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読みやすさについて
今回は、「読みにくさについて」に引き続き、執筆中の記事の一部を独立させて、先に投稿することにします。これは体調が良くないための措置で、全体を一気に書こうとして無理をしないようにとの配慮からです。
現在執筆している記事のタイトル(仮題)は「sense・意味・方向、order・順序・序列、space・空間・空白」です。前回の「読みにくさについて」では「sense・意味・方向、order・秩序・序列、space・空間・空白」としていましたが、「秩序」を「順序」に変更します。
今回の記事では、蓮實重彥の『「私小説」を読む』における「上下」と「並置」という言葉とそのイメージに注目してみます。つまり、『「私小説」を読む』の読書感想文です。
引用にさいして使用するのは、蓮實重彥『「私小説」を読む』(中央公論社)ですが、現在は講談社文芸文庫でも読むことができます。
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sense・意味・方向
*位置、関係、意味
上下(じょうげ・うえした)は、「上下関係」とか、「かみ」と「しも」、「上座」と「下座」と言い換えると、単なる位置関係や方向を示すだけでなく、意味性や象徴性を帯びることが分かります。
なかでも面白いのは「上手」と「下手」です。「上手・うわて・じょうず・かみて」、「下手・したて・へた・しもて」と読めます。
漢字に大和言葉を当てたのか、大和言葉に漢字を当てたのかは、どちらでもいいでしょう。大切なことは、いまそのような表記と読みがあることです。
日本語の「上」「下」という言葉と文字には序列のイメージがまとわりついているようです。上流下流、上層下層、上部下部には露骨に序列が出ています。序列は貧富や優劣や巧拙や年齢差にも通じる関係性です。
人が二人いれば、そこには上で述べた関係性が生じそうです。その関係性は各人の資質や才能とは関係なさそうにも感じられます。意味性や象徴性にはそうしたいい加減で気まぐれなところ(恣意とも言います)が見られるようです。
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人間関係での上下関係だと、位置の上下は必ずしも関係ありません。上司が部下よりも背が低かったり、上司の部屋が上階になかったりもします。
位置関係を維持したままで、意味性や象徴性を担うこともあります。川の上流下流が人の住む場所に位置だけでなく、意味を与えてしまうのです。この場合の意味はレッテルにほかなりません。「あそこに住んでいるから、〇〇だ」という流れの話は古今東西を問わず見られます。
こうした言葉のありようは、位置関係から生じる動作や身振りや姿勢と関係がありそうです。
見上げる、見下ろす、見下す。あおぐ・仰ぐ、うつむく・俯く。
いま挙げた動作や姿勢にも、上下関係や序列があらわれることがあります。その意味や原因や理由をさぐるとなると、これはもう学問になるでしょう。思いつくままに言うと、文化人類学や民俗学や心理学や精神分析学や社会学のテーマにありそうです。
たとえば、文学作品や説話や神話に、上下という位置や言葉や上下とかかわる動作や姿勢が出てきたとします。そこに単なる位置だけでなく、意味性や象徴性を読んで議論するということも実際におこなわれているようです。
*左右、方向、意味
上下と左右は、どの位置から見ているか、どこを基準にするかによって逆転する可能性があるという意味で相対的な位置関係と言えますが、重力の働いている空間や場にいる限りでは、上下はある種の絶対的な方向に縛られているとも言えそうです。⇒「あやしい動きをするもの」
そう考えると、上下と左右を位置と考えるのではなく、方向と考えたほうがいいのかもしれません。
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英語の sense には「意味」と「方向」という意味がありますが、「意味」と「方向」は別の方向を向いているという意味で、意味合いが違っている気がします。ややこしい言い方になって申し訳ありません。意味について語ろうとすると、こうした騙りっぽい語り方になります。
「意味」と「方向」とがそれぞれ別の方向を向いているというのはどういう意味なのかと言いますと、
・語の「意味」とは、語義という形で辞書に文字として記されるものという点で、固定を志向する、
それに対し、
・「方向」とは、文字通りに取れば、ある方を向くということで、たとえそれが位置という定点的なとらえ方をされたとしても、点ではあり得ず、動きを志向する、
という意味です。
上と下であれば、どちらも点ではなく、ある方向へ動く線、つまり動線であったり、ある方向へと向う面積や体積のあるものの広がりとしてとらえられるのではないでしょうか。
「上」と「下」は言葉と文字としては、固定された位置のように感じられますが、立体である現実においては、ある方向への動きとしてある気がします。
一方で、左右もまた「あっち・こっち」感が強く、相手から見れば逆であり、話を明確にするためには、常にどこを基準にしているかを確認しなければならない、という意味で不安定です。重力に縛られている上下よりもふらふらしている、まさに右往左往しているの状態が常態であり、つまりきわめて適当でいい加減な感じがします。
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右大臣・左大臣、右派・左派、右岸・左岸、右腕、左前――思いつくままに並べてみましたが、上下にまとわりついている序列のイメージ、つまり貧富や優劣や巧拙や年齢差といった、しつこいしがらみじみた意味合いは感じられません。
右左と言えば、以前に古井由吉の『杳子』の読書感想文を書いていて、右往左往したことがあります。『杳子』に出てくる、右、左、上下、東、西、南、北をめぐって迷いに迷ったのです。⇒「まばらにまだらに『杳子』を読む(11)」&「『杳子』で迷う」
古井由吉の文章で右往左往し迷い、今度は蓮實重彥の文章で右往左往し迷っているのですから、私は迷うことに取り憑かれているのかもしれません。きっとそうです。彷徨とか徘徊が好きなのです。年齢が年齢ですので、気をつけなければなりません。いろいろな意味で。
*上昇・下降
ここからは蓮實重彥の文章を引用し、私の感想を添えながら話を進めていきます。
どれもが上下と関係があったり、上下という言葉が出てくるものです。文脈を無視した形の引用になることをお断りします。詳細をお知りになりたい方は、原著をご参照ください。
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さらには、謙作が徐々にその存在のこだわりを解きほぐして行く場が二階の座敷であったという点が、「上」=「下」の「双極性」を顕在化させてもいる。しかも、「アルマ」が、一人の女によって「階下」からはこび上げられた瞬間に「類似」が生じ、「比較」が始まっていた事実を想起するなら、第一の系列と第二の系列とは、上昇と下降の運動によって密接に結びつけられているとさえいえるのだ。
(蓮實重彥「「二」という数字」「Ⅰ 構造=主題=系列」「廃棄される偶数 志賀直哉『暗夜行路』を読む」(『「私小説」を読む』(中央公論社)所収・p.22)
「二階」、「「上」=「下」」、「「階下」からはこび上げられた」、「上昇と下降の運動」という文字と文字列があるにもかかわらず、ここでは人間関係における上下関係がテーマになっているのではない点が大切です。
ここでのテーマは、むしろ「「双極性」」、「「類似」」、「「比較」」であり、それは次に挙げる、平面上に左右に並べられた「サモア」と「アルマ」という「舶来品めいた名前の巻煙草の缶」(p.14)二つを受ける形で出てきています。
いずれも三つの仮名文字の名前を持つ二つの煙草の函が、そこにあるからである。しかも、それが並んで机の上に置かれているのだから、すぐさま「類似」という要素が浮かびあがってくるのは当然だろう。ともに外人の女性の顔をあしらったデザインの煙草という「類似」である。だが、その「類似」は、時を移さず「比較」と「選択」という新たな要素を「作品」に導入させずにはおかない。
(蓮實重彥「「二」という数字」「Ⅰ 構造=主題=系列」「廃棄される偶数 志賀直哉『暗夜行路』を読む」(『「私小説」を読む』(中央公論社)所収・p.19)
平面上で左右に並置されたにちがいない「三つの仮名文字の名前を持つ二つの煙草の函」があれば、そこに「類似」と「比較」と「選択」という要素が浮かびあがると、上の引用文(p.19)は指摘しているのですが、この三つの要素が、一つ前の引用文(p.22)では、「、上昇と下降の運動によって密接に結びつけられているとさえいえる」とされているのです。
図式化してみます。
平面上の左右の並置 ⇒ 立体での上昇運動・下降運動
平面 ⇒ 立体
並置 ⇒ 上昇・下降運動
こうした流れを説明していると取れるのが以下の箇所です。
それには「二」が統禦する「主題」群に、いま一つの系列が介入することが必須である。それ自体としては非=時間的な構造におさまっている「主題」群が、なお時間的な言葉の連鎖をも統禦しうるとしたら、それは、すでにその「主題」論的な機能に言及してある「反復」が、第一、第二の系列の共時的な循環性を、継起=発展の通時的な運動へと変容せしめる契機となっているからである。茶屋の二階の座敷の机の上で、「類似」、「比較」、「選択」の主要モチーフが時間的に「反復」され、その運動が「快」=「不快」、「緊張」=「弛緩」、「上」=「下」といった「双極性」の系列へと発展して行ったように、「反復」は、『暗夜行路』と呼ばれる言葉の磁場に交錯しあう「主題」の諸系列に、一つの方向を指し示す役割を果たしている。したがって「作品」は、読む意識がその有機的な連繫ぶりに触れえた瞬間のみに、構造としておのれを顕示することになるだろう。読むとは、その一瞬を逃さず不意撃ちするという、敏捷さが問われる冒険なのだ。
(蓮實重彥「廃棄される偶数 志賀直哉『暗夜行路』を読む」(『「私小説」を読む』(中央公論社)所収・pp.22-23)
平面上の左右の並置(「非=時間的な構造」) ⇒ 立体での上昇運動・下降運動(「通時的な運動」)
非=時間な構造 ⇒ 時間の経過をともなう運動
このように図式化した場合に見て取れるのは、この上下運動は文字通りの運動であり、運動である限りは時間という要素をはらむテーマが浮上していると言えるでしょう。
静止した平面
時間的な運動が起きる立体
という図式化も可能かと思います。
したがって、「茶屋の二階の座敷の机の上で、「類似」、「比較」、「選択」の主要モチーフが時間的に「反復」され、その運動が「快」=「不快」、「緊張」=「弛緩」、「上」=「下」といった「双極性」の系列へと発展して行ったように、「反復」は、『暗夜行路』と呼ばれる言葉の磁場に交錯しあう「主題」の諸系列に、一つの方向を指し示す役割を果たしている。」という箇所でテーマとなっているのは、そうした時間の経過をともなう運動を、「読む」という、やはり時間の経過をともなう運動によって「反復」するという、具体的な体験について述べていると考えられます。
もしそうであれば、「読むとは、その一瞬を逃さず不意撃ちするという、敏捷さが問われる冒険なのだ。」にある「一瞬を逃さず不意撃ちする」と「敏捷さが問われる冒険」というフレーズが「運動」への誘いに見えてきます。
蓮實重彥の文章では、読み手にこうした具体的な「運動」を促す目くばせのような言葉の身振りが目立ちます。⇒ 「表、目、面」&「立体人間と平面人間」
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いずれにせよ、「上」「下」が出てくる文章で、「上手・うわて・じょうず・かみて」、「下手・したて・へた・しもて」という言葉に典型的にあらわれている関係性と意味性と象徴性が見られないことは特徴的です。蓮實の文章では、「上下」がそうした言葉のイメージが喚起するテーマ(たとえば優劣・貧富・主従・巧拙)へと話が流れることがないのです。
『「私小説」を読む』と『夏目漱石論』では、対象の文学作品を批評するにあたって、上述の流れと展開を周到に回避しているようにも見えますが、それはあくまでも私の現時点での印象であり、見落としている箇所に気づけば、この印象は変わる可能性があります。
*上流・下流・支流・枝分かれ
文学作品の中では、一見上下と関係のなさそうな事物や現象に、上下という位置や方向が見られることがあります。たとえば、以下の引用箇所では、川と家系の「分岐」が上流から下流へ、親から子へという上から下への動きと不可分であることが見て取れます。
水が上から下へと流れるように、血も上から下へと流れる――。もしこう考えるとすれば、そうした考えは、重力に沿う液体の流れという具体に、血縁関係や歴史という抽象を重ねる比喩的な思考だと説明することもできるでしょう。
興味深いことに、藤枝静男の作品群を論じる時の蓮實重彥は、「川=木=家系」という見出しの文章で、水と血に木を重ね合わせるのです。それでいて、「分岐」にともなう「左右」というテーマには行きません。
彼は、フォルムが作者の意図を遙かに越えた意味作用の磁場で、言葉と親しく戯れ、語りあうことを無意識のうちに肯定する書き手だという意味で、秀れて現代的な沈黙の具現者なのである。『一家団欒』は、われわれが玩味し、咀嚼し、反芻してもなおつきることのない余韻によってばかり感動的なのではなく、不意に、「家族歴」は、同時に「巨木」でもあり「川」でもある藤枝的風土を作品の細部そのものに語らせているが故に、読むものから言葉を奪う圧倒的な美しさを示すことになるのだ。
それは、どういうことか。「家系」と「巨木」と「川」とは、いずれも「分岐」するという共通の性質を持っているが故に、藤枝的「存在」を惹きつけてやまないものなのだ。
(蓮實重彥「川=木=家系」「Ⅳ 分岐するものたち」「藤枝静男論 分岐と彷徨」(『「私小説」を読む』(中央公論社)所収・p.146)
ここでは、液体である水と血液が上から下へと流れ、巨木が水を地下から吸い取る形で下から上へという流れを作るとか、血縁関係である家系を平面に記すとすれば上から下へという流れになるといった、上下の位置関係には触れられていません。
*
そこでは「「分岐」するという共通の性質」が強調されているのです。引用文に続く部分でも、「下」と「下流」という下への運動を意味する言葉はありません。目につくのは、枝分かれのイメージなのです。
・「文字通り「派生」する枝であり、「分岐」する支流なのである。」p.147(太文字は引用者による・以下同じ)
・「「淫蕩の血」がさらにこまかい支枝をつくっていったとき」p.147
・「巨木を見に行く藤枝的「存在」たちの視線がいやおうなく吸い寄せられているのは、きまって幹が幾つかの枝に分れる部分である。」p.148
・「「ふた股に分かれている」」、「「二股に分かれて」」、「枝は低いところから分れて」」p.148(この三箇所は藤枝の作品からの引用)
・「藤枝的風土にあっては、至るところで道は二股にわかれており、そこで分岐する道は、多くの場合、川の支流にそって奥へと伸びていく。」p.149
p.148 と p.149 では、いま挙げたほかにも「二股」「分かれ」「二」という文字があって目立ちます。
*
この「分岐」するという動きが必然的に「選択」と結びつくことは分かりやすい理屈でしょう。以下の引用箇所ではその「選択」という言葉が出てきます。
・「すでに諸々の交通機関の乗り継ぎが彼の軌跡を幾つかの「分岐点」で折りまげているし、また目的地に近づくにしたがって迫ってくる谷が、最終的には分れ道での選択を彼に強いるのだ。」p.149
私は、この「選択」という言葉に注目しないではいられません。さきほど、引用した箇所から重要部分を再度引用します。
だが、その「類似」は、時を移さず「比較」と「選択」という新たな要素を「作品」に導入させずにはおかない。
(蓮實重彥「「二」という数字」「Ⅰ 構造=主題=系列」「廃棄される偶数 志賀直哉『暗夜行路』を読む」(『「私小説」を読む』(中央公論社)所収・p.19)
「廃棄される偶数 志賀直哉『暗夜行路』を読む」と「藤枝静男論 分岐と彷徨」という、それぞれ異なる作家の作品を論じた文章に、二つの並んだ(隣接した)ものから一つを選ぶという身振りの符合が見られることは、注目していいと思います。
文章体験における二択
なぜ、「二」であり「選択」なのでしょうか?
言葉と向いあった作家は、書くというその一点において、言語の総体を自分のものとする試みを放棄することから始めねばならない。すでに主題の決定の時点から、書き手は多から一を選びとり、ある積極的な貧しさをうけいれねばならぬ。
(蓮實重彥「川=木=家系」「Ⅳ 分岐するものたち」「藤枝静男論 分岐と彷徨」(『「私小説」を読む』(中央公論社)所収・p.152)
選択の対象が二つであれ、複数であれ、少数であれ、多数であれ、最終的に一つを「いまここ」という現在で選択しなければならないとき、私たちはその選びそうになっている「一つ」と「その他」の二択での選択を余儀されているのではないでしょうか?
うろ覚えで恐縮ですが、どこかで蓮實が、人は一度に一つの言葉しか口にできない、あるいは一つの語しか書けないという意味のことを書いていた記憶があります。ひょっとすると、これは古井由吉のよく使う「偽の記憶」かもしれませんが。
文章体験における二択とは、「いまここ」という現時点での語の選択のレベルから、その語の選択の結果として次々と生じていく語の集まりであるフレーズ、センテンス、文章、さらにはテーマにまで及ぶ「強制」なのかもしれません。
私たちは文字を書いているというよりも、文字に書かされているのです。
文字は殖えているのです。きっと主導権は文字にあります。人は文字を書いているのではなく、文字に書かされているのです。
(拙文「「読む」と「書く」のアンバランス(薄っぺらいもの・07)」より)
私たちの一人が書き手として文章を書こうとしているとき、仮にある瞬間に二つの語のうちのどれを書くかで迷っていたとしても、最終的には、誰もがその選んだ語に対して、多数の可能性から選択を余儀なくされたと言えるのではないでしょうか? 一対多の二択を強制され続けるのが書くという体験なのではないでしょうか?
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話を蓮實による「藤枝静男論 分岐と彷徨」の文章に戻します。
いま述べたことに関連し、重要だと私が考える箇所を以下に引用します。
では、『欣求浄土』とは、書くことの比喩としてある作品だと結論すべきであろうか。藤枝静男は、文章体験そのものを書くことで一挙に「私小説」を越えて文学の極北に自分を位置づけようとする、あの「現代小説」と呼ばれる言葉の劇を身をもって生きている人であろうか。(……)だがわれわれは、ここで「書くことの比喩としての作品」といった出来あいの言辞に藤枝を閉じこめることなく、いま少し藤枝的「作品」のフォルムがかたちづくる意味作用の磁場にとどまり、そこに交錯する諸々の磁石が緊張したり弛緩するさまを、身をもって生きてきたいと思う。そうすることによって、「書き」そして「読む」という「文章体験」の場で一瞬ごとに更新される「分岐点」との遭遇が、豊かな言葉の増殖を存在から奪い、遂には徹底した貧しさの側につき落とされても、なお選択しつづけねばならぬことの不条理を、共有してみたいのだ。
(蓮實重彥「川=木=家系」「Ⅳ 分岐するものたち」「藤枝静男論 分岐と彷徨」(『「私小説」を読む』(中央公論社)所収・pp.153-154・丸括弧とリーダーによる省略は引用者による)
「「書き」そして「読む」という「文章体験」の場で一瞬ごとに更新される「分岐点」との遭遇が、豊かな言葉の増殖を存在から奪い、遂には徹底した貧しさの側につき落とされても、なお選択しつづけねばならぬことの不条理を、共有してみたいのだ。」という箇所の「貧しさ」は、さきほど引用した「すでに主題の決定の時点から、書き手は多から一を選びとり、ある積極的な貧しさをうけいれねばならぬ。」(p.152)の「貧しさ」のことでしょう。
蓮實によれば、一を選ぶことは「貧しさ」と同義であると言えそうです。
*
話は飛びますが、私たちは立体の世界に生きています。しかも時間の経過のある立体の世界なのですが、同時に平面の世界にも生きている気が、私にはします。
とりわけ平面である自分を感じるのは、読書の最中です。なにしろ、目の前には平面上に写ったり(印刷物)映っている(液晶画面)文字しかありません。
その文字や文字列を眺めながら、「いまここにあるもの」から「いまここにないもの」を思い浮かべたり、思い描いたり、思い出すことで、奥行きや高さや距離や動きのある像や風景をこしらえる――これが読むといういとなみだと言えるでしょう。
(大切なことは、奥行きや高さや距離や動きのある像や風景の「奥行きや高さや距離や動き」は、あくまでも思いの中で(思いとして)「こしらえたもの」であるという点です。立体の振りをした「何か」です。写真や絵や動画みたいなもの。立体に見えたとしても立体ではありません。)
熱中している時にはそうでもないのですが、ふと我に返った瞬間に、自分は平面の世界にいる、あるいは自分は平面の世界に入り込んでいる、平面から立体を思い描いている、という不思議な気持ちをいだくことがあります。
(拙文「立体人間と平面人間」より)
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時間の経過する立体としての世界に住む私たちは、そこでの動きを文字として平面である紙面に記す場合には、一瞬一瞬に多から一を決めるという時間をともなう連続した選択の中でも同時に生きているのかもしれません。
その選択を生きたとしても、その選択は文字として固定されます。文字は人にとって常に自分の外部にある物、あるいは異物なのです。
書いた人にとっても、それを読む他の人にとっても、外部にある物として「ある」のです。その物を、人は自分の中にある思いの中で多から一を決める行為として処理しなければなりません。それが読むという体験ではないでしょうか。
その読むという行為において、助けとなるのが固定を志向する「意味」だという気がします。とはいうものの、語に固定された意味が「ある」とは考えられません。
なにしろ、人は○○という言葉(音声の連なりと文字)を決めるという形で作り、次に○○とは何かと疑問に思い続ける生き物なのです。現に、いまもそうした見切り発車による混乱が続いています。
常に多から一を決める=選ぶ作業に追われているのです。話す、聞く、書く、読むにおいてです。
*
ここでさらに私見を述べさせていただきます。
「AかB」かであろうと、「多から一」かであろうと、選択には殺伐さがともないます。選択は捨てる身振りと不可分ですから当然ですが、選択を保留するとか、選択をした振りにするという生き方もあっていいのではないでしょうか。
多と一、他と自のどっちかで悩むのではなく、多と一、他と自を同時に受け入れる。それが、ずれる生き方。常にずれ続ける生き方。
(……)
AかBかという二者択一ではなく、AもBもいったん忘れたふりをして(保留して・宙吊りにして、放っておいて)、常にずれ続ける。
(拙文「旋律のような名前の女の子(反復とずれ・06)」より)
話を戻します。
読みやすさについて
以上見てきたように、蓮實重彦が文学作品を対象にして論じる場合に、立体的な位置であり、上昇・下降という運動にも転じる要素である「上」と「下」を、いわゆる「上下関係」、つまり優劣・貧富・主従・巧拙といった一連の関係性を担うイメージとして扱っていない点が特徴的だと思います。
また、左右という言葉とそのイメージにこだわることはなく、左右とも読むことが可能な「並置」という言葉とイメージで文学作品を読んでいますが、「並置」は「選択」という運動へと転じる、あるいはつながっていくような書き方がなされているのが特徴的です。
上下、左右(並置)ともに、その言葉にまとわりついているさまざまな意味性や象徴性を蓮實は周到に回避しているとも言えるでしょう。
前回の「読みにくさについて」でも書きましたが、以上の点については、『批評 あるいは仮死の祭典』(せりか書房))において、ジル・ドゥルーズの文章における「と」という接続詞についての蓮實の指摘と(おそらく)共感とかかわっている気がします。⇒「アンチ・アンチ」
単純化すると、「AとB」というフレーズでの「と」という言葉は、前後の言葉やフレーズを並置しているだけで、両者の間には序列や優劣や主従や帰属といった関係を示唆しているわけではないということです。
ではドゥルーズは、接続詞「と」《et》のいかなる点に着目しているのか。
それ自体としては徹底して開かれており、名詞と名詞との無限の結合を可能ならしめ、その二要素の時間的・空間的併存在のみを表すものとしての「と」は、しかし現代の言語の階層的支配にみずから加担しつつその犠牲となることによって、関係の固定化を促進する機能を果しはじめている。そして、二要素の多義的な相関性は、いたるところで閉ざされた一義性へと収縮してしまい、依存・従属・服従といったこわばった表情をまとうことになるのだが、ジル・ドゥルーズの文章体験が目指しているのは、こうした仮面を顔ととり違えることの錯覚を根気よく晴らしてゆく点にある。
(蓮實重彥『批評 あるいは仮死の祭典』(せりか書房)・pp.64-65)
「ジル・ドゥルーズの文章体験が目指しているのは、こうした仮面を顔ととり違えることの錯覚を根気よく晴らしてゆく点にある。」という箇所にある「ジル・ドゥルーズ」を「蓮實重彥」としてもいいと私は心から思っています。
『批評 あるいは仮死の祭典』が現在入手可能で、どれほど読まれているのかが知りませんが、この本は私にとって常に指針でありつづけています。
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話を戻します。
上下、左右という言葉が喚起する社会や共同体や組織に共通するイメージは、そうした広義の集団で通じる観念、つまり通念として通用しているわけですが、これは本来はレッテルであり、いわば名札として流通している言葉と文字をより円滑に通させ通じさせる役割も果たしています。
分かりやすく、通じやすく、通りやすく、見やすく、聞きやすく、口あたりがよく、耳あたりがよく、人あたりがよく、読みやすく――名札はこうしたものでなければなりません。
蓮實の文章に見られる言葉たちとその書かれ方は、そうした「しやすく」と「あたりよく」に抗っているように私には感じられます。
それが比較的分かりやすく、比較的読みやすく書かれているのは、『表層批評宣言』(ちくま文庫)だと私は思います。通じやすいかどうか、あたりよいかどうかは、別としての話です。
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それはさておき、社会や共同体に上下左右に広がり染みこんでいる通念が、あたりのいい言葉とイメージで、物分かりがいい人を作るのを助長しているというのも分かりやすい話だと思います。
それだけではなく、あたりのいい言葉とイメージが、物分かりのいい扱いやすい人たちからなる社会をさらに固めて補強し強化していく――「しやすい」と「あたりがいい」には親和性がありそうです。
言葉とイメージの通じやすさと分かりやすさが優先される社会では、コストパフォーマンスが重要視されているとも言えます。現在はこの傾向に拍車がかかっているようです。
名札は薄っぺらいがゆえに、記号化された情報を載せて効率的に運ぶ、つまり乗せるのに適しています。つまり、コスパがすこぶるいいのです。
(拙文「読みにくさについて」より)
「しやすい」と「あたりがいい」のはびこる社会に欠けているのは「迷う」だと私は思います。⇒「迷う権利(線状について・03)」
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とりあえず、書いた分だけを投稿しました。体調と相談しながら、仮題「sense・意味・方向、order・順序・序列、space・空間・空白」を書いていきます。
今回は「sense・意味・方向」をめぐって書きましたので、今後は「order・順序・序列」と「space・空間・空白」について書くつもりです。
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