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瞑想で至る「善悪の彼岸」

私は、毎日、寝る前に2時間ほど座禅瞑想します。特に

イジメ、パワハラ、モラハラ、疎外感、拒絶

といった精神的ダメージを受けた日にこそ、
そういった瞑想がより一層重要になってきます。

イジメられた(拒絶された)瞬間にまず感じることは

「胸のあたりのざわつき」

です。これは動きようのない事実・体感です。

さて、この「胸のざわつき」は非常に厄介です。
何故ならば、それは、ほとんどの人々は、この体感そのものに


色々な「善悪」概念


を無批判に張り付けてしまうからです。

この瞑想において注視すべき善悪は、日常生活に直結する善悪です。


「お金持ちは悪だ」
「政治家は悪だ」
「欲望は悪だ」
「人殺しは悪だ」
「戦争は悪だ」


といった善悪には(ここでは)着目しません。
ここで注視する善悪は、例えば


「太っていたからからかわれた。だから太っているのは悪い」

「引っ込み思案な性格だから沢山の企業面接に落ちた。
だから引っ込み思案は悪い」


といった個人的体験に基づく具体的な善悪概念です(あくまでも具体例です。少なくとも私自身はそうは思っておりません)。

実際のところ、瞑想が深まると、こういった従来の世界観が俯瞰できるようになります。簡潔にまとめましょう。



いじめられる(拒絶される)→胸のざわつき→善悪概念を張り付ける



が従来の世界観です。繰り返しますが、

その「胸のざわつき」に対して如何ようにも「善悪概念」を張り付けることができます。


極端な例えになりますが


「この胸のざわつきの原因は、世界が腐っているからだ。だから腐った世界の人々を抹殺しなければならない」


という概念の貼り付けも可能です(少なくとも私自身はそういう風には思っておりません)。

深い瞑想から、この従来の世界観が俯瞰できるようになったとき、

以下の世界観へと移行します。


いじめられる(拒絶される)→胸のざわつき→関係性の場の俯瞰



これはどういうことか、例え話で説明します。

いじめられているA氏、いじめている人B氏がいるとして、

「君は髪が黒いから人間じゃない、どこかに失せろ」

とB氏がA氏に言い放ったとします。この瞬間、A氏は

「胸のざわつき」

を感じます。もしA氏が従来の世界観のままだと

「髪が黒いことが悪いことなのだ」

或いは逆に

「髪が黒いことは悪いことではない!」


という善悪の考えに至ります。

一方で、「関係性の場の俯瞰」とは、文字通り

関係性を俯瞰する

ということであり、
髪が黒いことが悪いか悪くないかは一旦度外視されます。


関係性の俯瞰の際、そのような

A氏とB氏の関係性を成り立たせている「組織」というものに気づきます

具体的には、代表的なものとして「家族」「学校」「職場」といったところでしょう。

そして、その組織には、


組織を組織として成り立たせている「善悪概念」を
或る程度コントロールできる「上の立場の人」が必ずいます。


要は、B氏の

「君は髪が黒いから人間じゃない、どこかに失せろ」

というイジメのセリフは、そういった

善悪概念をコントロールする立場に立つための宣戦布告

ととらえられるのです。

ここで強調したいのは、

宣戦布告自体が善か悪か、といったことではなく、
逆に、善悪概念は、そういった組織内の(根深い)上下関係に基づいている

ということです。

そう考えると、真の幸せが一体何なのかが容易に想像できます。

それは、下の立場の人々から

「ああ、この人なら我々組織の善悪概念を任せられる!」

という人が担ぎ上げられて、その人が組織トップに就任する

という構図ですね。

そういう組織に属する人こそが、真の幸せなのだと思います。



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