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夜を駆けたヒロインたち

このエッセイは、一般社団法人 学士会の会誌"NU7"に記載されたエッセイを転載したもので、2021年5月号の原稿です。
また、2023年11月【写真展】” 対比・つながり・原動力・癒し ” で展示される写真に込めた内容を、心の整理のために書いたものです。写真展では会場のQRコードからこの原稿をお読み頂けます。以下、本文

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「お前は本当に良い奴だ、とても気に入ったよ!」
私の横でフランス人がこう言ったのは、英語を学ぶ3つ目の理由を話した時だった。通算3年弱の駅前留学を続ける理由は、TOEIC対策と海外で自由に生きる能力の獲得と、いつか小説を英語で書く事。日本人には口が裂けても言えないが、東京にいる同僚に3つ目の理由を話した時、彼は”恋愛小説家”と言う映画を教えてくれた。映画を鑑賞すると、主人公のMelvinが毒舌家の偏屈で落ち込んだのだが、同僚は「書くなら恋愛小説にしなよ」と伝えたかったのだと思う。
 
Melvinが吐き散らす毒舌のように、黒い津波の悪意に満ちた1年が終わる。今もそれが続いているが、目に見えない恐怖に慄いた時、こうも理性と良心を失うものかと歴史の悲劇を調べたりしていた。昨年春、2度目のタイ赴任に向け、タイと日本の情勢変化に呑まれながら直前で出国できずに日本に残ったが、周りにいる20代の若い友人たちも目に見えない恐怖に巻き込まれた。

看護師をしている古い友人の若い彼女は、大学病院の前線に立ちながら、「ウィルスを持っているから近づくな」との誹謗中傷の嵐に巻き込まれ、奪われる自由と感染の不安に耐えながら「心が荒む」と呟いた。行きつけのカフェで話す大学生の彼女は、閉塞された大学生活に耐えながら恋人と過ごしていたが、やがて決まった彼の転勤で遠距離になる最後の夜を一緒に過ごすか否か、自分の想いと目の前の現実との葛藤を吐露した。海外へ飛び出す夢の準備を進めていた社会人の彼女は、働き出した新しい職場へ満足にも行けず、閉ざされた部屋の中で苦しい胸の内を書き綴っていた。
 
私が良い人だと言うつもりはないが、偽善者かもしれない。しかし、偽りの正義を叫びながら、他人を貶める事はしたくない。過去の名作映画が正しいなら、悪役は悪意に対して虚無を感じて人間らしく、偽善を疑わずに偽りの正義を振りかざす人間ほど、周囲の焼け跡に悪意を撒き散らす。
私のできる事は、ヨーグルトと豆乳を買い漁り、免疫を高める漢方薬と高価なサプリメントを齧りながら仕事を続ける事。看護師の彼女には、「俺は誹謗中傷を許さない」とだけ伝えた。大学生の彼女には、「不安やリスクを、思いつくだけ教えて」と送り、言葉のやり取りから「会えば良い」と伝えた。感染者のレッテルは重罪人のように思え、何かの幇助をしている気もしたが、2人とも感染しないと思った。社会人の彼女には、言葉で励ますだけ励まして、感染状況が改善している時に会って話をした。自分が疲弊していた時、誰かにされて救われた事、してほしかった事をやりたかった。

精神科医の戸を叩いて10年、主治医は最も優秀な患者と褒めてくれるが、疲弊した理由と怒りの矛先が明確なだけ恵まれていた。だが、目に見えない敵に囲まれた彼女たちは、誰に怒りを向ければ良いのか。行き場のない怒りと不安を抱え、疲弊した精神が回復できるのか不安だった。
しかし、彼女たちは優れた才能の持ち主だった。看護師の彼女は、優しさと勤勉さを保ちながら嵐を耐え抜き、自由と平穏を取り戻した。大学生の彼女は、ジムと夜明け前の道路で鍛えた精神と体で四国を自転車で一周し、恋人にも再会した。社会人の彼女は、持ち合わせた才能を駆使して、新しい環境を切り拓きながら利発で強い自分を取り戻し、喜ばしい出来事にも恵まれた。喜ばしい近況を聞いて、安堵感ではなく喪失感と孤独感を感じる自分に気付いた。この結末を喜ぶべきだが、遠くにいる彼女の背中を見つめている現実に納得がいかなかった。
 
映画”恋愛小説家”の原題は、”As Good As It Gets”と言い、”これ以上のない最善”と訳す。映画の後半、MelvinがヒロインのCarolへ自分の気持ちを伝えるため、「良い人になろうと思った」と話す。Melvinは素直な善人へ変わろうとしていたが、私は偽善者のままだったかもしれない。1年前に書いた私の原稿に「10年遅れていると思う」とあり、”ボロ切れを纏った欲深い年老いた王子”だった事を忘れていた気がする。よくよく考えれば、彼女たちは優れた若い人たちで、私の先を行く人たちだった。私の役割が終わって最善の結末に、私も彼女たちも本来の姿に戻っていた。だから今度は、私が先を行く彼女たちの背中を追って、ロバにも馬にも頼らず自分の足で、凛として夜を駆ける。


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