見出し画像

正義とは何か。ー わたし達は普段から公平な判断ができているのだろうか? ー

 正義と聞いて『それいけ!アンパンマン』を脳裏に思い浮かべてしまい、いやいや待てよ。正義のヒーローは『スーパーマン』ではあるまいか?と小首を傾げ、いろいろ思い浮かべた末に「いやいや違う。真の正義を訴えていたのは明治大正昭和時代の文豪たちだ!」など。トンチンカンな答えを導き出そうと序文からコケにコケている猫目です。皆さま。こんにちは。

 今回のテーマをくださった方は猫目の大先輩です。いったい何の大先輩かと言うと、それは一口に「演技」です。じつは猫目のやつ。昔は役者になりたかった。高校生の頃より、女優の戸田恵梨香さんに憧れていました。忘れもしない『コードブルー』(医療ドラマ)。大好きでした。医療ドラマ。
 十代から二十二歳まではとにかくオーディションや演技のレッスン。自主製作映画などなど。いろいろ明け暮れておりました。
 そこで出会ったのがsさん。現在、役者兼プロデューサーとしてご活躍されておりますsさんは、猫目の演技の大先輩です。最近お会いしましたときもsさん・・・お変わりなくおしゃれ。そうですね。sさんとってもお洒落なのです。実はこっそり服装など真似していたこともありました。sさんの自然な演技はいつ見ても惹かれます。

 さて。そんなsさんから頂きましたテーマ『正義について』。いやはや。本テーマ。難しいこと上ない。早くも頭を悩ませております。そこでひとまず有能な辞書に頼ることにいたします。Weblio辞書さま。いつもお世話になっております。

1 人の道にかなっていて正しいこと。「正義を貫く」「正義の味方」
2 正しい意義。また、正しい解釈。「四書正義」「其実はあたの語の—に非るなり」〈西村茂樹・明六雑誌三三〉
3 人間の社会行動の評価基準で、その違反に対し厳格な制裁を伴う規範。

(Weblio辞書より引用)

 ふむふむ。ふんふん。しばしお待ちを。ますますこんがらがってきました。つまり正しい正しい正しい。正しいが三つも。なるほど。正しい正しい正しい正しい正しさ。正しい正しさ正義。・・・これ以上「正」の文字を繰り返すと、あの夢野さんたる久作先生の摩訶不思議の文体が思い起され、ますます泥沼へ嵌まるので、さて本題です。


 今回は出来る限り正義を解剖していこうと思います。いろいろな断片からアプローチするつもりです。少しヤヤコシイです。が、大丈夫。ややこしいのが「正義」というものです。

正義と悪は対極に、ない。

 あなたは、正義の反対は何だと思いますか? この問いかけに多くの方は「悪」と答えます。しかし正義の対義語・反対語は不義。じつは悪ではないのです。不義とは、人の道から外れること。まさに正義の反対のことを表しています。

 ちなみに悪の対義語は「善」です。

正義の概念

 正義とは、普通に、一般的に、常識的に、人として正しい道に則り行われるもの。冒頭よりハテナだらけです。なぜならそれは「正義とは○○でXXである」といった断言すなわち、正解がないからです。カタチの見えない正義。たしかに定義はあるかもしれません。ですが、それは、あくまで定義であり、答えではない。そもそも感情を含む言葉というのは、どこか曖昧なところがあります。そういう意味でも「正義」に「正しい」答えは存在しない。猫目はそう考えております(2022)。

 ここで概念という言葉を用います。思考のうちに抽象的かつ普遍的に捉えられるもの、それが概念。こちらも非常に大まかなカタチです。そういう概念で「正しさ」を捉えていくことになる。すると、そこにある一定の水準が現れてきます。大多数の意見による正義の概念結晶です。正義には大きく分けて、2つのカタチが存在しています。一つは個人の正義。もう一つは大衆の正義です。

個人の正義

 個人の正義はわかりやすい。なぜならその個人のこれまで培ってきた経験やそれに伴う考えが正しいカタチを生むからです。個人のうちに発生する正義感はこの時たったひとつであり、よって正義のカタチは一つきりです。個人の思考の中に浮かびあがったいくつもの正義のうち、最終的にトップとして浮彫りになったものも含まれます。

大衆の正義

 反対に大衆の正義となると、これはやはり多数決の正義です。多数決にならざるを得ない。それは長い歴史の中に正義の位置が「多数の意見」「多数の見解」「多数の概念」によって確立され、固定されているためです。日本ひとつ取って見ても1・3億人ひとり一人の正義を取りまとめることなど、不可能に近い。なので多数決にならざるを得ない

 分母の数が大きいとき。多数決は都合的に便利なことが多いです。使い勝手が良いとも言えるでしょう。いろいろな意味で。こういう多数決の中にある個人の正義は成立し、またある個人の正義は押しつぶされる。大衆の正義は大きくて頑丈です。しかし、巨大な割にかなり曖昧なカタチを取っています。むしろカタチのない(空気の)ことが多い気がします。


 100人の人間の正義を造形しているのは、100人中90人の正義の概念です(100人中55人あるいは100人の場合もありますが)。これが「より多くの概念」の集まり。正義という概念の誕生です。

 今回は、この「大きな正義」「大衆の正義」に焦点を置き、記事を展開していきます。

そもそも「正しさ」ってなんだろう?

 多数決で「正しさ」が決まっている。そうなると、より多くの人間が「これが正しい」と感じ、その結果が正しさや正義ということになる。この見解はあらかた間違ってもいないはずです。実際に私たちは、そういう場面に頻繁に出くわしています。ある場面のある場合を考えてみます。

      ▢

 たとえば自殺をしようとした人がいる。病気が治らないために自殺をすると言うAさん。それを阻止しようとする友人のBくん。この友人は自殺しようとするAさんに、ある嘘をつく。どんな嘘でも構わない。「君の病気は治る」でもいい。または「君の病気を治せる可能性のある新薬の研究が進んでいるらしい」など「来年の今頃には君は助かっているよ」でもいい。とにかく嘘をつく。嘘を、つきます。

 ではここで一つ。嘘をつくそのこと自体は「正義」だろうか? 嘘をつくのは正義でもないだろう。なぜなら嘘をつくのは良くないこと、という常識があるから。嘘をついたこと単体で考えれば、たしかにBくんは正しくない可能性がある。多くの人がそう考えているのですから。正しくない。

 しかしBくんは、親友であるAさんの自殺をどうしても止めたい。実際それでAさんの自殺を止めることが出来たとする。そういう状況であれば、やはりBくんは嘘をつくことにより「正義を働いた」ことになるのでは? それとも嘘をついたのには変わりないのだから、やはりBくんは「間違っている」のだろうか? と・・・いったんここでストップです。

       ▢

 この時点で、あなたはBくんは正しいことをしたと思いますか?それとも自分の価値観や信念を押しつけただけの無責任な奴だと、そう思いますか? 猫目は一概にどちらとも言えません。きっと多くの方もそうだと思います。なぜならこの時点で結果は見えていないからです。

 AさんとBくんのこのストーリーをひとつの映画だと考えてみます。

 映画を見る鑑賞者がちょうど100人居るとします。この時点(BくんがAさんに嘘をつき、Aさんは自殺をやめた)で100人居る鑑賞者のうち97人が「嘘をつくのはよくない。間違っている」と答えたとします。

 100人中97人。つまり9割以上のひとがBくんの行為を「正しくない」と答えています。こうなるとこの時点ではBくんのしたことは「正義じゃない」と判断されます。つまり多数決の正義が生まれる。多数決の結果によりBくんのやったことは正義でないと判定される。これが今の世の中を渦巻く正義の正体に近いと思うのです。

 さて。せっかくなので残りの3人にも解答を聞いてみましょう。

 ①ある若者はこう答えます。
 「BくんはAくんのことを誰よりも理解しているはずだろう。だからBくんの言った嘘は思いやりの嘘だよ。それはいい嘘に違いない」
 ②ある老人はこう唸ります。
 「Bくんの判断(嘘をつく)は正しかった。なぜなら嘘をつくことよりも、死ぬことの方が罪悪であるから」
 ③ある子供は口を尖らせながら言います。
「死んでいいよなんて言えないもん。そんなの、かわいそうだもん」

 これら「正しい」と答えた3人の中では、Bくんの嘘をついたことは正義として映っています。しかし全体的に見た場合これは「正義」となりません。なぜなら他の97人がBくんの行為を正しくない、と判断しているからです。残り3人の小さな声は、97人の大きな声にかき消されてしまう。むしろ非難さえされるかもしれません。正義の解釈とは、まさに多数決にて縁どられているのです。

 さて。スクリーンは次の場面へと移ります。

      ▢

 Aさんは、Bくんの虚実によって命を繋ぎ留めた。しかしこの後Aさんの病気は進行の一途をたどり、前よりもっと苦しむことになった。そして残念なことにAさんは住み慣れた自宅ではなく、ベッドの上で最期を迎えた。

      ▢

 ここでストップです。さて結果が示されました。こうなった場合に先ほどの3人は何と思うのでしょうか?「やっぱりBくんは間違っていたのか」「住み慣れた自宅で死ぬほうが本望だったかもしれない」「こんなひどい死に方なんてかわいそう」と、そう顔をしかめるかもしれません。

もしもここで。

 違う結果に終わっていたならどうでしょう? Bくんの言う通り、翌年に新しい新薬の論文が発表され、奇跡的な回復をみせ、みるみる顔色が良くなり、Bくんは元気になった。・・・という結末であったなら?

 もしかすると100人中100人が「Bくんが嘘をついたのは正しかった」と回答するかもしれません。すると正義の定義は変わります。友人Aさんに嘘をついたBくんの行為は正しかった。正義であった。そう判断することになるでしょう。そうなると「正義」や「正しさ」とは実に曖昧な存在ということになる。

 これはほんの一例ですが、他にも日常にはたくさんの多数決による正義が存在しています。正しさは人によって違う。しかし分母の数が大きいとき、正義のカタチは集団という特色のあるために変動する。それは単なる多数決の場合が多い。しかし「正しさ」とは本来、100人居たら100通りあって然るべきことなのです。・・・さて。あなたの中での正しさとは何ですか?

どこかコインに似ている

 個人の正義・大衆の正義どちらの正義にも同じく言えることですが、正義には表と裏の両面が兼ねられていると思うのです。まったく同じ事柄でも、ある時それは正義であり、またある時それは正義でない。
 ある人からすれば正義であるが、また別の人から見たらそれは正義でない。正義とはどちらかと言うと感情に近いものです。人の感情に近いということは「動きやすい」という性質をもっています。つまり正義に不変の認識は無く、時代や人の動向(風向き)により変わる。正義の事柄そのものが変わるのでなく、内側にある概念そのものが変わる。多くの人の概念(または心境)が変われば自然と正義も変わる。

 しかも大衆の正義は多数決ですから、これら両面の正義の概念はあるとき、くるり、半回転して一気に変わってしまう。そのスピードは速い

コロコロ変わる正義

 正義には裏面と表面があるとお話させていただきました。さらに解剖していきます。正義とは「物事(出来事)」が同じでも、以下の3つによって正義の概念に変化が起こることが窺えます。

①時代
②状況(場面)
③人物


 上の3つにより、正義の解釈はいくらでも変わりうる可能性がある。たとえば、以前まで正義だと認識されていたものが、今では正義でなくなっている。2022年現在で女性が社会の一員として数えられるのは当然のことです。これは常識です。しかし、ひと昔前までは違いました。女性は社会的地位も低く(むしろ皆無に近かった)、しかも社会に出るための教育を一切受けていなかったのです。令和の時代にそのようなことがあれば、それは「不義」として捉えられることになるでしょう。これは時代の認識がある地点で大きく変わったことが深く関与しています。また、科学の発展で得られた新しい常識のためにも正義の概念は変わります。

 さらに事柄が同じでも状況により、正義の概念は変わります。一貫したストーリーの中でも、ある場面による、ある状況下では「正義」として映ります。しかしまたある場面のある状況ではそれが、くるりと反転。「不義」へと変わることがあります。

 人物でも同じことが言えます。たとえば会議室にAチーム10人の人間が居る。そのうち10人全員が、議長の発言を「彼の言っていることは正義だ」と判断すれば、議長の言葉は正義となります。が、同じ内容の発言を今度はBチーム10人に展開したところ、こちらBチームの人間たちは皆がそれを「正義じゃない」と言う。そうなると同じ事柄でもAチームでは「正義」として取り扱われ、Bチームでは「正義でない」として成立してしまう。集まる人物によっても正義のカタチは変動します。

あやふやな正義

 何度も述べている通り、正義にはコレといった形状がありません。「正しさ」とは明確なカタチをもっているように見えて、その実とてもあやふやな部分が多い。意識や、それら意識に含まれる概念の集合体に過ぎません。今日の「これは絶対正しいぞ!」は、明日には「これはちょっと間違ってるかも」に変わります。

 永久的に正しいこと。永遠に正義であること。そんな正義は残念ながら存在しません。なぜなら私たち人間は感情をもっているからです。感情は動く。さらに時代も動く。時間が動くのですから当然と言えば当然のことです。状況はそれら「感情」「時間」によってもちろん細やかに変動します。

 これは非常に恐ろしいことです。

 いま、私たちは殺人を良くないことだと考えている。「いかなる理由があっても殺人はダメだ」と、皆が口を合わせてそう言います。つまり人を殺すことは正義でなく、不義だと認識しています。2022年。多くの人がその認識をもっています。では仮に。仮にですよ

 ある時代のある人たちは「正当な理由があれば人を殺してもいい」「むしろ殺さない方が不義だ」という思考を持つようになったとしたら? それら正義の認識や概念を多くの人が持つようになったら……? 考えただけでも悪寒が走ります。

 しかし全くあり得ないことではありません。現にさまざまな歴史は物語っています。人間は残虐な革命を現実にいくつか起こしているのです。


 ここまで「正義の概念」や「正体」について解剖をしてきました。ここからは日常での「正義の取り扱い」についてお話していきます。


空気に呑まれることのない「正確」な判断を

 日常において、「正しいか」「正しくないか」の判断をくだすのは非常に難しい。その中でも厄介なのが空気に呑まれてしまうということです。メディアの示した言葉に惑わされ、会社の風潮に流され、クラスメイトの噂話を鵜呑みにしてしまう。ことに集団の正義とは本当に怖いものです。

 そこでは個人の正義は死んでいます。

 人間とは面白いもので、自分の中に屈強の信念がない限り、案外にもすぐに周りに流されてしまうものです。「もしかすると自分が間違っていて皆が合っているのかもしれない」と思った経験ありませんか?100人中99人が「正義だ」と言う中で自分ひとり手を挙げ、席を立ち、「いえ。それは正義ではありません」と胸を張って言うには、相当の勇気が必要です。

 この「空気に呑まれる」という現象は人間の本能と大きく結びついている。もとより集団で生活してきた私たち。どのくらい前から集団で生活をしてきたかというと、それは原始時代から。そのくらい昔から私たち人間は個人でなく、集団で暮らしてきたわけです。集団の生活ではある程度、周囲(他者)と空気を合わせていかなくてはいけません。

 もし、仲間外れにされたら猛獣に食べられてしまう。のみならず、マンモスを狩ることさえままならない。ままならないどころか出来ません。たった一人でマンモスを狩れたら・・・それは逆に英雄です。

 空気に呑まれる中で真の正義を判断するには、どうしたら良いのでしょうか? 猫目は以下の3つが有効だと考えます。

常に正義を疑う
 これはとくに集団の中に起こる物事で肝心となってきます。「はたしてこれは本当に正しいことなのだろうか?」など。鵜呑みにすることなく、常に疑うことが大切です。よくよく考えもせず周囲の正義に合わせるのは長い期間で見た場合に間違っていることがあります。間違っていた場合、あとから後悔してしまうことになり、自分、そして相手も傷つけてしまう可能性がある。集団で「正義」を唱える場合には、これら「疑う心」が鍵となります。

議論を交わす
 ときに勇気をもって発言すること。これはかなり重要なことです。間違いを正していくことで真の正義を発見することに繋がるからです。しかし議論を交わすとなると、これがまた困難です。一対一の場合や、数十人で議論を交わすことは可能です。が、それは100人1000人10000人と数が大きくなればなるほど「議論を交わす」こと自体が難しくなります。議論とは、まさにお互いの意見を述べ、論じ合うことを目的として行われる事柄だからです。

 会議室に100人もの人間がぎゅうぎゅうに押し込まれていたら・・・発言する人はおのずと決まってきてしまうものです。猫目もきっと部屋のいちばん奥。隅の椅子に腰かけていたなら、せいぜい聞き耳を立てて思考を走らせることで精一杯でしょう。これでは100人で議論を交わした、とは言えません。

③物事をよく観察する
 「周りがこうだと言っているから」「道徳的にこうだから」など、先入観ばかりに囚われるのでなく、まずは事実だけを見るようにする。そうして無駄な雑音をシャットアウトする。そこで初めて見えてくる正しさがあります。これは次の章で詳しく説明いたします。

ただ、事実だけをみる。

 事実だけを見るようにする。そうすれば空気に呑まれることなく、公平な判断がくだせます。と、簡単そうに言いますが、これが案外ムツカシイ。先ほども言いましたように真実という惑星の周りには、いつだって吹聴の星があり、捏造の星が浮遊しています。そうかと思うと、真実の惑星そのものを呑みこんでしまうブラックホールすら漂っている。

 こういうとき、私たちは、どのようにして真実を見つけていけば良いのでしょう? そこにはある程度の時間が必要です。事実を突き止めるための情報も必要でしょう。となると、それら情報を集める知識も必要となってきます。知識を集めたら今度は経験の中に培ってきた知恵もいる。事実を発見したら「真実」かどうか見極めなくてはいけない。いずれにしても時間を要します。

 とにかく焦らないことです。
 空気に呑まれないよう、一度距離を取ることを心がける必要があります。トイレに籠りましょう。

 身近で起こった出来事ならば「観察眼」に「洞察力」も大切です。これらは日頃から訓練していないと、いざという時、なかなか発揮することができません。殺人現場にいらっしゃる警察や探偵の方はさておいても、猫目のような凡人素人は間違いなく時間をかける必要がある。というよりも、その道のプロでもない限り、本来即座に「事実」ないし「真実」を発見することは不可能です。なぜなら事実は当事者しか知らないからです。

正義に殺される人たち。

 最後に、正義の押しつけについてです。正義を他者に無理やり押しつける。そのことこそ「不義」な行為です。もっと言えば「悪」です。……と猫目は言っています。しかしこれだって猫目の正義感の概念に他ならない。この記事に書かれていること全てが猫目個人の見解に過ぎない。まさに堂々巡りのようで頭痛がしますが。正義の到達とは本来、こういう思考の巡り合いの末に行き着くものであってほしい。と、いうことで皆さま。

 正義を他人に押しつけることは本当に悪いことなのか? 疑いかかってお読みいただけると幸いです。


 学校でのいじめの原因は些細なことであったりします。今の時代のいじめは陰湿だ、と囁かれています。しかし猫目の経験では、いつの時代においても、いじめそのものは陰湿だと思います。いじめに正義はありません。しかし正義と勘違いするをこともあれば、いじめられる人に原因がある、と思い込んでいる場合もあるでしょう。

 確かにいじめられる側にも問題はあると思います。それがどのくらい些細な要因でも。猫目は小学校の高学年の頃、クラスでいじめにあっていたことがあります。原因はたぶん、ボケーっとしていたからだと思います。猫目は当時そうとう鈍感な子供でした。

 なので机に花の挿してある花瓶が置かれれば、それを大切に眺め、花瓶の水なんか変えたりしていました。下駄箱から上履きが消えれば、靴下で廊下を歩きまわる。体操着入れに画鋲(がびょう)が入っていたときは、さすがにどうしたものか。と思案しましたが、その画鋲をセロテープでぐるぐる巻きにしてお道具に保管した記憶があります。

 こういう猫目の行為もいじめっ子にとっては、さぞかし気に入らなかったことでしょう。そして、とてもつまらなかったことでしょう。猫目はそのうち相手にされなくなりました。いじめからも見放された。ふと、悪口を言っていた子からある昼休み、ドッジボールに誘われる。グランドへ行きます。とにく何もなし。いじめはつまらなければ、相手を呆れさせてしまえば、そこまででした。これも随分と前の話です。

 ボケーっとしている。そのボケーっとのうちに猫目は、もしかしたら誰かの言葉を無視してしまっていたのかもしれません。それともボケーっとしているために誰かの心を傷つけてしまった可能性もあります。いずれにしてもいじめられる要因は何かしら、あったのだと思います。

「自分の好きな男の子と喋ったから」という理由で、いじめられた子もいました。いじめの中心となる女の子のまわりの子たちは「かわいそう」だからと、その女の子に加担して、いじめを働いたそうです。かわいそうだから。「かわいそうだから」いじめるのは正義として映ったのでしょうか? ならば、いじめられる子は「かわいそう」でないのでしょうか? はたしてそれが彼女たちにとって、正しい判断だったのでしょうか?

 いじめに加担するとき、たいていの人は、相手を傷つける理由を正当化しています。原因を思考せず、わずかな知識と浅い知恵で、事実を曖昧に、捻じ曲げ、へし折り、正当化する。

しかし

 そういう正当化された「正義」によって心身ともに殺される人の存在がある。どうかそのことを覚えておいてほしい。これらは学校のいじめに限ったことではありません。社会でも同じことです。家庭でも同じ。弱者にとって他人の「正義」を押しつけられるほど、怖いものはありません

 ぷくぷく膨らんだ正義に溺れ、その結果として、押しつぶされることだってあります。「正義のために」という人が大多数で寄ってたかって「正しくないと思われる人」「間違っていると思われること」を攻撃するのは、はたして正しいことなのでしょうか? それこそ正義でも何でもない。不義を超えた悪です。殺してしまってからでは遅いのです。

 正義への思い込み自分で気がつかないから最も恐ろしい。人体だけを指しているのではありません。心も同じことだと思うのです。人の心を殺してしまうこと。それはそのひとの人生そのものを奪っています。目に見えない殺人と言ってもいい。

 とくに、集団でなにか正義を訴えるとき。どうか一度立ち止まってみてください。それは本当に正しいことなのか? それは本当に正義なのか? それは本当に……本当に……ほんとうに……。何度も立ち止まって考えてみてください。ふり返ってみてください。真実を見極める。そのことが大切だと、猫目はそう思うのです。

日頃より鍛える

 長くなりました。明日(5月14日)更新したいと思っているのに深夜2時をまわってしまいました。これで本当に最後の章となります。日頃より判断力を鍛えることについて。

 あらゆる物事に訓練が必要なように、正義や正しさを公平に判断するには日常における訓練が必要となってきます。私たちは日常の生活の中でいくつもの「正義」や「正しさ」を目の当たりにして暮らしています。

身近なものでは・・・
①他人に対しての接しかた
②お金に対する認識や概念
③ニュースで見聞きする事柄や事件
④会社の社長が追っている理念

⑤学校の先生の言っていること・・・などなど。

 ある正義が目の前に提示されたとき。公平な判断つまり、偏った判断にならないために。事実を見つけ、真実へたどり着けるように。そのためには「観察眼」「洞察力」「思考力」の3つはことに重要です。

 観察眼とは、よく観察する他に「よく気がつく」能力を指します。
 洞察力とは、物事の性質・原因を見極め、推察することです。推察とは他者の心を思いやり推し量ることをいいます。そして最後に。
 思考力です。
 思考力とは、文字通り「考えること」です。経験や知識・知恵を働かせることです。これらにはたくさんの書物そして他者との対話が必要となってきます。たくさんの書物の中でも猫目はハウツー本(ノウハウ本)や指南書もいいと思うのですが、いちばんは小説をおすすめします。

 なぜなら小説には、たくさんの人の人生が詰め込まれているからです。しかも、登場人物の心境までが鮮明に描かれている。漫画や映画も同様です。物語の良いところの一つとして、まったく知らない他者の人生を、たった600円程で垣間見ることが出来るところにあると思います。

 自分と違った人物像や、人生観を知ることで以前より多くの人を思いやれるようになります(洞察力)。さらに洞察力を得ることにより、周りをよく観察するようになる(観察眼)。もちろん多くの人や物事を知れば知るほど、その考えは多岐に渡ります(思考力)。小説の可能性は広い。私たちが現実を生き抜くために必要な世界を開示してくれています。それも正義を真っ向から反対する小説もある。さて。一万文字を超えてしまいましたのでそろそろお暇いたします。本テーマをくださったsさん。

それから

 こんなにこんなに、長い文章をお読みくださいましたあなたさま。本日もお付き合いくださり誠にありがとうございます。「次も楽しみです」のコメントそれからメッセージをくださった方々に・・・心より感謝いたします。

本日もありがとうございました。


結論

 私たちはあまりに正義の概念や道徳の常識にとらわれているために、本来の「正義」を多くはき違えている。そういう正義の概念や常識というのは「多数決」で定められている場合が多い。いわば正義という概念の集大成で「正義」は成り立っている。しかも私たちは、その本能からして場の空気に呑まれる性質がある。そういう空気の中では個人の正義は死んでいる。
 今一度正しさを疑うことが時に必要だ。そのためにも事実を発見し、真実を追求する必要がある。
 日常生活において、私たちが「公平」な判断をしている保証はどこにもない。ちょうど正義のカタチがあやふやなように曖昧である。公平な判断を下すには以下の三つが重要である。
一 正義や正しさを疑う心をもつこと
二 互いの意見をしっかり述べて意見を交わし合うこと
三 物事を多面的によく観察し、事実を見つけること
 これら三つは日頃より鍛えることができる。その逆に鍛えなくては直ぐに惑わされてしまう可能性があり、危険である。
 大きな正義と対面したときには、これでもかというくらい思考を働かせることで真の「正義」を見出すことが出来るはずである。


芥川龍之介(作家)

 正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。正義も理屈をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。古来「正義の敵」という名は砲弾のように投げかわされた。
 しかし修辞につりこまれなければ、どちらがほんとうの「正義の敵」だか、滅多に判然したためしはない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?