拝啓 朝顔の青の開き初める此の頃

拝啓 朝顔の青の開き初める此の頃、いかがお過ごしですか。七月一日の夜がやけに肌寒かったのを憶えていますか。今は七月十三日の夜、摂氏三十五度の昼を冷房に守られて過ごし、都合よく真夜中の涼風を愉しんでいます。ずるをしている。こうやって、耐えるべき困難をひょいとエスケープして、のうのうと、しかし強い引け目を感じながら、暮しているのがわたしの生です。狡いのです。その狡さが情けないのです。

 あなたが手紙の中でわたしの名前を繰り返し書いているのを見て、ああ、そういやあ、わたしは鞠子だったな、と少し新鮮な感じすらした。気恥ずかしくもあった。気がつけば、いつの間にやらわたしから鞠子という名前が剥奪されて、ひらがなの、つまり音だけの 〈まりこ〉 であったり、自分で自分につけた名前、例のアルファベットだったり、それから親友の女の言うことには、世間においては小田鞠子よりも 〈オダマリコ〉 のほうがはっきりとした輪郭をもっているらしい。わたし自身はここにいるのに形骸化しているその名前について、不思議な気分だが、嫌だとは思わない。小田鞠子は世間というところでは、どうも、もはや、定かでないみたいだ。過去には確かに世間に小田鞠子がいたし、今だってシステムの中にはきちんと存在する、住民票もあれば保険証もあるというのに。ただ人々の中にだけ居ないらしい、どうも。

 振り返れば、ずっと 〈オダマリコ〉 を製作してきたように思う。そう考えると、今のこの形骸化は、かねてよりの目標に近づいている証左だろうか。そうならば、まだ足りない。肉も骨もない。輪郭だけがぼんやりとあるのではだめだ。彼女が完成すればわたしの焦りは昇華してくれるのだろうか。(わたしの焦りを見抜いて、それを好いてくれるひとが時々現れるのだけれど、かれらに好かれる時にだけ一瞬、一瞬安堵します。)

 昨夜のことです。どんなに豊かな愛情を与えられても、こちらにそれを受けとる余裕や、覚悟や、渇望がない、つまり時機でないと、その大いなる愛は霧消の一途を辿るしかないらしい。と、車の轟音がコンクリートに響く甲州街道をとぼとぼ歩きながら考えていた。愛情をやりとりするのは本当に難しい。あなたが相手の器や価値観を責めるのはわからなくもないけれど、やはり時がものを言うように思う。時、環境、翻弄、命運。状況を正確に想像することで、仕方ないと諦め、ままならないと身をよじる。そうして恋のすべてをわたしの身に引き受ける。そんなやりかたが、心の平穏をもたらしてくれるのではないでしょうか。

 愛について身の丈に合わせて考える機会を与えてくれるから恋は尊い。何年も前に、一度、愛の定義を見つけたことがありました。自分の好物が目の前にあるとき、相手が美味しそうにそれをほおばっているのを見て、自分が食べるよりも相手に差し出したいと思うその感覚。過不足ない表現だと今でも思う。けれどもいざ恋をふまえたとき、これはアウグスティヌスの言なのだけど、「あなたが存在してほしい」、この祈りに尽きると感じられたのでした。そうして、手紙の結びに、「どうかお体ご自愛ください」と書き落とす。どうかあなたが存在してほしい。 敬具