3月

どうしても今会いたい、下に来ているから出てきてと切羽詰まった調子で連絡を寄越したのは初めてのことだった。
鍵もかけずに寝巻きのままで階段を駆け下りると、赤く褪せたレンガの一部分を何色も重ねて塗りつぶしたような暗い人影が視界に飛び込んだ。それは使い古された人形のように項垂れて、身動きひとつせずにそこに立っていた。
駆け寄る足音に影は顔を上げた。その瞳に安堵の色を感じった直後、外灯が照らす形の良いふっくらとした唇の輪郭の形で私を呼ぶのがわかった。よれた笑顔を貼り付けた顔だった。
少し、疲れている。
その擦り減った頬に触れようと近付くと、思い切り体を引き寄せられた。
「今日の上司は容赦なくってさ。だから、充電。」
弱音を吐く人の力強い温もりが腹や背中を通して瞬く間に全身をめぐり、思わず強く抱きしめ返した。そうしながらも誰かに見られちゃうよと慌てると、見られたっていいじゃないかと今度はいつもの調子で破顔した。
深夜を目指して着実に傾く夜空、通りは森閑として車さえ通らないから、いや、誰かが通りかかったとしても、今この瞬間、この世界はふたりだけのもので、私たちにとってそんなものはさして重要ではなかった。

あなたの肩越しに空を仰いだ。よく晴れた夜空で、足音も立てず忍び寄る春が冬を追い立てるように私の視界を埋め尽くした。恋人になってまだ間もない頃に足を運んだ星野村であなたが唯一知っていると言ったアルデバランも、エウロパを乗せたまま、いつかは華々しく砕け散るのだ。

あなたの春が、更には夏が、幸せなものになりますように。これからのあなたを幸せにするであろう人が、少しだけ不幸でありますように。私は祈る。この願いが夜空を切り裂く流れ星に乗ってあなたの元へ何度でも届きますように。そして、あの願いが燃え尽きる寸前の塵と共に孤独に苛まれながら永遠を彷徨い続けますように。