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022「世界杉」

 その生涯で、杉の木の研究をおこなってきた植物学者が、杉の成長促進のために、尺八を練習しはじめる。当人もそれまで気づいていなかったのだが、彼は天賦の才能を持っており、唄口に、なにげなく息をかけると、たちまちのうちに、朗々とした音が響きわたったという。学者はそれ以来、雅楽を聞くようになり、無数の杉が、学者の尺八で生命をとりもどす。流星群の冬が近づいている。学者たちは、来る年の幸福を、ニュートリノに祈願する。電灯のない部屋に、学者と、尺八の音だけがある。


 遠い写真の記憶のなかで、稲妻と金木犀の香りがする。学者は、学者になるために、長く孤独な鍛錬を積み、家族を、殺し続けなければならなかったことを思いだす。流れついた空白の学会で、彼は、いつまでも、透明で、流れてゆくばかりだった。尺八のために息を吸いこんだとき、学者は気づいたのだ。自分が、杉の学者などではないことに。尺八の秘境に暮らす、演奏家でさえないことに。自分が、壊れた枝を握りしめただけの、ただの、殺人者であることに。


 尺八から、雅な旋律とともに、無数の蔦がのびてゆく。学者の体に蛇のように巻きつきながら、蔦は互いにからみあい、樹皮を吐きだし、アパートを侵食してゆく。蔦たちは、巨大な、杉の木のようなものを形成する。学者の姿は消え、尺八と、一着のすりきれた背広だけが、影のようにのこされ、杉の幹につぶされてゆく。


 塔のような杉の木に、雪がふりかかる。アパートは破壊され、幹の周囲を、深緑色の蔦が絶え間なくうずまいている。杉の先端は雪雲をつきぬけ、そこに、学者が座ったまま、尺八を吹きつづけている。

 自分は、ずいぶん尺八が気に入っているらしいと、人ごとのように思う。蔦と雪が、街を滅ぼしてゆく。学者は、暗黒の空に、無数の流星が流れてゆくのをみる。

 積もった雪をかきわけて、やがてアパートの大家が、天井から、杉の木のように、まっすぐに首を吊っている学者を見つける。彼は、すこし笑った顔のまま、動かずに浮かんでいる。



(本文は以上です。投銭いただけますと、私の夕食が一品ふえます)

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