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宝箱

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特に心惹かれた文章や、保存したい文章などを追加していきます。
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記事一覧

雨が降ると悲しみが見えない

三年前まで住んでいた寮は宅配物を管理人が預かるようになっていて、部屋番号を告げて受け取った。部屋に駆け込み絨毯に座り込み夢中で読んだ。
それが初めて読んだ田村隆一の詩集

東京に就職するのがその頃には決まっていた。
別のクラスの年下の男の子が「いらないからあげますよ」と言ってくれたCDはちょうど30枚位あって、上京して寂しくなったら一日一枚ずつ聴こう、そしたら一ヶ月は気が紛れる、よくそう思ったもの

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夢と妄想

かつて中井久夫は、統合失調症の患者が、あれほどの苦悩を抱えているのになぜ夢を見ないのか、と疑問を呈した。そして同様に、なぜ心身症の症状が現れないのか、と。

さらに中井は、患者が寛解へと至る関門である臨界期において、妄想が「夢に還っていく」と言った。同時に様々な心身症の症状が現れることを見出した。

つまり、患者が抱える深刻な葛藤は、急性期において観念(妄想・幻覚)にその吐け口を見出すのだ、という

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あの夜の東京は

あの夜の東京は

夢を見た。
わたしは少し離れた高台にある家の屋根の上に座ってぼんやりと海を眺めている。
夕暮れに染まる砂浜で子供達が楽しそうに遊んでいる。彼らは遠い昔残酷な方法で殺された子供たちだ。
ある子供は戦争で、ある子供は親の手にかけられて、ある子供は貧困の果てに。楽しそうに声を上げて遊ぶ子供たちからはちきれんばかりの狂気と悲しみが伝わってくる。
私の隣にはさえないスーツ姿の小さな男がいる。彼が誰なのかは分

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長い時間

2014-05-19

「きみ、いま泣きそうな顔をしているよ」そう言われて拍子抜けした。そんなわけないじゃないの、どちらかというと笑いたい気持ち、そう思っていたのに、その瞬間、口元が震え出して涙が出てきた。さっきから頭の中が熱くて仕方なかった理由が分かった。
わたしは目の前にいる相手を通して過去と出会い続けているんだと思った。これはいつか終わるの、真っさらな瞳であなたのことを見つめられる日が来るの

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明日の向こう側に行く

私は勉強ができない。
中学に入学するのと同時に、自分は数学が苦手なのだということをお腹の底から理解した。分からないことだらけのこの世界で、数学は私をむやみやたらに引っ掻き回して混乱の中へ引きずり込む。ただでさえ悩み多きティーンエイジャーの私に、文部科学省はなんということをさせるのだろうと思った。
中学の数学の授業で「-3×-3=9」と先生が黒板にカンカンカンと書き付けた時、頭の中に100個くらいの

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8月

それは丁度、太陽が天頂から傾き始める頃だった。家路まで殺風景に延びるコンクリート上で、よく熟れたみかん色のリュックサックは、恰も私の視界への飛び込みを切望しているかのように非常に映えて見えた。それを網膜で捉えた瞬間体は硬直し、早鐘が激しく鳴り響いた。
思わず、息を飲んだ。
それがあまりにもあの人の所持しているものと類似していたからだ。もしかしたらあの人かもしれない。期待を胸に、思わず駆け出した。

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朝を待つ

朝を待つ

赤髪の女が駅の改札前で誰かを待っている。僕はぼんやりと彼女の足元に目をやる。黒い編み上げのバレーシューズに白いソックス。奇抜な風貌に似合わない、少し怯えたような目元。
この街のヒステリックな喧騒の中に身を置くと、僕はいつも自分の中にある空洞に気が付いてしまう。身体が透明になっていくような気がするのだ。感覚器だけを残して、まるで夕暮れの中に自分が消えていくようだと思う。僕はただこの街の気配を感じてい

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「ひとりで君は泣く 断りもしないで」

生きているだけで好きだよと言うので、死んだら嫌いになる?と訊けば、もーあなたって本当に、と声をあげて笑い少し間をおいて、死んだって好きだけどやっぱり生きてる方がいいねと微笑んだ。
わたしのことをとんだロマンチストだとたびたび揶揄うけれど、あなただって大概だ。わたしもあなたが好き。生きていても死んでいても。ただ好きなんだよ。

レイトショーの上映時間をラウンジで待っていた。時計は二十一時を回っている

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寓話

あるところにひとりの子どもと、背の高いひとと太ったひと、それからとても小柄なひとがいた。
太ったひとは楽しい話をたくさん知っていて、いくつもいくつも子どもに話して聞かせた。
小柄なひとはほんのひとつふたつの言葉しか話すことができなかったので、笑い転げる子どもの隣にただ座り、黙って一緒に話を聞いた。
背の高いひとはいつでも真っ赤な顔をしていて、ありとあらゆるこわい話を次々話すことができた。
彼の声は

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名指しと影

均質な光のもとには影がないのでなにも立ち上がらない
白くすみずみまでのっぺりと冴えわたってとても清潔だ
青ざめた紙の上でわたしたちは愛し合うそこに謎はない
ぎりぎり光を強めてじりじり目をこらして明日のための
紙のしみをみつけなければことばがうしなわれてしまう

まぶたのうらに過去の光の強弱が埃のように沈んでいく
ことばとは強弱であり差異であり生をひきのばすための
静寂と喧噪の波をまるごと受け入れる

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死神の横顔

アイスコーヒーをそそいだグラスのなかに
黒い小さい虫がとびこんできてそのまま
インクの染みのようにくたっと浮いて
縁にゆらゆらと流れ着いていく
コーヒーのうえにできた溶けた氷の透明な層の静けさをみながら
わたしはただグラスをながめていた時間の長さを知る

濃紫色のうつくしいあざみが
炎天下の駐車場の傍らで光を跳ねかえし群生しているのを
毎日みながら駅まで歩いた
両手でも抱えきれないほどのあざみが

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かつてきみと渡った橋は

だれもが立ち去ることができる街角までともに歩いた。川の底にある小石のことばで語りかけることができればきみをひきとめることができると信じたかった。きっと見送ることができないという理由でひきとめたかった。

かつてきみと渡った橋はほんの一瞬のキスにすぎなかったが、背後には暗がりがひろがっていて、私たちの後ろ姿はその暗がりに刻印されていて、でもふり返るだけでは見ることができない、それは夜の中の夜なのだと

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書き残した文字がそこに切り取られた過去の匂いを鮮烈に蘇らせる、数日前の気持ちも、一年前の気持ちも、変わらぬ色の濃さを帯びて

拝啓 朝顔の青の開き初める此の頃

拝啓 朝顔の青の開き初める此の頃、いかがお過ごしですか。七月一日の夜がやけに肌寒かったのを憶えていますか。今は七月十三日の夜、摂氏三十五度の昼を冷房に守られて過ごし、都合よく真夜中の涼風を愉しんでいます。ずるをしている。こうやって、耐えるべき困難をひょいとエスケープして、のうのうと、しかし強い引け目を感じながら、暮しているのがわたしの生です。狡いのです。その狡さが情けないのです。

 あなたが手紙

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