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【カゾクの形】家族について書くことにした。<まえがき>

■はじめに—Introduction—

 これから書く文章は、現在の日本で大きな社会問題となっていることとは少し違うかもしれない。しかし実際にこの世の中に存在しているものである。別に統計や調査を行ったわけではない。
これはあくまでも私の持論であり、私の考え方であることを念頭において読み進めていただきたい。
今回、4本の映画を例に持ち、題材として紹介していく。
その中で、私が持つ<家族>のイメージや家族に対しての考え方を逐一披露していくことになる。

 例に挙げる4本の映画はどれもすばらしい名作である。

映画から考えるカゾクの形 全四回 タイトル紹介

●第一回:逆噴射家族(1984)
タイトル:【家族間戦争】

第二回:誰も知らない-Nobody knows-(2004)
タイトル:【家庭内で起こる誰も知らないこと】

第三回:パラサイト-半地下の家族-(2019)
タイトル:【貧困家庭のサバイバル】

第四回:紀子の食卓(2006)
タイトル:【レンタル家族】

映画から考えるカゾクの形 全四回 タイトル紹介

 この4本と重ねながら、いかに<家族>という価値観がいい面と同じぐらい危険や毒を孕んでいて全て一様に<家族>が大事と言えるのかを考える。
<家族>が大事だという概念が常識ではなく、そう思えるかそう思えないかとでしかないことを言語化できれば御の字である。

■カゾクは本当に大事なものか?

 私が持つ<家族>のイメージや考え方はかなり歪であり
一般論とはかけ離れている(かもしれない)。
というのも、今まで<家族>についての考えを他人に話して良い顔をされたことがない。

 一般論では父母兄弟姉妹家族、またはそれに準ずる親戚など、さらに生物学的に血の繋がりないが他者との共通認識や書類、法律において家族だと言える関係性を大事にする傾向がある。

 それは古来から続く種としての生存の意味としての意味は薄く、
どちらかと言えば人間としての<心>や<心情>といったものを表すものだと考える。この一般論を真っ向から否定するものではない。
<家族>が大事だと思う者はそれでいい。何の問題もなく生活ができていた何よりの証拠であるし、今もこれから先も<家族>とうまくやっていくだろう。
ただその<家族>が大事だという<心>や<心情>は、生まれてから今まで
<家族>に恵まれていたからこそ感じるものだと自覚してほしい。

虐待を受けて育った者に<家族>は大事かと訊いた時、何と答えるだろうか?
毒親のもと特殊な宗教や価値観のもと他者とは大きく人間性を異にしてしまった者に<家族>は大事かと訊いた時、何と答えるだろうか?

 私が思うのは、現代のさまざまな問題の原因が<家族>という最小単位の集団、組織のシステムにあるのではないかと考える。選びようがないままスタートし、ある種の制限がかけられる。洗脳と変わらないほどの<家庭の掟>という教義を刷り込まれる。その掟という<教義>が他の家族と同様かまたは多少のズレの場合には問題はさほどない。しかし<教義>の根幹、芯の部分や考え方の基盤から異なってしまえば子供は大変苦労することになるのだ。
他家族と異なる掟(教義)が身についてしまうと生きづらさが格段に上がってしまう。

 現代では虐待や宗教といったことは大きな社会問題として大々的に取り扱われ、解決をしようとさまざまな組織が動く。しかし各種機関や支援団体などにはカバーできなかったり、見えていない盲点とも言うべき問題があると考える。私はこの問題を<前身体><亜種><進化型>の3種類で定義してみた。この3種類の詳細は全四回の記事の中で詳しく説明する。

“家族が大事”だと美辞麗句を並べることは簡単だ。
家族に恵まれ、理想的な集団であった場合はその美辞麗句も真実には変わりない。しかしそうではない場合も存在する。
要するに、然るべき機関や行政、法律ではカバーできない、むしろとりこぼしているであろう層が確実に表面化していると考える。
家族というシステムは人が一人の人間として生きる上で、弊害や障害にもなりえることを認めるべきである、と私は思うのだ。

■結論—What I mean—

 私は現在の家族というシステム、家族についての法律、家族についての概念などはほぼ意味がないと思っているし、私にとっては<家族>は毒であり弊害であり、人生の遮蔽物でしかないと思っている。
家族が大好きで感謝もしていて、若い歌手の“お母さんありがとう”系の歌で涙する層には理解し難いことだろう。

私がこのシリーズで言いたいことは、
家族というものにやたら固執しずぎではないかという点である。

もっと簡単に家族との縁を切ることができてもよいのではないだろうか。
家族という括りがあるせいでうまくいかない繋がりもあるのだ。
ひとたび家族という鎖から外れ、知り合いや友達というひとつ格を下げた人間関係になることで楽になる関係性もあると思うのだ。友達や知り合いというレベルになりさえすれば、法的にも個人情報保護が効いてくるし、
友達や知り合いレベルでは口出しができないこともある。

 よって私は家族という古来から続いたシステムに異議を唱えているわけである。残念なのは、これを解決する(社会的にも個人的にも)糸口がないことである。家族という単位があまりもあたりまえすぎて、強固すぎるのだ。

おそらく大半の人間が、何を言っているんだこの馬鹿は、と思うだろう。
しかしあえてこの【家族制度反対】を書かせてもらう。
この後のシリーズで書くであろう私と家族の物語と、すばらしい映画作品を織り交ぜながら【家族制度反対】を声高にしていこうと思う。
それによって何かしら解決の糸口が見つかるかもしれない。

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