光秀と細川幽斎と親交があった。一五六五年(永禄八)五月、松永久秀は三好三人衆と組んで将軍足利義輝の邸宅を急襲し暗殺した。父小笠原稙盛は足利義輝とともに討ち死にしている。少斎は義輝が暗殺された後に浪人して京都深草に住んで名前も加々美少左衛門と改めた。父小笠原稙盛と親交があり長男少斎(二〇歳)のことをよく知っていた細川幽斎が丹後に招き、お伽衆として知行五〇〇石で召し抱えた。名前を小笠原備前守秀清と改め,織田信長が1582年(天正10)6月2日、本能寺の変で明智光秀の裏切りにより死去した訃報に接した時、藤孝は剃髪し幽斎(禅宗)と号した。幽斎の意を受けて小笠原少左衛門も真宗へ法体し名前も少斎と改めた。
少斎(三二歳)は、一五七八年(天正六)明智光秀の三女・玉(一六歳・後のガラシャ)が細川忠興(一六歳)との婚礼が山城国細川家の本城青龍城で行われた際に、細川家の家老格の重臣として、松井康之と共に玉の乗った輿の受け取りの大役を果たしている。
小笠原少斎は細川藤孝(幽斎)の直臣であり、息子忠興の家臣ではない。明智光秀の娘として細川忠興の嫁である玉は、婚礼の時、明智家から付き従ってきた家臣、侍女たちだけで構成された三戸野への幽閉のお付きの者たち(小従徒)のなかには、小笠原小斎の名前はない。藤孝(幽斎)の直臣である小笠原小斎が、玉の三戸野への幽閉に付き従う理由が見当たらない。
1587年(天正15)玉に洗礼を授けた清原マリアも同様で、明智家の侍女ではないので、玉に付き従って三戸野へは同行していない。おそらく細川家にこの時期頃には奉公へあがっていたと思われるが、明確な史料が無いので細川家に奉公へ上がった時期は特定できていない。
玉の父・明智光秀の起こした謀反「本能寺の変」により、玉は1582年(天正10)より1584、年(天正12)まで、三戸野へ幽閉されていた。その間の1583年(天正11)次男興秋が三戸野に於いて誕生している。
1586年(天正14)大坂の玉造の細川邸が完成したので、その時以来、玉の護衛隊長として仕えていた。玉とは明智家のころから面識があり、親しく気心を知った間柄であった。ガラシャの命令を受けて少斎は、大坂の教会に赴き、初めはガラシャの質問を伝え回答をもらって帰っていたが、そのうちガラシャの質問が徐々にキリスト教義の核心に触れるようになると、少斎自らが教理を学ばなくてはガラシャの質問に答えられなくなっていった。これを契機として、少斎自らが教理を学び、洗礼を受ける準備を始めた。また教会の教理が正しいと思うようになったときに、自分の妻にもキリシタンになることを許している。ガラシャが洗礼を受けたと同じころに、少斎もまた自らの決心で洗礼を受けたと思われる。真宗よりキリスト教へ改宗してキリシタンとなった。玄也はこのようなキリシタン家庭に生まれ育った。
一六〇〇年(慶長五)七月一七日、少斎の殉死のとき、少斎の長男・加々美又六(一六歳)は忠興の主力軍にいて戦っていた。関ヶ原の戦いの後、同年一二月、細川が丹後宮津より豊前中津に移ってから又六は加増され千石、小笠原民部長元と名を改め、家老職にも付き、徐々に加増されて六千石をもらっている。未亡人になった少斎の妻は、京都北野松梅院の娘で、松寿院と改め、忠興から格別に知行百石をもらい、彼女が豊前小倉で死去したのちは、この百石は長元の妻(吉田左兵衛督の娘で名前は珠)に与えられた。
*参照
『大坂で生じたキリシタン夫人(細川)ドナ・ガラシャの悲しむべき死去について』
*一六,一七世紀イエズス会日本報告集 第一期第三巻(第二七章)二四四~二四八頁
小笠原玄也と小倉教会
一六〇〇年七月一七日、小笠原玄也の父・小笠原備前守少斎は大坂玉造の細川邸において、細川忠興の妻・ガラシャ夫人を介錯したのち殉死した。小笠原少斎の適切な処置により細川家は安泰であり、以後、忠興は少斎の遺族に対して手厚く報いている。少斎の長男・長元には細川忠興の姪・おたねを妻として与え、重用して家老職(後六千石)を務めさせている。長元の長男・長之には忠興の弟・細川休斎の娘・こまんを養女にして与えた。少斎の次男・長良(六百石)には忠興の妹・おせんを嫁がせている。三男・玄也(六百石)には、忠興の寵臣、加賀山隼人の長女・みやを同じキリシタンとして選んでいる。
小笠原玄也は細川忠興の小姓を務めながら、妻みやとともに教会に出席している。みやの父、加賀山隼人(六千石)の下で、教会のためにも働いていたと思われる。
『イエズス会年報』を精細に比較して調べていくと、おそらく玄也とみやの二人の結婚は一六〇七年頃ところと考えられる。一六〇八年に長男・源八、一六一〇年に長女・まり、一六一一年に次女・くりが小倉において生まれている。