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「ぼっち・ざ・ろっく!」とアジカンが寄り添う自傷的自己愛

臨床場面で向き合う自傷的自己愛

精神科外来では様々な病状を抱えた患者と向き合い治療を行う。ストレスの原因となる職場や家庭の環境調整を行い、薬剤を適切に使用することで改善するのが一般的だが、そういった治療だけでは回復に至らない患者も多い。

たとえば過剰に思える程の自己否定を行う患者たち。自分の外見やステータスを卑下したり、社会や家庭環境に不満を述べたりしながら、周囲を困らせる行動を取ったり、時に希死念慮に繋がったりもする。そのような"生き辛さそのもの“を訴える患者はスッキリとした改善に繋がりづらいように思う。

ネタとして消費されるような一過性の自虐でもなく、ネガティブな性格と一括りできるわけでもない。そういった教科書的ではない病態の患者たちと向き合う診療業務も多かった2022年。そんな年の暮れにタイトルと表紙の時点で読むべきだと感じる本を手にした。斎藤環・著『「自傷的自己愛」の精神分析』だ。帯に書かれた自分をディスり続ける人たちという文言はまさに今診ている自己否定的な患者たちを言い当てている言葉に思えたのだ。

言葉で自傷を行うという行為は「他者から"無価値な自分"を否定されないための防衛」であり、それは実際のところ自分への強い関心=自己愛に繋がっているということ。このねじれた構造の成り立ちが著書内では詳しく記されているのだが、個人的に重要と感じたのはこのような自傷的自己愛は思春期/青年期の多くの人々が抱える感情であるという指摘だ。なおかつ“自己中心的”と誤解されやすい自己愛「人間が生きていくための必須条件」であると著者は記している。健全な自己愛を育む大切さを説き、その具体的な方法や治療アプローチについても述べている。本著は今を生きる多くの人々の葛藤や生き辛さを少なからず軽くしてくれる一冊と言えるだろう。



自己否定とプライドを描く「ぼっち・ざ・ろっく!」

この本を読み進める中で、(近い時期にまとめて鑑賞したことも影響してか)どうしても思い浮かんでしまう作品があった。それが「ぼっち・ざ・ろっく!」(以下「ぼざろ」)だ。「まんがタイムきららMAX」で連載中のはまじあきの漫画を原作とし、2022年10月~12月にTOKYO MXでアニメが放送された本作。女子高生4人がバンド『結束バンド』を組んで成長していく物語だが、バンドのギタリストである主人公・後藤ひとり(通称:ぼっち)は"陰キャ"を自認し、コミュニケーションを苦手とし、言動は自己否定に満ちている。

例えばアルバイトをせざるを得なくなる局面ではうまくいかず最終的に死刑になるところを想像してしまう。協調性が必要な体育祭のことを考えるだけで、最終的に死刑になるところを想像してしまう。それ以外にも心を砕かれる想像をするたびに魂が抜けたり、霧散したり、ツチノコになったりする。デフォルメされ笑えるギャグシーンには仕上がっているのだがその感情発露の仕方は自傷的であり自衛的だ。自分で自分を否定することで自分に落胆してくる他者の出現を先んじて取り消そうとし、結果として不安対象の場面に至ることを防ぐ。そして自らの心の無事を保とうとしているように見える。



一方でバンドを組みたい動機は「チヤホヤされたい」であり、何百回も文化祭ライブを行う想像をし、別のバンドがピンチの時にギターを代打で弾くイメトレも欠かさない。暗い青春も明るい将来のギャップに活かそうと考えたり、《いつか笑い飛ばせたらいいのにな》と歌うシーンもあった。技術的にはきっとそうなれる、というのは間違いなく自分に対しての強い自信であるはずだ。しかし"コミュ障"で"陰キャ"な現実の自分は決して理想に追いつけないというネガティブな確信があり、ゆえにその自信を小さくしている。


他者からは当然傷つけられたくはない。しかし自分であればいくら卑下しても構わない。高い理想とままならない現実の間でジタバタする。自己否定プライドを行き来するぼっちの苦しみを随所に描く「ぼざろ」の感想には彼女の姿のシンパシーを覚えたという主旨の感想もよく見られる。ぼっちのキャラクター像=自傷的自己愛、と強く結びつけることはしないまでも、そういった思考の傾向に対して身に覚えがあったり、理解できたりする人々は多くいるだろう。事実、これを書いている僕自身も身に覚えがあるのだから。



ぼっちが辿り着く自己愛

ぼっちは運良くドラマー・伊地知虹夏と出会い、ベーシスト・山田リョウ、ボーカルギター・喜多郁代とバンドを組むことで物語が転がり始める。対人関係に難を抱えているため、あらゆる局面で何度も挫けかけるぼっち。しかし彼女の腕を信じるメンバーをはじめ周囲の人々が半ば強引に社会と対人関係のステップを踏ませていくことで次第に彼女は理想の世界へと近づいていく。他者に少しずつ心を開きながら音楽を鳴らす喜びを感じ始める。

しかし彼女の自己否定が消えることはない。充実したライブの打ち上げの席でも暗い人生を想像して顔が変形してしまうし、夏休みに遊びに行くことを誘えずライブハウスの前でセミのお墓を作ってしまう。それを自己否定と言うのか謎であるが、自分の不適応を嘆き周囲の人々を大いに困らせているのは事実だ。彼女は巨大な自己否定を抱えたままで大きく変わりはしない。


それでもぼっちはバンドを居場所だと感じている理由。それはやはりメンバーの理解なのだろう。オリジナル曲を作るにあたって暗い歌詞を書くことを躊躇うぼっちに対し、山田は「それぞれの個性が合わさってバンドの色になる」と諭した。ぼっちのキャラクターは1つの個性であるということ。性質の違う人間が共に音を重ねるバンドであればそれも強みになるということ。ぼっちの不適応な様すらも全て結束バンドの魅力に繋がるということなのだ。

嫌いな僕の劣等感と
他人と違う優越感と
せめぎあう絶妙な感情
いったい なにやってんだ
結束バンド「忘れてやらない」


そんな幸運な居場所を見つけることが出来たのは、好きなことを突き詰め続け、少しずつ(強引にでも)踏み出そうとした経験があったからこそだろう。理想の自分を目指して押し入れの中で腕を磨き続けたこれまでのぼっち。その過去は、アニメ最終話の文化祭ライブで弦が切れた時に咄嗟にボトルネック奏法でギターソロを乗り切った名シーンへと結びついていく。

遥か彼方 僕らは出会ってしまった
カルマだから 何度でも出会ってしまうよ
雲の隙間で
結束バンド「星座になれたら」


その後ステージから客席にダイブする衝動行為も含めておかしくも愛おしいシーンだが、不格好ながら自分の表現を突き通したぼっちの姿は逞しく見えた。『「自傷的自己愛」の精神分析』に示された成熟した自己愛の1つの形とさえ思った。自己否定やプライドの全てを含めた「自分自身でありたい」という欲望が無意識に表出した瞬間として僕には映ったからだ。


そして「転がる岩、君に朝が降る」

バイトには行けるようになったがしたくないことも多い。文化祭の後ですら楽器屋で自己嫌悪に苛まれる。このように、ぼっちは劇中で少しずつしか変わっていかない。しかし間違いなく大きな変化だと思えるのが最後に自らの意思で新しいギターを買った瞬間だ。そしてそのシーンを彩るのはASIAN KUNG-FU GENERATION「転がる岩、君に朝が降る」の結束バンドによるカバー。結束バンドは喜多がメインボーカルを務めているがこの曲はぼっちがボーカルを務め、声を震わせながら素晴らしい歌を聴かせている。


後藤、喜多、山田、伊地知。結束バンドのメンバーの名前はアジカンのメンバーに由来するものであり、ぼっちという愛称もアジカンの後藤正文の愛称・ゴッチを連想する。原作者・はまじあき先生は熱心なアジカンリスナーとしても知られ、カバー曲として「転がる岩~」を起用することを決めたのも先生本人である。下記のインタビュー内で「ぼっちに一番合っている曲」として選曲を行ったことがスタッフ陣の口から明かされている。


「転がる岩~」はまず自己否定から始まる歌だ。《俳優や映画スターにはなれない/それどころか君の前でさえでも上手に笑えない/そんな僕に術はないよな》、《理由もないのに何だか悲しい/泣けやしないから余計に救いがない》といったフレーズが静かに切なさを募らせる。そしてサビはこうだ。

何を間違った?
それさえもわからないんだ
ローリング ローリング
初めから持ってないのに胸が痛んだ 
ASIAN KUNG-FU GENERATION「転がる岩、君に朝が降る」



曲解説のツイートからも分かる通り、この歌詞はアジカンのメインソングライターであるゴッチが"世界"と向き合うことで生まれた曲だ。自分の想像では思い描けない現実に直面し、世界の大きさに畏れ慄きながらも音楽家として、詩人として何を歌えるのか。その強く苦しい自問自答と終わりない逡巡。それが"ゴッチの独白"の色が濃い「転がる岩~」を生み出したのだろう。ここまで生々しく言葉を綴るのは当時のアジカンには珍しかった。


ロックスター然とすることはできない、ならばせめて自分のままで歌おうという想いと共に世に放たれた「転がる岩~」。アニメ内の描写でぼっちが憧れているのはイケイケのロックスターだが、新しく買ったギターを持ち鏡の前に立って「カッコいい」と呟く本編ラスト間際のシーンは自分自身の姿に自信を覚えた光景のように見えた。そこで流れ続ける、ぼっちが歌う「転がる岩~」のバック・グラウンド・ミュージックとしての圧倒的な力。この楽曲が「ぼっち・ざ・ろっく!」のエンドロールを飾ったのは必然なのだ。


アジカンの3rdアルバム『ファンクラブ』はディスコミュニケーションに向き合ったアルバムであり、ゴッチも他者と繋がれないことを歌う歌詞を多く綴ってきた。しかし「転がる岩~」が終盤を飾る4thアルバム『ワールド ワールド ワールド』以降は、社会と対峙しながら絶望や諦念の先にある希望を描き出そうとする歌が増えていく。最新作『プラネットフォークス』はこの世界に横たわる分断をも抱きしめ、自分自身のままで歌い、Be Alrightだと語り掛ける作品だ。自分を含むこの世界をも抱きしめるようなミュージシャンシップ。超越的な自己愛とも解釈できる姿勢がアジカンにはある。


ぼっちの「思い描く自分自身でありたい」という信念。ゴッチが世界を見つめて芽生えた思い。時空や次元をも超えて、その2つの”自分のままで歌う“という決意表明がシンクロし響き合った「転がる岩、君に朝が降る」はぼっちが辿り着いた自己愛をこの上なく肯定する。そしてゴッチが絶え間なく続けてきた"自分のままで歌う"というアティチュードが後進の表現者にも確かに届いているという点で、アジカンの活動を肯定するような場面のようにも仕上がっていたと思う。この曲だからこそ成し得た幸福な相互作用と言えるだろう。


「ぼっち・ざ・ろっく!」は決して自己啓発的な物語ではない。抱えた自己否定とどう付き合っていくのか、という試行錯誤を描く作品であり、成功/成長メソッドを示す作品ではない。そしてアジカンも勝ち上がることを煽ったり、"無責任に現状を肯定"したりすることはなく地に足をつけ誠実に“自分”と向き合うことの尊さを音楽として鳴らすバンドだ。即座に生き辛さを解放する作用はない(そんな夢のようなものはそもそも他にもない)が、自分では止めようがない程に自分を卑下して絡まったその心に「ぼざろ」もアジカンもそっと寄り添う。僕らに相応しい朝が降る瞬間を信じさせてくれるのだ。

僕らはきっとこの先も
心絡まってローリング ローリング
凍てつく世界を転がるように走り出した
ASIAN KUG-FU GENERATION「転がる岩、君に朝が降る」




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