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両手に春の温もりをもつあなたへ

好きな人がいた。逞しい体躯に不釣り合いな猫背、褐色で肌理の細かい肌、塩素で縮れた毛先、血色の良いふっくらとした唇。 カーテンの隙間を縫った西陽が柔らかな色素のを目掛けて差し込むと、その瞳にも小さな夕暮れがやってくる。 ファイヤオパールの双眸を持つ男。 その両手には春のぬくもり。 あなたは唄うことを知らない人。自分を許すことを知らず、まともな愛情を与えられずに育った人。獣の体温で抱きしめる人。泣いている目で何度も私を射す人。 それから...

    • 4月

      どこまでも穢れを知らない、大きく瞠かれた双眸。中央に瞳孔をもつ薄膜は個々で模様が異なるために指紋と同じ役割を果たすと聞いたことがある。それさえあれば私は、あなたが原型をとどめなくなったとしてもあなたを見つけることができる。あなたを愛している。 あなたの笑顔を思い出すたびに胸が張り裂けるように痛む。その度に絶望に飲まれ立ち尽くしたあの時のあなたの横顔を繰り返し塗りたくり、傷口を修復していく。だってあなたを愛している。 だからあなた、どうか私の思いを汲んで、世界一不幸な幸福者

      • 12月

        あなたの項に噛み付くようにして身を預けると、左側からぱちぱちかさかさと微かな音が耳朶をなぶる。生理的機能として備わっている、目蓋が角膜を潤すための不随意運動に伴う音だ。 こんな話を知っている?気温が氷点下50度まで下がると大気中の水分は結晶となり霧氷が発生する。人の吐く息も同様にして、耳の辺りで微かな音をたてる。極寒の地であるシベリアのヤクートではこれを星のささやきと呼んでいる。 あなたの瞬きの側ではいつもその光景が脳裏を掠めた。一面に広がる雪景色、ヤクート馬は鬣から霜を落

        • 7月

          10月下旬に早朝の冷え込みを恐れて引っ付け合う肌よりも、8月の中旬に冷房の設定温度を最下にして寒い寒いと身体を寄越すわざとらしさが好きだった。それでも眠りにつけば幼子のような寝汗でぐっしょりと寝巻きを湿らす癖に、決して不潔を感じさせないそれを時々疎ましく思った。 思い出すのはいつも、無防備に腹を見せ、柔らかい寝息をたてて眠る横顔だった。カーテンの隙間から忍び込む電灯の切れ端は丁度あなたの顔を射し、時折ピクリと震える睫毛を黄金色に縁取った。浮遊する塵を背景にしたそれはあまりにも

        両手に春の温もりをもつあなたへ

          1月18日

          長い沈黙の後、それでもどうしたって会いたいと零した私だけの人。 1月18日。極寒の中、閑散とした通りに一人佇んでいる。凍てつく寒さが容赦なく気管に滑り込んだ反射で飛び出した咳嗽音が住宅街の隙間を満たす。辺りに生き物の匂いはせず、無機質に違和感なく溶け込むこの肉体は既に死んでいるのかもしれない。 あなたを待っている。 女の子は体を冷やしたらいけない、暖かくして待っていなさいという宥めるようなお叱りに背き、くたびれたアスファルトを踏みしめここで待っている。それは早く、少しで

          1月18日

          6月

          丁度一年前のことだ。親知らずの抜歯を目的に近医へ足を運んだところ、歯の不自然な均等さを指摘されたという。そしてそれがおそらくは歯軋りによるものだと結論付られたらしい。顎の力が人より少し強いから研磨する力も強いんだってと付け加えるので、それならばマウスピースを付けた方がよいではないのかと提案するも、もしも覚えていたら再診日にでも聞いてみるかなと腑抜けた声音で返すのだった。 それから私は毎晩、あなたが眠りについた後に耳を凝らしていた。その歯が研磨され、縮まっていく様子を想像す

          2月

          冬が来るとたくさんのアイスを買い込んで、冷蔵庫の奥の方へまるで2人の秘密のように隠した。あなたはよく布団でお菓子を食べてはならないと私を嗜めたが、アイスだけは特別で、風呂上がりの上気した身体を絡ませながらアイスの冷たさに顔をしかめては笑った。 「もう春だね」と猫型のカレンダーを指差しながら、いつものように撫でるようにして指を絡ませた。思わず「こんなに肌寒いなんて、春はまだまだ先だよ、来なくたっていい」と返し、繋いだ手を振りほどいた。 一瞬驚いたようだったが、すぐに破顔して「

          3月

          どうしても今会いたい、下に来ているから出てきてと切羽詰まった調子で連絡を寄越したのは初めてのことだった。 鍵もかけずに寝巻きのままで階段を駆け下りると、赤く褪せたレンガの一部分を何色も重ねて塗りつぶしたような暗い人影が視界に飛び込んだ。それは使い古された人形のように項垂れて、身動きひとつせずにそこに立っていた。 駆け寄る足音に影は顔を上げた。その瞳に安堵の色を感じった直後、外灯が照らす形の良いふっくらとした唇の輪郭の形で私を呼ぶのがわかった。よれた笑顔を貼り付けた顔だった。

          5月

          大水槽を縦横無尽に遊泳するエイに感嘆の声を漏らした。分厚いガラスに身体を張り付かせて、 「俺とこのエイではどちらが大きい?」 と、迫真に満ちた表情をしてみせる。思わずこみ上げる笑みを殺して、極力無機質にエイの方がと答えると、再び大袈裟に驚いてみせて同じ質問を繰り返す。そんなくだらない遊びで、お互い腹を抱えて笑った。 「こちらへ来て、穴場だよ」 手を引かれながら薄暗い方へ向かうと、一枚のガラス越しに先程のエイが足元を往復する。 「この大きさなら僕たち2人で乗れるから、足を

          1月

          30cmもの積雪に浅いムートンブーツは酷く不釣り合いだ。体温で溶け出した雪が容赦無く爪先に噛み付く。皮の靴を履いてくればよかったと、ムートンブーツの側面がなるべく雪に触れないように彼がつけた足跡を踏みしめ歩く。靴底の面積も歩幅も大いに男を感じさせるものだ。 「雪なんて嫌い、こんな氷のようでさ」 振ってみせた手を、振り向いた彼が笑いながら掴む。 「別に冷たくたっていい、僕の手が暖かければ君の手が氷のようでも関係ない」 彼の口端から白い息が漏れる。空中に浮遊する塵を取り巻く水蒸気

          明日、君がいなきゃ困る

          私が話した些細なことをよく覚えていた。ある雨の日に唄っていた歌、コンビニで買ったチョコレートの陳腐さへの不満など、私自身がとっくに忘れてしまったことを時々思い出し、楽しげに話した。驚く私に「だって僕は手帳を持ち歩く意味を持たないのだから」としたり顔で言いながら、友人との約束は忘れていたでしょう。 暖かいあなたが好きで、その抱擁が僅かなしこりを残した全ての悲しみを吹き飛ばした。あなたさえ側にいれば何もいらなかった。真冬に凍てつく指先も全てあなたが溶かしてくれた。 誰も知らないあ

          明日、君がいなきゃ困る

          6月

          何ヶ月か前、珍しく私たちは言い合いをした。何らかの取り決めの最中に、あなたへ無秩序を押し付けたことが発端であったと思う。稚拙な挑発を交わすことなく真正面から反発するなんてあなたらしくないし、私だってあの日はいつものような余裕はなかった。その頃はお互いに仕事関係で疲弊していたことが大きく影響していたのかもしれない。 仕掛けた手前、引き下がることはできないと半ばヤケクソで声を荒げていたが、あなたは何の前触れもなく私の手首を掴み持ち上げた。 「あなたの手はいつも冷たいね」 そう

          8月

          それは丁度、太陽が天頂から傾き始める頃だった。家路まで殺風景に延びるコンクリート上で、よく熟れたみかん色のリュックサックは、恰も私の視界への飛び込みを切望しているかのように非常に映えて見えた。それを網膜で捉えた瞬間体は硬直し、早鐘が激しく鳴り響いた。 思わず、息を飲んだ。 それがあまりにもあの人の所持しているものと類似していたからだ。もしかしたらあの人かもしれない。期待を胸に、思わず駆け出した。 コンクリートの灰色を手繰り寄せるように近づけば、それは見覚えのない背中で、立ち

          3月

          起き抜けに与えられた愛と気怠い下半身、秒針と律動するあなたの寝息。滑らかな胸元に耳を当てると、肋骨内で反響する心臓弁の閉鎖音が眠りの柔らかな澱みを孕んで目の奥を微かに揺さぶる。時々目蓋を持ち上げ、羽ばたきのような音を立てるカーテンから漏れ入る筋状の光があなたの頬を掠める様を眺めていた。 例えば、9時には家を出て遠くへ行こうよと取り付けた約束を何度も反故にした私をつまらない女だと咎めたことは1度だってなかった。目が覚めた時、あなたは決まって「おはよう、疲れはとれましたか?」

          6月

          「夏が来たら、バーベキューをしよう。僕を支えてくれている人達に君を紹介したいんだ」 今までに彼は何度も私を友人に紹介したいと言ったが、職場の先輩方に会ってほしいと頼まれたのは初めてのことだった。会えば彼等の話ばかりしていたにも関わらず、どうして友人と同様に私を紹介しないのかと一度だけ理由を聞いてみたが、「追求されることが面倒だから」と言っただろうか、僕は君と付き合うまで2年間も彼女がいなかったから、君のことを無闇に根掘り葉掘り聞かれたくないのだと。 初めてお会いする方々の口