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毎日散文

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#純文学

054「封筒村」

054「封筒村」

 あまりにふるい話で、記憶はないのだが、封筒の名産地である村で、わたしは、生まれたという。山の向こうからやってきた産婆が、わたしをとりあげ、以来、わたしは、この村を出たことがない。村では、どの封筒も、きわめて正確な寸法でつくられ、あらゆる紙が、毎日、村へ運びこまれる。桜並木の、不自然にその一角だけ整備された、工房につながる道を、子どもらとトラックが進んでゆく。いつからか、封筒工房には、蜂の巣ができ

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041「ティー・タイム・リバー」

041「ティー・タイム・リバー」

 雪国の排水溝のように敬虔な未亡人が、薬局のとなりの定食屋で納豆汁を食べている。イグサで編まれたテーブルクロスに、ガラスの湯呑がひとつ、置かれようとしている。納豆汁の中には、一匹の蠅が混じっているが、女が気づいているかどうかはわからない。

 石の匂いの雨がふる。

 頭痛がする。

 定食屋の鍵は、たやすく、はずされる。

 街の貨幣が不足している。雪遊びをする間もない。だが雪は刻々と量を増して

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040「氷鬼」

040「氷鬼」

 氷鬼は会話に一切の論理をみとめない。だから米を炊かせることもままならない。彼は、渓流下りの船頭として働いている。彼の漕ぐ舟は、いつも学生たちが願かけだといって、石や饅頭を、船上から、真西をねらって放りなげる。近ごろ、氷鬼は、知床の夢ばかり見る。ベランダに取りつけられていたアンテナが、いつの間にか折れている。休むことなく飛んでゆく鳩を、感心して眺めている。氷鬼の横腹には、いつからか、発疹があらわれ

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038「トワイライトエレファント」

038「トワイライトエレファント」

 つめたい保険屋の床に、一匹の象がいる。誰も象のことを話さず、象が邪魔なそぶりも見せない。象は、証書を一枚ずつ、長い鼻で器用に捕らえ、咀嚼している。雑居ビルの一室にある保険屋のことを、誰も気にかけないまま、壁にも床にも、ひびがはいっている。

 象の巨大な糞の記憶の中で、保険屋は別れた妻とともに流氷をみる。断層の真上にねそべる、造花の都市で、妻は、保険屋の鳩尾に鍵の束を投擲する。妻の部屋に、無数の

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037「模型屋」

 街のどこにも野球場がないので、わたしは野球場を見たことがない。だから、野球場を作れと言われても作れない。楽器屋や画廊なら、それが本当に楽器屋や画廊かどうかは別として、すくなくともかたちを完成させることはできるだろう。だが、依頼されてしまった以上、それを作らなければならない。

 玩具屋に対面するガードレールには、よく子どもらが座っている。足をぶらぶらさせたり、上体をのけぞらせたりしていて、運転席

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032「砂上の楼閣」

032「砂上の楼閣」

 木目の美しい巨大な門をひらき、天守閣は崩れかかっている。甘えるような崩れにわたしは毒づかずにいられない。崩れるなら、早く崩れるのだ。チック・タック・ブリリアント。石畳まで憎くおもいはじめかねない。サイレンがなっている。

 空はひどく晴れわたり、強烈な日差しが照りつける。わたしの部屋の扉は金属でつくられているので、真夏にはドアノブに触れられないほど熱くなる。あるとき、ドアに蜥蜴がはりついたまま死

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028「マリーゴールド/鯨の歌」

028「マリーゴールド/鯨の歌」

 口に含んだ黒鮪の刺身から、オリーブ色のペリドットの小さな球がころがりでる。刺身になった黒鮪が呑みこんだのか、誰かが調理の過程で刺身に埋めこんだのか、ペリドットの球は、ともかく、わたしの口腔に鮪の脂とともに流れおち、刺身とともに胃のなかへ消えた。

 市場の海鮮茶屋の奥には、板前が趣味で集めているのだというバス停の標識がならんでいて、真新しいものや、錆びついたものもあるが、すべての標識の表面にアル

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027「まがった喇叭」

027「まがった喇叭」

 まがった喇叭を、倉庫の暗がりで拾う夜は、友の葬儀を終えた後の、静謐な夜だ。貧しい俺が、明日の米を食うために、手放すことができる、喇叭は、最後の財産だ。

 ひどく緑青のういた、合金の喇叭は、むかし、他愛のない博打に勝って、譲りうけたものだ。その美しい娘から、俺は、喇叭だけをとりあげて、あとには、なにものこらなかったのだ。

 空になった財布と、まがった喇叭をそれぞれ手にもって、燐寸箱のような無人

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024「告白」

024「告白」

 氷のような床に裸足で立ち、竹刀を一心に振っていた青年が、岩石のような足の裏で一匹の蝿を踏み殺す。青年の素振りは、素早くも力強くもなく、風景のように、さりげなく、その奥に、巨大な力を秘めている。蝿も、緩慢な青年の足さばきを、まったく認識できず、しばらく、みずからが圧死したことに気づかない。師範の訪れない小さな道場で、青年の白い胴着が、次々に汗を吸っている。

 晩秋の締めつけるような寒さ。青年はハ

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023「ローラは祐一が幽霊になるのを見た」

023「ローラは祐一が幽霊になるのを見た」

 松林の中に、誰かの墓があった。どこにも墓碑銘はなく、苔むしている。墓の精密な彫刻というのは存在するのだろうか? 高校生の頃、同級生の女の子たちがわたしの髪をよく触りにきた。わたしは触らせたこともあったし、拒否したこともあった。一切は、ただの気まぐれだったのだが、みんな勝手に理由を類推して、ちょっとした噂になることもあった。触らせてくれなかった人は不潔だと思っているとか、悪霊が憑いているのを見抜い

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021「北極星」

021「北極星」

 黒い仏壇のなかに、しろくかわいた、一粒の米が落ちている。暗い扉のなかで、ぼんやりと浮かびあがってみえる。それは、本当は米ではなく、青白い金平糖で、祖母の家を訪れていたひとりの少年が、たわむれに置いておいたものだった。少年は、山へ虫を取りにでかけ、大きな滝壺に落ちて死んだ。遺体は最後まで見つからず、祖母は孤独のまま、つつましい葬式が執りおこなわれる。青白い金平糖は、その時とまったく変わらない位置に

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022「世界杉」

022「世界杉」

 その生涯で、杉の木の研究をおこなってきた植物学者が、杉の成長促進のために、尺八を練習しはじめる。当人もそれまで気づいていなかったのだが、彼は天賦の才能を持っており、唄口に、なにげなく息をかけると、たちまちのうちに、朗々とした音が響きわたったという。学者はそれ以来、雅楽を聞くようになり、無数の杉が、学者の尺八で生命をとりもどす。流星群の冬が近づいている。学者たちは、来る年の幸福を、ニュートリノに祈

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015「喝采」

015「喝采」

 ひとりのわかい落語家が、天の川を観測している。スケッチブックに、星々をこまかく描き写してゆく。闇の川辺に望遠鏡をたてて、落語家の足元にあるランタンだけが、白い紙面を炙りだしている。それきり、灯はない。

 わかい落語家は、多くの笑いに囲まれて生活していたが、彼は生まれつきの脳傷のために、あらゆる人間の顔が、認識できなかったという。彼は、卵のような顔をした隣人に囲まれるよりも、無数のピラニアが泳ぐ

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014「菖蒲園」

014「菖蒲園」

 白く無機質な住宅街に、忽然と菖蒲園がある。おれが生まれる前から、それはある。菖蒲園の中には池があり、気がつくと、子どもが足を滑らせて、落ちていたりする。池はかなり昔に人工的に作られたもので、コンクリートで舗装されたりはしていない。だから池に落ちた子どもは、泥だらけになり、泣いていたり、笑いころげていたりする。

 白い住宅街の中に、菖蒲園がある。菖蒲園と銘打っているが、花が咲いているところをほと

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