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040「氷鬼」

 氷鬼は会話に一切の論理をみとめない。だから米を炊かせることもままならない。彼は、渓流下りの船頭として働いている。彼の漕ぐ舟は、いつも学生たちが願かけだといって、石や饅頭を、船上から、真西をねらって放りなげる。近ごろ、氷鬼は、知床の夢ばかり見る。ベランダに取りつけられていたアンテナが、いつの間にか折れている。休むことなく飛んでゆく鳩を、感心して眺めている。氷鬼の横腹には、いつからか、発疹があらわれている。

 氷鬼は、戸棚からちいさな木箱をとりだし、鍋の上で逆さまにした。百合のかんざしがふたつ、ころがりでて、こぼれるガス火に炙られる。音楽好きな八百屋の娘が、酒倉の鉄壁を錫杖でたたくので、アイス・ベルのような音が周囲に響いている。音は、氷鬼の耳には入らず、舌にのり、腸の街道をすすんでゆく。小さな柴犬が、縁側から転げおちそうになっているのが、生け垣のむこうにみえる。わたしはもう凍えそうだが、燃やせるものは、自分の肉体のほか、なにもない。


 氷鬼の友人が、ベトナムから手紙を送ってくるという。はじめのうちは長々と、世情への不満や、妻の体調などが逐一書かれていたのだが、すこしずつ手紙は短くなっていって、今では手紙の代わりに自分の髪に混じった白髪や、市販のクリスマス・カードや、ムカデの死骸などが封筒に入れられていたりする。


 その日の手紙はこのようなものだった。
「並木道の中にある小さな人形屋に、きたない窓があって、そこから錆びついたような山の赤黒さが映っていてよい気分だ。」
「だが、明日にはもう、見ることもできなくなるのだ。悲しいものだ。」
「きみから見えたものすべてを教えてくれ。」


 養豚場のある雪山の中で、わたしは杉の木を切ったことがある。何度切りつけても倒れない、恐怖のような一本杉にむけて、幾度となく落涙しながら、わたしは一心に、柄の腐った斧を振るいつづけなければならなかったのだ。

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