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桃太郎とラスコーリニコフ

――「『天才』とは『犯罪者』である」という思想は、芥川文学にも反映されていることでして、芥川が昔話を再話してつくった『桃太郎』にもそれが見て取れます。


人生は物語。
どうも横山黎です。

大学生作家として本を書いたり、本を届けたり、本を届けるためにイベントを開催したりしています。

今回は「桃太郎とラスコーリニコフ」というテーマで話していこうと思います。



📚『罪と罰』を読んだ

昨日、卒業論文の口頭試問がありました。僕は「芥川龍之介研究――『桃太郎』を中心に」という題を掲げ、卒業研究していったんですが、それについてゼミの教授からあれこれ訊かれる回です。10分くらい概要をしゃべって、そこから教授から気になったところを質問される感じです。

しゃべるのも質問に対する返答をするのもどうにかなるだろうと高をくくっていたんですが、それ以外のことで準備をしておきたいなと思って、芥川が影響を受けたとされる、そして、『桃太郎』にもその影響が反映されているとされる、ドストエフスキーの『罪と罰』を読んだんです。

ずっと読もう読もうと思って読んでいなかった1冊ということもあり、口頭試問で触れられるか分からないけれど、このタイミングで読まないとこの先手に取ることがないかもしれないと思って、『罪と罰』を読み始めました。

以前にオリラジのあっちゃんが『罪と罰』を紹介する動画を視聴したことがあったので、おおよその話の流れは知っていたんですが、それにしても読むのに苦労しました。カタカナに弱い僕からしたら名前を覚えるのに精一杯。ロシア人の名前って特徴的で長いし、呼び方が何種類かあるので、一見新しい名前の人が出てきたと思いきや、同じ人を指していたりするんですね。

「名前+親+姓」が基本形なんですね。真ん中の「親」というのは、この人の子どもですよ!という意味です。姓で呼ばれたり、名前+親で呼ばれたり、それとは別の愛称で呼ばれたりするんです。主人公のラスコーリニコフを例に挙げるとこんな感じです。

本名が「ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ」で、地の分ではラスコーリニコフだけれど、「ロジオン・ロマーヌイチ」と呼ばれることもあるし、愛称の「ロージャ」で呼ばれることもあるので、本当にややこしい。

この土日はやることも行きたいところもたくさんあったので、結局ほぼざっと流し読みをするだけの読書になってしまいましたが、それでも「面白さ」を感じることができたので、今回はそれについてまとめていこうと思います。


📚「天才」とは「犯罪者」

『罪と罰』は、頭脳明晰で貧乏な大学生ラスコーリニコフが、老婆殺しの罪の意識に苛まれ、その恐怖と葛藤に向き合う物語です。

彼の書いた論文が話題に上るシーンがあります。犯罪について論じた論文なんですが、そのなかで「全ての人間は『凡人』と『非凡人』に分けられる」と指摘しているんです。作中で盛り上がっているのもこの部分なので、ラスコーリニコフの論文を引用してきた理由は、この議論をするためと考えられます。

凡人は、つまり平凡な人間であるから、服従の生活をしなければならんし、法律をふみこえる権利がない。ところが非凡人は、もともと非凡な人間であるから、あらゆる犯罪を行い、かってに法律を踏み越える権利をもっている

ドストエフスキー『罪と罰』

作中では上のようにまとめられています。分かりやすく言うと、「天才は何をやってもいい」ってことです。先天的か後天的かに問わず、才能に恵まれた人間にはあらゆることを成し遂げる権利がある。それがたとえ罪悪であったとしても、法理を踏み越えて咎められることがないといっているわけです。

ラスコーリニコフは、後世に名をとどろかせた法律の制定者や人類の組織者は一人のこらず大虐殺者であるとさえ指摘しています。ナポレオンだって、流血をも辞さず革命を起こし、今では偉大なる勇猛な人物として語り継がれているわけじゃないですか。そういった例を引き合いに出して、才能のある人や新しいことを始める能力のある人は、程度の差はあれど、犯罪者になってしまうと主張しているのです。

もちろんそれに当てはまらない偉人だっているわけで、特に現代における偉人や天才にはたくさんいるわけで、全てを鵜呑みにして正しいと評することはできませんが、「罪」の範囲を広げれば、現代にも通じる普遍的な話をしているのかもしれないと思い至りました。

「新しいこと」は、常に、人を煽動し、不安を生み、抵抗する意思を呼び起こすものです。それを口にしようものなら、決して少なくない数の人がアンチサイドに立つのではないでしょうか。他者を不快にさせることを「罪」と呼ぶのならば、多くの者を不快にさせる「天才」とは「犯罪者」であるといえるのです。


📚桃太郎とラスコーリニコフ

さて、「『天才』とは『犯罪者』である」という思想は、芥川文学にも反映されていることでして、芥川が昔話を再話してつくった『桃太郎』にもそれが見て取れます。

芥川の『桃太郎』は、従来の昔話の桃太郎とは違い、「体たらくでケチだけれど、何かひとつのことを成し遂げるために他者を巻き込む手腕に長けた人物」として描かれます。たとえそれが罪悪だとしても、鬼が島侵略のために、犬、猿、雉を引き連れていったのです。そして、平和を愛する鬼たちを蹂躙した。

地の文でも鬼が島侵略のことを「あらゆる罪悪」と表現していることから、桃太郎一行の成し遂げたことは「罪」なんですよね。すなわち、桃太郎たちは犯罪者であるといえます。そんな桃太郎を「天才」と評して、この物語は終わるのです。

明らかに『罪と罰』の影響が現れていると考えられますよね。つまり、『罪と罰』のラスコーリニコフと桃太郎を重ねているというわけです。これに関しては、河内重雄さんが論文を書いていて、『桃太郎』と『罪と罰』を比較しながら「天才」について論じています。

さて、そろそろ話をまとめていきたいんですが、落としどころに迷っています(笑) 探りながら書いていきますね。

芥川は『桃太郎』の最後で桃太郎のような「天才」が未来に誕生する可能性があることを指摘しています。たとえそれが罪悪だとしても、何かひとつのことを成し遂げるために他者を巻き込もうとする「天才」はいつの時代でも誕生し得るのです。

ポイントは、「たとえそれが罪悪だとしても」という言葉で、こう書くと、ラスコーリニコフが老婆を殺したり、桃太郎が鬼退治をしたりしたように、天才は罪を犯しても別に咎められないという結論に行きがちなんだけれども、成し遂げることが罪悪でないとしたら、「天才」とはステキな存在ではないでしょうか。

つまり、「より豊かな社会をつくること」「地球環境に貢献すること」「誰かの笑顔をつくること」といった善の目的を果たすために、他者を巻き込んで、成し遂げようとする「天才」は、むしろ到来が待ち望まれる存在といえるわけです。

僕はそういう文脈で「天才」になりたいんですよね。

遠い国では戦争が起こっているし、僕の身近な人たちも日々問題を抱えている。かくいう僕だってたくさんの課題を抱えている。でも僕は、この世界も、人生も、あきらめたくない。飽きれるほど美しい世界を望んでいるし、これ以上ない物語はないと笑って閉じる人生を望んでいます。

自分のためにも、大切な人のためにも、世界のためにも、善の目標を掲げて、いろんな人を巻き込んでいく姿勢をこれから貫いていこうかなと思います。子どもの頃からみんなとわいわい楽しむことが好きな少年だったけど、あの教室や公園に広がっていた空間が、この世界に広がれば良いな。

そんな話も、今度のイベント「BOOK TALK LIVE ”桃太郎”」で物語ろうと思います。最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

20240206 横山黎 




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