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「なりたい自分」そんなもの、いまの自分には…。

「なりたい自分」いまの自分にそんなもの…。

「なりたい自分」
私は、この企画テーマを目にした時、
「そんなものない、あるわけない」と、とっさに思い、
実に身勝手な話だが、正直ほんの少しの苛立すらおぼえた。
心の中が一気にザワザワし始めた。
生きることがつらくてたまらない、そんな自分の人生を終わらせようとした過去が、私にはある。
非常に不謹慎で、お叱りを受けることも承知しているが、
いまだに、懸命な処置により命を助けてもらい、今を生きていることを素直に喜ぶことができない、複雑な感情を持つ自分がここにいる。
「生きること」が、つらく苦しく感じる気持ちが強くなるときはなおのこと、救命のおかげでいまを生きている自分の命に不快感を抱く。
なぜなら、来る日も来る日も、
毎日「死ねなかったから、生きてしまった一日」を過ごしているから。
何日も何週間も何ヶ月も、そして気づけば数年過ごしていた。

『「なりたい自分」なんてあるわけない。そんなものはいつの間にか消えた、捨てた。全部捨てて何もない。自分の苦しい人生から解放される日を待っているだけだ。』と、心の中でつぶやいた。

私の年齢は、20代後半。気づけば、「30」という数字が目前に迫っている。
現在私は「うつ病」によって休職中だ。今年の夏で丸二年になる。
通院治療は継続しているものの、なかなか回復の兆しは見えてこない。
一歩進んで三歩下がっているような気がする。
復職は、絶望的だ。期限はあと一年。これが不可能となれば、自動的に退職だ。
せっかくつかんだ「夢」。一生懸命つかんだ「夢」。
それは今まさに、手のひらから、サラサラの砂のようにこぼれ落ち続けている。
あと少しで、手の中は空っぽだ。

私は、物心ついたときから「生きることはつらいこと」だと思っていた。
そう思うことは、誰にとっても当たり前のことだと思っていた。
様々な経験を経て社会人になり、「うつ病」を発症するあたりから
「生きるのがつらい」から、「自分は生きる意味も価値もない」「自分が生きているだけで周りに迷惑」「この人生を早く終わらせたい」「消えてしまいたい」などのことを非常に強く思うようになった。
そして、この文章を打っている今この瞬間も、繰り返し巡ってくる毎日も、そのように思って過ごしている。

一体、なぜそんなことを思うのだろう。

それは疾患による症状のひとつなのかもしれない。
しかしそれに加え、そのように思う要因の一つとして、
なりたい自分」と「現在の自分」があまりに遠くかけ離れており、
あるいは、どんどん遠ざかっていく。
到底かなうことなどないという、「絶望やあきらめ」「未来への希望の消失」があるのかもしれないと思った。

かつて、心身共に健康だった頃は、私にもぼんやりとだが、「なりたい自分」があったはずだ。
いや、たしかにあった。
だから、この企画を機に、自分が思い描く(思い描いていた)「なりたい自分」について書き記す。
いつか、ほんの少しでも叶うことを願って。

「なりたい自分」と「現実の自分」 絶望と希望

「なりたい自分」、いまの自分は、考え始め、思いをはせるととキリがない。なぜなら、いまの私はあまりに多くのものを失い、何もできなくなってしまったから。
それらを取り戻すことからか考え始めると、あれもこれも、と全く収集がつかない。
だけど仕方ない、これが現実だ。
列挙すればするほど、「やっぱり無理だ、叶うわけない。人生大失敗」なんて思ってしまう。
そんな希望と絶望が入り混じった複雑な気持ちではあるが、書くのは自由。よく、書いて可視化すること、周囲に公言することで夢に近づいた、なんてことを聞く。
だから、多少、いやかなり欲張りではあるが、
大きく三つの「なりたい自分」とその理由を以下に述べる。
(※長くなりますが、お付き合いいただけたら幸いです。)

まずはじめに⭐️ずっと思い描いている「なりたい自分」絶対ナンバー1🥇 は…🍀

「なりたい自分」と見て、いちばんに頭に浮かんだこと。幼い頃から絶対に譲れないことがある。
そんな私の「なりたい自分」は、『お母さんになること』だ。
企画の趣旨と少しずれ、「夢」のようになってしまうかもしれない。
30歳を目前にした私にとって、このことは喫緊の切実な願いだ。
なぜなら、我が子の命を授かることには、時間のリミットがあるから。
30歳を境に女性の妊孕率は急激に低下し、卵子の質も確実に低下する。
目を背けたくなるが、この現実に逆らうことは、いまのことろ難しい。
そして、年齢が上がるほど、めでたく妊娠にいたったとして、
母子ともにあらゆるリスクが格段に上がる。
こればかりはどうすることもできないし、時間は待ってくれない。
願い、努力を重ねたところで確実に叶うことでもない。
まさに、「神のみぞ知る」。
年齢的にいえば、私はおそらくまさにいまが「適齢期」なのだろうが。

この夢は幼少期から思っていたこと。
そして、高校一年生の時にクラスで語った「将来の夢」のスピーチ。
他のクラスメイト全員が進路や将来の職業について語る中、
たった一人、私は
『あたたかい家庭を築いて、母親になり、子育てをしたい。たくさんの愛情を持って子育てをし、人として親として多くのことを学びたい』と語った。
このご時世にそぐわない、不適切、と思う方も多くいると推測されるが、
これが、私の「なりたい自分」だ。

しかし、現実はそう甘くはない
この、「なりたい自分」を叶えるためには、その前に数多くのことを乗り越える必要がある。

①一番「なりたい自分」になるために、前提条件となる「なりたい自分」=「なる必要がある自分」

私は現在、「うつ病」という診断名によって約2年間休職中である。
この間、実に様々なことがあった。
正直、ここに記載することをはばかられるようなこともあった。
入退院を何度か繰り返したものの、抑うつ状態・情動不安定・睡眠障害・食欲低下、等々の症状によって
体力や気力、意欲、感情は大きく失われた。
通院以外、完全引きこもりの毎日だ。

そんな自分がかかげる「なりたい自分①」は
1.『心身ともに健康になること、げんき!になること
2.「日常生活をある程度自立しておくれるようになること」
3.「散歩や買い物など、まずは近所から外出できるようになること」
4.「ネット上だけでなく、実際に人が集まる場所に出向くことができるようになること」
5.「楽しい、嬉しい、幸せ、を感じ、笑顔になれること、そして時には、悲しみや怒りの感情も感じられるようになること」
6.『じぶんをじぶんで愛し、大切にする、みとめられるようになること』だ。
これらによって「自分だけでなく、周りの人も大切にすることができる」ようになるだろう。

これらは、ある人にとっては特に気に留めることもない、当たり前の日常かもしれない。
かつての自分も、全てとは言わずとも、それなりにできていたことがあったはずだ。
しかし、今はそれらを全て失ってしまった。
状況は皆違えど、似たような苦しみやつらさをを抱えている人も少なくないのでは、と思う。
人間が社会生活を送る上で、こういう自分であればありがたく、より豊かなこころで生きることが出来るであろう。
これらの「なりたい自分」を手に入れることができるよう、日々自分なりに努力を重ねている。

②人生において一番の『なりたい自分』

前述の通り、しつこいようだが、
私が「なりたい自分」は『母親になること』だ。
理由を問われると、正直あまり明確な答えはでてこない。
ある種、本能のようなものなのだろうか。
ただ、前提として、私は子どもが大好きだ。
子どもが好きということだけで、子どもが欲しいなんて
子育ては遊びじゃない、と思われるだろうが、確かにその通りだ。
だからこそ、人生をかけて、自分が命をかえてでも守りたいという我が子を授かり、子育てをしたいと、私は思うのだ。

話は少し変わるが、私の命の始まりについて記載する。
私は約30年ほど前(もう少し若いです。笑)、高度生殖補助医療「体外受精」によって、誕生した。
現代は、過去と比較すると非常に多くの医療機関で生殖補助医療(不妊治療)が可能となり、自治体からの一部費用助成金や、保険適用になる治療もある。
私の両親が不妊治療(生殖補助医療)を始めた当時は、今のように多くの医療機関で治療を受けられるわけく、遠方まで飛行機で幾度となく通い、金銭的負担も少なくなかったと聞いている。約5年の年月がかかったそうだ。
両親共に大きな負担であったと思うが、特に母は、心身に大きな負担がかかったことは想像に難くない。

この話を幼少期からきいていた私は、
「結婚し、望めば子どもはできる。家族計画通りだ。」
などということは決して当たり前のことではなく、
本当に『奇跡』『幸せなこと』だと思った。
このご時世、男性女性などの表現をもって区別するとお叱りを受けるかもしれないが、
『「妊娠・出産・子育て」を希望する女性にとって、それが叶わないことは、
この上ない苦しみ』だと感じる。
なぜなら、いくら医療技術が進歩しようとも、自分の努力や願いの強さで叶うものではないから。
子どもを持つことを望まない人々がいる一方で、
少子化大国日本の現代において、不妊は大きな課題とも言えるだろう。

わたしの母

次に私の母の話をする。
もちろん、私の母親像のモデルの基本は「わたしの母」だ。
(それが良いことかどうかは、多少議論の余地がありそうだが、今は置いておこう。)
母は、実に小難しく困難を極める私の子育てを必死に、
そして愛情をたくさんそそいで育ててくれた、と強く感じている。

①送り迎え

幼児教育、幼稚園、習い事、(諸事情あって)中学高校(大学も時々…)の送り迎え。
車の運転が得意ではなかった母だったが、
我が娘のために、あらゆることの送り迎えをほぼ毎日してくれていた。
それは、片道10キロにも及ぶものもあり、往復を一日2回。当時はさほど気にしていなかったが(ごめんなさい。)、なんという苦労(と、ガソリン代)をかけたのだろう、と思う。そう思うと、申し訳なさと共に本当に感謝の気持ちでいっぱいになる。我が子、そしてその我が子を愛していなければこんなことは到底できないだろう。

②あらゆるバッグなどは全て母の手作り

幼稚園バッグ、お弁当3点セット「お弁当袋,コップ袋,ランチョンマット」、
全て母の手作りだった。
お弁当の点セットは、幼稚園生の私が、自分のものがどれか一目でわかるように、同じキャラクターと生地、デザインで統一されていた。
「今日のお弁当セットは○○(キャラクター)ね。」と、幼稚園に行く前、毎朝母と確認していた。しかも、そのお弁当セットは私が好きなチャラアクターを使って、デザインを変えて、数種類用意されていた。
これらはのちに、中高のお弁当などで使うこともあった。
今でも洋服ダンスに大切にしまってある。時々見ると、母の深い愛を感じる。
小学校に入ってからも、
手提げ袋、体操着袋、上履き袋、防災頭巾入れなど、全て母の手作りだった。お店で売っているものを買った記憶はない。
いつも母は、私に「どの生地がいい?どんなのがいい?」と聞き、実にたくさんのものを作ってくれた。
当時の私は、そんな環境下で過ごしていたから、それが当たり前のことだと思っていた。
しかし、いま、自分が親になっても不思議ではない年齢になり、
母の作品を見ると、言葉では表せない感謝の気持ちでいっぱいになる。
自分には到底できないな、と母を改めて尊敬する。

※以下の写真に撮影されているものは、
約25年ほど前に母がつくったもののほんの一部。
いまだに大切に保管してある、たからものだ。🌻🫧

③母が作る「お弁当」、料理

そして、母が作る「お弁当」と料理。
幼児教室、幼稚園、中学受験塾(昼、夜、軽食)、中学高校6年間、大学4年間、
そして社会人になってからしばらくも。(いい加減自分で作りなさいよ)
私が生きてきた人生のほとんどの期間、母は私に「お弁当」を欠かさず作ってくれた。
愛情の強さゆえか、手作りが基本。
正直、あまり要領がよくない母は、おどろおくほどに早起きをして、
お弁当を作ってくれていた。
そして、そのお弁当は、彩りやバランスが非常に豊かで、
いつの時代も私のお弁当を見た人たちは
「すごいね!おいしそう。手が込んでるね。お母さんすごいね。」と口をそろえて言っていた。
確かに、本当に素晴らしいお弁当だった。
私が大学時代、実習で早朝に家を出なければならないときも
朝早くに目覚ましをかけて、必ずお弁当を作ってくれた。
母から見て、私がなんだか大変そうに感じられるときには、
お弁当にメッセージを書いたメモが入っていたりした。
社会人になり、いい加減親が作ったお弁当を持って行くことに少々のためらいを感じた私は、
ある時「お弁当はもういいよ」と言った。
すると、母は少し、いや、内心とても寂しそうな様子で
「なんで、もういらないの?」と言った。
そんな言葉と気持ちに甘え、結局私は、休職する直前まで母のお弁当で生きた。

ママはお料理の天才だね!」幼稚園の頃の私は母にそう言った。
自分でも覚えているし、母も忘れられないらしい。
自分で言った、その言葉の通り、母が作る料理はどれもとてもおいしい。
どうしてこんなに何でも美味しく作れてしまうのだろう、と不思議に思うくらい「おいしい」。
朝昼はそんなに味わう時間もないが、
私は、母が作る夕食を食べるのが、一日の中で一番の楽しみだった。
おなかいっぱい、母の手料理を食べて、今日一日のいやなことや疲れを吹き飛ばし、明日へのエネルギーに変えていた。

母の愛情

母の愛について、ほんの代表的な3つを例に挙げたが、これは生活のごく一部で、具体例として列挙しやすいものだ。
当たり前だが、母には日常的にたくさんのことをしてもらってきた。
たくさん迷惑をかた。
中学受験についての葛藤・ストライキや、不登校、精神疾患など、
数え切れないほどたくさんの困難事態を引き起こし、
迷惑どころか、母子での衝突が絶えないことも多かった。
つらく苦しく悲しいことも少なくないが、そのたび私と母の絆は深まり、
娘の私が言うのもおこがましいようだが、お互いにたくさんの人生経験と学びを得たと感じている。

だから、というわけではないが、
私もいつしか「母親になりたい、子育てをしたい」と強く思うようになった。
もう少し詳細に述べるなら、
「なりたい自分」は、
「わたしの母」のような母親になりたい。そして自分ができる最大限の愛情を注いで子育てをしたい。
その過程で、人として親として、子どもと共に多くのことを学び、経験したい。』
だ。

③さらに欲張るなら、これも「なりたい自分」

そして、もっともっと欲張るならば。
現在休職中の私。復帰は難しいと主治医からはっきり言われている。
自分でも現実の状況を客観的に考えたときに、確かにそうだと思う。
前述の通り、私はこれまでの人生において、実に多くの石ころにつまずき、転びまくってきた。
そんな数々の経験と、様々ななりゆき等々によって「保健師」として働いていた。(当初は、長く働き続ける予定だった)
しかし、これまた様々なことが重なり合い、気づいたときにはもう手遅れ。
満身創痍」。
即刻ドクターストップとなり、現在に至る。
保健師の仕事は、「大変。難しい。」などと言う言葉では表せないくらい、
私にとっては困難なことがたくさんあった。
あらゆる文献や専門書を読み、相談者の話をひたすら聞かせてもらうことによって、経験と知識を積み上げている最中だった。
保健師は、とても奥が深い仕事だと、個人的に思っている。
まだまだ、学び、経験したいことがたくさんあった。
もちろん、地域を、いずれは国を、豊かににしたい、
そして少しでも多くの人々の人生を豊かにしたい。
そんな、私にとっては奥が深く魅力的な職業。その資格を活かし自分がやりたいことをするために、必死に手に入れた職場を失うことがほぼ決まっている。
このことは、私にとってこれまでにない『人生最大の挫折』ともいえる。
現に今、通院以外引きこもりの私が、保健師はおろか、仕事に就くことすら困難であり、いつ社会に戻ることができるのか、見通しがつかない。

仕事ができないことに加えて、人と会わないこと、所属するコミュニティがないということは、
私にとって、「孤独感」「無価値、無力感」をより一層強める。
何の役にも立たない自分は、いなくていい、いるだけ迷惑だ。」と思う。

本当は。
本当は、いつか、自分が元気を取り戻すことができる日が来るとしたら。
どんな職場でどのように働くかなんて、まだ何もわからないけれど、
自分も社会の一員なんだ」と思えることが、できるようになれたらいいな、とぼんやりだが、強く強く、思う。
そして、その時に、これまでの自分の人生経験や資格、学んできたことが少しでも役に立つことがあれば、とても幸せなことだと思う。

「家庭」において、もしくは「社会」において、あるいは両方。
何かしらの、『適度な』役割があり、所属する場所、コミュニティがあること、
そして、そこを『自分の居場所』と思えたら、どんなにすてきなことだろう。

わがままで欲張りだが、これらのこともまた、
わたしの「なりたい自分」だ。

まとめ

まとめ、そしておわりに。
以上、非常に長くなったが、大きく三つの「なりたい自分」について述べた。
しかし、そうなんでもかんでも手に入るほど人生はたやすくない。
これまで自らが経験してきたことが示すように、人生計画通りにはいかない。
まして私は、キャパシティがとてもとても小さいのだ。
あれこれ器用にできる人間ではないことは、いい加減わかっているつもりだ。
この先、自分にどんな人生が待っているか。
それはまだわからない。
これまで述べた三つの「なりたい自分」。
どれをどの程度叶えることができるのか、はたまたどれも叶うことなく過ぎてしまうのか。
そんな先行きが見えない毎日の中でできることがあるとすれば、
普段当たり前にある「しあわせ」をみつけること。
その「あたりまえ」だと思っていることはきっと「あたりまえ」ではないはず。
そして、自分が置かれている環境や、私と関わりを持ってくれている人、
広くは世のいたることに「感謝」の気持ちをもつこと、だ。

おわりに。さいごの「なりたい自分」

そんなことを積み重ねることができれば、
きっと、人生の幕がおりようとするときに、
周囲への感謝の気持ちとともに、
「いいことも苦しいこともたくさん経験した。経験させてもらえたことに感謝。
夢に描いたとおりの、完璧な人生ではなかったけれど、まぁまぁいい人生だった。」
生まれてきて、生きることができてよかった。』
と、思えるのではないだろうか。

そう思い、人生を終えられることが、私の最期の「なりたい自分」だ。


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