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014「菖蒲園」

 白く無機質な住宅街に、忽然と菖蒲園がある。おれが生まれる前から、それはある。菖蒲園の中には池があり、気がつくと、子どもが足を滑らせて、落ちていたりする。池はかなり昔に人工的に作られたもので、コンクリートで舗装されたりはしていない。だから池に落ちた子どもは、泥だらけになり、泣いていたり、笑いころげていたりする。


 白い住宅街の中に、菖蒲園がある。菖蒲園と銘打っているが、花が咲いているところをほとんど見たことがない。菖蒲園の隣には、小さな屎尿処理場があり、風にのって、すばらしい人間の匂いがすることがある。


 あるとき、首長竜の化石が見つかったというので、菖蒲園ぜんたいが破壊される。草ばかりの菖蒲はすべて抜かれ、あちこちの自然公園に植えられた、と新聞には書いてあったが、実際は、ほとんどの菖蒲が、焼却炉にほうりこまれたという。首長竜は実際に発掘され、この街の名前がつけられたが、おれの生活はなにも変わらなかった。おれは街にひとつしかない私鉄の駅の窓口にすわり、毎日、あらゆる悪口を聞く仕事をしている。


 化石の発掘が終わり、預言者たちが世界戦争の勃発をくりかえし主張していた年が屁のように過ぎさった。白い住宅街の中に、いびつな土の山だけがのこされた。
おれは、数え切れない人々の悪口を聞いた。そのほとんどは、己の不信心からくる、やり場を失った怒りだった。電車の運転手をやってみたかったが、結局、その夢が叶うことはなかった。幸福とは、怒りを、誰にも知られずにとっておくことなのだと、おれは、思うことにした。


 あるとき、昼休みに白飯を食っていたのだが、喉に詰まるような感じがして咳きこむと、大量の血が吐き出された。吐かれた血が自分のものであることに、しばらく気がつかなかった。おれは漠然と、そうか、死ぬのだ、と感じた。ならば菖蒲園へ行こうとおもった。おれの死に場所は、土の山になった菖蒲園だったということだ。案外、それは粋だとおもった。

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