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朝を待つ

赤髪の女が駅の改札前で誰かを待っている。僕はぼんやりと彼女の足元に目をやる。黒い編み上げのバレーシューズに白いソックス。奇抜な風貌に似合わない、少し怯えたような目元。
この街のヒステリックな喧騒の中に身を置くと、僕はいつも自分の中にある空洞に気が付いてしまう。身体が透明になっていくような気がするのだ。感覚器だけを残して、まるで夕暮れの中に自分が消えていくようだと思う。僕はただこの街の気配を感じているだけの存在になってしまう。なにも悲しくない代わりに、一切の喜びも感じられないのだ。
いつからこの空洞を抱えているのか僕はもう思い出せない。物心がついた頃には、これは僕の中にあったような気がする。
十一年前の夏に、母親が男を作って家を出て行った。
困り果てた父親は、僕を叔母に預けたままほとんど家に帰らなくなった。一緒に住んでいるといっても、叔母のことはよくわからない。自室に閉じこもりがちの彼女の姿を、家の中で見かけることはほとんどないからだ。
六歳の僕は自分の家族に起こった事柄の全てを本能的に理解していたけれど、それを言葉にすることはできなかった。そのかわり、風が通り抜けるのを精緻に感じられるほど、現実じみた空洞が僕の中にできあがった。
あの頃の僕は、何かに取り憑かれたように毎日何時間も勉強ばかりしていた。そうすれば取り戻せると思っていたのだ。母が台所で鼻歌を歌いながら手料理を作り、僕と父はリビングのソファーでテレビを観ながらぼんやり過ごしている。そんな当たり前の風景を。
しかしもがけばもがくほど、僕は世界から疎外されていくようだった。子供らしさを忘れて一心不乱に机に向かう僕を級友たちは奇妙な生き物を見るような目で見ていた。学校で孤立していく僕を父親は腫物のように避け、叔母はますます自室に引きこもるようになった。
注ぎ続けられたコップからある日突然水が溢れるように、ある時限界がきて僕はベットから起き上がることができなくなった。摂食すらも面倒だった。高校に入学した頃の事だ。
まるで突然の啓示のように、僕ははっきりと理解した。ああ、僕は捨てられたのだと。この家は緩慢な不用物処理場なのだと。僕を守ってくれる人はもう誰一人いないのだと。子供にとってそれ以上に残酷な事実などあるだろうか?
恐怖と不安が常に僕を満たし、いつも鈍い重りが身体にくっついているようで、ようやく夕方前に寝床を抜け出した。父親は学校に行くことができなくなった僕を家の中で見つけては鬱陶しそうな顔をしていたが、何か言われることはなかった。家に居るのが億劫で仕方なかった。
簡単に絶望できていたのなら、それは存外に楽なことだったのだと思う。しかし僕の中には、希望と呼ぶにはあまりにも残酷すぎる生々しい感覚があった。僕はそれを探し求めることをやめられなかった。もうこれ以上失えるものなど何もないのに、それでも求め続けざるを得ないという事実こそ僕にとって絶望意外のなにものでもなく、まるで救いを信じて阿呆のように神に跪く、愚かな信仰者のようだよと常に自分を嘲笑い、またどうしようもなく打ちのめされた。
僕は重い身体を引きずりながらあてもなくありとあらゆる場所を彷徨い、隣街の古ぼけた喫茶店にたどり着く、という毎日を繰り返していた。
彼女に出会ったのはそんな生活を一年ほど続けたある日のことだ。
あの日も僕はいつものようにカウンターの隅を占領して、永遠に感じられる永い一日を塗り潰すために本を読んでいた。物語りを読んでいるほんの束の間だけ、僕は僕であることから解き放たれることができた。
夕方頃、少し前から隣の席で一服の煙草をくゆらせていた彼女がおもむろに声をかけてきた。
「ごめんなさいね、突然。私もその作家が好きなの。話しかけようか迷ったのだけれども。」
ショートボブに刈り込んだ赤髪の間から、色彩の温度を失ってしまったような白い顔が覗いていた。首元にはクロスのついた黒いチョーカーが揺れている。
僕が戸惑った表情を見せると、ゆったりとした笑顔を浮かべて穏やかに彼女は言った。
「君が毎日ここに来ているのを知っているよ。少しお話しをしましょうよ。」
その顔は柔らかく微笑んでいるにも関わらず、どこか作り物のようで嘘っぽい。きっと化粧が濃すぎるのだろう。
黒い編み上げのバレーシューズに白いソックス。奇抜な風貌に似合わない、少し怯えたような目元。
薄い冷気の幕で覆われたようなひんやりとした雰囲気に怖気づきながらも、彼女へ視線を投げかける自分を止めることができなかった。
きっと僕は懇願するような表情をしていたのだと思う。彼女は少し笑ってから、何かを了解したように僕をじっと見た。
彼女は僕よりも五つ歳上で、この喫茶店の近くに住み、夜は新宿のレストランでウエイトレスのアルバイトをしているのだと言った。別れ際、ノートの切れ端ににメールアドレスを書いて交換した。
同じ喫茶店で何度か二人で逢ったあと、彼女は僕の恋人になりたいと言った。余裕のある表情だった。そう申し出ることは彼女にとっては造作もないことだったのだろう。僕はゆっくりと頷いた。
例えばそれはビルの屋上から街を見下ろしているうちに、夜景に惹きこまれて飛び込んでしまう心理に酷似していたと思う。一瞬後に取り返しのつかない後悔をするとしても、空の上には平安があると信じたのだ。
孤高を思わせる彼女の硬質な眼差しは、その日から僕にとってたった一条の希望になった。
それからどんなふうに彼女と日々を過ごしたのかあまりよく覚えていない。あの古ぼけた喫茶店で週に何度か顔を合わせていたはずだけれど、あまり自分のことを話さない彼女の何かを、僕が知ることはなかったような気がする。
彼女の印象は毎日目まぐるしく変化した。ある日は無邪気な少女のようで、ある日は何もかもを失った年老いた未亡人のようだった。繋がらない断片がいくつもの歪な像を結んでは消えていく。もしかして僕だけが彼女を見ているのかしらと疑わしくなるほど、それは奇妙な浮遊感のある時間だった。
恋人とは名ばかりのあまりにも礼儀正しい態度で僕は彼女に接し続けた。僕は圧倒的に孤独だったが、孤独によって他者と結びつく無作法ほど恥ずべきものはないと思っていた。僕は世界に期待することをやめられなかった。そして、目の前の彼女は僕にとって世界との唯一の接点だった。
しかし終わりはあまりにもあっけなかった。
一度だけ彼女の部屋を訪れたあの日のことを今でも鮮明に覚えている。真夜中に電話で呼び出されて何事だろうと急いで駅まで迎えに行くと、ほとんど意識がない酩酊状態の彼女がそこにいた。
改札前のブロックに腰掛けた彼女の目元は涙で濡れて、声が上ずり、少し捲れたスカートの裾から白い太腿がのぞいている。そんな彼女の姿を見たのは初めてのことで僕は少なからず動揺していた。仕方なく彼女の右肩を支えながら脇道に入った。彼女の細い指先が僕の脇腹に絡みつく。なぜかは分からない、しかし僕はなにか途方もなくセンチメンタルな気持ちだった。
彼女の部屋は、繁華街から少し離れた静かな路地裏のアパートの二階にあった。
彼女のバックから鍵を探し出し、部屋のドアを開ける。間接照明のスイッチをつけると、薄明かりの中に一人で暮らすには少し広すぎる1LDKの部屋が浮かび上がった。
リビングには古びたダイニングセットとセミダブルのベットが置かれて、ソファの上には黒いキャミソールと、男物の上着が無作為に放置されている。洗面所の隅にはひげ剃りと、流しにペアのワイングラスがあった。
部屋に立ち込めている燻んだ花の香りは、まるで知らない女の人の匂いのようだった。
ゆっくりと、しかし確実に指先から感覚が失われていく。
彼女は戸口で呆然と立ち尽くしている僕の手を掴み、僕の身体を軽く引き寄せる。
身体が緊張を帯びるのを感じる。
彼女は白いシーツが張られた祭壇のようなベットに僕を連れて行き、まるで子供にそうするように僕をそこにゆっくりと寝かせると、可笑しそうに笑いながら白い衣服に包まれた身体を重ねてきた。
冷たい頬が僕の肩に柔らかく触れる。
人形のように無機質な彼女の身体を受け止めた時、その冷たさは彼女の中に僕と同じ空洞があることの証明なのだ思った。
そしてどこまでも彼女がそれに無自覚であることも。
彼女の漆黒の瞳が、僕を覗き込んで小さな女の子のように笑う。
大きな獣の気配を予感した動物のように僕の五感は研ぎ澄まされていく。
彼女の手のひらが僕の脇腹から胸を通り、首筋をなぞっていく。そして指先がほおに触れると、僕の耳元に吐息が流し込まれた。その瞬間痺れるような悲しみが僕の身体を駆け巡る。僕は動けなかった。
彼女はそのまま全ての動きを止め、僕の肩に強く頬を押し付けてきた。やがて耳元で彼女の小さな寝息が聞こえ始めた。
規則正しい呼吸の音を数えながら、僕は祈るような気持ちで朝を待った。
まるで今日まで心を尽くして信じてきた神様がただの偶像でしかなかったことに気付いてしまった者のように。
それでも彼に向かって助けて下さいと祈ることをやめることができない宗教者のように。
どれくらい時間が経ったのだろう。灰色の光が窓から差し込んで、新しい一日のはじまりを告げている。
僕の隣では白い顔をした彼女が眠っている。まるで時間が止まってしまったみたいだと僕は思う。
彼女を起こさないように静かにベットを抜け出すと、荷物をまとめて僕は部屋を後にした。
始発電車を待つ間に、駅のホームから見た風景が今も目に焼き付いている。朝焼けが向こうからやってきて、ありふれた東京の街並みの隅々を照らし出ていく。それは昨日まで見ていた世界と同じ世界なのかと疑わしくなるほど、痛々しく鮮烈な光景だった。
次の日に彼女から長いメッセージが届いたが、僕は返事を返さなかった。
それが彼女と過ごした最後だ。
あれから一度だけあの古ぼけた喫茶店で彼女を見たことがある。彼女と最後に会ってから数年の時間が流れていた。真昼間の眩しい光に照らされて、彼女の輪郭はあの頃よりもずいぶんはっきりとしていた。背の高い男と一緒で、彼と何かを真剣に話し込んでいる。彼女はもう呂律の回らない話し方もしていなければ、マーチンのブーツを履いてもいなかった。男を真っ直ぐに見つめて、明瞭な声で何かを述べていた。仕事の打ち合わせなのだろうか。男がゆっくりと相槌を打つ。
しばらくして彼女は男と席を立つと、後方の席に僕の姿を認めた。目が合うと、彼女は少し目元を歪ませて何かを深く憐れむような表情をしたあと、何事もなかったように目をそらして僕の席のすぐ近くを通り抜けていった。美しい黒髪を肩で切りそろえ、紺のブレザーを着込んだ彼女は、自分の生活に向かい合う大人の女の人に見えた。
暗闇の中でそれぞれの階段を踏みしめる音だけが響き、お互いがすれ違う暫らくの間、ただ光に包まれる。愛してもいなければ、何かを分かち合うこともなかった。奇妙な合致の感覚と共に、僕の中ではじめてはっきりと彼女の像が結ばれる。彼女は笑っている。まるで小さな女の子のように屈託のない笑顔で。
感覚器官だけを残してゆっくりと、僕の思考は喧騒の中に消えていく。

#小説

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