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024「告白」

 氷のような床に裸足で立ち、竹刀を一心に振っていた青年が、岩石のような足の裏で一匹の蝿を踏み殺す。青年の素振りは、素早くも力強くもなく、風景のように、さりげなく、その奥に、巨大な力を秘めている。蝿も、緩慢な青年の足さばきを、まったく認識できず、しばらく、みずからが圧死したことに気づかない。師範の訪れない小さな道場で、青年の白い胴着が、次々に汗を吸っている。


 晩秋の締めつけるような寒さ。青年はハープシコードの哀しい曲を聴きながら路線バスに乗る。ふるい木造りの星の上に放りだされた彼は、懐かしい香りとともに、水を求めてさまよっている。アスファルトの路面はくらく、歩道には、街路樹の根によってひび割れている部分がある。一人の老婆が、その体をほとんど二つ折りになるまで折り曲げて歩いている。彼女は、街路樹の根に躓き、転んで、そのまま、立ち上がることはなかった。


 街灯に照らしだされた幾人かの通行人は、老婆をまたいで歩いてゆく。大きな善と悪が、偽りの真珠を手にする。エンジン音とともに、すべてが遠ざかってゆく。


 青年は、バスの窓から、それをじっと見ている。彼は黙ったまま、スマートフォンを手に持ったまま、しばらく、呆然と座っている。彼はふいに電話をかける。好きだった少女に、簡潔に、想いを伝える。制服を着たままの少女は、ひどく困惑している。少女は、青年との過去と幻想の未来を眼前にみる。少女は乾燥した声で、子宮に教師の子を宿していることを青年に告げる。竹刀の柄が、つよく握りしめられ、不快な音を発している。


 街灯のしたで、青年ははじめて煙草を吸う。肺の細胞に黒鉄色のものが付着してゆく。青年は、誰かを殺さずにいられたことを老婆に感謝しながら、老婆を、暴風のように憎悪している。




(本文は以上です。投銭いただけますと、私の夕食が一品増えます。)

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