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あの夜の東京は

夢を見た。
わたしは少し離れた高台にある家の屋根の上に座ってぼんやりと海を眺めている。
夕暮れに染まる砂浜で子供達が楽しそうに遊んでいる。彼らは遠い昔残酷な方法で殺された子供たちだ。
ある子供は戦争で、ある子供は親の手にかけられて、ある子供は貧困の果てに。楽しそうに声を上げて遊ぶ子供たちからはちきれんばかりの狂気と悲しみが伝わってくる。
私の隣にはさえないスーツ姿の小さな男がいる。彼が誰なのかは分からない。父親のようでもあり、長い間慣れ親しんだ恋人のようでもある。
男がゆるやかに歌い出す。耳をすまさなければ聞こえないくらいの微かな声で。甘く、低く、美しく、すべての懐かしさの根源を思い出しそうになる声。
歌声がオレンジ色の砂浜にゆっくり静かに広がっていく。その声が子供達をゆっくりと癒していくのがわかる。子供達の姿がひとり、またひとりと砂浜から消えていく。笑い声が聞こえる。
背後から濃紺の夜がやって来る。

東京の夜はこの世界にあるどんな夜よりも深い場所にある。外国には一度も行ったことはないが、彼女はそう確信している。
真夜中、名前しか知らない男と路地裏を歩いている。アルコールを大量に摂取した彼女の頭はショートしていて、足取りは覚束ない。
男とは、会社の残業帰りにふらりと立ち寄ったバーで知り合った。小柄で無口な少年のような佇まいに興味を惹かれて、彼女の方から声をかけたのだ。
「始発電車までどこで過ごそうか?深夜営業の喫茶店に行く?」
少し掠れた小さな声で、彼は彼女に提案する。終電を逃して男と一緒に居ることを選んだ彼女に、彼はあくまで紳士的な態度を崩さない。
君の部屋に誘ってくれれば簡単について行くのに。柔らかな髪に見え隠れして光っている、銀色のピアスを見つめながら彼女は思う。しかしきっと、彼はそんなことを言いださない品の良い人間なのだ。彼のことなど何一つ知りはしないが、それくらいは彼女にも分かる。
彼女が東京で暮らしはじめて、今年で10年目になる。
いつからそうなのだろうか。もう思い出せないほど前から、彼女は一人の部屋にいることが苦痛で仕方なかった。寝苦しいベットに横たわり、手持ち無沙汰に携帯の画面を見つめていると、無限に続く重苦しい不安の中に閉じ込められてしまったような気がする。なぜかは分からない。しかし夜がやって来るのが途方もなく怖いのだ。
点々とネオンが灯る灰色の街並みを、色とりどりの春服を着込んだ人々が通り抜けて行く。軽口を叩きながら、女の肩を抱く千鳥足の大きな男。少しよろめきながら彼を受け止める背の低い女。酔いは、何か途轍もなく楽しいことが始まりそうな幻想を若者達に見せていて、みんな上機嫌だ。
「ねえ、もう歩くの疲れちゃったよ」
彼女はそう言いながら、ふと立ち止まると、人通りのない軒先のシャッターにもたれて座り込む。
「ハナさん、子供みたいなことを言わないの」
優しく笑いながら隣に腰を下ろした男の肩に、彼女はそのまま体を預ける。彼女の中に幸福な記憶の影がよみがえる。幻のように淡い色をした夜の中で、男の体から漂う甘い匂いが彼女を満たしていく。この街を柔らかく包み込んでいる香りと同じ匂い。きっと死の瞬間にも、彼女はこの孤独の匂いを思い出すだろう。
東京という街の真ん中には、深い淵が横たわっているのだと彼女は思う。
白い静寂の中でこの世界の聖と俗を結晶にしたような、美しい混沌が流れている淵。
そこでは記憶はただの記号でしかなくなり、自分が今までに考えていたような自分自身ではなかったことに気付く。
極限まで回転が緩やかになった頭の中でぼんやりと、もう二度と彼には会うことはないだろうと彼女は思う。
全てが一つの表れなのだとすれば、失った幸福の鎖に繋がれ続けている彼女の姿は一体何を表現しているのだろう。彼女は何かから目を逸らすように、東京の夜の中で踊り続けていたいのだ。
#掌編

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