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015「喝采」

 ひとりのわかい落語家が、天の川を観測している。スケッチブックに、星々をこまかく描き写してゆく。闇の川辺に望遠鏡をたてて、落語家の足元にあるランタンだけが、白い紙面を炙りだしている。それきり、灯はない。

 わかい落語家は、多くの笑いに囲まれて生活していたが、彼は生まれつきの脳傷のために、あらゆる人間の顔が、認識できなかったという。彼は、卵のような顔をした隣人に囲まれるよりも、無数のピラニアが泳ぐ水槽とともに暮らすことを、夢みていた。空虚な寄席の舞台で、彼はしかし、いつでも、満席の拍手によって入場を期待され、彼自身も、歯のととのった笑顔をつくり、客に挨拶した。

 あるとき、望遠鏡をかかえ、闇の川辺をあるく落語家は、年老いた卵の集団にとりかこまれ、殺害された。年寄り卵たちは、街の自警団と称して、孤独な人間を殺して、遊んでいたのだった。落語家は、傘と赤煉瓦により、めった打ちにされ、喝采のような笑い声が、暗い川面に、響きわたったという。

 無残な喝采の翌日。年寄り卵の集団は、自らが愛する落語家を殺していたことを知って、泣き叫ぶ。その憎悪とばかばかしさに、街の人々は、大笑いする。自警団は、逮捕され、落語家の支援者たちによって殺される。そこにもまた、破裂するような笑いがあったという。そのあまりに激しい笑いのために、支援者たちは、次々に、卵の子孫たちに殺されてゆく。支援者たちが、命乞いをするのをみて、卵の子孫たちは、また、けたたましく笑いはじめる。

 こうした間、他の落語家たちは、黙ったまま、ピラニアを釣るためにベネズエラへ向かう。落語家たちは、誰も笑わず、蛭のいる道を踏みこえ、巨大な川のほとりで木の船に乗りこむ。彼らが、袴のまま、水面に糸を垂らす姿を、地元の漁師たちが、息を飲んで見つめている。

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